白人のミイラ
現在は中国領、シルクロードの通っていたタリム盆地に、古代白人の一団が住んでいた。欧州人としか見えないミイラが多数発見されていた。ミイラそのものなのだから、これほどあからさまな物証は他にはない。中国政府はこれらのミイラの発見を最近まで故意に隠ぺいしていた。地方の博物館の倉庫に仕舞い込んでいた。古代に中国領の一角で白人が生活していたことを知られたくなかったのだ。タリム盆地は生活環境の厳しい所だ。豊かに作物が実るような土地ではない。寒暖の差が一日の間でも大きく、冬の寒さは厳しく零下34℃にまで下がる。現在はタクラマカン砂漠だが、古代は氷河期の氷が溶けきらずに、少しずつ雪解け水となって流れていたようだ。しかし水に乏しいことには変わりがない。ただ東西の隊商の交易路になっていた。
そういえばアジアの奥地、中央部に聖(セント)ジョンという名の王の率いるキリスト教国がある、という伝説はヨーロッパに根強くあったらしい。十字軍の時にイスラム教国を挟み撃ちにしようと模索したし、時代は下ってナチスドイツはアーリア人の祖先を捜索してチベットにまで探検隊を送っている。
タリム盆地の欧州系と見られるミイラ(一目見たら誰でもそう思う。)の中で、ひときわ保存の良い、族長かと思われる中年男性のミイラは、オランダ人?と思う。ミイラのDNAを苦労して抽出し、各地域の民族と比較をした。また副葬品、特に保存の良い布類の材質と模様の研究を行った。一年以上かけて調査を行った結果、彼らの祖先は欧州系とアジア系の混血であることが分かった。アジア系(モンゴロイド)の血は中国北方やバイカル湖周辺から来ていた。
小河墓地と名付けられたこの地域で164体のミイラが発掘された。これらのミイラ、いったいいつの時代のものかというと紀元前2千年、今から4千年も前のものだった。中国4千年というが、伝説かと思われた殷の遺跡が現実に発掘されその存在が実証された。その殷の前の神話のような夏王朝の時代だ。日本は縄文時代中期で、火焔式の土器を作り貫頭衣を着てドングリを拾っていた。
紀元前2千年、ミノア文明が地中海で産声をあげ、西アジアではヒッタイトが活躍を始めた。インダス文明はすでに前2,600年から栄えている。エジプトは凄い。前3,800年にビール、前3,500年にワインの生産を始め、前3,300年に文字(ヒエログリフ)と太陽暦を使い始め、前2,650年には最初の階段式ピラミッドの建設を始めている。この古さは衝撃的だ。
タリム盆地(タクラマカン砂漠)のミイラは、木製の棺に納められ何枚か重ね着をして丁重に葬られていた。死者への敬意と深い哀悼の意志が伝わってくる。たとえ考古学者でも、神聖な墓をあばいて良いのかな。小さな子供のミイラは沢山の布でくるまれ、親の痛切な悲しみと、幼くして亡くなった我が子への限りない愛情が、4千年の時を超えて胸を打つ。
元々この人達は、ミイラになることを想定して死者を葬った訳ではない。たまたま極度に乾燥した気候と、冬季の厳しい寒さによって急速に体の水分を失い、遺体がミイラ化したに過ぎない。それにしても木材や布地が4千年も残った例は、世界を見廻しても少ない。さまよえる湖、ロプ・ノールは時代によってその所在を移し、現在では干上がってしまった。この民族は長い年月タリム盆地で暮らしていたのだから、他にもたくさんの墓はあっただろうが、ロプ・ノールの湖底に消えていったものもあったことだろう。
この人達は中国の史料に出てくる吐火羅(トカラorトハラ)人に相当するようだ。吐火羅は文字(トハラ語)を持つ知性の高い人達だった。農耕と放牧だけでなく、交易の民で商人であったに違いない。吐火羅は後に大夏国を作った人達だ。大夏は大月氏に滅ぼされたが、文化的には大月氏もトハラ語を使っていたんじゃないかな。漢代、大月氏との連合(対匈奴)を目指して張騫が困難な旅をした頃(前129年)の、西域南道(タクラマカン砂漠の南側)沿いのオアシス国家群にはトハラ語を話す人達が多かった。このようにヨーロッパ人風の顔をした人々だったのだろうか。東晋の法顕(西暦337-422)、唐の玄奘三蔵(602-664)、それらの旅人の記述から、彼らが敬虔な仏教徒であったことが分かる。7世紀にイスラムが入ってくるまではだ。
現在、あからさまに欧州人のような顔を持つ民族はこの地域にはいない。吐火羅の血は、ウイグル系、トルコ系、チベット系、モンゴル系、漢民族系、様々な民族と混血をして薄まっていったのか。
それにしても古代の交易路は想像以上に発達していたようだ。東西だけではなく、南北の方向にもだ。遺体を包む布地の文様には印度の影響が見て取れる。人の住む所に道あり。道あらば旅せん。山の彼方、海の果て、砂漠の蜃気楼の先へ。
現在は中国領、シルクロードの通っていたタリム盆地に、古代白人の一団が住んでいた。欧州人としか見えないミイラが多数発見されていた。ミイラそのものなのだから、これほどあからさまな物証は他にはない。中国政府はこれらのミイラの発見を最近まで故意に隠ぺいしていた。地方の博物館の倉庫に仕舞い込んでいた。古代に中国領の一角で白人が生活していたことを知られたくなかったのだ。タリム盆地は生活環境の厳しい所だ。豊かに作物が実るような土地ではない。寒暖の差が一日の間でも大きく、冬の寒さは厳しく零下34℃にまで下がる。現在はタクラマカン砂漠だが、古代は氷河期の氷が溶けきらずに、少しずつ雪解け水となって流れていたようだ。しかし水に乏しいことには変わりがない。ただ東西の隊商の交易路になっていた。
そういえばアジアの奥地、中央部に聖(セント)ジョンという名の王の率いるキリスト教国がある、という伝説はヨーロッパに根強くあったらしい。十字軍の時にイスラム教国を挟み撃ちにしようと模索したし、時代は下ってナチスドイツはアーリア人の祖先を捜索してチベットにまで探検隊を送っている。
タリム盆地の欧州系と見られるミイラ(一目見たら誰でもそう思う。)の中で、ひときわ保存の良い、族長かと思われる中年男性のミイラは、オランダ人?と思う。ミイラのDNAを苦労して抽出し、各地域の民族と比較をした。また副葬品、特に保存の良い布類の材質と模様の研究を行った。一年以上かけて調査を行った結果、彼らの祖先は欧州系とアジア系の混血であることが分かった。アジア系(モンゴロイド)の血は中国北方やバイカル湖周辺から来ていた。
小河墓地と名付けられたこの地域で164体のミイラが発掘された。これらのミイラ、いったいいつの時代のものかというと紀元前2千年、今から4千年も前のものだった。中国4千年というが、伝説かと思われた殷の遺跡が現実に発掘されその存在が実証された。その殷の前の神話のような夏王朝の時代だ。日本は縄文時代中期で、火焔式の土器を作り貫頭衣を着てドングリを拾っていた。
紀元前2千年、ミノア文明が地中海で産声をあげ、西アジアではヒッタイトが活躍を始めた。インダス文明はすでに前2,600年から栄えている。エジプトは凄い。前3,800年にビール、前3,500年にワインの生産を始め、前3,300年に文字(ヒエログリフ)と太陽暦を使い始め、前2,650年には最初の階段式ピラミッドの建設を始めている。この古さは衝撃的だ。
タリム盆地(タクラマカン砂漠)のミイラは、木製の棺に納められ何枚か重ね着をして丁重に葬られていた。死者への敬意と深い哀悼の意志が伝わってくる。たとえ考古学者でも、神聖な墓をあばいて良いのかな。小さな子供のミイラは沢山の布でくるまれ、親の痛切な悲しみと、幼くして亡くなった我が子への限りない愛情が、4千年の時を超えて胸を打つ。
元々この人達は、ミイラになることを想定して死者を葬った訳ではない。たまたま極度に乾燥した気候と、冬季の厳しい寒さによって急速に体の水分を失い、遺体がミイラ化したに過ぎない。それにしても木材や布地が4千年も残った例は、世界を見廻しても少ない。さまよえる湖、ロプ・ノールは時代によってその所在を移し、現在では干上がってしまった。この民族は長い年月タリム盆地で暮らしていたのだから、他にもたくさんの墓はあっただろうが、ロプ・ノールの湖底に消えていったものもあったことだろう。
この人達は中国の史料に出てくる吐火羅(トカラorトハラ)人に相当するようだ。吐火羅は文字(トハラ語)を持つ知性の高い人達だった。農耕と放牧だけでなく、交易の民で商人であったに違いない。吐火羅は後に大夏国を作った人達だ。大夏は大月氏に滅ぼされたが、文化的には大月氏もトハラ語を使っていたんじゃないかな。漢代、大月氏との連合(対匈奴)を目指して張騫が困難な旅をした頃(前129年)の、西域南道(タクラマカン砂漠の南側)沿いのオアシス国家群にはトハラ語を話す人達が多かった。このようにヨーロッパ人風の顔をした人々だったのだろうか。東晋の法顕(西暦337-422)、唐の玄奘三蔵(602-664)、それらの旅人の記述から、彼らが敬虔な仏教徒であったことが分かる。7世紀にイスラムが入ってくるまではだ。
現在、あからさまに欧州人のような顔を持つ民族はこの地域にはいない。吐火羅の血は、ウイグル系、トルコ系、チベット系、モンゴル系、漢民族系、様々な民族と混血をして薄まっていったのか。
それにしても古代の交易路は想像以上に発達していたようだ。東西だけではなく、南北の方向にもだ。遺体を包む布地の文様には印度の影響が見て取れる。人の住む所に道あり。道あらば旅せん。山の彼方、海の果て、砂漠の蜃気楼の先へ。