旅とエッセイ 胡蝶の夢

ヤンゴン在住。ミラクルワールド、ミャンマーの魅力を発信します。

今は、横浜で引きこもり。

コサック

2016年04月30日 12時18分24秒 | エッセイ
コサック

 そう、今回はコサックダンスのコサック。コサックと聞いてみんな何が頭に浮かぶ?コサックダンスとか言うなよ。大きな筒型の毛皮帽をかぶりベルトに曲がった大きなサーベル、ブーツを履いて口髭、馬に乗って銃を放ち、突然襲ってきては素早く立ち去る。モスクワを厳冬期に撤退したナポレオン軍にしつこく付きまとい、隙を見ては掠奪を繰り返す。恐るべき敵で、その戦闘能力の高さには目を見張らざるを得ない。
 しかしコサック兵、コサック騎兵とは言うが、コサック人やコサック語とは聞かない。楼蘭やその他の多くの遺跡を発見し、トランスヒマラヤ山脈の名付け親、いくつかの大河の源流を突き止めたスウェーデンの探検家、スヴェン・ヘディン氏の交友録を読んでいて??
 ロシア最後の皇帝ニコライ2世は政治を度外視してヘディンに好意を寄せた。ヘディンが第二回中央アジア探検に出発する際、ニコライ2世に挨拶に行くと彼は探検の費用の一切を持ち、コサック兵25名を護衛として貸してくれるという。探検の成果は全く条件にしていない。ヘディンは仰天した。中立国スウェーデンの学者として、刻々と変わるアジア情勢の中イギリス、中国、ロシアの危うい均衡を縫って旅するヘディンにとっては有難迷惑以外の何物でもない。コサックの正規兵を25名引き連れてロシアの代表のような度をしてはインド、アフガニスタン、後にはチベットに勢力を持つイギリスを敵に廻すことになる。しかしニコライ2世の好意を無視は出来ないと考え、ヘディンは4人だけコサック兵を借りることにした。彼らは数年間ヘディンと旅するが、実に優秀な従者となる。そのコサック兵のうち2人はロシア系、2人はモンゴル系だったという。ってどういうこと、コサックって民族の名称ではないの?違うんだな、コサックはウクライナと南ロシアなどに生活していた軍事共同体、またはその一員のことだ。
 自分は漠然とカザフスタンのカザフ人の事かな、と思っていたがこれは間違い。「Cossack」の語源に定説は無いが、有力な説としてウクライナ語のコザークはクリミア・タタール語(トルコ語の親戚)のカザークに由来し、「自由人」「冒険家」「放浪者」(又は「番人」「盗賊」「傭兵」)を意味するそうだ。凄い、番人を除いてどれも素敵だ。

*ニコライ2世:この人、アレクサンドル2世の息子で母はデンマークの王女です。母方の家系でドイツのヴィルヘルム2世とイギリス国王ジョージ5世とは従兄弟になる。ジョージ5世とは入れ替わっても分からないほどよく似ていたそうです。アレクサンドル2世の母親はドイツ人だから、ニコライ2世には少なくとも1/4しかロシア人の血は入っていない事になるな。彼の妃がまたドイツ人(プロイセン)貴族の娘だから、子のロシア人率は多くても1/8になってしまう。宮廷内の会話はフランス語だというし、これではまるでロシア人であることを恥じているかのようだ。

 コサックの起源については良く分かっていない。15世紀も後半になってからコサックはウクライナの中南部の「荒野」と呼ばれる草原地帯で発祥し、ドニプロ川の中流ザポロージャ地方に根拠地を置いた。そして16世紀になってコサックの一部はドン川下流に移住した。初期のコサックは、没落した欧州諸国の貴族と遊牧民の盗賊によって構成され、河川が豊かな土地を有する自治共同体を編成し、黒海・アゾフ海の北岸地帯で掠奪行為を行い、東欧においてはキリスト教徒(ロシア正教)としてイスラムの諸勢力と戦った。
 やがてコサックは大きく2つの軍事的共同体に分かれる。ザポロージャ・コサックを中心としてドナウ・コサック、クバーニ・コサックを併せたウクライナ・コサックと、ウクライナ人・南ロシア人やタタール人(モンゴル系)などによって構成されたドン・コサックだ。ウクライナ・コサックのモットーは「自由と平等」。16-17世紀には神聖ローマ帝国とフランス王国の傭兵としてヨーロッパでの戦争に活躍する。1708年の大北方戦争ではスウェーデンと同盟を結び、ロシアに激しく抵抗するが敗れ解体された。一部は黒海方面、トルコ領、カフカース方面に遁れるが多くは農民に戻った。(と簡単には言えない。多くの方面のコサックはその後も独自に活躍している。)
 一方、ドン・コサック軍はさんざんロシアに対し反乱を繰り返したが、17世紀半ばにロシア帝国の国力増強に伴って独立を失い、19-20世紀にかけてロシア最大の非正規軍となった。ロシアにおけるコサックは、貴族・聖職者・農民・商人と並ぶ階級の一つとなり、税金の免除と引き換えに騎兵としての兵役の義務が課され、ロシアの行ったどの戦争でも戦っている。
 1917年にロシア革命が勃発してロシア内戦が始まると、ウクライナ、ドン、クバーニにおいてコサック三国が独立を宣言する。特にドン・コサック軍は150万人の兵力を持ち、反革命の白軍中最大の勢力となり、赤軍に大きな損害を与えたが敗北しトルコに亡命する。その後は帰国したりアメリカに移住する者が多かった。赤軍の手によって人口440万人の70%に当たる308万人が戦闘・処刑・流刑で死に、残りはスターリンが始末した。帝国時代、情け容赦なく革命勢力を蹴散らし暴動を鎮圧したコサックは、ボリシェビキから恨まれていただろう。そして自由を標榜し自らの判断で行動するなど、スターリンにとっては悪魔の所業だったのだ。
 そのため第二次世界大戦においてコサックの残党の多くは、ドイツ軍に味方してソ連軍と戦ったが敗戦。戦後コサックは共同体としては消滅した。しかし1991年にソ連が崩壊し、ウクライナとロシアにおいてコサックの復帰の動きが見られる。
なお日露戦争に極東駐在のコサック諸軍が動員された。コサックの騎兵は優秀だったが、ロシア軍の司令官の用兵のまずさからその能力を活かすことが出来なかった。コサックの一部は旅順防衛戦に参加し、二百三高地の防衛で活躍した。日本軍を苦しめたコンドラチェンコ中将はウクライナ・コサックの家系である。
 まあ機関銃と大砲、飛行機の活躍する時代になっては騎兵隊の出番はない。コサックの活躍を見ていると、オスマン帝国の皇帝親衛隊イェニチェリを思い浮かべるが、イェニチェリは世襲しないしコサックの方が規模はでかい。敵にすれば恐ろしく、味方にすれば実に頼もしい連中だ。

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ファランクス

2016年04月28日 05時48分59秒 | エッセイ
ファランクス

 古代ギリシャ、アテナイの市民兵は我に10倍するペルシャの遠征軍をマラトンの野で打ち破った。マケドニアの若き王アレキサンダーは東に遠征して、常に敵よりも少ない兵力で連戦連勝、世界の半分を手中にした。彼らは専制国家の大軍勢を前にしても委縮しない。勝てる!という確信に近いものが彼らにあったとすると、それは、その根拠はこれに違いない、ファランクス。重装歩兵による密集陣形のことだ。
 もっとも古いファランクス、もしくはそれに似た隊形は、紀元前2,500年ほどの南メソポタミアで確認出来るという。鎧かぶとを着用した重装歩兵が、左手に円形の大楯、右手に槍を装備し、露出した右半身を右隣の兵士の楯に隠して通例縦8列、特に打撃力を必要とする場合はその倍の縦深を配置した。戦闘体験の少ない兵は中央部に配し、ベテラン兵を最前列と最後列に配置する。特に楯による防御が無い最右翼列には精強な兵を配した。後には右翼の防御として、軽装歩兵隊を配して防衛した。
 戦闘に入ると100人前後の集団が密集して固まり、楯の隙間から槍を突き出して攻撃する。また後方の兵の槍で、敵の矢や投げ槍を払い除ける。ファランクスは縦深の方が楯での押し合いに有利で、消耗しても隊形を維持して持ちこたえることが出来る。ファランクスの正面突破力と破壊力は凄まじく、いかに勇者でも、個人個人で突っ込んでいっても歯がたたない。しかしファランクスに機動力は全くなく、側面と後方からの攻撃にはもろい。
 ファンクル同士の激突では斜め陣を採用したり、片側だけを極端に厚くし他はごく薄くして、しかも少しずらして衝突までの時間を遅らせる。分厚い部隊で敵陣を強引に押しこみ、敵陣の後方に廻る等といった作戦が功をなした。平坦で広がった土地では、正面しか見えないので後方の配備は分からないのだ。
 ところで戦闘中に列の前後は交替するのだろうか。古代ギリシャの市民兵は一列並んで戦死するのが名誉だったというが、交替無しでは8列の内、前から数列は勝っても負けても戦死の可能性が高い。最前列は十中八九戦死だな。逆に後ろの連中は歩いているだけで、敵と直接遭遇しないんじゃないか。
 さてファランクスは楯を小型にして腕に装着したり、首に紐でかけるようにし、槍を長くして両手で扱うように改良された。マケドニアの重歩兵の持つ槍はついに6mに達した。これでは両手で持っても限界の長さだ。日本の戦国時代でも足軽兵団の持つ槍はしだいに長くなり、斉藤道三や織田信長の槍は5.5mになった。突くより上から叩きつけて使った。集団で槍ぶすまを作れば効果は大きい。特に相手の槍が届かないアウトレンジからの攻撃は、弱兵でも嵩にかかって攻められる。しかし横から攻められたら長い槍が足かせになってお手上げだ。
 ファランクスは、最終的に最も進化したマケドニア式ファランクス同士の戦いになった。槍を更に長くしたり、鎧を重装備にしたりして相手より優位に立とうとしたが、その結果機動力は更に失われ兵は立っているだけでも疲れ、長く戦うことが出来なくなった。そしてローマ軍団の散開白兵戦術に敗れる。ファランクスは時代遅れになった。
 強力な貫通力を持つクロスボウや、密集して上から撃ち下ろす長弓隊の出現を待つまでもなかった。破壊力と防御を重視し過ぎた為、使い物にならなかった(鈍重で出力が不足してまともに動かない)ドイツの重戦車マウス(陸上戦艦をコンセプトにポルシェ博士が設計)や、ソ連の重戦車スターリンのような失敗を紀元前にやっている。
 だいたいファランクスは開けた平坦地でないと機能しない。傾斜地や泥炭地、障害物の多い地形ではうまく戦えないのだ。しかし敵が10倍いようと固まりで進み正面の敵を効率よく殺傷していく。ファランクスが個人個人で戦う東洋の専制国家の軍隊に対して、圧倒的な優位を発揮したことは間違いない。

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ダライ・ラマの転生

2016年04月22日 18時14分52秒 | エッセイ
ダライ・ラマの転生

 ダライ・ラマ14世、お顔は知っているでしょう。TVに出て頭の上に左右の人差し指を立てて、「私が悪魔に見えますか?」
ダライ・ラマはチベット仏教ゲルク派の高位のラマで、最上位クラスに位置する化身ラマ。「ダライ」は大海を意味するモンゴル語で、「ラマ」は師を意味するチベット語だ。800年に渡ってチベットの元首の地位を保有し、宗教指導者であるだけでなく君主の立場を兼ね備えたダライ・ラマは、観音菩薩の生まれ変わりとされている。
 観音様が妻帯する訳にはいかねえ。んじゃあ亡くなられたら、次のダライ・ラマはどうするの?まあ知っている人は多いと思うけれどおさらいしよう。トュルク(化身ラマ)はダライ・ラマ一人ではない。チベット語にはリンボチェという言葉がある。傑出した仏教僧に与えられる尊称だが、全てのリンボチェがトュルクという訳ではない。
 化身ラマは、全ての衆生を涅槃に導き救い終わるまで、何度でもこの世に化身として生まれて来るとされる。チベットでは多くの高僧が化身ラマとみなされて尊崇されている。化身ラマが遷下(死亡)すると、その弟子が夢告げに基づいて転生者を捜索する。候補者の童子を見つけると何度もテストを行う。持ち物を4つ5つ並べて、その中に一つだけ入れておいた先代ラマの遺品を選ばせたり、前世の記憶を確認したり、癖や仕草を観察する。
 間違いないと認定したら、童子は化身ラマ名称を継承する。その後は成人するまで、僧として厳しい英才教育を受ける。先代ラマが亡くなってから、候補の童子が生まれる迄に、数カ月や一年のタイムラグがあってもかまわないが、亡くなる以前に生まれた子は候補にはならない。
 転生継承はチベット仏教に特有なものだが、生身の人間を仏陀・菩薩・過去の偉大な修行者などの化身として尊崇することは、大乗仏教においては特異なことではないそうだ。尊崇する対象を仏陀ただ一人とする上座部仏教においては考えられない。日本仏教において明治以前には、聖徳太子や親鸞は観音菩薩の化身、空海は大日如来、法然は勢至菩薩の化身とされていたそうだ。へー、そうなの。
 繰り返しになるがダライ・ラマが没すると、その遺言や遺体の状況、神降ろしによる託宣、聖なる湖ラモイ・ラツォの観察、夢占いや何らかの奇跡などを元に次のダライ・ラマが生まれる地方やいくつかの特徴が予言される。その場所に行って子供を探し、誕生時の特徴や幼少時の癖などを元にして、予言に合致する子供を候補者に選ぶ。その後候補者に様々な試験をするのは、他の化身ラマと同様だ。最終的に認定された転生者は、幼児期にして直ちに法王継承の儀式を受けるが、成人に達して(通例は18歳)「チベット王」として改めて即位を執り行い、そこで初めて政治的地位を持つ。その間は摂政が国家元首の地位と政務を代行する。
 長いチベットの歴史の中では、継承者の認定をめぐって対立が起き、複数の勢力が候補を擁立した事があった(ダライ・ラマ6世)。また9世から12世までのダライ・ラマはいずれも夭折し、親政を行うことはほとんど無かった。清朝はチベットに間接的に干渉したが、清皇族をはじめとする満州族にはチベット仏教に篤く帰依する者も多く、宗教的活動自体は保護を受ける面が強かった。
 チベットでは7~14世紀にかけてインドから直接、仏教を取り入れた。その後発祥地のインドで、イスラムの進攻に伴い絶えてしまった密教等がチベットに保存されることになった。サンスクリット語の原典からチベット語へ、原文を出来るだけ意訳せずにそのままチベット語に置き換える形で経典を翻訳したため、チベット語の経典は仏教研究において非常に重要な位置を占める。日本人禅僧の河口慧海や、多田等観、青木文教、寺本婉雅らの僧侶や仏教学者が危険を冒してもチベットに赴く価値はそこにある。忿怒尊(明王)や歓喜仏、忿怒形吉祥天等の奇抜な仏像がクローズアップされがちだが、インドで失われ、中国への伝播が途絶えてしまった古い大乗仏教の諸哲学が生きたまま残っているのがチベットなのだ。
 またモンゴルの諸ハーンは元朝の後継者として、チベット仏教の保護者となることで権威付けを図ったため現在でもダライ・ラマの影響力はモンゴルにおいて大きい。リチャード・ギアはチベット仏教に造詣が深いそうだ。キアヌ・リーブスは映画『リトル・ブッダ』にシッダールタ役で出演したが、本人も仏教徒だそうだ。この映画は見たことがあるが、主人公の少年が『スピード』の刑事だとは知らなかった。
 最後にパンチェン・ラマとの関係を記しておこう。パンチェン・ラマはダライ・ラマに次いで重要な化身ラマである。この二人の化身ラマの密接な関係を、チベットの人々は太陽と月になぞらえた。パンチェン・ラマは阿弥陀如来の化身とされ、ダライ・ラマに比肩する智慧を持つと考えられている。しかしパンチェン・ラマはダライ・ラマとは異なって、世俗的な政治権力は有していない。「パンチェン」とはサンスクリット語のパンディタ(学匠)とチベット語のチェンポ(偉大)の合成語である。
 1949年10月、青海省が中国共産党によって占領され1959年のチベット動乱、ラサ市民の蜂起を経てダライ・ラマ14世と政府は、チベットを脱出しインドに亡命するが、パンチェン・ラマ10世はチベット自治区に留まり、中共との協調を模索した。しかし1962年にチベット動乱に対する中共の過酷な措置を批判し、1964年から14年間投獄された。そして1989年に再度中国のチベット統治策の誤りを告発する演説を行い、その直後に急死した。随分骨のあるお人だ。
 パンチェン・ラマ10世の入寂を受けてダライ・ラマ14世と亡命政府は、転生者の探索を始めた。その際ダライ・ラマ14世は中国の協力を求めたが、中国はそれを拒否し後に探索関係者の高僧達を厳しく処罰した。ダライ・ラマ14世は密かにもたらされた報告に基づき、ニマという6歳の少年をパンチェン・ラマとして認定した。しかし中国は自分達で転生者を探索したとして、6歳のノルブ少年を11世として即位させた。2人のパンチェン・ラマが出来た訳だ。そしてダライ・ラマの承認を受けた方は拘束されて生きているのか分からない。
 ニマ少年とその両親は行方不明となった。当初中国は関わりを否定したが、何故か後に連行を認めた。少年は強制的な共産主義の洗脳教育を受けている、とも伝わるが現在に至るも生死不明である。代々パンチェン・ラマとダライ・ラマはお互いの転生者を認定する役割に大きな影響力を持つ。ダライ・ラマの転生者の認定についてパンチェン・ラマの存在が絶対不可欠ではないが、逆は不可欠な条件である。
 ダライ・ラマ14世もお年だ。自らの死後の転生について、更なる悲劇を避けるために800年の伝統を破って転生制度を止める事を検討されている。つらい結末になってしまった。

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白系ロシア人

2016年04月17日 14時41分08秒 | エッセイ
白系ロシア人

 分かっているようで、良く分からない。それでいながらもの悲しいような情感を呼び起こす、白系ロシア。白人系のロシア人の事でしょ、違います。白ロシアと呼ばれた現ベラルーシの事でもない。
 ここでいう白は共産主義=赤、に対する意味での白。ロシア革命とその後の内戦に於いて、レーニン率いるボリシェビキ(革命側)に対する、帝政(ロマノフ王朝)を支持して戦う軍人や旧貴族を「白軍」又は「白衛軍」と呼んだ。白衛軍は敗北して故国に居場所を失い、亡命を余議なくされた。たとえ革命に反対しなくてもソヴィエト政府から弾圧を受けた宗教者、特にロシア正教徒関係者やウクライナ系やポーランド系、ユダヤ人の国外亡命者は大勢いた。そのほとんどは欧州、トルコ、アメリカやオーストラリアへ向かったが、少数日本に亡命した。日本との関係で言えば、旧日本領の南樺太と満州国には多数の白系ロシア人がいた。ハルピン市は元々ロシア人によって建設された街だ。満州国には白系ロシア人を集めた部隊があった。
 ソヴィエトも崩壊した今、ロマノフ王朝など歴史の遥か彼方へ消えてしまったから、白系ロシアという言葉自体が死語になりつつある。最後のモヒカン族ならぬ、最後の白系ロシア人は消えつつある人達だ。今はロシア人、ウクライナ人、ユダヤ人、ベラルーシ人である。白も赤もない。しかしながら日本に来た少数の白系ロシアの人々は、意外な活躍を見せている。
 日本で有名な白系ロシア人とその子孫にはこんな人達がいるよ。元横綱の大鵬はお父さんが南樺太出身のウクライナ人。創生期のプロ野球で300勝を記録したスタルヒン、神戸の洋菓子店「モロゾフ」の創業者、同じく神戸の洋菓子メーカー「ゴンチャロフ」、ゲーム業界のタイトーの創業者ミハエル・コーガン、他には俳優、女優、バレリーナ、グラビアアイドル、ミュージシャン、ファッションモデル等演芸の世界で活躍する人が多い。田中真理、東山紀之、布袋寅泰、矢野顕子、ローラetc
 でも白系ロシア=美人、というのは半分正しく半分おかしい。白系であろうと赤系であろうと若いロシア人、ウクライナ人の女性には美人が多いのだよ。

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北極海の戦い

2016年04月14日 18時22分24秒 | エッセイ
北極海の戦い

 1941年8月というから独ソ戦が始まって2ヶ月後、英米はソ連と協定を結びソ連に莫大な物資を援助することにした。このままソ連がドイツに負けると、ドイツはヨーロッパの後方に穀倉地帯と油田を得て大戦は長期化する。連合軍、特にチャーチルにとってはコミュニストのソ連を援助することは苦渋の選択だったろう。しかしイタリア、ノルマンディーに上陸して西部戦線を築くまでは、北アフリカは別にしてドイツ第三帝国の軍勢を一手に引き受けて消耗戦を行っているのはソビエトなのだ。
 この援ソ物資は、大半はアメリカからだったが尋常な量ではない。特に車輛と航空機はソ連にとって重要だったはずだ。だがスターリンは当然だろう、と思っていたようだ。補給が滞ると独との単独講和をチラつかせて連合軍を恫喝した。援ソルートは主に3つあり、半分は太平洋ルート(アメリカ→ウラジオストックorナホトカ)、1/4はイラン経由で1/4は北極海を通るルートだ。この北極海を通るルートは最も戦場に近いので、ソ連にとっては一番有難い。しかしあくまで1/4の量だ。
 英国本国かアイスランドに商船を集結させて、船団を作りソ連のムルマンスクかアルハンゲリスクに向かう。英国からソ連に向かう船団をPQ、空荷で帰る船団をQPと呼んだ。船団はアメリカ製の車輛、戦車、分解した航空機、無線機などを運んだ。弾薬・砲弾を積み込んだ船は、一弾を浴びれば木端微塵に吹き飛ぶ。それでなくてもこの海域で海に投げ出されれば、低体温で5分ともたない。
 命がけでロシアの港にたどり着いた英国の船乗りを出迎えるロシア側の応対は横柄で素っ気ない。ロシアの駆逐艦も港近くで輸送船が攻撃を受けていても援護に出迎えることは少なく、英国の船員を憤慨させた。しかしロシア人が英国等の船乗りに冷淡な態度を取ったのも仕方がない。親しくしたら「外国のスパイ」として銃殺かシベリア送りにされかねない。冗談ではない。
 ヨーロッパの戦争が終わろうという頃、東からドイツを攻めるソビエト軍と西から来た米軍がエルベ川で歴史的な出会いをした。エルベの(平和への)誓いとか言って映画にもなっている。米軍兵士(パットンの戦車部隊先遣隊)は本国に凱旋し熱烈な歓迎を受けた。しかし米兵と抱き合ったウクライナ部隊の将校は処刑され、兵士は強制労働に廻されていた。堕落した資本主義に染まったからだという。
 さてこのPQ船団、占領したノルウェーから飛来する航空機とUボートに襲いかかられる。時には艦船による攻撃も行われた。輸送船は速力が遅い。潜行したUボートにも追い付かれてしまうから、狙われたらたまらない。そのため30~50隻の輸送船を集めて集団で護衛する方式を取った。しかしこの護送船団方式は航空機とUボートの攻撃には有効だが、水上艦船には逆効果だ。
 イギリス人は服装などにはえらく保守的な所があるが、戦争に於いては自由奔放、奇抜な発想をする。実用化はしなかったが、氷山を利用する氷の空母を考えたり、Uボートの魚雷がすり抜けるように中央部を凹字型にした輸送船を考えたりした。またノルマンディー上陸作戦を欺瞞するため、偽の英国将校にしたてた死体に別の上陸地を記した書類をつけて海に流したりもした。口を開かないドイツの高級将校の捕虜を一堂に集めて優遇し、彼等同士の内輪の会話を盗聴して情報を得たりもした。一方のドイツも情報戦では負けてはいないが、話しが脇道に逸れるので元に戻す。
 PQ船団には護衛として駆潜艇や潜水艦が数隻つくが、空からの攻撃には弱い。途中まで戦艦や空母が護衛する場合があるが、ある地点まで行くと引き返した。英軍としては貴重な空母を失う危険を冒したくはない。窮余の策として、大型輸送船にカタパルトを設置して、いよいよの時に戦闘機を打ち出した。回収は出来ないから、燃料が切れたら海上に不時着してパイロットだけを救出する。こんな苦肉の策でも、うまくいくとドイツ軍の爆撃機の攻撃を一回は逸らすことが出来る、かもしれない。反撃の手段をほとんど持たない輸送船の船乗りにとっては心強いものだ。
 元々ドイツ空軍は対艦攻撃が苦手だ。海上飛行も得意ではない。空軍であって、海軍の航空隊ではないのだ。また戦闘機も爆撃機も英独のものは航続距離が短い。もし日本軍のゼロ戦と陸攻隊がノルウェーに駐留していたら、このルートは使えなかっただろう。ただ日本軍は頭が古いから、輸送船相手の戦闘に価値を置かないが。
 PQ17の時、ノルウェーのフィヨルドにひそむドイツの戦艦ティルピッツが出航するという情報が入った。戦艦が来たら輸送船団は一溜まりもない。情報によればあと数時間でティルピッツと重巡洋艦2隻、付随する駆逐艦が船団を襲うという時、英国の護衛の空母と戦艦は予定の海域に達して引き返して行った。取り残された商船群はあっけに取られた。PQ17は船団を解除してバラバラになってソ連の港を目指すことになった。バラバラになれば、見落とされてたどり着けるものも出てくるかもしれない。ティルピッツは引き返した。分散した輸送船を追うのに戦艦はもったいない。数隻を沈めても、リスクに合わない。
 PQ17は33隻の商船、給油艦2隻、救難艦3隻、特設防空艦2隻で積み荷は297機の航空機、594輌の戦車、4,246輌のトラックや装甲車、および約16万トンの貨物を積んでいた。解散前からUボートにつきまとわられ、連日航空機とUボートによる攻撃を受けた。商船は次々に撃沈される。見つかったらお仕舞いだ。しかし英国の船乗りは不屈の闘志を見せた。流氷に紛れるようにペンキを取り出して船体を白く塗ったり、貨物の戦車の機関銃を外して航空機を狙い撃ったりした。
 船団はいくつかの小グループに分かれてアルハンゲリスクを目指した。単艦になってずっと北寄りの航路を取り、2週間も余分にかかってソ連の港にたどりついた商船もあった。結局Uボートと航空機によるなぶり殺しを遁れてアルハンゲリスクやムルマンスクにたどり着いた商船はそれでも11隻いた。          PQ17船団は総計で22隻の商船と153名の船員を失い、積み荷では430輌の戦車、210機の航空機、3,350輌の車輛、そしておよそ10万トンの物資を失った。ドイツ側の損害は航空機5機のみであった。
 スターリンは、受け取る援助物資が激減したことに強硬な抗議を行い、引き続き船団のを送るように要求した。しかしPQ17の直前に運行したPQ16では7隻の商船が沈められている。スターリンの猛抗議に屈して強行したPQ18では、護衛空母を含む50隻を超える艦船によるハリネズミのような護衛にも係わらず、多数のドイツ機の撃墜と3隻のUボートの撃沈と引き換えに、12隻の商船と1隻の給油艦を失い、しばらく船団の派遣を延期せざるを得なくなった。

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