アルメニア人
アルメニア人が気になる。オーストリアとオーストラリア、ナイジェリアにアルジェリア、アルバニア人にアルメニア人。現在国家としてアルバニアもアルメニアもある。国家を持たないクルドの人にはうらやましい話だ。そもアルバニア人はコーカソイド(白人)だが大半はムスリムだ。コソボ紛争でNATOが激しい空爆をセルビアに対して行ったのは1999年のことだ。
アルバニア人は多数派セルビア人の圧迫を受け、コソボ自治区の独立を目指した。セルビア人はセルビア正教会に属するキリスト教徒である。しかしこれ以上バルカン情勢に深入りするのは止めよう。複雑すぎて頭が痛くなるし、そもそも今回のテーマはアルバニア人ではなく、アルメニア人だよ。でもちょっとだけ。「バルカンは世界の火薬庫」と言われたのは、第一次世界大戦の前だ。あの多民族国家を第二次世界大戦後、亡くなるまでユーゴスラビア(南スラブの意味)という一つの国にまとめ上げていたチトー大統領は偉い。
認めていない国もあるが、旧ユーゴスラビアは現在7つの国に分かれている。すなわちスロヴェニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビア、コソボ、モンテネグロ、マケドニア。アルバニアは旧ユーゴとは別に以前から独立していた。自分が若い頃、不思議な国が東欧にあるという噂があった。それがアルバニア。旧ユーゴは「7つの国境、6つの共和国、5つの民族、4つの言語、3つの宗教、2つの文字、1つの国家」と言われた。5つの民族とはスロヴェニア人、セルビア人、クロアチア人、マケドニア人、モンテネグロ人で、ムスリムのアルバニア人(最近ではボシュニャク人と呼ばれる。)とセルビア人(セルビア正教会)、クロアチア人(カトリック)は信仰する宗教とそれに付随する生活習慣、文字が異なるが、身体的特徴にこれといった違いはない。みな南スラヴ民族なのだ。この地域は近年までオスマン・トルコの領土であった。
キリスト教世界は、大きく東方教会と西方教会の2つに分けられる。東方教会はさらに東方正教会と東方諸教会に分けられる。西方教会は教皇を頂点とするカトリックを本流とし、16世紀の宗教改革を経てそこからプロテスタントが分かれる。その先は更に分岐するが割愛する。アルメニア人の大多数が信仰するアルメニア正教会(アルメニア使徒教会)は、まぎらわしいが東方正教会ではなく東方諸教会に分類される。東方諸教会の中には古代キリスト教、ネストリウス派も含まれる。ネストリウス派は、325年のキリスト教公会議で異端とされ追放された。彼らは東方に向かい中国では景教と呼ばれた。
オスマン帝国は、宗教に寛容だった。人頭税さえ払えば、何を信仰しようが自由だ。特にギリシャ人(ギリシャ正教)、ユダヤ人(ユダヤ教)、アルメニア人(アルメニア正教)は帝国で優遇され、大幅な自治権を与えられていた。教会と貴族による二重の搾取にあえぐ、重苦しい中世ヨーロッパの農奴よりも、オスマン帝国の市民のほうがよほど明るく、文化的にも進んだ生活を送っていた。医術、芸術、司法行政、食物、どれを取ってもヨーロッパよりも優れていた。二等市民たる扱いさえ受け入れれば、安全で暮らしやすい社会で、実際オスマン帝国内でキリスト教徒の反乱は、末期になるまでは起きていない。
トルコとギリシャ度重なる戦争、アルメニア人の強制移動と虐殺等は、帝政末期になってから始まったことだ。それまでは多民族、他宗教で共存していた。民族主義と国家意識の台頭は考え物だ。アルメニア人ジェノサイト(民族大虐殺)は第一次世界大戦の最中、オスマン帝国統治下のアナトリア東部で起きた。被害者は一般市民100~150万人に及ぶというが、正確な人数さえ分からない。日本軍による南京大虐殺30万人を遥かに上回る。20世紀初頭におきた悲劇だ。しかも数億人の漢族ではなく、1-2千万人の内の100万人だ。だからといって南京大虐殺を過小視する積りはないが。
第一次世界大戦でオスマン帝国は、ドイツ、オーストリア・ハンガリー帝国側に組みして、英・仏・露、後には米・日の連合国に敵対した。当時オスマン帝国はほとんど内部崩壊していて、実際に指揮して戦ったのは青年トルコ党の青年将校だった。
アルメニア人は、帝国内で主に二つの共同体に分かれていた。東部の農村社会と、イスタンブールなどの都市部で貿易や金融業で成功した富裕な商人層、また建築家や造幣官など宮廷、中央官庁に仕えて政府と共存共栄するグループだった。その宮廷が無くなってしまった。新生トルコの政府では民族意識が急進化して、トルコ人以外は追放された。テロや襲撃の応酬が頻発した。都市部のアルメニア人は、トルコを見限って国外に移住する者が急増した。
当時トルコ軍は西部戦線としてガリポリ半島で英連合軍と激しく戦い、東部では侵入してきたロシア軍の大軍と戦った。このロシア軍の進攻に協力したり、従軍するアルメニア人も出てきた。帝政末期の混乱と民族意識の高まりの中で、アルメニア人等への襲撃が多発していたのだ。アルメニア人としては、同じキリスト教徒のロシアに救いを求めるのも分かる。しかしこの事がトルコ側を過剰に刺激した。ロシア軍と一進一退の死闘をくり返しているのに、後方でアルメニア人に蜂起されてはたまらない。戦闘地域での反国家・利敵行為を予防するとの目的で、トルコ政府はアルメニア人の強制移住を決め、ユーフラテス川沿いのシリア砂漠の町、デリゾールへ住民を追いたてた。
冬季の乾燥した山を越える過酷な旅で、凍死者、餓死者が続出した。またならず者の民兵が非武装、無防備の集団をおもうように襲う。デリゾールにたどりついた者はほとんどいない。街道は死体に埋め尽くされた。この死の行進が指令として、いついかなるようになされたのかは、はっきりしていない。しかし近代トルコにおける汚点となり、その恨みは今も続いている。
フランスにいるアルメニア系フランス人50万人、アメリカにも80万人とうアルメニア系がいて、一つの勢力となっている。インドにもアルメニア人のコミュニティーがあるらしい。最終的に発効はされなかったが、「アルメニア人虐殺否定禁止法」が何度も米仏で提案されている。現在の話だ。2006年と2011-2年にフランス、2007年と2010年にアメリカ。第一次世界大戦中150万人のアルメニア人が、オスマン帝国に虐殺された事実を否定する行為に対して懲役刑、罰金刑を科す、という内容である。オバマ大統領にとっても頭の痛い問題である。トルコとの関係を悪化させたくはないのだ。現トルコ政府は虐殺の事実は認めているが、人数は数十万人でトルコ人虐殺もあったとする。
法律で歴史を決めるのはどうかと思うが、それだけ恨みは深い。アナトリア東部の、強制移住で無人化した農村には主にクルド人が入植した。なおアッシリア人とポントス(ギリシャ系)人に対する虐殺も起きたようだ。
アルメニア共和国は海への出口を持たない内陸国で、人口は310万人。国外で暮らすアルメニア人は800万人とも言われる。居住国に帰化した人々を含めれば数千万人になる。内戦の続くレバノンを離れ、外国に暮らす人の方が多い交易の民、フェニキア人とよく似ている。また迫害を逃れ世界に散らばるユダヤ人とも共通する。アルメニア人は、11-2世紀にはアナトリアのキプロス島の対岸に、キリキア・アルメニア候国を築いていた。アルメニアでキリスト教が国教化されたのは、ローマ帝国よりも早く(301年)アルメニアこそ世界で最初のキリスト教国家だった。
東方正教会のクリスマスはユリウス暦の12月25日だが、アルメニア教会のそれは1月6日。この日は冬至の祭りが行われ、古代に勢力のあったミトラ教の祝日でもあった。早くに西方教会と袂を分かったことから、アルメニア教会は逆に古い伝統を受け継いでいる。
現在アルメニアは東方の隣国アゼルバイジャンと戦争し(1992-4年)、アゼルバイジャン国内のナゴルノ・カラバフ共和国を占拠している。ナゴルノ・カラバフでは元々アルメニア人の比率が多かったが、アルメニアのやり方は強引だ。小国アルメニア(310万人、日本の1/13の国土)が、豊かな産油国で大国のアゼルバイジャン(940万人、日本の1/4)を負かしてしまった。不思議だが、ロシアがアルメニアをBack upしているのは事実だ。またアルメニア人は兵士として極めて優秀らしい。ペルシャではアルメニア人傭兵隊が活躍した。現在も同地とそこに繋がる回廊地域を占拠している。アルメニア人が、トルコ系でシーア派ムスリムのアゼルバイジャンが嫌いなのは分かるが。
アルメニア人に美人が多いことは間違いない。オスマン帝国のハーレムの美女は白人ばかりで、皇帝は時代が進むにつれアジア人の血が薄れ、限りなく欧米人の風貌になっていった。そのハーレムの美女の調達先はロシア、ウクライナとアルメニアだった。美貌の少女を奴隷市場で買い求め教育を施す。アルメニアの少女は奴隷ではなく献上されたのではあるまいか。「アルメニア人の女は全て美人、男は全て悪党面」と乱暴な事を言った奴がいる。悪党面とはどんななんだろう。見てみたい。
どうもアルメニア人は誇り高く(人の話を聞かず)、早とちりな所があるようだ。アルメニアをアメリカ、フランスと同じように有名だと思っているらしい。日本人がアルメニアを知らなかったら、「ああ、ごめん。教育の無い人なんだ。」アルメニアの女性にブスと言ったら、「かわいそうに、目が悪いのね。」ところが、そこら辺のイタリア人に、「アルメニアって知ってる?」と聞くと、「聞いたことある。どこだっけ。昔のユーゴの一国?」となるらしい。
まあ女性の言葉は大てい正しい。試しにネットで〝アルメニア女性〟って打ち込んでご覧。すごい妖艶な美人がぞろぞろ出てくる。以前、上野で「ルーマニア・パブ」みたいな店で飲んだことがある。楽しかった。きれいな女の人が一杯。話も面白い。でも残念ね、この店今週一杯で閉店よ。嗚呼、アルメニア・パブは無いものか。
アルメニア人が気になる。オーストリアとオーストラリア、ナイジェリアにアルジェリア、アルバニア人にアルメニア人。現在国家としてアルバニアもアルメニアもある。国家を持たないクルドの人にはうらやましい話だ。そもアルバニア人はコーカソイド(白人)だが大半はムスリムだ。コソボ紛争でNATOが激しい空爆をセルビアに対して行ったのは1999年のことだ。
アルバニア人は多数派セルビア人の圧迫を受け、コソボ自治区の独立を目指した。セルビア人はセルビア正教会に属するキリスト教徒である。しかしこれ以上バルカン情勢に深入りするのは止めよう。複雑すぎて頭が痛くなるし、そもそも今回のテーマはアルバニア人ではなく、アルメニア人だよ。でもちょっとだけ。「バルカンは世界の火薬庫」と言われたのは、第一次世界大戦の前だ。あの多民族国家を第二次世界大戦後、亡くなるまでユーゴスラビア(南スラブの意味)という一つの国にまとめ上げていたチトー大統領は偉い。
認めていない国もあるが、旧ユーゴスラビアは現在7つの国に分かれている。すなわちスロヴェニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビア、コソボ、モンテネグロ、マケドニア。アルバニアは旧ユーゴとは別に以前から独立していた。自分が若い頃、不思議な国が東欧にあるという噂があった。それがアルバニア。旧ユーゴは「7つの国境、6つの共和国、5つの民族、4つの言語、3つの宗教、2つの文字、1つの国家」と言われた。5つの民族とはスロヴェニア人、セルビア人、クロアチア人、マケドニア人、モンテネグロ人で、ムスリムのアルバニア人(最近ではボシュニャク人と呼ばれる。)とセルビア人(セルビア正教会)、クロアチア人(カトリック)は信仰する宗教とそれに付随する生活習慣、文字が異なるが、身体的特徴にこれといった違いはない。みな南スラヴ民族なのだ。この地域は近年までオスマン・トルコの領土であった。
キリスト教世界は、大きく東方教会と西方教会の2つに分けられる。東方教会はさらに東方正教会と東方諸教会に分けられる。西方教会は教皇を頂点とするカトリックを本流とし、16世紀の宗教改革を経てそこからプロテスタントが分かれる。その先は更に分岐するが割愛する。アルメニア人の大多数が信仰するアルメニア正教会(アルメニア使徒教会)は、まぎらわしいが東方正教会ではなく東方諸教会に分類される。東方諸教会の中には古代キリスト教、ネストリウス派も含まれる。ネストリウス派は、325年のキリスト教公会議で異端とされ追放された。彼らは東方に向かい中国では景教と呼ばれた。
オスマン帝国は、宗教に寛容だった。人頭税さえ払えば、何を信仰しようが自由だ。特にギリシャ人(ギリシャ正教)、ユダヤ人(ユダヤ教)、アルメニア人(アルメニア正教)は帝国で優遇され、大幅な自治権を与えられていた。教会と貴族による二重の搾取にあえぐ、重苦しい中世ヨーロッパの農奴よりも、オスマン帝国の市民のほうがよほど明るく、文化的にも進んだ生活を送っていた。医術、芸術、司法行政、食物、どれを取ってもヨーロッパよりも優れていた。二等市民たる扱いさえ受け入れれば、安全で暮らしやすい社会で、実際オスマン帝国内でキリスト教徒の反乱は、末期になるまでは起きていない。
トルコとギリシャ度重なる戦争、アルメニア人の強制移動と虐殺等は、帝政末期になってから始まったことだ。それまでは多民族、他宗教で共存していた。民族主義と国家意識の台頭は考え物だ。アルメニア人ジェノサイト(民族大虐殺)は第一次世界大戦の最中、オスマン帝国統治下のアナトリア東部で起きた。被害者は一般市民100~150万人に及ぶというが、正確な人数さえ分からない。日本軍による南京大虐殺30万人を遥かに上回る。20世紀初頭におきた悲劇だ。しかも数億人の漢族ではなく、1-2千万人の内の100万人だ。だからといって南京大虐殺を過小視する積りはないが。
第一次世界大戦でオスマン帝国は、ドイツ、オーストリア・ハンガリー帝国側に組みして、英・仏・露、後には米・日の連合国に敵対した。当時オスマン帝国はほとんど内部崩壊していて、実際に指揮して戦ったのは青年トルコ党の青年将校だった。
アルメニア人は、帝国内で主に二つの共同体に分かれていた。東部の農村社会と、イスタンブールなどの都市部で貿易や金融業で成功した富裕な商人層、また建築家や造幣官など宮廷、中央官庁に仕えて政府と共存共栄するグループだった。その宮廷が無くなってしまった。新生トルコの政府では民族意識が急進化して、トルコ人以外は追放された。テロや襲撃の応酬が頻発した。都市部のアルメニア人は、トルコを見限って国外に移住する者が急増した。
当時トルコ軍は西部戦線としてガリポリ半島で英連合軍と激しく戦い、東部では侵入してきたロシア軍の大軍と戦った。このロシア軍の進攻に協力したり、従軍するアルメニア人も出てきた。帝政末期の混乱と民族意識の高まりの中で、アルメニア人等への襲撃が多発していたのだ。アルメニア人としては、同じキリスト教徒のロシアに救いを求めるのも分かる。しかしこの事がトルコ側を過剰に刺激した。ロシア軍と一進一退の死闘をくり返しているのに、後方でアルメニア人に蜂起されてはたまらない。戦闘地域での反国家・利敵行為を予防するとの目的で、トルコ政府はアルメニア人の強制移住を決め、ユーフラテス川沿いのシリア砂漠の町、デリゾールへ住民を追いたてた。
冬季の乾燥した山を越える過酷な旅で、凍死者、餓死者が続出した。またならず者の民兵が非武装、無防備の集団をおもうように襲う。デリゾールにたどりついた者はほとんどいない。街道は死体に埋め尽くされた。この死の行進が指令として、いついかなるようになされたのかは、はっきりしていない。しかし近代トルコにおける汚点となり、その恨みは今も続いている。
フランスにいるアルメニア系フランス人50万人、アメリカにも80万人とうアルメニア系がいて、一つの勢力となっている。インドにもアルメニア人のコミュニティーがあるらしい。最終的に発効はされなかったが、「アルメニア人虐殺否定禁止法」が何度も米仏で提案されている。現在の話だ。2006年と2011-2年にフランス、2007年と2010年にアメリカ。第一次世界大戦中150万人のアルメニア人が、オスマン帝国に虐殺された事実を否定する行為に対して懲役刑、罰金刑を科す、という内容である。オバマ大統領にとっても頭の痛い問題である。トルコとの関係を悪化させたくはないのだ。現トルコ政府は虐殺の事実は認めているが、人数は数十万人でトルコ人虐殺もあったとする。
法律で歴史を決めるのはどうかと思うが、それだけ恨みは深い。アナトリア東部の、強制移住で無人化した農村には主にクルド人が入植した。なおアッシリア人とポントス(ギリシャ系)人に対する虐殺も起きたようだ。
アルメニア共和国は海への出口を持たない内陸国で、人口は310万人。国外で暮らすアルメニア人は800万人とも言われる。居住国に帰化した人々を含めれば数千万人になる。内戦の続くレバノンを離れ、外国に暮らす人の方が多い交易の民、フェニキア人とよく似ている。また迫害を逃れ世界に散らばるユダヤ人とも共通する。アルメニア人は、11-2世紀にはアナトリアのキプロス島の対岸に、キリキア・アルメニア候国を築いていた。アルメニアでキリスト教が国教化されたのは、ローマ帝国よりも早く(301年)アルメニアこそ世界で最初のキリスト教国家だった。
東方正教会のクリスマスはユリウス暦の12月25日だが、アルメニア教会のそれは1月6日。この日は冬至の祭りが行われ、古代に勢力のあったミトラ教の祝日でもあった。早くに西方教会と袂を分かったことから、アルメニア教会は逆に古い伝統を受け継いでいる。
現在アルメニアは東方の隣国アゼルバイジャンと戦争し(1992-4年)、アゼルバイジャン国内のナゴルノ・カラバフ共和国を占拠している。ナゴルノ・カラバフでは元々アルメニア人の比率が多かったが、アルメニアのやり方は強引だ。小国アルメニア(310万人、日本の1/13の国土)が、豊かな産油国で大国のアゼルバイジャン(940万人、日本の1/4)を負かしてしまった。不思議だが、ロシアがアルメニアをBack upしているのは事実だ。またアルメニア人は兵士として極めて優秀らしい。ペルシャではアルメニア人傭兵隊が活躍した。現在も同地とそこに繋がる回廊地域を占拠している。アルメニア人が、トルコ系でシーア派ムスリムのアゼルバイジャンが嫌いなのは分かるが。
アルメニア人に美人が多いことは間違いない。オスマン帝国のハーレムの美女は白人ばかりで、皇帝は時代が進むにつれアジア人の血が薄れ、限りなく欧米人の風貌になっていった。そのハーレムの美女の調達先はロシア、ウクライナとアルメニアだった。美貌の少女を奴隷市場で買い求め教育を施す。アルメニアの少女は奴隷ではなく献上されたのではあるまいか。「アルメニア人の女は全て美人、男は全て悪党面」と乱暴な事を言った奴がいる。悪党面とはどんななんだろう。見てみたい。
どうもアルメニア人は誇り高く(人の話を聞かず)、早とちりな所があるようだ。アルメニアをアメリカ、フランスと同じように有名だと思っているらしい。日本人がアルメニアを知らなかったら、「ああ、ごめん。教育の無い人なんだ。」アルメニアの女性にブスと言ったら、「かわいそうに、目が悪いのね。」ところが、そこら辺のイタリア人に、「アルメニアって知ってる?」と聞くと、「聞いたことある。どこだっけ。昔のユーゴの一国?」となるらしい。
まあ女性の言葉は大てい正しい。試しにネットで〝アルメニア女性〟って打ち込んでご覧。すごい妖艶な美人がぞろぞろ出てくる。以前、上野で「ルーマニア・パブ」みたいな店で飲んだことがある。楽しかった。きれいな女の人が一杯。話も面白い。でも残念ね、この店今週一杯で閉店よ。嗚呼、アルメニア・パブは無いものか。