旅とエッセイ 胡蝶の夢

横浜在住。世界、50ヵ国以上は行った。最近は、日本の南の島々に興味がある。

比較の言い回し

2016年11月08日 17時59分43秒 | エッセイ
比較の言い回し   

 一盗二婢三妓四娼五妻、まあ女性が見たら眉をひそめること請け合い。でもこの言葉を知った時、大人の世界は何て深くて醜く面白いんだろうと思った。男が女をチョメチョメする際の快楽の順位だ。一位は盗妻、人の妻を盗むこと。不倫の味は蜜の味という訳だ。二位は女中、メイドさんをやっちゃうこと。パワハラ最高、悪代官万歳、フッフッフ、越後屋お主も悪よのー。タブーを犯すことほど快楽が上だと言っている。
 三位の妓は古くは吉原の遊女、赤線の女、今ならバーのホステス(これも古いが妓が古いので仕方がない)を含めても良い。そのホステスさんなり芸者なりを囲って、おメカケ、二号にすると格が落ちて四位になる。安定して妻に近づくとつまらなくなっちまう。
 最低ランクは妻だが、同じ妻が人の妻だと大ドンデン返しで一位に昇格。同じ女なのに家庭にいるか、外で密会するかで最低から最高へと化ける。そこが面白い。セックスはいかに幻想・妄想かと分かる。女は女装し、男は幻想の女を抱く。
 こんな言い回しもある。男の甲斐性は、「アメリカの家に住み、中国人のコックを雇って日本人を妻にし、フランス人の情婦を作る。」ことなんだと。また「フランス語で恋を語り、ドイツ語で神を説き、英語で演説をし、ロシア語で馬を叱る。」「フランス人が作曲し、ドイツ人が演奏しイタリア人が歌い、イギリス人が聞き、アメリカ人が金を払う。」
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攻城戦・籠城戦 

2016年11月08日 17時59分13秒 | エッセイ
攻城戦・籠城戦   

 日本の城は、特に天守閣は美しいが堅固さではいかがなものか。都市全体を城壁で囲った小田原城は3ヶ月保った。さすがは名城、しかし実質的な戦闘は行われていない。大坂冬の陣で徳川軍を寄せ付けなかった大坂城も、4重の堀を埋め立てられたら防御の役には立たなかった。世界中の城攻めで使われている投石機が、日本の戦場では出てこない。石垣を崩すよりはよじ登るか、トンネルを掘って下から破壊している。
 秀吉は城攻めがうまい。三木城の水攻め・干し殺し、鳥取城の飢え殺し。鳥取では攻略の前に、2倍の価格で近隣の米を買い取り、城兵は兵糧米を持ち出して売りに出した。秀吉は城下に付け火をして、多くの農民を城に追い込んで兵糧の消費を促した。この卓越した作戦は、軍師・黒田官兵衛が考えたのだろうが、軍師の提案を即座に採用し大金を投じた秀吉は凄い。
 あと日本で有名な城攻めといったら、古くは楠正成の千早城。武田勝頼の高天神城攻略。九州では高橋紹運が押し寄せる数万の島津軍を引きつけて、足軽まで763人全員が討死した岩屋城の戦いかな。近代では加藤清正が精魂注いだ熊本城が、大砲を持つ西郷軍の猛攻を耐え抜いた。元々清正は島津の攻撃を想定して城を築いたのだから、してやったりだ。しかし地震には勝てずに、相当な被害を受けた。天災では致し方ない。秀吉の長浜城も地震で全壊している。
 さて籠城と言えば、島原の乱のキリシタンは原城に籠り、幕府軍をしばしば敗走させ女子供も含めて37,000人全員が死んだ。正規軍ではなく援軍の見込みもないのに、実によく戦っている。しかし日本で最も長く激しく戦ったのは、石山本願寺VS織田信長の石山合戦だろう。実に11年の長きに渡って戦った。戦国最大の大戦と言える。生き残りをかけた死闘で、どちらが勝ってもおかしくは無かった。大抵の戦闘では、雑賀鉄砲衆の活躍もあって本願寺が勝っていたが、最後の第二次木津川沖海戦において、信長が考案した鉄甲を装備した甲鉄船の出現により勝敗が決した。石山方が勝って信長が敗死していたら、日本の歴史はいったいどうなっていたのだろう。
石山の地は今の大坂城がある地点だ。川によって京都・奈良に通じ、港を介して海(海外)に繋がっている要害の地だ。信長はここがどうしても欲しかった。大坂は信長が手に入れ、秀吉が育てた。

さて外国を見てみよう。攻城戦には巨大な投石機と共に奇抜な手段の攻城法が見られる。

*トロイの戦い – 神話と考古学がごっちゃになっている。トロイの木馬は実にユニークな攻城法だが、事実なのか物語なのかは不明だ。城に引っ張り込まないで、海岸で燃やしてしまえば良かったのに。木馬が登場するまで、ギリシャ軍は10年攻めても城を落とせなかったのだ。

*コンスタンチノープルの陥落
この城の落城は即ち、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の滅亡であった。この城は凄まじい城壁と2重の深い堀を持つ難攻不落の城であったが、籠城方の兵力は7千人と、守るのがやっとというほど少なかった。10万の精兵を率いて城を攻めたオスマン帝国のメフメト2世は、まだ21歳の青年であったが、ハンガリー人のウルヴァンの巨砲を採用して製造するなど、周到な準備をしていた。
数には勝るが海戦に弱い艦隊を抱え、太い鉄鎖で封鎖された金角湾に突入出来なかった。ここでメフメト2世はとんでもない奇策を思いつく。艦隊の山越えだ。一夜にして内湾にオスマン帝国の大艦隊が出現し、籠城方は意気消沈した。衝撃は小田原の一夜城の比ではない。山は大げさだが丘にレールのようなものを敷き、丸太を並べオリーブオイルを惜しげもなく注いだ。滑りを良くして軽くした船を引っ張り上げたのだ。下りは自重でゴロゴロとレールの上を滑り、ドボンと海上に浮かんだ。

* 鄭成功の台湾攻略
 鄭成功は追い詰められていた。明の復興を旗印に清と戦ってきたが、台風で多くの船を失い、根拠地アモイを清の大軍に攻められて落城しようとしていた。家光の時代の日本幕府に援軍を頼んだが、結局拒否された。彼は母親が日本人で、幼名を福松という。日本からは数百人の牢人が、義勇軍として来ただけだった。しかしこの日本人傭兵隊は鉄の面をつけ、精鋭部隊となって活躍した。
 四面楚歌の鄭成功は台湾に目をつけた。当時の台湾は台南を中心としてオランダに占領されていた。オランダ軍は二つの砦を持ち、湾には岩礁が点在し、その多くが海面下に隠れているためルートを知らずに接近する船は必ず座礁する、天然の要害となっていた。100隻余のジャンク船に2万5千の部下の海賊を乗せた鄭成功は、地元の漁師の言葉を信じて湾に乗り入れた。年に2回の特大大潮の日の満潮時に一直線となって、海中の岩礁の上を乗り越えて湾内に突入した。
 勢いにのってプロヴィンシャ城を攻め落とした。ところがゼーランディア城のオランダ人は援軍の無い中、1年近く耐え1,600人の戦病死を出しながらも籠城を続けた。最期は交渉によって名誉ある撤退を行ったが、実に良く戦った。
 残念なことに鄭成功は台湾占領から半年で熱病死し、鄭氏の台湾支配は3代23年で終わる。その後は薩摩そして日本帝国に占領されるまで清領となった。オランダは舞い戻っては来なかった。台湾のオランダ支配は38年で終わっている。インドネシアがその後数百年、第二次大戦後までオランダに搾取されたのとは大きな違いだ。清朝の支配は圧政ではない。白人に屈するよりは遥かに居心地のよい数百年を送ることが出来たのは、鄭成功のおかげだ。

* 他にも聖ヨハネ騎士団VSオスマン帝国のロードス島包囲戦、オスマン帝国が2度に渡って攻め込んだ第一次、第二次ウィーン包囲戦。日露戦争の旅順要塞攻囲戦等が有名なところか。
 長く保ったといえば、モンゴル軍がエルブルツ山脈山上、イスラム教イスマイリ派ニザリ教団の要塞を攻め、その一つは断崖絶壁、攻め口が全くなく14年も包囲を続けた。籠城方は唯一の通路を見張るだけでよく、食糧は未だ数十年分残っている。水は雨雪を溜めて使ったのか。しかし14年の間に衣服が擦り切れて補充がきかず、ついには凍死するようになったので降伏した。全く外部との接触がない中では最長の籠城記録かと思う。
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