旅とエッセイ 胡蝶の夢

ヤンゴン在住。ミラクルワールド、ミャンマーの魅力を発信します。

今は、横浜で引きこもり。

週刊釣りニュース   

2016年07月24日 20時50分11秒 | エッセイ
週刊釣りニュース   

 我が人生において30歳代は一番よく釣りに行った10年だった。30歳前半は乗り合いが多く、後半はボート釣りに嵌った。その当時週刊釣りニュースを月に2回は買っていた。
 自分は移り気、浮気男でタバコの銘柄はしょっちゅう変えたし、服にも持ち物にも拘りはない。釣りも同じで、一つの釣り、同じ魚を究めるなどというストイックな執着はさらさら無い。釣れるなら、狙った魚でなくても構わない。というか新しい魚、珍しい魚は歓迎だ。外道万歳。当りをとることにも拘らない。スレだろうがおまつりだろうが、釣れれば結構。掛った後で引きを楽しもう。但しヒトデや鮫の子、ハオコゼ(2-3cmのよく釣れる毒魚)は困る。喰えないのはいやだ。
 季節によって、釣り場所によって、新しい魚を求めて随分と色々な港に遠征した。ベースは三浦半島だが、逗子・葉山、伊豆半島、房総半島、茨城の乗り合いに乗って様々な魚を釣った。イカやタコ、フグ、アナゴ、タチウオなんかもよく釣った。やはり伊豆や茨城まで行くと、魚も大きくてよく釣れる。名古屋のメーカーの社長に誘われて関西、東海へも云った。大釣りして満杯のクーラーを持って新幹線に乗ったことも2-3度ある。ただ一度だけ三重県の尾鷲湾で、全く釣れなかった日があった。その数日後に阪神淡路大震災があったから、魚が湾内から出て行っていたのだろう。逆に大釣れすればよかったのに。入れ食いじゃん、何でこんなに釣れるの?何か起きるの?
 週刊釣りニュースは、関東の乗り合い船が網羅されていた。へーこんな魚が釣れているんだ。あんな魚を釣るんだ。釣果100ってうそだろ。まあ嘘だ。釣果は1/5~1/10程度に考えていて丁度よい。あと釣りニュースの記事は早くて2週間前、3-4週間も前のことが書いてある。この遅さはいかんともしがたい。今インターネットで釣り宿のホームページを見れば、昨日今日の釣果が写真入りで出ている。釣果の水増しもあまりない。これは便利だ。
 だけど釣りニュースでは、行く予定のない新潟とか、ついに行かなかった金洲・銭洲で釣れている魚や数、大きさが載っていて楽しい。またかつて行った港の乗り合い船で今何が釣れているのか、横並びの船名、釣果、値段等を眺める楽しさったらない。頭の中の小旅行、仮想釣行なのだな。ネットの釣りサイトで目的魚別、目的地別、旬の魚特集とかを見ても、一つ一つクリックしなければならず、面倒くさい。そんなに楽しくない。ホームページはそれぞれ違っているから知りたい情報を調べるのは仕事みたいだ。あのベタな横並びがよかった。
 今でも週刊の釣り新聞は出ているが、何故か昔の週刊釣りニュースのような面白さはない。記載されている乗り合い船が少ないのだ。あの偉大なるマンネリ紙面が懐かしい。特集のターゲット魚の釣り方や、釣行記事も面白かったな。

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拉孟、騰越の戦い

2016年07月22日 18時27分10秒 | エッセイ
拉孟、騰越の戦い

 民の琴線に触れる戦いがある。特に10倍を超す敵に囲まれ最後の一兵まで戦った場合には、その記憶は千年の時を超す。ユダヤ人は2千年前(紀元70~73年)のマサダの戦いを、団結の象徴として昨年のことのように話す。
 紀元66年のユダヤ戦争。ローマ帝国からの独立を目指して立ち上がったユダヤ人は、エルサレムで敗れ追い詰められて967人の女子供を含む集団が、急峻なマサダの砦に立て籠もった。1万5千人のローマ軍兵士が砦のある丘を包囲したが、周囲は断崖絶壁で唯一の登攀路を塞がれて手が出せない。そこでローマ軍は2年の歳月をかけて大規模な土木工事を行い、角となる木材と大量の土砂を運んで絶壁の一方向を埋め立てた。古代の土木技術は侮りがたい。ついに絶壁にゆるやかなスロープを作り出した。満を持したローマ軍が砦に突入するが、予想された抵抗はなかった。中にいたユダヤ人は集団自殺を遂げていたのだ。生き残ったのは、穴に隠れていた2人の女と5人の子供だけだった。
 アメリカ人にとって心を熱くする戦いはアラモ砦の防衛戦だろう。こちらは1836年2/23~3/6の13日間包囲されたが、総攻撃により一日で砦は陥落し、守備隊は全滅した。砦に籠ったのはテキサス分離独立派、当時のテキサスはメキシコ領だった。トラヴィス隊長のもと、西部で名高いジム・ボウイとデイヴィー・クロケットが参戦し183~250人の男達が戦った。
 攻めるのはサンタ・アナ率いるメキシコ共和国軍4,5千人だが、総攻撃の時には1,600人で攻め3~400人のメキシコ兵が戦死した。アラモ砦の犠牲により貴重な時を稼ぎ結束したテキサス独立軍は、「リメンバー・アラモ」を合言葉にメキシコ軍を打ち破りサンタ・アナを捕虜にする。

 日本軍は太平洋の島々や沖縄で米軍と死闘を繰り広げるが、自分の琴線に触れる戦いはビルマと中国雲南省の国境付近で行われた。拉孟(ラモー)・騰越(トウエツ)の戦いには心を揺さぶられる。平静ではいられず、心が高ぶるのだ。拉孟は怒川の西岸、恵通橋を見下ろす海抜2,000mの山上にある廃村を基にした陣地で、周囲を山と渓谷に囲まれ西方のみが龍陵に通じている。四季の変化に富み特に秋は美しい所だそうだ。一方騰越は、最前線の拉孟から北東に60km、平野の中央にある人口4万の城郭都市で、東は山脈を縦走して保山、昆明へと続く。
 日本軍は何故このような山奥に攻め入り、陣地を築いたのか。それは連合軍の援蒋ルートを断つのが目的である。太平洋戦争が始まる前の5年間、日本と中国は激しく戦っていた。個々の会戦では常に日本軍が勝利を収めていたが、倒しても倒しても新手の中国軍が現れる。前線が進むにつれ、占領地である後方の物資集積所、小規模駐屯地、鉄道や輸送隊等が襲撃される。後方の防衛を固めようとすると、守備に限りなく人員が必要になる。前線は先に進み占領地は増え、守備部隊を増やしてもその中で手薄な所や輸送隊が襲われる。日本は徴兵を進めついに100万の兵力を中国に送り込んだ。
 南方へ行き、太平洋戦争で米英蘭軍と戦った日本軍は、中国に張り付いた兵力の1/4~1/5に過ぎない。日本陸軍は8年間、もしくはそれ以上の期間中国に居続けた。その日本軍と対峙していたのが200万を超す中国軍である。蒋介石を負かせてはならない。100万の戦慣れした日本兵を他の戦場へ向かわせたら恐ろしいことになる。連合軍、特に米国は太平洋戦争以前、ビルマのラングーンに大量の軍需物資を陸揚げしてビルマから中国、雲南省を経由して重慶にいる蒋介石のもとに送った。この援蒋ルートを断ち切るのが日本軍の狙いだった。アメリカは陸路が封鎖された後は、ヒマラヤ超えの危険な空輸で蒋を支えた。今でもヒマラヤ山脈から中国の奥地には、大戦中の大型輸送機の残骸が散らばっているはずだ。
 蒋介石の元にはアメリカから派遣されたジョセフ・スティルウェル大将がいて、米軍の援助物資を装備した中国軍を訓練していた。近代装備を持ち訓練された新編師団(雲南遠征軍)が満を持してビルマに進入してきた。中国人指揮官、衛立煌の率いる20万人で、装備は日本軍よりも遥かに近代的だ。英印軍だけでも手一杯の所に新規の20万とは。最前線基地の拉孟はたちまち包囲された。
 拉孟守備隊は当初2,800名の兵力だったが、指揮官の松山大佐は命を受け、兵を割いて出撃し侵入してきた雲南軍の一部を撃退した。その後松山隊はミイトキーナ南方に降下した英軍空挺部隊の掃討等に転戦し、6月5日騰越に入った。拉孟に残された守備隊は1,280名で、その内300名は負傷兵であった。拉孟を包囲した中国軍は4万8千名で、残りの雲南軍は騰越、龍陵、平戛に向かった。
 1944年6月2日午後、雲南遠征軍の砲撃が始まった。この日から9月7日に陣地が陥落するまでの66日間、拉孟守備隊は攻撃を再三防ぎ、敵二個師団を壊滅させ戦死4千、負傷3,774人の損害を与えた。雲南軍司令官衛立煌大将は、日本軍の強さに舌を巻きこう語った。『火砲の力を入れると、こちらは日本軍の十倍以上の戦力である。それが千五百そこそこの日本軍に軽くあしらわれてしまったのである。何という強い日本兵なのだ。』
 敵将があきれるほどの勇戦を指揮した金光少佐(死後大佐)は小学校しか出ていない。貧農の子で村では神童と言われていたが、一兵卒からたたき上げ伍長、軍曹を経て幹部候補となり将校にまでなった。元が貴族社会の英国ではほぼあり得ない昇進だ。さんざん悪く言われる帝国陸軍だが、このような将校を生みだすところは素敵だ。金光少佐は常に温厚で部下思い、自ら率先して事を成すタイプで、部下からはこの人の下でなら死ねる、と慕われていた。拉孟守備隊は、限られた資材を使って陣地を複合的に設営し、死角を無くしてどこからでも十字砲火を浴びせて敵に出血を強いる構造を効果的に作り上げた。度重なる砲撃による破損は、夜間に不断に補修を行った。
 6/7、雲南軍の攻撃を迎撃し、敵の将軍を戦死させた。6/14、別師団による北方からの攻撃。6/20、敵主力2個連隊が再攻撃、これを粉砕するも砲撃戦で守備隊の弾薬庫が被弾破裂した。これは大きな痛手となった。砲弾が残っていたら、雲南軍の犠牲はもっと大きかったに違いない。6月末、2年前に日本軍の急追を逃れるために自ら爆破した恵通橋を復旧。これにより雲南軍の補給物資がトラック輸送により、陸続と戦場に運び込まれた。
 6/28、日本陸軍機10機飛来、上空より空中補給。その後も度々飛来。7/4~15、雲南遠征軍第2次総攻撃。ロケット砲と火炎放射器が加わり、守備隊は大きく兵を失った。残存兵力は500を切り、生き残った兵も多くは傷ついていた。守備隊の砲弾は欠乏して撃ち返すことが出来なくなった。天候は雨季に入って壕内は膝までぬかるみと化し、守備兵は脚気とマラリアに苦しめられた。
 守備隊は夜になると数名づつ陣地の前面に出て、雲南軍の死体の山から武器・弾薬・食糧を拾い集めた。ビルマ方面軍は、連合軍によって新たに築かれつつある補給ルートを遮断し、同時に拉孟・騰越守備隊を救援するという「断作戦」を発令した。救援部隊を9月上旬に拉孟に送ると約束し、拉孟守備隊は希望を持ったが、実は最前線の拉孟は最初から見捨てられていた。戦略的にも無意味なインパール作戦によって、虎の子の精強な3個師団と1旅団を失い、日本軍と英印軍の戦力対比が最大1:10となり、制空権も失っていた。本土から派遣されてきた京都の師団は弱兵で役にたたない。かろうじてミートキーナ(現ミッチーナ)から一部の部隊が撤退出来たのが精一杯であった。ミートキーナから退却出来たのは10人に1人に過ぎないが、拉孟と騰越で敵を引きつけて時を稼いでくれたから全滅せずにすんだ。当初ミートキーナにも死守命令が出ていたが、わずかな兵を率いて救援に赴いた水上少将が自決をして名目的に死守命令を守り、部下を撤退させた。
 7/20、第3次総攻撃。この攻撃は昆明から呼び寄せた新しい部隊によって行われ、拉孟陣地には一日当り7~8,000発の砲爆撃がなされた。攻撃部隊が陣前に肉薄して投げ込む手榴弾を、守兵が拾って投げ返す。陣内に突入してきた敵兵は、得意の白兵戦で刺し殺し殴り殺す。7/25頃には兵力は300名に減少した。砲弾は最後の一発を残して既に無く、歩兵弾薬は欠乏し食糧庫を焼かれ、8月以降は乾パン一袋を2日に食い延ばすようになった。
 7/27、ビルマ方面軍司令官より、拉孟守備隊の勇戦に対し感状が届く。翌日第33軍司令官からも感状。8/2、複数ある陣地のうち、本部陣地が陥落。8/12、挺身破壊班を編成、4名1組の破壊班を7組送り出して雲南軍を奇襲。破壊班は民間人に変装して遠征軍の包囲をすり抜け、火砲5門その他を破壊し、戦利品を持って帰還。損害は戦死2名であった。この攻撃で守備隊の士気はあがった。
 さて拉孟陣地に空輸に来た陸軍機だが、速力の早い一式戦・隼なので狭い陣地にピンポイントで投下するのは困難で、半分は敵の手に渡ってしまった。また地上からの砲火に加え、敵戦闘機が待ち伏せるようになって撃墜される機が出始めた。しかしちぎれんばかりに手を振る守備兵を見たパイロットは、再出撃、再々出撃を進言した。これに対し金光少佐が無線で司令部に告げた。『今日も空投を感謝す。手榴弾100発、小銃弾2,000発受領。将兵は1発1発の手榴弾に合掌して感謝し、攻め寄せる敵を粉砕しあり。』『我が飛行隊が勇敢なる低空飛行を実施し、これが為敵火を被るは、守備将兵の真に心痛に堪えざるところなり。余り無理なきようお願いす。』それを聞いた隼隊は出撃を志願したが、7月中旬になると陣地はさらに小さくなり、手を振る守備兵は負傷して包帯を巻いた負傷兵ばかりで、投下しても陣地内の日本兵にはほとんど渡らなかった。実際最後の数百名は、片手片足、失明した兵が幽鬼のように敵に立ち向かっていた。
 雲南軍は、これまでの中国戦線の中国軍とは思えないほど勇敢に戦った。殺すのを一瞬ためらう程の少年兵が多かったという。しかし初陣の彼らは真っ正直に正面から戦い過ぎた。老練な日本軍の仕掛けたトラップに嵌り、犠牲を重ねた。日本軍にとっては、効果的に限られた武器で最大の効果をあげたと言える。中国軍は何度か降伏勧告を行ったが、鼻で笑われてしまった。
 8月中下旬の雲南軍の攻撃は中央付近の関山陣地に集中し、地上攻撃と併せて陣地直下まで掘り進んだ坑道による地中3ヶ所からの爆破により、8/19ついに陣地を奪われた。しかし8/20夜間、なけなしの兵を集めて夜襲を敢行して奪還。翌日再び奪取されるも8/22未明、逆襲して再奪取。しかし兵力が尽き、確保を続けることは出来なかった。
 9/5、決別電報を打ち、無線機を破壊し重要書類を焼却。9/6、金光少佐戦死。迫撃砲弾により腹部と大腿部を粉砕されていた。金光隊長は真鍋副官に後事を託しつぶやいた。『皆、よくやってくれた---』享年48歳。翌9/7未明、真鍋大尉、砲兵掩蓋内にて軍旗奉焼。早朝より激しい集中砲火を受け松山陣地陥落。午後真鍋大尉敵中に切り込み戦死(死後、少佐に進級)。18時全ての陣地が陥落し戦闘終結。突然戦場に静寂が広がった。
 真鍋大尉の命を受け、中尉ら数名が脱出し地元民に変装して戦線を突破し、日本軍の司令部に辿りついた。将校の生還者がいたことで、拉孟守備隊の最期の様子は比較的よく分かっている。騰越では一人の生存者もいない為、戦闘の詳細が今一つ不明である。
 拉孟守備隊の陥落した陣地跡に自決した15名の日本人慰安婦が横たわっていた。5名の朝鮮人慰安婦は雲南軍に投降した。降り注ぐ砲弾の雨の中で、守備隊が一番安全な場所に女達を匿っていたことが伺える。また最期の時に日本人慰安婦のお姉さんが、朝鮮人の女の子に降伏を勧めたのだろう。雲南軍は女がこの激戦の戦場にいたことに驚き、従軍看護婦として丁重に埋葬した。
 拉孟には軍属によって酒保(売店)と慰安所が出来ていた。女達は攻撃が近づいた時に引き上げることも出来たのだが、何故か残留を望んだ。長い間暮らしを共にした兵隊と女達の間には、家族愛のような絆が生まれていた。戦闘の最中に、一人の兵隊がなじみの女との結婚を申し出て許可された、という話しがある。しかし勇者として名誉の戦死を遂げた兵士に較べ、名もなく闇に葬られた死を遂げた女達があわれだ。彼女達も共に戦い、弾丸を運び炊事に従事し傷ついた兵を手当てし看護し、勇敢に死を選んだのに。
 金光隊長が9/5、師団司令部に送った決別電文は以下の通り。
『通信の途絶を顧慮して、予め状況を申し上げたし。---周囲の状況急迫し此までの戦況報告の如く全員弾薬食糧欠乏し。如何とも致し難く最後の時迫る。将兵一同死生を超越し命令を厳守確行、全力を揮ってよく勇戦し死守敢闘せるも、小官の指揮拙劣と無力の為御期待に沿うまで死守し得ず。まことに申し訳なし。謹みて聖寿の無窮、皇運の隆昌と兵団長閣下はじめ御一同の御武運長久を祈る。』

 騰越は城郭都市で、城壁は周囲4km正方形で高さ5m、幅2m、外側は石で内側は積土で固められていた。周囲の高地からは見下ろす位置にあるため、これらの高地も防衛する必要があったが、それには最低でも3個連隊、7千名の兵が必要だ。騰越守備隊長は水上少将であったが、少将はミイトキーナ救援に向かったので、蔵重大佐以下2,800名が雲南軍49,600名を迎えうった。守備隊は全滅、雲南軍は戦死9,168名、負傷10,200名の損害を出した。
 戦闘が始まる直前、師団司令部から1大隊の抽出を命ぜられた。そのため実際に騰越で戦ったのは2,800名ではなく2,025名であった。6/27、雲南遠征軍の砲撃開始。7/27、外郭陣地を放棄し城内に後退。8/13早朝、戦爆連合の24機が騰越城を空爆、その一弾が防空壕を直撃して蔵重大佐以下32名が戦死。以後太田大尉(28歳)が指揮をとった。この時点で守備兵は800名になっていた。連合軍の空爆は激しかった。
 しかし騰越守備隊の凄まじい抵抗はむしろここから始まる。組織的防戦から死に物狂いの抵抗へ。空爆で崩れた城壁からなだれ込んできた5千を超す雲南軍と壮絶な市街戦を繰り広げる。昼間奪われた地域は夜襲で奪い返す。8/21、残存640名。9/1~5、残存350以下。9/7、追い詰められた守備隊は太田大尉以下70名。9/11、守備隊の弾薬、手榴弾が尽きる。9/12、最後の無電。9/13、太田大尉の指揮下、生き残った数十名が軍刀と銃剣により敵陣地に突入して全員戦死。太田大尉の決別電は以下の通り。
 『現状ヨリスルニ、一週間以内ノ持久ハ困難ナルヲ以テ、兵団ノ状況ニ依リテハ、十三日、連隊長ノ命日ヲ期シ、最後ノ突撃ヲ敢行シ、怒江作戦以来ノ鬱憤ヲ晴ラシ、武人ノ最後ヲ飾ラントス。敵火砲ノ絶対火制下ニアリテ、敵ノ傍若無人ヲ甘受スルニ忍ビズ、将兵ノ心情ヲ諒トセラレタシ。』

 9月9日、敵将蒋介石は、雲南軍司令部に与えた訓示の中で次のように述べた。

 『戦局の全般は我に有利に進展しつつあるも、前途なお遼遠なり。我が将校以下は、日本軍の拉孟守備隊、騰越守備隊あるいはミートキーナ守備隊が孤軍奮闘最後の一兵に至るまで命令を全うしある現状を範とすべし。日本軍の発揚せる忠勇と猛闘を省みれば、我が軍の及ばざること甚だ遠し。』

 これが有名な蒋介石の逆感状である。日本軍の出す美辞麗句を並べた陳腐な感状に較べ、敵から範とすべしと言わしめたのだ。これ程価値のある(逆)感状はない。蒋介石は毀誉褒貶の多い人物だが、敵の勇気に感動する度量のある人だった。このことだけでも結構好きだな。拉孟・騰越の勇者がもし生きていてこのことを聞いたなら、一番うれしい一言だったに違いない。


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5大メジャー   

2016年07月20日 17時50分21秒 | エッセイ
5大メジャー   

 音楽出版社って変な言葉だよね。レコード会社とどう違うの? それはさておき、2,000年当時の米国のレコード会社は5大メジャーとインディーズからなっていた。音楽の世界のメジャーならいいな。穀物メジャー、地下資源メジャーとか、石油のセブンシスターズとかはどうも悪党の匂いがプンプンする。思いどうりにならない国などクーデターを起こして潰してしまえ。映画の見過ぎかな。
 さてインディーズとは自前の配送部門を持たず、メジャーから独立(Independence)したレーベルのことで、25%のシェアを持っている。日本でインディーズと言えば、日本レコード協会に所属していないレコード会社のことだ。5大メジャーのシェアは残りの75%で、筆頭はユニバーサル(26%)2位はソニー(14%)、残りの3社は似たようなシェアだった。
 1990年代はポリグラムを加えて6大メジャーだったが、ポリグラムが脱落して次の5大メジャーになった。ユニバーサル(仏系)、ソニー(日系)、ワーナー(米系)、EMI(英系)、BMG(独系)ときれいに先進5ヶ国に区分されていた。EMIを除く4大メジャーの親会社は音楽以外のメディアを所有していた。またBMG以外は全てメジャーな映画会社であった。
 映画と音楽、2大エンターテインメント産業によって、インターネット時代の覇者たらんとしていた。ところが1999年、一人の若者が無償のファイル交換サイト、Napsterを世に出したことで彼らの戦略は大きく狂った。メジャーが市場を独占して、民衆を操作するような時代ではなくなって行く。5大メジャーは吸収・合併により2016年現在、3大メジャーに集約された。すなわちユニバーサル、Sony、ワーナーに集約されているそうだ。

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大陸打通作戦 

2016年07月16日 22時36分18秒 | エッセイ
大陸打通作戦   

 先の大戦に於いて、真珠湾奇襲、マレー半島上陸(順番としてはこちらの方が早い)、フィリピン空軍基地の空襲に引き続いてマレー沖海戦でレパルス、プリンスオブウェールズを沈めた。チャーチルは第二次世界大戦で最もショックな出来事は、このマレー沖海戦であったと回想した。香港攻略、シンガポール進撃、フィリピン攻略、インドネシア占領と続き、帝国は開戦から半年で東アジア全域を手中に納めた。しかし南方資源、石油・アルミ・鉄・ゴム・食糧を手にしたものの、この帝国には何とその先の戦略が何も無かった。
 ミッドウェー海戦で虎の子の四空母を、精鋭パイロットと共に失い、ガダルカナルで消耗戦に巻き込まれた後はジリジリと負け続けた。日本の駆逐艦は米潜水艦を一隻も沈めることが出来ず、シーレーンはズタズタにされ商船は次々に沈められ、その後は見るも無残な玉砕(全滅)戦が敗戦の日まで続く。
 ビルマでは何の必然性も
ないのに、人跡未踏のチンドウィン山脈を徒歩で越えて印度に攻め込むインパール作戦が行われた。ビルマ人の家畜数万頭を徴用したが、のどかな農村から引っ張り出された牛は、険しい山を一頭も超えられなかった。最前線の日本兵は鬼のように勇敢に戦ったが、弾丸は尽き食糧は全く届かず、目標としたインパールの街の灯りを目にしながら、雨季の土砂降りの中を撤退せるを得なかった。米一粒送らずに、進め進めと遥か後方から叫ぶだけの司令部に抗議し、撤退した現場指揮官が3名とも罷免されるという事態になり、軍隊として崩壊しつつあった。退却路ではマラリアが蔓延し、病死・餓死・凍死した日本兵が豪雨の中に累々と横たわり、その道は白骨街道と呼ばれた。
 米軍はマキン・タラワを皮きりに反攻を始めトラック、次いでラバウルを無力化しギルバートに上陸。太平洋の島嶼を一つ一つ潰して日本本土に迫った。マリアナ沖海戦に大敗してサイパン、テニアン、グアムを失う。ついにフィリピン、捷一号作戦で連合艦隊は壊滅し硫黄島、沖縄と悲惨な敗戦は続く。
 そんな中で、1944年(昭和19年)4月17日~12月10日、終戦の半年ちょっと前に行われた大陸打通作戦(正式名称、一号作戦)は連戦連勝、作戦距離実に2,400kmを踏破し、大勝利の内に作戦を終えた。今回は知られざる本作戦を紹介しよう。


 この大作戦が知られていないのも仕方がない。敗戦国の敗戦間際の大勝利など、だれも知りたくはない。とはいえヒットラーの西部戦線におけるバルジの戦いとかは有名なのにな。まあ相手が中国軍、国民党軍で、その国民党が第二次大戦の終戦から数年で中国本土から消えてしまうのも、この作戦が知られていない原因なのだろう。帝国陸軍にとっては空前絶後の規模の作戦で、完璧といっていいほどの勝利をものにした。この作戦に参加した将兵は最初から最後まで主に夜間ひたすら行軍したことだろう。体の弱い者は行軍から脱落して取り残され、作戦を終えてベトナムに着いた時には兵はより精鋭となっていた。

 1943年(昭和18年)夏、ソロモン諸島とニューギニア方面に於いて、米軍を主体とする連合軍の反攻は強まり、日本は最も避けたかった泥沼の消耗戦に巻き込まれていった。すでにこの時点で艦船50隻、航空機1,500機以上を失い、20万人以上の戦死者を出していた。また100隻を超える米潜水艦の活躍により、シーレーンはズタズタにされ商船やタンカーが貴重な積み荷と共に、次々と海に沈んだ。
 このような切迫した状況にあって、事態打開のために大作戦が立案された。それが「大陸打通作戦」、正式名称を「一号作戦」と呼ぶもので、立案者は服部卓四郎大佐である。中国東北部を起点として広大な中国大陸を一路南下し、途中で会敵する中国軍を粉砕して都市を占領し、敵飛行場を根こそぎ潰す。今のベトナム、当時の仏領インドシナに達し、進駐している友軍に合流する。そして南方占領地と日本本土を陸路で結び物資の輸送を鉄道で行う。本作戦の目的を整理するとこうなる。
・華北と華南を結ぶ京漢鉄道を確保することで、南方資源地帯と日本本土を陸上交通路で結ぶ。
・米軍の長距離爆撃機B29の航空基地を占領し、台湾・朝鮮・本土への空襲を予防する。
・蒋介石率いる中国軍を撃破し、その継戦意思を粉砕する。
・戦況悪化と物資欠乏の中で勝利のニュースを作り、国民の戦意高揚に努める。

 参戦人員から見て今作戦は太平洋戦争中、最大規模の作戦である。太平洋戦争開始時、兵力90万人以上の日本兵が中国戦線に張り付いていたが、次々に南方方面に抽出した結果62万人に減少していた。兵だけでなく兵器も航空部隊も大幅に減っていた。中国軍が戦意に溢れた軍隊なら、ここで大反撃に出るところだ。中国軍は国民党軍、八路軍、新四軍等併せて300万はいる。
 大陸打通作戦は1943年夏ごろから大本営で検討されていたが、兵力の問題からなかなか実施決定に至らなかった。しかし台湾の新竹空襲、次いで北九州の中島飛行機工場等が繰り返しB29の爆撃を受けるに及び、危機感からついに実施が決定した。支那派遣軍の指揮下にある25師団と11個旅団のうち、歩兵師団17個と戦車師団1個、旅団6個で計50万人。火砲1,500門、戦車800輌、自動車12,000輌、馬7万匹という空前の規模の大作戦が始まった。
 本作戦には中国東北部にいてソ連と対峙している、いわゆる関東軍は参加していない。作戦の実施にあたって、国民党の首都である重慶・成都に一気に攻め込んだ方が良いのではないか、という意見もあった。また東条英機参謀総長は、本作戦を認可しながらも目的を航空基地破壊に限定するように指示したが、服部はあくまで陸上交通路を結ぶことに拘り、作戦計画を変えなかった。
 事前の準備として京漢鉄道の黄河鉄橋の修復が行われ、4/14、第12軍(司令官:内山中将)の部隊が列車で黄河を通過した。作戦の経緯・詳細は省く。作戦は序盤から順調に進み、覇王城を落とし密県を攻略、許昌市を占領して救援に来た2部隊のうち1部隊を撃破、もう一方を壊滅させた。またある連隊は中国軍の物資集積基地を奪ったが、このことが中国軍にとって一番の打撃となった。
 続いて戦車師団を含む攻撃により洛陽を占領。これをもって前半の京漢作戦は完了した。北支那方面司令官の岡村大将は、占領地の規律を重視し、第110師団の占領地帯では夜間でも、民間人が安心して外出できるほど治安が向上した。むしろ国民党軍の方が自国民にとって危険であった。終戦後の復員の際にこの師団は優遇された。
 ここで作戦の第二段に行く前に、制空権のことを記す。日本軍は250機が中国戦線に配備されていたが、消耗と南方への転出で1944年7月には150機に減少した。一方アメリカ軍を主体とする連合国側の航空兵力は増加し、1944年5月には520機、7月には750機となった。日本軍は新鋭四式戦を装備した飛行第22連隊を1ヶ月限定で投じた9月以外は、連合国側が制空権をほぼ握り、日本軍は夜間移動しなければならず、補給線は激しい空襲を受けて前線で弾薬などの不足をきたした。

 余談になるが、太平洋戦争が始まる前から、アメリカ人の冒険好きのパイロットは中国に行き、義勇兵として戦闘機に乗り空爆に来る日本軍爆撃機に襲いかかった。その部隊名をフライングタイガーという。ところが彼らは爆撃機の護衛についてきた戦闘機(試作の零戦)の途方もない運動能力と強力な武装に驚いた。零戦は向かうところ敵なし。10機で来て30機と戦い、ほとんど全機を撃ち落とす。フライングタイガーのパイロットは、この新鋭機の詳細なレポートを作成して本国に送ったが、そのレポートに注目し内容を信じた者は一人もいなかった。

 さて大陸打通作戦の第二段は長沙攻略を目指して5/27に進撃を開始した。今回は漢口駐留の第11師団を中心に、第一弾作戦から引き続き参加する部隊を加え、36万人が長沙を目指した。長沙は1941年にも攻撃したが、占領に失敗している。中国軍は長沙を40万人で守備していた。郊外の丘に拠って応戦する中国軍に対し、6/18日本軍が水路で運び込んだ15cm榴弾砲2門が砲撃を始めると、守備隊は夜陰に紛れて撤退した。横山司令官は掠奪などの発生を警戒して長沙市街への入城を禁じたが、アメリカ軍機の夜間空襲により長沙市街は全焼した。
 ついで日本軍はこれも飛行場がある衝陽の攻略に向かった。衝陽の中国軍の抵抗は激しく、日本軍は大きな損害を出した。ところが救援に来た部隊が消極的で戦わず、ついに中国軍守備隊は降伏した。衝陽での苦戦から第11軍の再編と休養を行い、補充兵10万人を送って第6方面軍(司令官:岡村大将)を新設し、南進を続けた。しかしその間にサイパン島が陥落し、本作戦の目的の一つ(B29飛行場の駆逐)は失われた。
 10月に興安県に到達し、11/3に進撃を再開。第11軍は独断で桂州と柳州に同時侵攻し、11/10までに双方を占領した。中国軍主力は決戦を回避して後退した。しかし日本軍の補給路は伸びきり、ガソリンが枯渇したため、追撃は出来なかった。そして遂に12月に仏領インドシナに到達し、「大陸打通」は見事に成功した。中国側の死傷者は75万、捕虜4万強、火砲6,723、航空機190機を喪失した。日本軍の戦死・傷病者は10万人(うち戦死は1万人強)。
 この作戦は意外にも日本側の想像以上にその後の戦況に大きく影響し、日本の命運に決定的に関わっていった。米国大統領ルーズベルトは開戦以来一貫して蒋介石を強く信頼し支持し、カイロ会談にも引っぱり出している。この大統領には人を見る目がない。人間の形をした悪魔、スターリンに絶大な好意を寄せチャーチルを嫌った。しかしこの大陸打通作戦で、蒋介石の軍隊の余りにも不甲斐ない敗北を目の当たりにしてさすがに目が覚めたらしい。
 中国大陸の航空基地からB29を飛ばして日本本土を爆撃する予定だったが、日本軍に軒並み飛行場を奪われ、それが出来なくなった。もっと奥地に飛行場を移転したら、航続距離が足りなくなる。そこで太平洋の島々を逐次占領する作戦に、力を入れざるをえなくなった。また毛沢東指揮下の中国共産党軍へ注目し始めた。重慶ではアメリカ人の将軍ステルウェルが訓練した、近代装備の精鋭部隊が待機していたが、蒋介石は大陸打通作戦にこの部隊を充てることを拒否し、指揮権もステルウェルに譲らなかった。この精鋭部隊は、北ビルマに投入され拉孟・騰越の日本軍玉砕戦に進む。
 大陸にいる100万の日本軍は、南方に武器と共に抽出されながらも未だに精強な軍隊であることが、改めて証明された。その1/10の部隊によって、硫黄島と沖縄等で予想を遥かに上回る大出血を強いられる米軍にとり、蒋介石が日本と単独講和し無傷の精兵100万人が太平洋に進出してくるのは、背筋の凍る恐怖だ。国には息子や夫を失った家族が加速度的に増え、政権の維持、戦争の継続が危ぶまれかねない。ベトナム戦争がそうだ。戦闘ではパーフェクトに勝っていたのに、国内の厭戦機運に負けた。民主国家は世論を敵に出来ない。選挙があるのだ。
 そこでアメリカは蒋介石の暗殺を計画した。毒殺・航空機事故・自殺に見せかけると三方法を検討したが、1944年のビルマの戦況、原爆の完成等の国際状況の変化で中止した。アメリカが想定していた後継者は、孫文の息子、孫科であったという。しかし孫科は死ぬまで台湾に於いても蒋と手を握っていたから、孫科本人の知ることこではなかったようだ。また日本にとっては不幸なことに、本作戦で日本軍の実力を再評価させたことは、敗戦間際のソ連の軍事介入を容易なものにしてしまった。
 日本軍は釜山からラングーンまで鉄道で往復出来るようになったとはいえ、特に八路軍(共産党軍)のゲリラ攻撃を頻繁に受けて、鉄道輸送はまともに機能しなかった。またマリアナ諸島の陥落により、日本のほぼ全土がB29の作戦圏になってしまった。日本海にまで米潜水艦が活動するようになっては、南方物資の陸路輸送は夢と消えた。
 蒋介石は強い日本軍と正面から戦うよりは、戦力を維持しておいて間もなく訪れる第二次大戦の終了後に、共産党軍を叩き潰す切り札にする積りだったのだ。しかし掠奪、暴行、ならず者集団の国民党軍は民衆から嫌われていた。人民の物は針一本取らない。当時の共産党軍が数年に渡る激戦の末、蒋介石を台湾に追いやった。話が先に飛び過ぎた。蒋は日本軍の強さを骨身にしみて知っている。この強兵100万を中国大陸に封じ込めておくだけで、連合軍にとっては大功績ではないか、と思っていたとしても不思議ではない。
 こうしてみると、蒋が終戦後に日本兵を迅速に復員されてくれたのも理由がありそうだ。「恨みに対して恩で報いる。」蒋介石の言葉だ。15年も戦い、家族や友人をたくさん殺している日本軍を虐待もせずに早く返してくれた。火事場泥棒のように終戦の6日前に介入して、北方領土を獲り日本兵の捕虜を何年にもわたってシベリアに拉致拘束したソ連とはえらい違いで。しかし蒋介石は、武器を取り上げても100万人の日本兵が無気味で、早く自国から出したかったのかもしれない。
 1945年のポツダム宣言受諾の際に、支那派遣軍司令官の岡村大将は、「百万の精鋭健在のまま、敗戦の重慶軍に無条件降伏するがごときは、いかなる場合にも、絶対に承服しえざるところなり。」と無条件降伏に反対した。しかし精鋭百万、どうせ戦うなら米軍とやれよ、と言いたくもなる。

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自爆テロと特攻隊  

2016年07月10日 20時08分28秒 | エッセイ
自爆テロと特攻隊   

 イスラム原理主義過激派のテロ、特に自爆テロが猛威を振るっている。空港でも市場でも、博物館でもレストランでも、確率は低くても海外ではいつテロに遭遇しても不思議ではない。9.11を含め海外でのイスラム過激派のテロで命を落とした日本人はかなりの人数だ。アル・カイーダとムスリム同胞団が、国際的な締めつけによって勢力を落としていったら、ISという凄いのが台頭してきた。ISは草の根的なメディアでの情報操作に長けていて、外国人の自主的な参加者が多い。普通何年も
かけて都市に溶け込むのが今までのスパイやテロリストの常道だったのだが、普通に暮らしている住人が向こうからテロリストになりたいと言ってくるのだから、これはISにとっては願ったりだ。
 イスラム過激派のテロは何となく、前回書いた暗殺教団ニザリ派を思い起こさせる。しかしニザリ派の青年は短刀一本で、敵の指導者を狙った。外国人というだけで殺したり、不特定多数の一般人をターゲットにしたりはしない。また強力な爆弾によって女子供を問わず無差別に殺害する自爆テロを、日本の特攻隊と同一視することは断じて許せない。
 (神風)特別攻撃隊は純粋に軍事目的で始められた。最初のフィリピンでの特攻は、捷一号作戦に呼応して行われた。捷一号作戦は、米軍のフィリピン上陸に際して連合艦隊の総力を挙げて反撃する作戦で、フィリピンの航空戦力も全力で戦う積りでいた。しかしその戦力は零戦34、偵察機1、各種爆撃機5と、一度の出撃で無くなる内容であった。
 敵機動部隊の空母の甲板を一時的に破壊して、一週間使えなくするには零戦による特攻しか方法が残っていなかった。統帥の外道、と非難を浴びたが他に方法は見当たらない。まともな攻撃では、機動部隊にたどり着く前に敵戦闘機に撃ち落とされるし、たどり着いても対空砲火のVT信管によって攻撃の成功率は極めて低い。250kgs爆弾で空母を撃沈は出来ないが、この作戦中だけ甲板を使えなくすれば良い。人命うんぬんは別にして、かなり合理的な判断であったことが分かる。しかし残念なことに最初の特攻は、敵艦隊の発見が遅れ何度も出直すうちに、タイミングとしては作戦が終わっていた。また破壊した空母は正規の空母ではなく、護衛空母だった。
 アメリカは第二次大戦中に護衛空母(escort aircraft carrier)を実に100隻以上作っている。大きさは長さで正規空母の約半分、排水量で1/3、低速(20ノット以下)だが、短期間に安価で大量に建造することが出来た。日本軍は両者の違いを分かっていなかったように思われる。日本軍の民間商船を改造した特設空母は、主力の補助として使われているので軽空母と呼ぶべきである。護衛空母の役割は潜水艦掃討、輸送船の護衛、偵察そして航空機の輸送である。特に大西洋に展開していたドイツのUボートを駆逐するために用いられた。
 最初の特攻に話を戻す。わずか1,000ccのエンジン、日産マーチのような零戦に250kgsの爆弾を括りつけるのだから、真っすぐ飛ぶのがやっとで敵戦闘機の迎撃に遭ったら一溜まりもない。関大尉を指揮官とする5機の爆装零戦は、何度目かの出撃でついに敵機動部隊を発見し突入する。結果は空母1隻撃沈、他の空母2隻大破。一隻には2機が突入しているから、5機中4機が特攻に成功した。突入を見守る護衛の零戦は、戦場で垣間見た空母が正規なのか護衛なのかは分からない。元々両者を区別していたのかも疑問だ。
 関大尉はよほど腕の良いパイロットだったのだろう(最も誰がどの空母に飛び込んだのかは分からないが)。いかに護衛空母(セント・ロー)でも250kgs爆弾一発で撃沈してしまうとは。多分航空機を上げ下げする昇降口に真上から飛び込み、甲板下で爆発したのだろう。その爆発によって格納中の航空機、爆弾、燃料が次々に誘爆し、最終的に弾薬庫に引火したのだと推測される。この時、特攻機によって空母(但し護衛空母)を撃沈したことが、日本軍の合理的な判断を狂わせた。後の特攻はシステマチック、機械的になって機種もパイロットも質がどんどんと低下し、戦果は益々落ちて行った。
 沖縄戦では最大規模の特攻、菊水作戦が行われた。作戦は第一号(1945年4月6-11日)から第十号(1945年6月21-22日)まで実施され、その後も終戦までの間、断続的に特攻が続けられた。沖縄諸島周辺での特攻作戦において、海軍は940機、陸軍は887機が特攻を実施し、海軍2,045名、陸軍1,022名が特攻により戦死した。米英軍では戦死4,907名、戦傷4,824名、駆逐艦など撃沈36隻、損傷218隻。正規空母と戦艦も多数損傷している。米軍では、特攻に対する恐怖から精神に異常をきたす将兵が続出した。またモーターボートのような特攻艇〝震洋〟による攻撃も行われたが、こちらは見るべき戦果は無かった。占領された沖縄の空港にグライダーで着陸して大暴れした、義烈空挺隊はわずかに一機が着陸に成功したのにも関わらず、飛行場を火の海と化した。
米軍は機動部隊の外郭に二重の防衛線を洋上に展開し、レーダーピケット網も張って防衛戦闘機隊をブンブン飛ばした。こうなると最も外側のレーダーピケット艦にすらたどり着くのが容易ではなくなり、特攻機とその護衛戦闘機は洋上でバタバタと撃墜されていった。
 日本軍期待のロケット自爆機〝桜花〟は航続距離37km、速力1,040km/h、炸薬量1,200kgeで、それ自身の威力は申し分なく、まともに激突した駆逐艦を一瞬で真っ二つにしているが、桜花を腹に括りつけて運ぶ母機が一式陸攻ではどうしようもない。一式陸攻は燃料タンクに防弾装備が何もなく、両翼全体が燃料タンクになっているので、数発の弾丸が当たっただけで火を吹く。米軍からはワンショットライターと呼ばれていた。18機で出撃した桜花部隊は、護衛の戦闘機は55機、出発して30分で30機の戦闘機が整備不良で引き返した。航空燃料も悪かったのだろう。米軍戦闘機隊に捕捉され、桜花を抱えたまま18機の一式陸攻全てが撃墜された。一式陸攻には8名乗っている。それに桜花のパイロットが一人、計162名が海の藻屑と消えた。
 こうなると、偶々成功する特攻は薄暮や日没時に単機で出撃して、交替で母艦に帰る米戦闘機の後ろにくっついてレーダー網を突破したケースのようにゲリラ的なものに限られるようになった。もう特攻すら通用しない。勝つ手段は尽きた。連合艦隊は太平洋の底に沈み、わずかに残った船も油が無いので動かない。日本軍は特攻に使用する機体もパイロットも燃料も枯渇してきた。8月15日で戦争が終わらなくても早晩継続が出来ない状態に追い込まれていた。それでも特攻は慣習的に続けられ、志願のはずが実質的な強制となり堕落していった。
 また特攻を拒否し、艦上爆撃機〝彗星〟を主体にして、沖縄の敵飛行場等に何度も夜間攻撃を仕掛けた芙蓉部隊という隊があったことを記しておく。結局より多くの被害を米軍に与えたのは芙蓉部隊の方だった。また潜水艦から発射する人間魚雷〝回天〟は捕捉が困難で、米軍は日本に進駐して真っ先に回天搭載の伊号潜水艦の所在を追及している。
 さてイスラム原理主義過激派が日本の特攻隊を賛美するのは勝手だが、目的も対象も全く異なることを忘れてはならない。卑怯なテロ行為などと特攻を同一視することは許せない。両者は全く違うものである。当たり前だが、特攻はテロではない。
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