旅とエッセイ 胡蝶の夢

ヤンゴン在住。ミラクルワールド、ミャンマーの魅力を発信します。

今は、横浜で引きこもり。

沖縄の空手   

2016年11月21日 17時07分48秒 | エッセイ
沖縄の空手   

 学生の時、空手を習っていて不思議に思ったことがある。空手の突き、パンチはどうしてこうも直線的で不自由な形なんだろう。このパンチは素手で拳を使う場合は効果があるが、もしグローブを嵌めたら全く効かない。フックやアッパーは相手の死角を突いて有効だし、動きも自然だ。何故空手はこうも窮屈なのか。
 前に出した脚を直角に曲げ、後ろ足の膝をビシっと伸ばした姿勢から正確にバシっと繰り出す前蹴りは、届く距離が長く破壊力は抜群だ。正しい距離で当れば内臓破裂は間違いない。ところが格闘技の試合、キックボクシングでもK1でも前蹴りは使われない。使ってもせいぜい距離を取るためだけだ。まあ見ていれば分かる。あのように両者の重心が高く、立って動いている状態では前蹴りは効かない。足刀を使う横蹴りも同様だ。やはり廻し蹴りか後ろ廻し蹴り、接近戦ではひざ蹴りになるのはよく分かる。
 だいたい前蹴りは、足の指をグっと反って親指の付け根を相手の下腹部(まれにアゴ)に当てる。では靴を履いていたらどうするんだ。靴の中では指を反らすことが出来ない。カンフーシューズなら布製なので、かなり自由に指が反るがいつも履いている訳にはいかない。自分は茶帯の時の試合で前蹴りを上から払われて足の親指を骨折した。しっかりと指を反らせていたのに。
 沖縄の古流の空手には、蹴りは前蹴りしかないそうだ。突きは拳を顔面又は腹部に当てる訳だが、六尺棒を持って繰り出す形と突きは同じ形だそうだ。つまりは刀を持った相手を想定しているのだ。一瞬の真剣勝負を考えている。毛ほども遅れたら、真っ二つにされる。よって最大限のダメージを与えることに何のためらいもない。そのため拳を巻き藁等固い物に当てて鍛える。人間の顔は骨に貼り付いているので、意外と固い。中途半端に当てたり、角度がずれたりしたら、指や手首を痛めたり骨折する恐れがある。
 古流の空手の型は一見、大げさなほど足を大きく開いて腰をグっと落としている。不自然に見えるが、あれが実戦的なんだ。相手は刀を蜻蛉に構えている。勝負は一撃、一瞬だ。刀を振り下ろしてくる敵に廻し蹴りや廻すパンチはあり得ない。間に合わないし届かない。一瞬早く当てるには飛び込んでの上段(顔面)突きか、電光石火の前蹴りしかない。相手は刀だ。間合いは遠い。
 しかし敵が上段から刀を振り下ろすと何故分かる?切り上げ切り下げ胴払い、どのような刀技を繰り出すかわからないじゃないか。ところが琉球の空手(唐手)家の相手はいつでも上段から振りおろしてくるんだな。それが薩摩ジゲン流だからだ。この事は後で説明しよう。
 あと棒術の型の中に、海岸の砂を棒の先端でスっと掬いあげて敵の目にかける技がある。また今は身体を鍛える型としているが、両足を大きく開いて腰を落とし、左右真横に向いて戦う型がある。これは元来、田んぼのあぜ道の上で左右から同時に迫る敵と戦う際の型だった。21世紀の都会生活とはかけ離れているが、当時は極めて実戦的な動きだったのだろう。こういうと江戸時代の琉球では、薩摩の侍に対してしょっちゅう素手や農機具を持ってゲリラ的に襲撃をしていたのか、と思うかもしれない。そんなことはなかった。薩摩の武士自体、琉球に駐在していたのはわずか数十人で、王宮とかには滅多に入らなかったようだ。間接統治で村民との接触も多くはなかった。しかし琉球人の知るヤマトンチューの剣術と云えばジゲン流だった。琉球人の中にも薩摩に住んで剣術を学んだ者がいた。当時の薩摩に北辰一刀流や鏡新明智流の使い手はいない。一部に直心影流や浅山一伝流を修行する者もいたが、大半の藩士は示現(ジゲン)流だ。琉球士族の間にも示現流剣術が普及していた。
 ジゲン流といっても示現流と薬丸自顕(やくまるじげん)流の二つがあるのだが、薬丸自顕流は示現流から出た流派なので、両者は良く似ている。両派は分家の佐土原藩を除き、藩外の者に伝授することを厳しく禁じた御留流であった。一部佐土原藩経由で延岡藩に伝わり、延岡藩が常陸の笠間に転封になり関東に伝わったが、大きくは普及していない。
 示現流の特徴は、『一の太刀を疑わず』または『二の太刀要らず』で、初太刀から勝負の全てを掛けて斬りつける『先手必勝』の鋭い斬撃が特徴である。特に薬丸自顕流の斬り込みは凄まじい。幕末薩摩人に斬られた遺体は、頭と顔が両断されて誰だか判別が出来ず、他藩の者を震え上がらせた。例え一撃を食い止めても自身の刀の鍔や峰が額に食いこんで絶命するケースもあった。西南戦争では、官軍兵の持つ小銃をぶった切った上に頭に斬り込んだ。
 新撰組局長の近藤勇は隊士に、「薩摩者と勝負する時は初太刀を外せ」と指示した。しかし薬丸自顕流(示現流)の初太刀を外すことは、相当の手だれでも難しい。ここで誤ったイメージが広がった。「薩摩の示現流は初太刀をかわせば素人同然」そんな事はない。少なくとも示現流には連続技がある。上級武士が多く学んだ示現流は、複雑に体系化され技の数も多くて習得は容易ではない。
 薬丸自顕流は、元々平安時代に伴氏家伝の「野太刀の技」が源流とされ、薬丸氏によって代々伝えられたが、東郷氏の示現流の門下となって示現流を支えた。江戸後期になって示現流を離れて独立し、薬丸自顕流として藩の剣術師範家として認められた。薬丸流は難解な精神論を説く示現流と異なり、郷中教育に取り入れられて下級藩士を中心に伝わった。示現流を特化、単純化したような所があり、貧乏な郷士でも木刀一本で自習することが出来た。
 ジゲン流(両者を併せて)は江戸や上方の剣法と違い、面胴をつけ袋竹刀を用いる稽古はない。実戦を重んじて服装は問わず、稽古中の欠礼も構わない。ゆすの木の枝を適当な長さに切り、時間をかけて乾燥させた木刀を使う。蜻蛉(とんぼ)と呼ばれる八相よりも刀を高く突きあげた構えで、立木に向かって気合と共に左右激しく撃ち下ろす『立木打ち(たてぎうち)』を行う。達人が立木打ちを行うと煙が出る。打つ要領は髪の毛一本でも早く、である。立木を何本も並べて飛びかかって次々に打つ稽古もある。掛け声は「エイ」だが、あまりに激しいため「キエーイ」という叫び声に似たものとなる。猿叫と呼ばれる。幕末の薩摩藩主、島津斉彬は薬丸自顕流の稽古を見て、「キチガイ剣法だ。」と吐き捨てた。
 また横に並べて縛った太い木材の山をひたすら早く重い木刀で叩き打つ。この稽古では凄い衝撃を手の内に受けるから、腰、手首と握力が鍛えられる。人や物を斬った際の強い衝撃を吸収することが出来るようになる。薬丸流は「一の太刀を疑わず、二の太刀は負け」先制攻撃、一撃必殺の剣術だ。抜刀術的な「抜き」も備え、「抜即斬」と称される神速の攻撃がその特徴だ。万一敵に先制攻撃を仕掛けられたら、斬られるより一瞬早く相手を斬る。もしくは
相手の攻撃を叩き落とすかで対応する。防御のための技は一切無い。
 生麦事件で奈良原喜左衛門は、背の高い西洋馬に乗るリチャードソンを飛び上がって斬り死に至らしめた。他に西南戦争で西郷軍に組した県令、大山綱良は藩中随一の使い手といわれ、他に桐野利秋(人斬り半次郎)、篠原国幹、池上四郎、辺見十郎太。政府側では西郷従道(隆盛の弟)、東郷平八郎、野津道貫。桜田門外の変で井伊直xxを斬った有村次左衛門も薬丸流の使い手であった。琉球の空手家はそんな手だれと戦うことを想定して技を磨いたのだ。どちらが一瞬早く届くか、命のやり取りに華麗な大技は通用しないのが分かってもらえたかな。
 とはいえ薬丸自顕流の使い手と対峙することは、現代ではあり得ない。相手を殺すのではなく抑え込む。戦闘力を奪う。素手同士で喧嘩慣れした相手に負けない。格闘に臨んで気後れしない。技や心構えが変わって来てもおかしくはないと思う。それこそが現代の実戦的というものだ。さて沖縄空手の発祥は薩摩藩の琉球征服と切り離せない。徹底した刀狩りが琉球で行われたのかどうかは分からないが、一般の庶民は刀を持てなかったことだろう。そこで棒術やヌンチャク(脱穀の道具)、トュンファー(臼を廻す取っ手)等の木製武器を使用する技が発展した。
 
 薩摩藩の琉球征服を見てみよう。侵略が行われたのは1,609年、関ヶ原の合戦のわずか9年後のことだ。当時の薩摩藩は一枚岩ではなかった。関ヶ原で「島津の退き口」として全国に薩摩武士の武勇を轟かせた義弘、兄の義久と忠恒(後の家久、義久の養子で義弘の実子)の三勢力が政策を巡って対立していた。親秀吉派の義弘、独立派の義久、反秀吉派の忠恒という対立の構図があり、義弘は朝鮮出兵でも関ヶ原でも過小な兵力しか本国から得ることが出来なかった。
 朝鮮出兵は明を宗主国と仰ぐ琉球にとっては、迷惑以外の何ものでもなかった。豊臣秀吉からは一方的に属国扱いを受け、朝鮮への出兵命令・軍役・兵糧の徴発を押しつけられた。琉球にとっては武力による恫喝に屈したのだが、明からはその去就を疑われた。中継貿易で栄えた琉球王国は1560年代に入ると衰退し始めた。原因は倭寇の跳粱、西欧諸国のアジア進出、明国の海禁政策の緩和、東南アジア諸国の台頭などである。日琉貿易も島津氏の台頭により従属的な立場になっていった。
 また琉球王国の外交・航海実務を担ってきた渡来中国人の職能集団「閩人(久米)三十六姓」も、交易の衰退とともに衰え、外交・航海能力が大幅に低下した。明からの船舶の提供が途絶えると、長距離の外洋航海に耐える船がほとんど残っていないまでになり、自ずと遭難・漂着事故が増加した。1588年秀吉が周辺諸国に武力征服を明言して、琉球にも服属要求が発せられた。
 時も時、尚永王が死去する。王には後継者がおらず、もう一つの王統から尚寧が琉球王に迎えられた。琉球王は、明国の冊封を受けて初めて王として正当性を得ることが出来る。しかし文禄・慶長の役と続き明国は琉球を日本の同盟軍扱いし交流を拒絶した。琉球の再三に渡る弁明と懇願によって、やっと冊封使が明国から派遣されたのは1606年のことであった。貿易の不振によって国力は衰え、王室の求心力も低下していたが、念願の冊封使を迎え琉球は日本依存からの脱却、独立外交路線へと政策をシフトしていった。
 一方徳川家康はなかなか進まない日明講和の仲介を琉球に期待し、更に日明貿易の復活を目論んでいた。そのため琉球の漂着民を2度に渡って丁重に送還させたが、琉球は返礼を送らなかった。日本に対する不信感が消えなかったのだ。島津は家康の動きによって琉球権益から外されるのでは、との危機感を持った。また慢性的な財政危機に加え、幕府から「隠知行」11万8千石の指摘、江戸城普請のための運搬船300隻建造と財政的に追い詰められていた。分裂した三派閥の深刻な対立もあり、速やかに手を打たねば島津家の存続が危うい。
 そんな中奄美大島出兵計画を忠恒が出し、家康からついに許可を得た。しかし島津家内では奄美大島だけでなく、琉球出兵へと秘かに方針を変えていた。1609年3月、三千の島津軍が薩摩山川港から出港した。ところがこの島津軍は一枚岩ではなく、三派の政争が指揮官の間に引き継がれていた。そのため統一した軍事行動を取れなかった。通常このような遠征は失敗する。だが平和馴れした琉球軍は、薩摩の猛兵の敵ではなかった。
 琉球軍は総勢四千、那覇に三千、徳之島に一千を配置する。軍備は弓500、鉄炮200。一方の島津軍は鉄炮734挺、弓117張という数字が残っている。島津家では足軽だけでなく、指揮官(士族)も鉄炮を学び戦場において用いる。刀槍術に優れているだけではなく、火力に秀でた軍隊なのだ。島津軍はトカラ七島衆を道案内にして島伝いに侵攻してきたが、統制は取れず、いがみ合って軍功争いをした。それでも徳之島の琉球軍を鉄炮の一斉射撃で粉砕し、講和の道を探る琉球側の使節を無視して村々を放火、乱取り(掠奪)をして進んだ。那覇に主力を集めていたのに、敵軍が首里に直接来た不運も重なり、琉球は簡単に降伏した。一部の戦闘で琉球側の善戦はあったが、結局島津側の戦死者は100~200に過ぎなかった。
 島津軍によって尚寧王とその随行約百余名は、鹿児島から駿府城・江戸城へ連れて行かれたが、家康と秀忠は尚寧王を一国の君主として丁重に対応した。家康は明国の出方を危惧していたのだ。琉球使は道中王子が死去し、随行員の少なからぬ者が病に倒れた。島津は琉球の統治方針「掟十五カ条」を制定するが、これに唯一人謝名親方が断古反対して断首された。謝名親方は処刑直前、琉球救援の密書を明に渡すことを画策するが、すんでのところで回収され明へは渡らなかった。
 徳川はついに明とは講和出来なかったが、薩摩占領下の琉球はしだいに対明貿易を復活して行き、薩摩の経済に大きく寄与した。明は1644年に亡びるが、琉球の清との交易は明治になるまで続いた。鎖国下の日本で、琉球使節団は異国情緒を醸し出し、上方から江戸で大変な人気を呼んだ。薩摩は実質的に琉球を占領していたが、琉球が日本化することを禁じ、対外的に独立国として振る舞うよう指導した。名を棄てて実を取ったのだ。なかなかに巧妙なやり口である。

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