旅とエッセイ 胡蝶の夢

ヤンゴン在住。ミラクルワールド、ミャンマーの魅力を発信します。

今は、横浜で引きこもり。

俺って変?

2018年02月21日 20時47分33秒 | エッセイ
俺って変?

 変人が好きだ。くそ真面目におかしな行動をする人物が、たまらなく愛おしい。人物で言えば、変人の最高峰は南方熊楠。彼は神だ。変神だ。
 やっぱ科学者は、マッドサイエンティストでなくちゃ。ま、そこ迄行かなくても変な人はどこにでもいる。というか人はどこかにこだわりを持っていて、一つ二つ変な行動や癖を持つのが普通だ。

 変人が好きだから、自分が変人と言われるのは何ともない。称号のようなものだ。でも宇宙人と言われた時は慌てた。変人は放っておいてくれるが、宇宙人は退治されかねない。
 さて学生の時は変人で良かったが、社会人になるとそうもいかない。だいたいマイペースな新人、なんて後ろからどつかれる。とにかく最初は(転職したら、およそ半年)大人しくして様子見だ。普通の人に徹する。普通の人がするだろう事をする。地を出すのは半年後だ。半年が我慢の限界だ。

 遊園地の仕事をしていた時、中間(下等)管理職の研修で、セミナーに3日間ほど行かされた。今は無きその会社は、社員教育がやたらと好きだった。1ヶ月現場に出る、とかやったな。現場でオペレーターをやったが、楽だし結構楽しかった。結局は潰れたのだから、社員教育が効果があったとは言えない。自分も絶対、方向性がずれているよな、と思っていた。

 それはさておき、そのセミナー、様々な会社から課長や課長代理(自分は係長)のオっさんがわんさか集まっている。講師の指導で、様々な模擬行動をグループで行う。見ず知らずの人間が3日間で、共に困難を乗り越え相当仲良くなる。でもその友情・付き合いは長続きはしなかった。少なくとも自分はね。

 セミナーでは初日に失敗した。前の方に座っていたのだが、講師の質問につい手をを上げてしまった。「この中で、マリファナを吸ったことのある人はいますか?」
 マリファナというよりはハシッシュだがな、と思いつつすっと手を上げた。しまった。手を上げたのは50人中俺一人。しかも教室中の視線が俺に集中した。講師の先生が慌てた。「いないでしょー。だからxxxx」という展開だったらしい。
 「いやー勇気ありますね。長いことやっているけど、ここで手を上げた人は初めてです。」そーなの、印度じゃおまわりさんも吸ってるし、ネパールで言われた。「タバコは体に悪い。こっち(ハシッシュ)にしなさい。」

 それからが大変。講師は必ず質問を振って来る。「あなたは、どう思います?」皆んなは明らかに変わった答えを期待している。「頑張れ、変な回答」3日間のセミナーは変期待のプレッシャーにさらされた。やっぱ、日本人らしく周りを見回して2番目以降に手を上げときゃ良かったに。

陸奥嵐

2018年02月19日 20時22分59秒 | エッセイ
陸奥嵐

 お相撲さんで誰が好き?俺は、現役では宇良だな。せっかく幕内に上がってきたのに、怪我をしたのは残念だ。しかしTVで直接宇良の相撲を見たのは、数回しかない。インターネットの動画サイトでは何度も見た。面白い。居反り最高。相撲48手で、これは実際にはないだろうと思う技を次々に繰り出す。考えられない動きだ。

 過去の力士で好きなのは、旭国、富士桜、おっと貴闘力。朝青龍も好きだった。お行儀の良い力士はきらいだ。アウトローや業師がいい。でも一番強烈な印象を持っているのは、半世紀近く前に活躍した陸奥嵐。

 陸奥嵐と聞いて、おっと思う人は、50人に1人か100人に1人くらいかな。彼の初土俵は1961年、入幕が1967年、引退は1976年だ。青森県出身で、愛称は❝東北の暴れん坊❞。177cm、115kg、BMI36.71ってインターネットだな。

 幕内戦歴375勝417敗3休(53場所)、敢闘賞4回、技能賞1回、金星2個(大鵬と柏戸)。1場所だけだが、東関脇まで行っているんだ。自分の見た時は、幕の内の下の方のイメージだった。引退後は親方になるが、健康が悪化し廃業。2002年に59歳で亡くなった。合掌。

 農家の四男坊で、幼少より腕白で気が短い。仕事を転々として、東京と地元を行ったり来たりしていた。上京してトラックの運転手になった時に、宮城野部屋の向かいに配達に通った。部屋の力士の間で「強そうなアンちゃんだ。」と話題になり、勧誘されると即決した。酒が好きなだけ飲めると聞いたことが決め手となったらしい。

 陸奥嵐の得意技は、河津掛けと吊り。大技、河津掛けの印象は残っていない。とにかく陸奥嵐といえば吊り。吊り吊り吊り。ほとんどの力士が自分より重い訳だが、陸奥嵐は委細構わず吊る。あごを上げたまま吊る。普通あごを上げたら力が出ないだろうに。
 力士としては、大きくもない腹にどでかいアンコ型を乗せて、両腕の筋肉をギリギリ言わせて吊る。土俵際まで追い詰められると、腰を落として両まわしをガッチリと掴む。高々と吊り上げて、そのままうっちゃれば勝つ。うっちゃれ!
 ところが陸奥嵐は、反対側の最も遠い土俵目指して吊り出そうとする。馬鹿か。何やってんだ。どうやっても無理だろ。

 案の定3-4歩進んだ土俵中央で、上になった力士が足を外掛けにかけ、進めなくなり力尽きる。その後力を出し切った陸奥嵐は、簡単に寄り切られる。あーあ、また負けた。それでも陸奥嵐は戦法を変えない。自分がどこにいようが、上腕筋を膨れ上がらせて吊る。吊る。

 だからそれが決まり、土俵中央から相手を高々と吊り上げて前へ前へ、土俵の外に吊り出した時には、うおーと拍手喝采。陸奥嵐ファンにはたまらない。吊り馬鹿一代。
 もう試合前の立ち合いからワクワクしたもんだ。今回はどんな試合になるのやら。



先生、そりゃないよ

2018年02月14日 21時37分17秒 | エッセイ
先生、そりゃないよ

 自慢じゃないが、学生の時には何度も先生に叱られた。元から要領のよい方じゃあない。でも叱られたことは覚えていても、その内容はすっかり忘れた。よい叱られ方は、その場でガツンで後を引かない。未だに覚えているのは、叱られた言葉に納得が出来ない場合だ。すっきりしないで、、わだかまりが残る。叱られたその場で、理路整然と異議申し立てが出来ていたら、人生が変わっていたかもね。

 最初は小学校6年の時。おバアさんのキツイ先生だった。理科室でノコギリ鮫の歯(?ノコギリの部分)を振りかざして女の子数人を追い回していたら、捕まった。まあ言っちゃあ何だけど、キャーキャー言って逃げ回っていた女の子の方が、はるかに楽しんでいた。でもまあいい。これは現行犯だから、怒られて当然だ。

 ただ先生、余計な事を言った。「あなたはね、お母さんが思っているほど、良い子じゃないのよ。」お袋は関係ないだろ。別にお袋の前で良い子を演じた覚えはない。そんなに器用な柄じゃあない。と言ってお袋を責める積りは毛頭ない。彼女は規格外だ。地球規模に愛情が大きく、良くも悪しくも常識に捕らわれないから、良いといったら良いのだ。
 先生はただ眼前の行為を、本人に対して叱ればよいので、親とかを持ち出してはイカン。後味の悪い叱られ方をすると、後々まで傷つくさ。

 中3の頃、図書室の前の教室で、休み時間に5-6人の生徒が残っていた。昼休みだったのかな。その内、数人が教壇に手をついて黒板の下の壁を、後ろ足でバンバンと蹴り始めた。俺も一緒になって蹴った。別に蹴る理由はない。何が面白いのか、今では分からないがバーンバーンと思い切り蹴った。
 すると顔をしかめて見ていた1人の生徒が立ち上がり、同じように蹴った。バーン。その直後に図書室から飛び出してきた老教師が、「何をやっとる!お、お前か。」と一回だけ蹴った生徒の耳をつかんで教室から引きずり出した。「他にもやった者はおるのか!」
 俺たちは素早く顔を見合わせ計算した。「奴はどうせ助からない。何人か名乗り出ても、出なくても同じだ。」汚ねー。老教師に怒鳴られ殴られた生徒は、責任を他になすりつけることはしなかった。男らしー。
 めっちゃ後ろめたい俺たちは、後で謝ったりなだめたりしたが、真面目な奴は結局本心からは許してくれなかった。傷ついていたんだろうな。今更ごめんね。
 先生は、もっと冷静になって状況を把握した方がよいね。まあ悪いのは俺らだけれど。

 最後は、逆にあっぱれな叱り方。中高一貫の校舎は、丘のてっぺんに建っていたから、よく夕暮れ時に渡り鳥がガラスにぶつかった。麓の駅から歩いて15分ほどかかる。登下校時は、注意は再三されていたが、横にダラダラと広がって通行の妨げとなっていた。あの横並びほど、罪の意識が無いわりに迷惑な行為はない。
 自分はその時現場にいなかったので、後で聞いた話だ。或る朝、40代の国語教師が速足で列を追い抜き、外側をチンタラ歩いている生徒を後ろから容赦なくガツンガツンと殴って歩いたそうだ。やり過ぎだ。キチガイ教師とうわさは沸騰したが、翌日から列のふくらみはピタっと止んだ。
 先生の追い抜き、ぶん殴り行進は、それほどインパクトがあったのだ。先生、あっぱれ。さぞかし拳が痛かったでしょう。不思議なことに、先生の人気はその日から上昇傾向を示した。恐れたのではない。恐れ入ったのだ。


自転車の話

2018年02月13日 07時04分17秒 | エッセイ
自転車の話

 もう時効だから言うけど、大学生になるまで自転車に乗れなかったんだ。子供の時の補助輪付きの自転車から、先に踏み出さなかった。特に不便でもなかったし。
 友達に手伝ってもらって、一日で乗れるようになった。その友達は凄かった。自転車を抱えて斜面を登り、柵を乗り越えて高速道路を走っていた。

 ほんの短い区間だが、そこを走ると下の道を行くより大幅にショートカット出来るそうだ。丘を2つ分超えるほどの道を、3分に短縮出来るらしい。彼はバイトに行く時にそれを何度もやっていた。高速道路で自転車が走っていたら、ドライバーはびっくりする。悪い夢でも見ているようだ。
 今なら携帯で直ぐに通報されるだろう。当時も道路公団は、謎の自転車男を取っ捕まえようと網を張ったが、つかまる前にバイトが終わり、通らなくなった。

 自分は中高一緒の私立だったが、クラスで学年の終わりに記念旅行が計画され、話し合いの結果サイクリングに決まった。げっ、サイクリング。まさか乗れない、とは言いだせず、当日は休むしかないな、と思っていたら中止になってホっとした。
 
 子供達が生まれ、休日に車でプチドライブ。サイクリングコースで貸し自転車を走らせた。車道と離れているから走りやすく、気持ちがよい。そこで何度目か遊んでいたら、水たまりがあり、そこに自転車が突っ込んだ。あれっと思う間に車輪が滑り、見事に横倒しになった。悪いことに足首が自転車の下になり、そこに体重がかかった。アツっ足首がみるみるダンゴのようにまんまるに膨れ上がった。
 骨折、脱臼で10日間ほど入院した。脱臼を治す時は痛かった。先生が足先を抱えて、思いっ切り引っ張って定位置に戻す。しかも一回目は失敗して数日後に繰り返した。ギュっと引っ張ってグリグリと押し込む。成功した2回目の方がまだましだったが、あれほど痛くて気持ちの悪い思いはもう嫌だ。それでサイクリングは終了。その後何年も自転車には乗らなかった。

 それが40代になってまた乗り始めた。最初は自信が無かったよ。浅草花やしきの販売促進係長(課長不在)になった。園貸し、ホール貸し、団体誘致、取材対応、イベント企画、広告・宣伝等々が本業なのだが、何でも屋だった。
 影の園長、主(ぬし)のような経理のバアさんに当初は敵視され、こき使われた。午前中の銀行(売り上げの納入、各種振込み、両替)廻りによく行かされた。浅草の街に自転車はよく似合う。車が入らない通りが何本もあるんだ。花やしきから駅前まで、一度も車道を通らなくて行ける。仲見世も通らない。何通りも経路があるので楽しい。

 正月明けでは売り上げが溜り、1千万円を超える現金を運んだ。その後影の園長とは仲良くなったが、やがて彼女も辞め、経営者は代わり、会社は無くなった。その後自転車に乗らない生活が続いている。


ラオスの娘

2018年02月12日 12時46分59秒 | エッセイ
ラオスの娘

 ラオスの娘は、対照的な2パターンに分かれる。

 多数派のラオ人の娘は、呆れるほどの恥ずかしがり屋さんだ。視線を向けただけで、どうしましょうとアタフタクネクネ、身も世もなく顔を赤らめ、隠れる所を探す。で隠れちゃう。
 隠れ場所から興味深々で異国人を見つめる。視線が合うとさっと隠れる。アノネ、君が身に着けているその巻きスカートは、足こそ出ないがヒップラインはピチピチで、結構色っぽい。恥ずかしいのはそのせいかな。プチポッチャリ、ホッペ福福タイプが多い。しゃべり方もおっとり、動きもゆっくり。

 一方モン族に代表される山岳民族の娘は、全く物怖じしない。顔はきりっとした美人が多く、こちらが照れるほど真っ直ぐに視線を合わせ、ハッキリと低音で話す。モン族は勇敢な戦士で精悍な顔立ちのハンサムが多く、ラオス軍は内戦時、政府軍も反政府軍も精鋭部隊は常にモン族だった。モンの中にも様々な部族がいて、仲が悪かったりするのだ。
 そんなモン族の戦士も、女(母・妻・姉等々)には全く頭が上がらない。母系社会で、内も外も完璧に女が牛耳っている。モン族は頭がよい。ラオスの大学では、1~3番は少数派のモンかリス・アカといった山岳民族が占めるのが常らしい。
 ところがモンの女からすると、男が子供にみえて仕方がないらしい。もういい、あたしに任せな。ラオスの旧都ルアンパバーンの夜市は、様々な山岳民族がそれぞれ伝統的な図柄の布地やバックを持ち寄って、ランプの灯りの下で一坪店舗を開いているが、店主は全員女性だ。中には10代と思える娘さんがいて、実に堂々と外国人と渡り合う。搬入・搬出といった力仕事だけが男の仕事なんだろう。

 ルアンパバーンから車で5-6時間、山道を北上し更に細長い乗り合いボートでメコンの支流を1時間ちょっと遡った所にある小さな村。川からでないと行けない(山の中を行けたとしても不発弾が恐い)この村は、川の桟橋から長い階段を登り切った高台にある。台地の上に街がり、寺があって畑が広がる。田畑の向こうは山だ。
 娘の名前をとったニンニンハウスには、川に張り出したテラスがある。川面から30mといったところか。川の両岸は切り立った山で、谷底を流れる川は、所々狭くなり流れが速くなる。テラスには蚊やハエはいず、朝夕は上に一枚着ないとちょっと寒い。ここから見る夕陽は、悲しいほどに美しい。陽が刻々と落ちるにつれて、山の緑が順々と闇に覆われる。西の空にはまだオレンジ色が残っていても、桟橋の辺りは暗くてもうよく見えない。そうして星が一つ、また一つと現れる。
 
 ニンニンハウスのバンガローは自家発電だから、電気の流れる時間は限られている。ここのオーナーは、凛々しい美人奥さんで、やさしそうな旦那は厨房で調理をしたり、重い物を運んだりしている。ニンニンは小学校4年生くらいか。中国人のようにも見える小娘で、特に美少女ということもないが、物怖じしない活発な子だ。我々オジさんに朝食のパンやコーヒーを運んできて、拙い英語であれこれと話しかけてくる。面白い娘だなー、気を抜くとやり込められる。
 夜になり、ニンニンの友達(元気な女の子二人)が遊びに来た。親父さんに許可を取り、彼女達に花火をあげると、ろくにアリガトも言わずに歓声をあげ、夢中になって3人で遊び始めた。

 花火と言えば、南ラオスでは宿の主人に話して、夕方近所の子供達を集めてもらった。ホテルはメコン本流の川中島にある。人口数千人の大きな島だ。橋はないので、イカダに船外機を取り付けたようなフェリーで渡る。島には学校と寺があり、田畑が一面に広がっているから、子供たちは近所の農家から来たんだろう。
 チビ共が20人ほど集まった。水を入れたバケツを用意し、川に張り出した大きな木のテラスで花火大会が始まった。100円shopで用意した風船を次々に膨らませて子供に渡す。アメもたっぷりあるよ。
 暗くなったメコン川岸は、子供たちの笑い声とシューシューいう花火の音と光で盛り上がってきた。何事かとネコも行儀よく遠巻きに見入る。「動かしちゃダメ、線香花火はじっと待つんだって。」大人は遠くから見つめるだけで、終始仕切っているのは、赤ちゃんを抱いた12歳くらいの少女だ。この娘がチビ共を見て、火を他の子に向けないように、終わった花火は水バケツに入れるようにテキパキと指示する。チビ共は彼女の言いつけを守る。彼女がいる限り、チビ連は安全だ。
 一通り見渡して、娘は合間を見て自分も花火に手を出した。花火に照らされた娘の笑顔、その腕に抱かれた赤ちゃんのキャッキャッ笑う声。
 あれだね、隣りのトトロで病気のお母さんに代わって妹メイの面倒を見る、しっかり者の五月が、素に戻ってトトロの腹に飛びつくシーン。あれを思い起させる。花火が終わると、チビ軍団は、娘に統率されて去った。

 あのラオス旅行から5-6年経った。ニンニンは17-18歳に成長して、お母さんの右腕になっているだろう。やさしいお父さんは、妻と娘からポンポン言われているんじゃないかな。
 メコン支流の上流部は、結構冷たい水だった。川岸では女も男もいつも誰かが洗濯をしている。石鹸をふんだんに使って直接川の水で洗っているが、その程度の汚染は、人の営みとして愛おしいくらいだ。何しろメコン本流も支流も川岸には、看板の類いは一切なく人工的なゴミは全く浮いていない。
 洗濯の横では、水浴びをしている。陽のある内に浴びないと寒い。女性は服の中に石鹸を突っ込んで器用に洗う。10歳くらいの髪の長い少女が腰まで川に入り、石鹸(シャンプー?)をつけて髪を洗う。夕陽の迫る中で、洗った髪を首を傾けて絞りながら、少女は川から上がる。俺は相棒に言った。「女の子が髪を洗っているね。(何かいいね)」「うん、うらやましいな、チクショー」クリリン頭の相棒は答えた。

 最後に、自分のラオス初体験は25歳。タイ・カンボジア国境での井戸掘りが、中途半端な状態で終わってしまった。その後、タイ北部のチェンマイ、その北にあるチェンライ、そこから更に北上してちょっと涼しいような山岳地帯にある、山岳民族の難民キャンプに移動した。そこで自動車整備の学校の設立準備(まずは教材の翻訳)に携わったのだが、カンボジアとはずいぶん勝手が違った。
 北の方を眺めると、山また山で、国境がどこなのか分からない。国境の向こうで戦闘が行われている気配はなく、タイの兵隊もほとんど見ない。難民キャンプはどこまでがキャンプか、元からある村なのか、境界線がよく分からない。
 山岳民族の女性の民族衣装は、黒を基調に赤や黄の原色を大胆に品よく使って美しい。娘も婆さんも同じ衣装だ。部族ごとに文様が違い、特に被り物が独特なので、一目で何族か分かるそうだ。
 彼女たちは、野菜を洗ったり切ったり、刺繍をしたり洗濯したりと忙しい。男たちは狩や農作業が出来ず、暇を持て余している。山羊や水牛の解体では、輪になってテキパキと手際の良さを見せるが、普段はキャンプ内をブラブラして闘鶏で盛り上がる。
 タイ・カンボジア国境のクメール人難民村と比べると、何という緊張感の無さ。物資もさほど不足しているようには見えない。古着も援助団体から豊富に入ってくるようで、周辺のタイ人よりも明らかに良いものを着ている。
 ガクランを着たおじいさん。ボタンを首まできっちりと留めてパイプをくゆらす。メッチャ似合っている。山岳民族には、詰襟がよく似合う。キャンプの前に屋根付きの、そこそこ大きな市場があった。市場の前、キャンプの脇に掘っ立て小屋のような飯屋があり、そこで若い娘が働いていた。
 彼女はポニーテール、色の褪せた巻きスカートにTシャツ、身長は160cmくらい。この娘が飛び切り可愛いらしかった。目がパッチリ、ふっくらホッペに目の覚めるような笑顔。でも恥ずかしがりで、目が合うとニコっとして直ぐにいなくなる。
 で、彼女が喋っているのを一度だけ聞いた。ビックリした。すっごい高音なんだ。小鳥が人間の言葉を喋っているような心地よさ。きれいな音が頭の上からパラパラと降ってくるようだ。いいなー、あの娘を嫁にして、ここに住むのも悪くない。膝枕で近所の噂話を、あの天使の声で聞きながら、うんうんと言ってうたた寝をしたら天国だ。

 その時の印象から、<ラオスの娘は可愛い>が刷り込まれた。しかし今考えると、あの娘はタイ人だったんだろう。まあラオ人とタイ人は同じシャム族だから、あまり違わないけどね。色が白かったから、山岳民族の血が混ざっていたのかもね。