旅とエッセイ 胡蝶の夢

ヤンゴン在住。ミラクルワールド、ミャンマーの魅力を発信します。

今は、横浜で引きこもり。

ISとチンギス汗

2016年10月30日 17時16分46秒 | エッセイ
ISとチンギス汗   

 IS(イスラム国)が崩壊する。イラクのモスルを失えば、彼らには首都と称するシリアのアレッポしか残らない。原油という資金源を失っては、傭兵に給与を支払うことが出来なくなるし、武器の調達も困難になる。急速に弱体化するだろう。一度落ち目に入ったら、立て直すことは難しい。
 元来ISは軍事的にモスルを奪えるような集団ではなかった。モスル駐留のイラク軍が戦わずに逃げ去った後に入ってきたに過ぎない。イラク軍は「ISが来る!」の一言でパニックを起こし、100万都市モスルを一戦もせずに放りだして逃げた。酷い、給料分は働けよ。
 まるで水鳥の羽ばたきに驚いて逃げ出した平家(富士川の戦い)のようだ。少人数でジープに乗り、小火器とロケット砲位しか持っていないISを恐れ、兵数も武器も遥かに上回る軍隊が一日で自滅した。ISは市内の銀行から多額の現金を取り出し、軍隊からは大量の武器弾薬、戦車から大砲までも手に入れた。イラク兵が将校まで逃げてしまったのは、ISが首を切るところ、捕虜を無造作に射殺するところを映像で流したのを繰り返し見ていたからだ。
 それにしてもアメリカが旧フセイン政権、バース党の優秀な人材を新政府から全て排除したのは、致命的な過ちだった。軍人を含め多くの人材がISに流れた。街のゴロツキのような連中に権力を与えるなら、実務に精通したスペシャリストを残すべきだった。元来アメリカが主張した大量破壊兵器は、イラクには無かったのだから。
 恐怖を武器にしたのは、モンゴル軍の方が先輩だ。人口の少ないモンゴルが短期間にいくつもの国を滅ぼし、大帝国を作り上げたのにはカラクリがある。例えばホラズム帝国は、平原での会戦ではなく籠城戦を選んだ。モンゴル軍の機動力には勝てなくても、蒙古兵の兵数には限りがある。不慣れな城砦都市攻略戦に手を焼いている内に、モンゴル軍の勢いは先細りになるに違いない。そう考えた。
 何故なら一つの城砦都市を陥落させたら、そこに駐留部隊として小さい街なら3千人、大きな街なら2万人と残しておかなければならない。そうしないと一度は降伏した都市の住民が、主力が去った後で蜂起するかもしれない。武器はこん棒でも数万、数十万の民衆を抑えるだけの人数は必要だ。ところがモンゴル軍は画期的な方式を採った。
 降伏しない街は見せしめに皆殺しにしたのだ。少数の美女と技術者を残し数十万人を殺し尽くし男・女・子供の首のピラミッドを築いた。今でも廃墟になっている都市がある。次の都市を攻める時は、住民を前面に出して矢避けに使った。また技術者を厚遇して攻城具の開発を進めた。
 降伏しなければ皆殺し、という恐怖を武器として使い、降伏した都市には行政官と部下10人ほどしか派遣しなかった。もしこの10人が殺されたら戻って皆殺しにする。この方式で遠征するから戦力が減らない。これを合理的と言うのか、随分とドライな戦略である。
 そんな彼らも中国に長く居るうちにしだいに軟弱になっていった。うまい物を食い、美女を抱いて文学を語ったらバッさバッさと首は切れない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

テンプル騎士団 

2016年10月28日 17時15分22秒 | エッセイ
テンプル騎士団   

 『ダ・ヴィンチ・コード』に出てくるね。謎の多い団体だ。正式名称は、「キリストとソロモン神殿の貧しき戦友たち」。創設は1069年の第一回十字軍終了後の1119年。テンプル騎士団はフランスの貴族と9人の騎士が集まり、活動を始めた。すでに聖ヨハネ騎士団が活動していたので、最初の騎士団ではない。
 聖ヨハネ騎士団は凄まじい戦闘集団だった。聖地を失った後、ロードス島に籠ってイスラム教徒の巡礼を乗せた船を片はしから襲う海賊行為を行う。ロードス島はトルコ本土から目と鼻の先にある。そのロードス島の戦いでは、650人の騎士が7,000人の住民の協力を得てスレイマン大帝率いる10万のオスマン帝国軍と戦い、ついに島を退去する際には200人にまで減っていた。その後はマルタ島に移り、マルタ騎士団としてレパントの戦いにも参戦している。マルタ島攻防戦では、ついにオスマン帝国の猛攻を退けた。
 テンプル騎士団も勇名を馳せた。着衣は白い長衣の上に赤い十字架のマークで、1177年にイスラムの英雄サラディンを、モントギザールの戦いで打ち負かした。キリスト教徒がサラディンに勝ったのは、この戦いともう一つだけだ。
 十字軍は第一回とノルウェー王の小規模な遠征以外は、ことごとく失敗した。第四回などは、ヴェネチアに渡航費を払うためとして唆され、同じ<キリスト教(カトリック)のハンガリー王国のザラを攻略して、教皇から破門されている。この罰あたりな十字軍は、あろうことかその後東ローマ帝国の首都コンスタンティノポリスを征服、お決まりの虐殺と掠奪を行った。第六回十字軍は、イスラム(エジプト、アイユーブ朝)側の内乱につけ込み、戦闘ではなく外交によって、条件付きでエルサレムの統治権を手に入れたが、15年ともたずに再び失った。
 テンプル騎士団は、構成員が修道士であると同時に戦士で、設立の目的は聖地エルサレムの防衛と巡礼者の保護だった。以下の4つのグループによって構成されていた。日本の僧兵よりも真面目な感じがする。
・騎士 - 重装備、貴族出身
・従士 - 軽装備、平民出身
・修道士 - 資産管理
・司祭 – 霊的指導
 通常、1人の騎士には10人ほどの従士がついていた。イスラム教徒との戦闘が主目的だが、資産管理業務の専門職を持つことが、この集団の特徴だといえる。テンプル騎士団は入会者や各地の信者からの寄進を受けて資産を増やし、聖地や中東地域に多くの要塞を配置し、武装した騎士を常駐させた。
 騎士団の入会儀式では、入会への意志の固さが問われ秘密儀式が行われた。上級騎士は決して降伏しないことを誓い、戦死こそが天国の保障であると考えた。イスラム側のジハードと同じだ。士気の高さ、厳しい鍛錬と十分な装備が相まって中世最強の騎士団と呼ばれた。
 エルサレム王国のボードュアン2世は、彼らの宿舎の用地として神殿の丘を与えた。神殿の丘には、ソロモン王が造ったエルサレム神殿があったという。会の名称、「テンプル騎士団」はこの事に由来している。テンプル騎士団は会則を整え、1128年に教皇によって騎士修道会として認可された。死を怖れずに勇敢に戦う彼らには、ヨーロッパ貴族からの寄進が集まり入会者も増えた。1139年に教皇がテンプル騎士団に国境通過の自由、課税の禁止、教皇以外の君主や司教への服従の義務の免除など多くの特権を付与した。
1147年の第二回十字軍に際して、フランスのルイ7世を助けて奮戦したため、後にルイは騎士団にパリ郊外の広大な土地を寄贈した。騎士団はここに城砦を作り、王室の財宝や通貨の保管まで任されるようになった。教皇もフランスを訪れるとここに滞在した。
 テンプル騎士団は資産(構成員が出家前に保有していた不動産と寄進された土地等)を換金し、その管理のための財務システムを発達させた。また巡礼者に対しては、現金を持たずに目的地で受け取れる自己宛為替手形を発行し、預金通帳のような書類も考え出した。多くの寄進を集めたテンプル騎士団は12~13世紀にかけて莫大な資産を作り、欧州から中東に至る広い地域に多くの土地を保有する。そこに教会と城砦を築き、ブドウ畑や農園を作りやがて自前の艦隊を持ち、最盛期にはキプロス全島を保有した。
 特にパリにあった支部はフランス王国の国庫といえる状態になり、フランスは騎士団からの借り入れをなくしては立ちゆかなくなった。銀行の先駆けのような、財務のエキスパートという顔と同時に、彼らには大きな秘密がある。
 聖地エルサレムに滞在している間に、宿舎となった神殿跡の地下を掘り進んで、極めて重要な何かを発見した、というのだ。それは聖杯であるとか、イエスが架けられた十字架の破片であるとか様々の噂がある。『ダ・ヴィンチ・コード』では、テンプル騎士団が発見したのは、イエスとマグダラのマリアの子の子孫、つまり現代にまで続くキリストの血筋そのもの、という大胆な仮説をたてた。本当は何を見つけたのだろう。見つけた物 or 秘密はどうなったのだろう。全ては謎のままだ。
 軍事組織としてのテンプル騎士団はしだいに堕落していった。騎士団全体を統括するのが総長(グランド・マスター)で、任期は終身である。総長は東方における軍事、西方における資産管理、その両方に責任を負っていた。第10代総長ジェラール・ド・リデフォールは、宿敵サラディンとの戦いに何度も負け捕虜になる。総長自ら先頭に立って戦う姿勢は勇ましいが、決して降伏はしないという誓いはどうなったのか。彼は一度は解放されたが、再び捕虜になり斬首された。騎士団の威信は地に落ちた。
 1291年には最後の十字軍国家アッコンが陥落し、聖地近くからキリスト勢力は一掃された。テンプル騎士団はイベリア半島での対イスラム国家との戦いを除いて戦場が無くなり、ほとんどの軍事活動を停止した。そうなると金融屋と特権地主の顔が前面に出てくる。最強のキリスト戦士の面影はいずこに。        テンプル騎士団の破滅は突然であった。フランス王フィリップ4世は中央集権を勧め、教皇庁への献金を禁止し、国内のユダヤ人を逮捕、資産を没収して追放した。(ちなみにこの時追放されたユダヤ人をオスマン帝国が引き取り、帝国の貴重な市民とした。)
 次のターゲットはテンプル騎士団だ。フィリップ4世は、聖ヨハネ騎士団との合併を提案するが、テンプル騎士団総長はこれを拒絶する。すると王は1307年10月13日(金)、フランス全土においてテンプル騎士団員を一斉に逮捕した。罪状は異端的行為などだ。団員は自白する迄拷問にかけられた。当時の教皇はフランス人のクレメンス5世で、異端審判に立ち会う審問官は全てフランス王の息のかかった高位聖職者であった。彼らは特権と富を持つテンプル騎士団に敵意を持っていたので、捕えられた団員に助かる道は無かった。騎士団は入会儀式における男色行為、反キリストの誓い、悪魔崇拝という奇怪な容疑で告発された。入団時にキリスト像につばを吐きかけてののしり、悪魔を賛美する。団員は男色にふけり、とにわかには信じられない内容だ。
 テンプル騎士団の摘発は中世ヨーロッパにおいて、とてつもない衝撃であったので、騎士団のマイナスイメージを植え付けるために考え出された濡れ衣なんだろう。フィリップ4世は、テンプル騎士団の取り潰しで借金の帳消しと不動産の取得のみならず、騎士団の莫大な財宝を狙った。イギリスとの戦争で戦費が嵩んでいたのだ。しかし居城に踏み込んでも何故か財宝は見つからなかった。
 団長以下4名は生きたまま火刑にされ、教皇は1312年テンプル騎士団を廃絶し、フランス以外の国に於いても活動の禁止を通知した。団長は死に際して呪いの言葉を残したが、その言葉通り教皇とフランス王は2年とたたずに死んだ。騎士団は教皇と対立していたスコットランドでは弾圧を免れ、多くの団員がスコットランドに亡命したようだ。カスティーリャとアラゴンでも弾圧は一切なく、ドイツとキプロス島では裁判の結果無罪となった。イベリア半島の国々は、共にイスラム勢力と戦った騎士団を戦友だと思っていたのだろう。現代のカトリック教会の公式見解では、異端の疑いは完全な冤罪だったとしている。
さて表向きは消滅したテンプル騎士団だが、スコットランドでは活動が継続してそれが秘密結社フリーメーソンに繋がっている、とも言われる。フリーメーソンのマークはテンプル騎士団の物と酷似している。或いはフリーメ―ソンが自らの権威付けと神秘性を増す目的で利用したのかもしれない。また騎士団の残党がフリーメーソンの創設に関わった可能性もある。
ポルトガルとテンプル騎士団の結びつきはより深く、騎士団の財宝はポルトガルに移された、という噂もある。インドのゴアの教会にテンプル騎士団のマークが多数残っている。またマダガスカルの海岸から、騎士団が多く用いたキリスト像が発見された。ポルトガルの海洋進出に伴って、騎士団が船団の護衛を受け持ったのか。テンプル騎士団に関しては謎だらけだ。今後彼らの痕跡がブラジルで発見されたとしても、自分は驚かないね。
コロンプスの新大陸発見の100年前に、テンプル騎士団の残党がアメリカに渡った、という話しもある。もうそうなら、コロンブスの100年前に、西海岸にはテンプル騎士団が、東海岸には明の鄭和の分遣隊が到達していたのかもしれない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

月の呼び方 

2016年10月26日 18時40分05秒 | エッセイ
月の呼び方   

 室町将軍、足利義政は、月を愛でる為に銀閣寺を建てた。月は銀でしょ、金じゃあ似合わない。二階から眼下の池を見ると、時間を追って月が水面を横切って行く。天の月と水面の月、何と雅な。しかし将軍の夜としてはちと寂しい。室町幕府と公家社会の滅びを予感させる。
 大都会に住む我々でも、ふと夜空を見上げて思いがけず満月を見つけることがある。凛々しい美人に会ったようだ。涼しい季節は特に冴え冴えと美しい。でもあんまり見とれていると車に轢かれる。
節分とか雛祭り、端午の節句に七五三。現代でも伝統行事は残っているのに、お月見はしたことがない。すすきを飾り、団子・里芋・枝豆・栗を盛って神酒を供えていざ月見って、やったことある?中国の人はやるのかな?月餅って月見のお菓子だろ。漢族が元や清に対する反抗の際に、月餅の中に暗号文を入れて贈り合った、って生々しいな。もっと雅に行こうぜ。
古代から中世にかけて、月を見上げていたのは貴族や僧侶といった風流人だけではない。太陰暦の世の中では、農民が月の満ち欠けを生活の目安としていた。娯楽としても月見はただ。
さて月の名前を追っていこう。第一日目は新月、朔月(さくづき)ともいう。朔は「遡る(さかのぼる)」の意味だ。新月では、月が太陽に近づき過ぎて姿が見えない。そこで三日月の背景にある星座を用いて、二日遡った月の仮想位置を見つけるそうだ。ややこしいこと。
二日目以降は二日月、三日月、四日月と続く。特に三日月は鋭い形から霊力があると思われていた。それは日本に限らない。国旗に三日月がある国は、トルコ(オスマン帝国)、パキスタン、マレーシア、ウズベキスタン、トルクメニスタン、アゼルバイジャン、アルジェリア、モーリタニア、チュニジア
他にもあるかもしれないが、国民のほとんどがイスラム教徒の国ばかりだね。沙漠の隊商には三日月がよく似合う。
七日月はちょうど半月、上弦の月又は上の弓張り、と呼ばれる。十日月の次とその翌日は、十日余りの月。そして十三夜、この月は「のちの月」とも呼ばれる。何の後なのかと言うと、十五夜の次、十五夜に次いで美しいとされた。
  そして十五夜の前日、十四夜は小望月(こもちづき)。ハイライトである十五夜は満月・望月・名月・待ち宵月。「仲秋」は旧暦8月15日、7月を初秋、8月を仲秋、9月を晩秋と呼んだ。旧暦8月15日は、2016年は9/15、2017年は10/4と年々ずれる。「月々に月見る月は多かれど、月見る月はこの月の月」仲秋の名月がクローズアップされるのは、秋になって空気が乾燥して月がより鮮明に見えるからだろう。それなら冬の方が良いだろうが、表で月見は寒過ぎる。南の国の月はボヨヨンとして大きい。
  また秋は収穫の秋(とき)だ。仲秋の名月を芋名月とも呼ぶ。仲秋の名月を観賞する風習は、中国の唐代に盛んになり、それが平安時代の貴族に取り入れられ、その後武士や庶民に広まったとされる。しかし「仲秋の名月」とは呼ばなくても、古代から満月とお祭り(収穫祭)は結びついていたに違いない。
  満月を過ぎると月の出が日々遅くなる。十六夜は(いざよい)と読む。「いさよう」「いざよう」からきた言葉で、ためらう・遅れるの意味。満月より月の出が少し遅れる、ということ。十七夜は、立待ち月。続いて居待ち月、寝待ち月(or 臥し待ち月)、更待ち月、20日以降は二十日余りの月、23日目が下弦の月(半月)。また16日以降は朝まで月が残るため、「有明の月」と呼ぶ。29日目も新月同様、姿が見えない。で「月隠」(つごもり)、雅だなー。特定の月齢の晩に人が集まって月待ちを行う習慣があった。十五夜だけでなく、十日夜(とうかんや)、十三夜、十七夜などが有名。
  満月の夜に犯罪が増える。交通事故が多い。自殺者が多い。災害の発生件数が多い。よく言われる割に、きちんとした統計は無いようだ。月の満ち欠けが、潮の満干に関係するのだから、70%が水の人体に影響を及ぼしても不思議ではない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アル・ゴスミ

2016年10月23日 17時49分10秒 | エッセイ
アル・ゴスミ

 うちのカミさんは山女、走女で仏女だ。走女っておかしい?でもマラ女じゃまずいべ。彼女はミャンマーで盛りだくさんのお釈迦様に感激し、意気投合したガイドのxx女史と一緒に片端から拝みまくった。今回のベトナムでは、ひれ伏して祈るスペースもなく、線香もあげられなくて不満だったらしい。やっぱミャンマーのパゴタは面白えー。
 自分はかろうじて仏教徒だから、お寺や仏像を見れば敬虔な心情も多少は出てくる。と同時に美術・芸術としても観賞出来る。キリスト教の神だの神の子だの原罪などには、さらさら縛られないから教会の彫刻・絵画・ステンドグラスを無心に楽しめる。ただキリスト教の知識が足りないので、意味とかまでは分からない。
 またイスラムのモスクのあの美しさ、心地よさ。あーうっとりするほど美しい。また行きてーなイスタンブール。サマルカンド、ブハラとシーラーズも行きてー。どっちかと言うと装飾過多で、人や獣がウジャウジャ、ゴテゴテと出てくるキリスト教会よりもモスクのドームの方がずっと気持が良い。教会の暗い廊下にある聖遺物コーナーとかを見るとゲンナリする。傍観者の幸せ、無責任の心地良さ。しっかし或る種の欧米人、特にフランス人は寺院とか仏像とかが好きだよな。
 逆にムスリム(イスラム教徒)をヤンゴンのシュエダゴーン・パゴタに目隠しをして連れて行って、一人にしてアイ・マスクを外したらどうだろう。ギェー!あまりのおぞましさに発狂しかねない。んな大げさな、と思うだろうがさにあらず。熱心なムスリムは、貧しい物に喜捨をしたら、いついくらを渡したのかを手帳に書き留める。最後の審判の時の申し開きに必要になるからだ。何せ一日に五回のお祈りだもんな。
 サウジ・アラビアには二度商売で行った。観光では行けない国だ。個人商社の年下社長と二人で行った。ジェッダではバハラスとババチン、リャドではアル・ゴスミとアル・ハジムが良いお客さんだった。でも可哀そうにイラク人のアル・ハジムは、湾岸戦争で商売が傾いた。他の三人はイエメン人だ。
日本の三大商人は「伊勢」「近江」「大坂」、あれ紀州は入っていないんだ。地中海ならフェニキア人、シルクロードはソグド人、あとユダヤ人にアルメニア人。古くから定評のあるブランド商人がいるよね。中東ではイエメン人が有名だ。あの小柄なイエメン人が、ダウ船に乗ってインド洋に繰り出し、ラクダに跨り沙漠を越えた。荷を東西・南北に運んで売り買いに従事した。
にしてもアル・ゴスミの店は汚い。広い店舗は上から下まで部品で埋まり、下の方の底近くの品などは重みで潰れかけている。棚卸を考えたら、気が遠くなる。他の客は小奇麗なオフィスで、コンピューターを見ながら商談をするのに、ゴスミの親父は店のカウンターに座って動かない。我々は折りたたみイスを出して、カウンターの横に座って商談をするが、客が次々に来て中断される。ゴスミの店はいつもお客で繁盛している。黒い連中がアフリカからも続々と買いに来る。何で隣の小奇麗な店に行かないのかな。
あっ、あのさ、アルは気にしないでいいからね。イスラム圏のアルは冠詞よ、theと同じ。アルコール(アルコホール)やアルカイダも同じ。アルハンブラ宮殿もそうだ。アルに意味は無い。アル・パチーノは名前だろうけど。
ゴスミは大男の爺さんで熱心なムスリムなので、おでこにそれは大きなお祈りダコが出来ている。最初に彼に会った時のことは忘れられない。俺は成田で買ったお土産を渡した。きれいな着物を着た小さなコケシ人形だ。五百円くらいの品だ。それを見たゴスミの反応は見物だった。大男が「オオー」とうなってブルブルと身ぶるいし、目を両手で覆ったのだ。えっ?小声でつつかれ、「xxさん、偶像崇拝」あっそーか。俺は慌ててコケシを引っ込め、同じ店で買った着物地のサイフ(金具でパッチン留める奴)に取り代えた。こちらは問題ないらしい。ホっとした。
オマーンの空港では、子供の土産として買ったダンボのビデオテープが問題となり、出国迄空港預けになった。これも偶像崇拝の問題。ダンボもいかんのか。なので彼らを、お釈迦様が林立する仏教テーマパークの如きパゴタに連れていったらどうよ、と思ったわけ。大げさじゃあないでしょ。
ジェッダのババチンは実にクレバーな男だ。俺の上司はババチンのことをババチーニとか呼んだが、イタリア人じゃああるまいに。加賀まりこだって、スペイン人が聞いたら、エッチな想像をするよ。ババチンの理詰めの交渉は半端じゃあない。ここは譲る、譲らないのせめぎ合いの時、俺はフっと思った。このsituation何だか学校の先生に採点されているようだ。それを口にしたら、ババチンもフフっと笑って何とか受注にこぎつけた。
一方のバハラスはサウジでの最大手だ。注文の額もでかいが、その要求と値引きの率も凄まじい。年は俺とさして変わらない三十代半ばだ。何しろ通常の他マーケットの半値以下を要求してくる。製造コストを割り込みかねない値段だ。しかしアメリカ市場で年間300個しか出ないのに、バハラス一人で一度に2,000個注文したりする。何で?トヨタのランクルやハイラックスが、アメリカで流行って郊外に行けばそればっかり、という事はないわな。ところが50℃になる過酷な砂漠では、7割の車がランクル、ハイラックスなのだ。年式が古いものも多い。ここ日本では鹿児島県の車は、修理の度合いが高い。桜島の噴煙のためだ。アラビアの沙漠の細かい砂が、車に及ぼすダメージは桜島の比ではない。あと特にジェッダはアフリカ諸国(ソマリア、エチオピア、スーダン、チュニジア、ナイジェリアetc)から大勢の客がパーツを買いに来る。これだけの数がまとまれば、製造メーカーにとっては大きな魅力だ。メーカーが部品の発注をする時の値引きも取り易い。クレージーな値段と大量注文の魅力。結局メーカーは安値でも引き受ける。しかし円高には苦しめられた。
バハラスとは縁が深かった。彼の家に招待されたが、ディズニーランドのシンデレラ城かと思った。透明なきついコーヒーを、小さなカップで御馳走になった。羊の肉を御馳走になった。これは噛んでも噛んでも無くならない。困った俺はトイレにいってそっと便器に流した。何だか香炉の煙を差し出すから、匂いを嗅ぐのかと思ってスースーしたら、服にたきこむものだった。
そのバハラスが日本に来て、俺たちのオフィスにやってきた。休日だったので女性がいず、会議室にポットを持ちこみ紅茶を出した。バハラスはその時の訪問が楽しかったそうだ。何でシンデレラ城の主人がティーパックの紅茶を気に入るのか分からん。全くお互いに何が効を奏するやら、知らないことが多い相手は面白い。一方ババチンは日本に来るのが嫌いだそうだ。あのオバQスタイルではジロジロ見られて嫌なのだと。シンガポールなら気にされないのに、と言っていた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

美人国ベトナムでは縦に住む  

2016年10月21日 18時28分42秒 | エッセイ
美人国ベトナムでは縦に住む   

*旅立ちの時
 行ってきました、北部ベトナム。南には2回行っているが北は始めて。現在の勤務地は人が少ないので長くは休めない。今回3連休を含めて5日休んだ。これがMAXだ。以前の勤務地なら人がいたので10日は休んでミャンマー、ミャウーへ行くのに残念。
 旅の相棒はカミさん。台湾でも行くか?と言ったらベトナムを提案してきた。彼女の案では古都フエとホイアンだったが、TV番組でアメリカ人シェフ、アンソニーのフエ編を見たら、フエは亡霊の街でもあると言っていた。テト攻勢で戦死した北ベトナム軍兵士と、北に殺された市民の屍が歩道の下に埋まっている(大げさだろ)というナレーションを見て迷いが出たらしい。またフエ料理は辛いというのもマイナス材料だったようだ。自分は辛いもの大好きだし、フエの料理は素敵に見えたのだが。という訳で、定番ハロン湾と2014年に世界遺産になったばかりのホアルー/チャンアンにする事にしたが、チャンアンは大正解だった。
 ベトナムは旅行費用が安い。国営のベトナム航空がLCC並みに安いからだ。これは利口なやり方だ。唯一の国営の航空会社なら、国が補助金を出せばよい。その結果として観光客が増えたら全体で得をする。損して得取れ、評判が良ければリピーターが期待できる。東南アジアの中でも素朴・純朴・おっとり・まったりのラオスとカンボジア。発展したとはいえマイペンライ、のんびりとした国民性のタイ。仏様と共に暮らすミャンマー。それらと比べたら頭が切れる分、金儲けに巧みなベトナムには今一つの警戒感があった。

*美女の国
 結果から言って、ベトナム人は笑顔が素敵な親切な人達だった。ハノイはサイゴン(ホー・チ・ミン)に較べて無骨で無愛想だと書いてあるが、印象では逆だ。そしてハノイは美人が多い。アオザイの制服を着た女学生はいなかったけれど、ナチュラルメイクの端正な長髪美人が至る所にいる。コーヒー屋のお姉さん、路傍のジューススタンドに立ち寄る二人連れ、シクロに3人乗りするyoung lady、自転車の女学生とあっちでハッ、こっちでホイと目移りする。細身で腰高なのに、おっぱいは結構デカい。ただ街を埋め尽くすバイクライダーは分からない。長袖、工事用マスク、ヘルメットと日焼け防止に完全武装。目と長い髪しか分からない。



*タクシーとホテル
 不愉快な思いをしたのは一度だけ。タクシーのメーターが明らかに異常な速さで回転し、150円位の距離で700円取られた。クレージーメーター、壊れている、と言っただけで700円払ったけれど不快だった。惜しいな、この一件が無ければパーフェクトだったのに。ガイドさんもドライバー君も感じの良い人達だった。あっホテルは安ホテルで、洗面所を除き窓の無い部屋だった。でもほとんど寝るだけだったから、まあ良い。
 それにしても暑い。乾燥した暑さだが10月に入っているのに36℃、ハンカチを毎日2枚づつ洗った。ずっと晴れていて真っ赤な夕陽がきれいだった。しかし暑い。途中でTシャツを買ったが、長袖ばかりを持って行ったのは失敗だった。夜になっても暑いが、蚊はいなかった。

*出国・入国
 出発は午前10時のベトナム航空。前日深夜に、台風が日本海から太平洋に一気に抜けて温帯低気圧に変わった。夜中に窓がガタガタいっていたが、出発日は快晴になった。横浜の自宅から成田空港に行く迄が小旅行だ。10/6(木)ハノイ到着が13:25、時差は2時間(ハノイの13:25は日本の15:25)でフライトは5時間半だ。これは近い。行きも帰りも満席だったが、5時間ちょっとなら大して苦にはならない。
 CAは何でこのオバさん、ん?っというお人が多かったが機内食が美味かった。飛行機の飯が美味いなんて久しぶり、この間の韓国LCCの旅では金を払って行きはカップメン、帰りはカップビビンバだったもんね。入国審査は入国カードの記入はなし、アッと言う間に終わり荷物もノーチェックで直ぐに表に。これは楽だわ。自分は1万5千円、カミさんは2万円を空港で両替したが、これが失敗。4泊4日でそんなに使わなかったのよ。二人で1万円は余ったが、8千円しか戻らなかった。円への再両替の交換レートは相当に悪い。US$にも換算してもらったが、似たようなものだった。やはり一気の両替はいかんな。
 ホテルはカメリアNo.1(チェーンで4-5軒ある)でホアンキエム湖の南側、ホム市場に近いが入口が小さいので分かりづらい。ホアンキエム湖北方の旧市街に行くのに、歩いたら30分を超えるがタクシーに乗れば100円。タクシーはメーターで、一度を除いてはノートラブル、安くて便利だ。

*ジューススタンド
 初日ホテルに着いて16時前に出発、旧市街を目指したがタクシーを拾う前にジューススタンドを見つけた。マンゴージュースを頼んだら結構待たされ、お婆さんがニコニコして勧める小さな椅子に座って待つ。ベトナムにはコインがない。紙幣の単位は大きいが、単純に言ってゼロを2つ取り半分にすれば良い。アバウトだが日本円の100円なら2万ドン、50万ドンは2,500円になる。ところがメニューには30としか書いていない。この30が3万なのか30万なのか最初は分からなかった。結局30は30万ドンの省略だった。
 マンゴージュース一杯は15円ではなく150円だった。そりゃそーだ。15円では悲しい。150円は結構良い値段で、フォー(米緬)が一杯食える。ドン札は全て表がホー・チ・ミン、大きさと色、裏の絵が違う。初日は細かい紙幣が少なくて苦労した。50万ドン(2,500円)ではお釣りがない。スーパーですら無かった。
 ところでこのマンゴージュース、めっちゃ美味い。細かい氷とマンゴーの果肉をミキサーでトロットロに撹拌したものだが、冷たくて頭がキーン、すごく甘い。砂糖を大さじ3杯ぶっ込んだのかと思う。甘さ、冷たさ絶品だ。この店20時を過ぎてもやっていたので、都合6-7回は立ちよった。婆ちゃん、娘と孫娘の3世代でやっている。婆ちゃんは昼間だけ。その場で飲んだりテイクアウトにしたが、同じジュースでも微妙に味が変わる。
 カミさんは終始マンゴージュース、俺はマンゴーオレンジやスノーレモン(アイスが載っているがマンゴーより安い)と目先を変えた。どれもいいね。終いにはまた来たの、と店の人に笑われた。何しろ出がけに一杯、帰りに一杯。スタバのアイスコーヒーのビックサイズ位の量だ。ベトナムで何が一番美味しかった?マンゴージュース、ちと悲しい。この店は四つ角にあったので、分かりにくいホテルに帰る時の目印になった。

*旧市街
 初日の夕方から旧市街に行って歩き廻り、白馬寺、マーマイの家、宝山祠(亀神社)等を訪ねた。伝統歌舞の劇場に行ったが休み(temporary close)で、仕方がないからと水上劇に行ったら、20時からのチケットしかない。それではともう一つの水上劇場に行って観劇。その後はスーパーで買い物をしてホテルに戻り、近所で食事(一杯150円のフォー)。

・白馬寺 : このお寺と他に2つほどお寺を見たが、街中の寺はどれも小さい。キラキラ装飾で随分と異質なイメージだ。これって中国風?白馬は巨大な五月人形、本尊は白塗りの坊さん?最終日に見た孔子廟も道教寺院も造りはお寺と同じだ。装飾過多で馴染めない。悪く言えば安っぽい。他の東南アジアの国々とは全く違う。まあベトナムは大乗仏教、その他の国々は上座部仏教で、宗教が違うというほどの差はある訳だが。大乗仏教の日本や韓国、中国の雲崗や敦煌とも違う。インドのアジャンターなどではそのまま共感出来たのに。ただベトナム人の信仰心の篤さは見てとれる。ひざまずいて祈り、立って祈る人々の姿は美しかった。祈る人は全て女性だったけどね。




・マーマイの家 : 余りに小っちゃくて通り過ぎた。何?これだけ。19世紀の旧家を保存して展示しているのだが、小さな中庭があってホビットの家のように小さい。ベットも小さく階段も狭くて華奢だ。小柄な人が静かに暮らしていたのは分かるが、2階に登ってハイお仕舞い。1階の大半は店舗になっている。
   これなら映画『青いパパイヤの香り』を見た方がずっと良い。暗い部屋に小さめの窓から、陽光が質量を持って差し込み、人や物の陰影を醸し出す。風情のある映画だった。全体に暗い映画だが、最後は一転ハッピーエンド。主人公の女性の子供時代と娘になってから、両方の女優さんが実に魅力的だった。しかし彼女達はパリ生まれで、しゃがむところから撮影を始めたそうだ。




・宝山祠 : ホアンキエム湖の上に浮かぶ小島にある。夕涼みに来た地元の人と観光客がごったがえしている。地元民は橋までは渡るが、大てい中には入らない。入場料が100円するのだ。ここには甲長1mを超す大スッポンのはく製が、ガラスケースに納まっている。見るからにデカく、ついさっきまで生きていたかのようだ。よく見ると目が上向きに、頭頂部に並んでいる。普段は湖底の泥の中に身体を入れ、目だけを出しているのだろう。
   ホアンキエム湖は、30分も走れば一周出来るほどの池だ。週末になると周辺はライトアップされて人が集まる。この大都会の小さな湖に2匹の大スッポンが生息していたのだが、2016年1月19日夜に200kgsもあるオスが死んでいるのが見つかった。100年、第一次大戦の頃から生きていたのに。残る1匹はまだここに生きていてオスだそうだ。あと2匹、中国の動物園にいる。ところが今年4月にアメリカのチームが、3年越しの調査でベトナム北部にいる野生種の撮影に成功したそうだ。まだいたんだ、絶滅しないと良いね。この大スッポン、シャンハイハナスッポンと言います。
   この大亀(大スッポン)には伝説がある。15世紀に明軍を撃退した農民出身のレ・ロイ王は、魔力を持つ剣を駆使して勝利を得た。王がホアンキエム湖に船を浮かべていると、大亀が現れたので魔剣(宝剣)を亀に託すと亀は湖底に消えた。大亀は今でも宝剣を湖底で保管し続けている。
   最初剣を背負った亀の絵を見た時、亀が王に剣を渡したのかと思った。反対だったのね。中々味がある話しだ。



・盆栽 : この国の人は盆栽が好きだ。お寺や船の上などでよく見かける。かなり大きいから、日本の基準では盆栽とは呼ばないのかな。随分と立派なものが多い。盆栽より発展して、岩や石を使って造ったミンチュア理想郷といった置物もあって面白い。





・ 水上劇 : 観客は欧米人ばかり。特にフランス人が多いのだろう。説明はフランス語と英語だ。ちょっとイメージが違ったな。人よりもドラゴン、水鳥、魚やアヒルが多く出てきた。水の上なのに口から火を吹き、煙を出して水を吐く。田植えや魚とり、水牛での耕作、大スッポンと宝剣の物語などが時にコミカルに演じられ、1時間飽きさせない。水の中の人形操作の仕組みが、今一つ分からない。いはいえ、まあそれだけのことだ。感動ものとまではいかない。料金は500円。
   この国の映画館は寂れていて、古い作品しか上映していないが、水上劇の他に劇場が中心部に少なくとも3つある。植民地時代から残るオペラハウスでは何かのコンサートをやっていた。音楽や演劇が好きな人達なんだな。でも劇場は夜の部しかなかったので、見られなかった。

・スーパーマーケット : スーパーは2階建て、食糧品と日用雑貨が売られている。荷物は入る前にロッカーに預ける。スーパーなので定価販売で安い。お菓子などは種類も多く、観光地のお土産屋(国営を含む)の1/4の価格だ。土産物のパッケージがきれいだ。ここでマンゴースチン(南国、果実の女王と云う)が15個ほど入ったパックを200円弱で買い、毎日食べまくった。好きです、マンゴースチン。他にザボン、市場で龍眼もどき(龍眼だと思って食ったが、違う果物だった)を買った。
   ペットボトルの水が安い。250mlで25円、500mlで50円以下、或いはその半額だったかもしれない。籠一杯に缶ビール(40円)やお菓子、ヨーグルトにレモン塩の小ビン(これどうやって使うの?)、蓮花茶等を買って1,500円だった。こんな買い物が出来たら日本も良い国なんだが。

・紙の話 : 土産の菓子のパッケージを見ると、工業の基礎がしっかりした国であることが分かる。昔はひどかった。30年前にインドネシアに自動車部品の商売に行った時、現地のバイヤーの息子と意気投合した。彼は色々な事を教えてくれた。合法非合法、インドネシアとベトナムの商売面白話、タバコの商売、合法非合法。
   彼はその頃インドネシアからベトナムへ大量の紙(色々な種類)を輸出していた。一度に40フィートコンテナx30本とかの量だ。コミッションは0.5とか1%未満だが、多数のコンテナを一度に契約するので、船会社は彼にバックマージンや無料航空券を贈っていた。たぶん製紙工場も。
   その頃のベトナムはベトナム戦争後、西側とは断絶し中国とは戦争をして経済は低迷していた。まともな製紙工場は無かった。でもこの仕事を日本人がやったら、てんでうまくいかないだろう。他所者は一度騙して身ぐるみ剥ぐのが彼らの流儀だ。インドネシアの製紙工場の営業が直接やっても、簡単にはいかない。ベトナムとインドネシア、同じ華僑の数百年に渡る血の繋がりがあって始めてうまく行く。社会主義国との商売は難しいが、血の結束を持つ華僑が仲間を裏切ることなど考えられない。裏切ったら生活の基盤を失い、親族全てから見放され社会的に抹殺される。
   ただこんな紙の商売は、ベトナムに製紙工場が出来る迄の繋ぎに過ぎない。彼は、次はヘルメット(バイク用)かな、と手をうっていた。

・ サイゴンに遊園地を
   自分が始めてベトナムへ行ったのは20年ほど前で、ドイモイ(開放)政策が1986年に始まるから開始直後だった。仕事はサイゴン動物園(200年の歴史あり)に中古の遊具(塗装・メンテしたジェットコースターやメリーゴーランド等10数種のライドとゲートのマシン等)を贈り、共同で遊園地を造って運営しよう。運営のノウハウとメンテは任せて、土地と従業員はよろしくね。
   土地は都心の一等地、合弁会社は苦労して出来た。素敵なプランだったが、結局日本のメインバンクが融資に応じず頓挫した。今でも残念だ。その時の訪問で、動物園側からお土産として現地の蒸留酒をもらった。まるでオールドパーのコピーのようなカラー印刷の、実に立派な箱に入っていた。ところが日本に持ち帰る(同行した副社長の分と2本)と、トランクの中で箱がボロボロに劣化していた。1日でここまでボロくなるとは、何て紙だ。見掛け倒しもここまでくると詐欺だ。おまけに片方の酒の栓が緩んで浸み出していた。さらに言えば不味かった。理科室に20年放置された養命酒の味だ。
   20年前はそんなものだった。サイゴンの空港も場末の停留所の趣きで、お土産はコブラ酒、サソリ酒、子コブラ&サソリ酒と大ゲジゲジ酒ばかりが、実験室のように並んでいた。今では成田よりも数等立派な空港にカルティエ、ルイ・ヴィトン等々のブランドshopが立ち並んでいる。日本の高度成長も凄いが、ベトナムの急成長には目を見張る。
   それでもホテルの歯ブラシは1回使うとボロボロになった。まあホテルだから1度の使用で使い捨てというのも分からないではないが、ここまでひどい製品は久し振り。或る国を観察する際、人口にもよるが紙や歯ブラシが自国製品なのか、品質はどうかを見てみると良いね。

*旅の2日目 - ハロン湾
・世界遺産のハロン湾 : 湾内に海から突き出た大小3,000もの岩や小島が立ち並ぶ。海の桂林とも呼ばれる。結論から言うよ、まあ良かった。けど感動するほどじゃあない。ハロン湾、遠いんだよ。ハノイから車で片道4時間、往復8時間は長い。他のホテルの日本人女性客(母娘)と一緒になり、座席が3列ある大きなバンで出かけた。





・ カミカゼ : 車内から見る街や街道沿いの景色は面白いが、乗っていて凄いスリルだ。礼儀正しくて一見大人しい若者のドライバー君、郊外に出ると命掛けの追い越しを始めた。対向車がぐんぐんとこちらに迫ってくるのに、対向車線にグインと飛び出して加速し、対向車がみるみる近づく中、前の車を追い抜き間一髪狭いスペースに車をねじ込む。ドライバーはバンの大きさを実際の1/4位に考えているらしい。時には一気に2台3台と追い抜く。対向車も進行方向に飛びださせまいと、バシバシ、パッシングをしてくるがお構いなし。もちろん対向車との距離が近すぎて追い越しを諦める時もあるが、これはとても無理だろと思う時でも、彼には大丈夫らしく委細構わず追い越す、ねじ込む。時には嫌がって警笛を鳴らして抗議する車もいて騒々しい。
   道路事情は芳しくなくて車はガタガタと揺れる。ただバンの天井が高いので頭をぶつけることはないが、とてもじゃないが中で本は読めない。命知らずの運転だが、「俺は負けない。」「入れさせてたまるか。」というように片意地を張る人間はここには案外いないようで、何とかなっている。それにこのチキンレースの追い越しは、うちのドライバーだけの専売特許ではない。しっかし毎日この運転じゃあ大変だ。片道4時間の内に30分の休憩を入れている。
   ハノイの人口は800万人、ホー・チ・ミンは1千万人だ。ハノイの街外れに大きな生花市場があった。ここは夜中に活溌になるそうだ。街を出てしばらく行くとSamsungの工場、更に進むとCanonの工場が見える。ここで作ったプリンターは日本へも輸出されている。共に日本では見たことのないような広大な敷地に建っている。工場周辺には新しい家が次々に建てられ、Karaokeが何軒もあり若者の雇用に大いに貢献している。
   この国は本当に豊かになった。ラオスやカンボジアの国道沿いとは全く景色が違う。人も多く家も立派だ。ハロン湾の近くに、造りかけで放置された大規模なリゾートホテル群があった。建造計画は中断されて数年が経つそうだ。また道路に並行して鉄道が造られている。あと5年で完成するらしい。鉄道で行くなら楽だね。

・ハロン湾クルーズ : 観光客(欧米人・日本人・韓国人etc)は桟橋を歩いて、並んだ船にシステマチックに次々と乗せられ湾内へ。船は40人がゆうゆうと座れるほど大きく、天井が2階テラス席となっている。日差しは強い。両隣りの船は客が一杯に入っていたが、我々の船は客4人とガイドで貸切だった。満足度80%といったシーフードが出され、船はさざ波一つない湾内を静かにゆっくりと進む。
   奇観である。岩は水面から直立していて木や草で覆われている。船が進むにつれ次々とその姿を現す。鏡のような水面にはゴミ一つ、クラゲ一匹浮いていないが、透明度の低い水で中は全く窺えない。潜ったら20cm先は見えないだろう。船は極度にゆっくり静かに(エンジン音がしない)進み、湾内の島に上陸する。ここに洞窟(鍾乳洞)があるのだが、他にも3つ(別の島)発見されている。捜せばまだまだあるんじゃないか。湾内の島/岩は海面から直立していて、上陸・登攀が極めて困難だ。




・ティエンクン(天宮)洞 : 海岸から階段を100段ほど上がって洞窟の入口に着く。中は照明がされていて、一方通行になっている。ここの鍾乳石は凄い。象だの人の横顔だのと石の説明をされたが、まあそれはどうでもいいや。驚いたのはこの洞窟が発見されたのが1993年で、1998年から公開されたという事だ。漁師が偶然発見したそうだが、最初に入った人は興奮しただろうな。いかにもハロン湾の海賊がお宝を隠していそうな場所じゃあないか。洞窟の出口近くに、外から光が斜めに差し込む小さな穴があって、そこから急だが斜めの壁をたどればロープに吊り下がらなくても中に入れる。
   ハロン湾はどうして激しく浸食される部分と、固くコアのように残る部分が交互に出るんだろう。





・縦に住む : 帰りの桟橋を歩いていると、海沿いに新しいホテルのような高級マンションのような建物が何棟かある。ガイドさん曰く、あれは分譲マンション、あっちは3千万円、こっちは4千万円。おお随分高いな。別荘ってこと?そうする人もいるけれど、ここに住むお金持ちも多い。でこの3千万円、縦に数部屋を買うそうだ。日本なら数部屋買うなら横にするでしょ。買い取った数部屋は階段で繋がっているんだろう。

 ハノイを歩いて2日目に気がついた。カミさんは初日に気付いていたそうだ。建物の2階以上がきれいなんだ。窓枠やベランダがそれぞれ個性的で配色が美しい。街中の1階部分は道路に面して大抵は店舗になっている。2階から4/5階が住居だ。郊外の家も奥行きの深い長方形の家が多く、だいたいが4階建くらいだ。平屋、2階建は役場くらいしか見当たらない。ガイドさんの話では正面の幅5m、奥行き15?mとかサイズを指定する法令があるそうだ。土地の値段が高いことが主たる原因である。例えば5階建なら、最上階は暑いので住まずに物干しや仏間とする。その下の階に祖父母が住む。
 この国は若年層が多いピラミッド型の年齢構成で、年輩者は大切にされている。老人ホームとかは無いのでそれぞれの家で養い、あまり表には出ないお年寄りが多いようだ。




*旅の3日目 - チャンアン
・ホアルー : ベトナムの中世から近代にかけては、中国との戦いの歴史だ。現代に近い所では対日本、対フランス、対米、カンボジア侵攻、対中国と忙しいがここ何十年かは平和だ。王朝は何度か遷都している。ホアルーに都を築いたのは、丁(ディン)朝の時代(966-979年)で短い。李朝が1009年に主権を握ると都はハノイに移った。阮(グエン)朝(1802-1945年)の都はフエだった。
   ホアルー・チャンアンが世界遺産(文化・自然複合遺産)に、ベトナムでは8番目に登録されたのは2014年。ホアルーが整備されたのはごく最近のことである。静かできれいだが、取り立てて感心するほどの遺跡ではない。小さな都だ。遠足か課外授業なのか、学生が大勢バスで来ていた。



・チャンアン : ホアルーからちょっと車を走らせると川?のほとりの大きな桟橋に着く。タムコックという地名らしい。水の光景はそのまま川だが、流れているようには見えない。細長く続く湖なのかな。川の周囲は奇岩が屹立していて静かだ。手漕ぎのボートがずらっと数十艘並んでいる。岩山は緑に覆われているが、所々がむきだしになり強い力でぐいんと捻じ曲げられた地層が見える。地層マニアには堪らん景色だろう。
   ゲートがあってボート券を買って進むと、極めてシステマチックに(ベトナムではこれが多いな)小舟に乗り込むが、一つ問題が起きた。ボートは外国人なら3人、ベトナム人なら小柄だから4人乗るように決まっているが、我々は2人だ。しばらく他の団体客(大抵欧米人)を待ち受け、人数の半端が出ないかと待ったが現れない。7-8分待ち結局2人で出発した。
   漕ぎ手は三角の編み傘をかぶったオバちゃん達、全員が女性だ。我々の漕ぎ手は比較的若くて痩せた女性だ。カミさんが日本から持参した菓子を渡したが、あまり反応がない。この人シャイなのか。こんなに小さな手こぎボートなのには訳がある。カミさんと自分も舟の座席の下にあったボロいオールを持ち、左右に分かれて漕ぎ始めた。我々の乗ったボートの女性は非力で他のボートに追い抜かれる。しだいに我々も本格的に漕いだが、おもちゃのようなオール(木にこわれたプラスチック板を釘で打ちつけた)なので推力が出ない。一周して戻ってくるのは2時間後なんだ。相当な重労働だよな。彼女は一度水を飲んで一瞬休憩しただけだった。
   湖水は透き通り、陽が湖底まで差し込んで美しい。水草が一面に生えていて意外に深いのかもしれない。周囲に林立する岩山には野生の山羊がいるそうだ。注意して見たが見つからなかった。雨に日によく活動するらしい。
   ボートはしばらく進むと、岩山にポッカリと開いた小さな穴に入る。鍾乳洞だ、暗くなる。明かりは点灯されているが狭い。幅はボートがやっと通れるほどになり、天井は低い。進むにつれますます低くなり、ボートの底に座って頭を下げてやっと通過する。オールは横に出す幅はないから、どうやって漕いでいるのか。ひえー、鍾乳石が頭上を覆い、水の小道はまだまだ続く。増水したら水没するんじゃないか。
   曲がり角を過ぎると、前方に陽の光が差し込むのが見えた。やっと抜けた。洞窟を抜けるとポッカリ周囲を山々に囲まれた美しい湖面に出た。トンボが水上を走り飛ぶ。水の中は透き通って、ため息の出るほど美しい。
   直ぐに別の洞窟が現れ、ボートは静かに突入する。今度もまた一段と狭い。ボートと天井の隙間がほとんど無くなる。出口はまだか。今度は意外と大きな出口、また違った湖面の風景。山々の姿がそのまま水に映っている。そしてまた次の洞窟。いくつの洞窟を通り抜けたことか。5つか6つは通った。「スゴい。スゴーい。」とカミさん大喜び。連れてくると文句は言うし、買い物は多いし何かと面倒だが、こういう時は素直に喜ぶから一緒にいて楽しくなる。
   これはまるで胎内通過だ。死、再生、誕生。人は何度でも生まれ変わる。母ちゃんごめん、何人もの女の人の子宮を通ってしまった。或いは黄泉の国巡りか。生還したいなら、決して振りかえってはならぬ。
   
   チャンアンが3日目で良かった。ここは陸のハロン湾と呼ばれるそうだが、むしろハロン湾を海のチャンアンと呼んだらどうだ。約2時間(いつの間に)のクルーズを終え、漕ぎ手の女性にチップを渡したら、戸惑っていた。最近まで外国人など見たこともない人達なのかな。漕ぎ手は近所の農家の主婦らしい。今はオフシーズンなので、交替で一週間に一回ほどの仕事だそうだ。一日2回漕ぐのは大変だ。途中で船でしか行けない水辺に寺が建っていた。風景に溶け込みとてもよい風情を出していた。















*最終日 - ハノイあれこれ
・タイ湖周辺 : 本日深夜、日付が変わって0:30に出発するので、終日ハノイ探索に使える。ホテルのチェックアウトが18時、これは良い、楽だ。朝起きてまずタイ湖へ行った。ホアンキエム湖よりずっと大きな湖だ。11世紀にリー・タイトンが建立した一柱寺や文廟等を訪れた。タイ湖の周辺には大使館や政府官庁といった立派な建物が多い。またホー・チ・ミン廟、ホー・チ・ミン博物館といった大きな建物、広場がある。今まで細々とした旧市街を中心に歩いていたので、広々感じる。湖の中で働いている人がいたので観察すると、魚を採っているのではなく清掃をしていた。ハロン湾でもそうだった。ゴミが見当たらないのは、まめに清掃をしているからだ。





・博物館あれこれ : 街中にあるタンロンの遺跡を目指したが、入口がどうしても見当たらずに断念した。ベトナム語はアルファベットで母音にやたらに‥やˆが付く。英語かと思って文字を追っても分からない。博物館も分かりづらい。軍事博物館は要塞が建っていたので直ぐに分かったが、女性博物館は一番の難物だった。Museumとか書けよ。今はアメリカと戦争していないだろ。何回も人に尋ねてやっと見つけたが、ここならさっき通り過ぎたぜよ。
   おまけに階段を登って入口を開け受付に行くと、立っている女、座っている女、二人で声を併せてoutside。指で外を指す。視線も同時に外を向くから、「出て行け!」と言われた気分だ。切符売り場が外にあるってことね、と階段を下りて捜すが見つからない。暑くて疲れたから切符を買うのを後廻しにして、入口のベンチに座った。外国人の姉ちゃん2人が受付に来ると、受付姉ちゃんが2人で声をそろえて表を指してoutside。外人姉ちゃんが表に出て捜すが見つからない。受付に戻りかけてウロウロ、俺と同じだ。しかし通りに面した所でやっと見つけたらしい。分かりにくいんだよ。チケット売り場は道路に面して左側にちんまりとあったが、右側から入ってきたら分かる筈がない。

   軍事博物館も女性博物館も、ベトナム戦争で活躍した女性兵士のフィルムを上映していた。軍服をビシっと着て大きめの軍帽を被った本物長身の美人士官が、胸をグっと張って熱心に説明していた。カッケー。中尉殿、その任務私に命じて下さい。貴方の命令なら死んでも悔いはありません。
   フィルムを見ると、ハノイの防空部隊はほとんどが女性兵士だ。高角砲を素早く操作し、高射機関銃をバシバシ撃つ。ジャングルの戦いでも地下トンネルの中でも女性兵士が出てくる。しかも子を生み、地下トンネルで育てる。アメリカも大変な相手を敵に廻したものだ。一代で勝てなければ、次の世代、またその次も戦う。皆殺しにしない限り、抵抗は止まない。

   歴史博物館の展示品はまあ65点、但しエントランスの脇にある古木は実に見事だ。ベトナムの博物館には昼休みがあるので要注意。自分達も歴史博物館とチケットがセットになっている何とか博物館は、ちょうど昼休みに入って行けなかった。あと歴史博物館の中のチャンパの彫刻は、躍動感があって素晴らしかった。チャンパ王国(チャン人)があったのはもっと南の方だが、クメール王朝と戦ってアンコール・ワットを2年に渡って占領したり、クメールと縁籍を結んだりして栄えた。海の民、交易の民でもある。ベトナム人(キン族)とは全く異質の民族だ。今でもベトナムにチャン人は残っているのかな。カンボジアのトンレサップ湖にはイスラム教徒になった彼らが暮らしていた。








・ナイトマーケット : 旧市街で金・土・日の3日間、ナイトマーケットが開催される。そのために夜間は広い範囲で通行止めになり、車は入れない。歩行者天国、こりゃいーや。あのバイクの川を縫って命がけで道路を渡らなくて済む。2日目も3日目も観光が終わると、ホテルではなく旧市街の近くで降ろしてもらった。
   ガイドは我々をおどす。ナイトマーケットは気を付けて下さい。スリ団がいます。我々ベトナム人でも恐ろしい所です。また商品は安いが不良品が多いです。えっ、一瞬行くのを躊躇ったが結局行った。雰囲気が悪かったら直ぐに引き返せばいいや。ところが行ってみると、不穏な空気はまるでない。縁日みたいで楽しい。
   ドネルケバブや焼き豚串を買い食いしながら、1kmほどのマーケットを見て歩いた。バックや衣服の店が多かったが、うちの買い物オバさんが買わなかったから、魅力ある商品構成ではなかったのか。危険のキの字も無かったが、ガイドが言うには今日他の団体の日本人がスリに遭って金・パスポートすっかり失ったそうだ。被害者は紛失にしばらく気が付かなかったというから、余程気が抜けていたのか、掏る方が仕立て屋銀次なみの腕前だったのか。ベトナム人の器用さがここに出たか。



*ベトナム料理 - 行きのベトナム航空の機内食が美味しかったので、期待を膨らませた。全体のレベルは相当高いものの、びっくりするほど美味いものはなかったよなー。
・フォー : やっぱりね、フォー自体には麺にも汁にも味がない。香辛料を各自でトッピングして、自分好みの味にしないとただの淡泊麺。ライムを2つほど絞り込む。辛味を入れる。入れ過ぎるとヒーヒーする。ヌクマムを入れる。別皿に山盛りの香菜(ハーブ類)を丼にドバドバと入れる。もう麺を食っているのか、葉っぱを食っているのか分からない。うーん、美味いか?これ。



・バインミー : 幅広タイプのフランスパンに肉やチキンを挟み、これでもかと野菜を入れてオーブンでじっくりと焼く。1ヶ150円、一つでかなりの食いでがある。これは美味い。文句なしに美味い。冷めても美味い。これを食ったら、マクドのハンバーガーなんぞ食えなくなるぞ。

・本格ベトナム料理 : ベトナム人のポリシーは単純明快。取れる所からはがっぽり取る、これだ。湖に面した高級レストランは驚くほど高い。1皿千円、コースで三千円。ところが自分達が見つけた街中のレストランは、スープ2杯におかずを4皿、ライスはサービス?2人で腹一杯食って千円だ。この店のスープは絶品だったので、2晩続けて行った。きのこのスープがあまりに美味かったので、チキンスープを追加したが、基本同じ味じゃん。素材を細かくしてとろ味のあるスープにしているのだが、細分化した素材を注文によって多い少ないと入れ替えているようだ。何だかなー。
   生春巻きも美味しいが、これって皮が厚過ぎないか。もっとシースルーでいやらしく「イヤン、バカ、そんな目で見ないでー」というイメージだったけどな。あとんっ?とか、なんじゃこりゃ、という皿もあってこの店も半分化けの皮が剥げた。3日目があったら行かない。




・焼き鳥、焼き串豚 : 鳥よりも豚が美味い。1本50円、串は30cmくらいある。甘辛のタレはチューブでどうぞお好きに。チャンアンの昼飯に山羊の肉串焼きが出たが、屋台の豚串の方がずっと美味い。生ビールくれ。

・ ベトナムコーヒー : コーヒー豆といえばブラジル、の時代は健在でした。世界のコーヒー豆生産量の第一位はブラジルで30%、二位にベトナムが来る15%。三位はコロンビア、四位インドネシア、五位エチオピア。
   カミカゼドライブの途中に立ち寄った大きな土産物店では、ジャコウネコのパッケージのコーヒーが売られていた。コーヒーの実をジャコウネコが食べて、消化しないで出てきた豆を乾燥させた猫の糞、ネコババコーヒー。話によると、同じような経緯で取り出した象のクソコーヒー、猿のクソコーヒーがあるらしい。ほのかに醸し出す麝香の妖しい匂い、というのは分からないでもない。しかし、「ウーン、今朝のコーヒーはまた一段とサル臭い。」とか、「この象の内臓の香りがたまらんのだよ。」とか言うんかね。
   
   別に悪意がある訳ではないが、ベトナムで飲んだコーヒーを美味いと思ったことはない。間口の小さな喫茶店に入った。きれいな姉ちゃんがカウンターにいる。サイゴンのようなドリップ式ではなく、やや苦い普通のカップに入ったのが出てきた。この店、外からでは分からないが中は広い。奥の方と2階全てのスペースが客用に開放されている。奥には若いのが大勢いるが静かだ。店にいた15分ほどの間に出て行く人はいなかった。奥の客は全員持参のPCに熱中している。そうか、自宅でPCを繋げない(プロバイダー契約していない)連中がここに来て使っているのか。コーヒー一杯で何時間も粘る気だ。と分かったところで、それが何?

・白く塗られた街路樹 : ハノイよ、お前もか。20年前にサイゴンに行き真っ先に気付いたのが、地面近くから2mほど真っ白く塗装された街路樹だ。道路に沿ってズラッと白く塗られている。木が腹巻をしているようだ。今回ハノイで見たのはその残骸だ。もう白塗装は止めてしまったらしいが、昔塗られた痕が残っている木がある。
   しまった、ガイドさんに白塗りのことを聞くのを忘れた。以前聞いた時には、「ああ、あれは虫よけです。」とか「白くてきれいでしょ。目印になるからね。」とか聞く度に違った答えが、自信を持って返ってきた。結局真相は分からない。知っている人いますか?
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする