旅とエッセイ 胡蝶の夢

ヤンゴン在住。ミラクルワールド、ミャンマーの魅力を発信します。

今は、横浜で引きこもり。

横浜中華街の想い出

2017年03月26日 11時40分30秒 | エッセイ
横浜中華街の想い出

 大学に入った頃だから、今から40年以上前の話だ。当時の横浜中華街は面白かった。一人で或いは友達とつるんでよく歩き廻った。と言って食事が目的ではない。飯は路地裏の安い食堂で済ませた。ラーメン一杯250円とかだ。街中のラーメン屋よりはずっと安いが、普通のラーメンとは違って中華街の味がした。見た目品良く、というか細麺で味が薄い。はっきり言って街中のラーメン屋の方が美味い。具は、当時珍しかったチンゲン菜くらいしか載っていない。店内は中国人の客が多かった。
 或る時店が混んでいて2階の座敷に通された。友達と二人で小汚い部屋に落ち着いた。いつもと変わった物を頼もうと思い、豚足を注文した。一皿これも250円、出てきた皿を見て魂消た。ヒズメのついた足先のぶつ切りが、山もりなんだ。コラーゲンの塊りとでも言おうか、ネチョネチョの油が口の中に広がり、手がベタベタになってオシボリでは落ちない。二人で食っても食っても減らないじゃあないか。不味いとも言い切れないが、味が単一でちっとも美味しいとは思えない。今と違ってガリガリに痩せていたからな、18歳の時は。小食だったのね。
 さて中華街ではどこに行っていたのか?主に入る店は、物品店だ。食材、調理器具、骨董、雑貨、服飾etc.食品は驚くほど安い物が売られていた。また変わった物が沢山あったから、異文化遭遇体験が出来る。冷凍庫の奥には、毛のついた熊の手(右、と書かれている)が入れてある。三蛇こう(あつもの、という漢字だが検索出来ない)と書いた蛇肉の缶詰を買い、家で温めて食ったがちっとも美味くなかった。細い肉は蛇肉なんだろうが、味がしない。
 その年は、文化大革命最後の年だった。「造反有理」「病を治して人を救う」「三大差別を無くす」今の北朝鮮と違って、毛沢東を憧れる人は日本人の中にもいた。俺がそうだったもんね。お土産やの店頭には、各種の毛沢東バッチが並んでいた。1ヶ100円、人民服が500円くらいで、人民解放軍戦車兵のつなぎ千円とかが所狭しと吊るされていた。それらを全部買い、買った人民服を着て歩き廻ったのだが、今では一つも残っていない。
 中華街の住民は、大陸系だけじゃあない。台湾系も反体制派もいたんだろうが、不穏な空気を感じることはなかった。そうそう、チャイナドレスを着た昔の小姐といったポスターが10種類くらい壁に並べられていて、写実的な絵画の娘が微笑んでいる。俺はその中の黄色い服の娘に恋をした。かなり長い間、あのポスターは俺の部屋に貼ってあったはずだ。
 中華風の喫茶店もあり、中国人の男たちがワイワイやっていた。中国語が分からないから、何をしゃべっているのかは知らない。彼らが黒社会の蛇頭だとしても、ただの料理人だとしても俺たちには分からない。だいたい中国人の料理人は、中国から来て何年経っても日本語を覚えない。厨房から離れることが、あまり無いんだろうな。
 その中華街に、一軒だけパチンコ屋があった。いつ行っても半分貸し切りのように流行っていない店だった。或る時友達と二人で入り、そこそこ出していた。すると目つきの鋭い店員が、俺らの後ろに近づき、視線を宙に飛ばして呟いた。「お前ら、あんまり出すなよ」へっ、パチンコ屋に入って「出すな」と言われたのは、後にも先にもあの時だけだ。
 うん、今回はメリハリの無い文になっちゃった。中華街、コアになるインパクトの強いエピソードが見つからなかったのよ、ゴメン。
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三国志演義

2017年03月23日 17時25分20秒 | エッセイ
三国志演義

 今までで一番良く読んだ本は、バイブル、ではなく吉川英治著『三国志』だ。箱のようにすっぽり収まるブックカバーのついた大きな本、上中下巻は丈夫な本だったが、読み過ぎて最後にはボロボロとページが外れてしまった。三国志は一度読破すれば、後はどこから読んでも面白い。エピソードの積み重なりのような物語なので、途中のどのページを開いても、直ぐに話に入って行けるのだ。そして何度読んでも面白い。有難う、吉川先生。
 一騎討ちに出てくる武将は、その一回だけで討ち取られ、紹介されたと思ったら「ハイ、お終い」が少なくない。それにしても劉備一行は、傭兵としてあの広い国土をよくも流れ流れたものだ。それに実によく負ける。またも負けたか、劉備の玄ちゃん。
 三国志最強の武人は誰か?これは文句なし、呂布だ。呂布と呂布が鍛えた騎兵隊の強さは、尋常じゃあない。あの張飛が敵わず、加勢に来た関羽と劉備(彼はほとんど戦力外)の三人を相手にしても余裕だ。こんな男は二人といない。張飛も関羽も生涯、呂布の他に一騎打ちで負けたことはない。しかも呂布は天下の名馬、赤兎馬(せきとば)に乗っているから、斬り合いをいつ止めるのも自由だ。この時もちとうるさいと自分から離れている。赤兎馬に追い付く馬はいない。
 呂布は二度の主殺し(養父殺し)と数度の裏切りで悪名高いが、何故か権勢欲を感じない。裏切ってから、イジイジと後悔している。彼は戦国の世で、大切な三つの物を手に入れた。天下の名馬・赤兎馬と傾城の美女・貂蝉(ちょうせん)、それに無二の親友・高順だ。高順は頭が切れる。相当な悪事も呂布に提案するが、呂布はなかなかそれに乗らない。天下が取れるのに。馬鹿なのか、人が良いのか、或いはその両方なのか。貂蝉も高順も、呂布とその死を共有した。赤兎馬は呂布の死後、曹操を経て関羽の持ち馬になるが、呂布の時が最も輝いていた。
 普段の呂布は決断力が無くてもどかしいが、一旦戦場に出れば勇猛果敢で光り輝く。「口」を二つ並べた三角旗を翻した呂布の300人の軽騎兵が疾走すると、敵の大群は真っ二つに断ち割られ、後には累々と兵が横たわる。騎兵隊は血煙りをたなびかせて去る。張飛も晩年になってから呂布の強さを思い起こし、騎兵隊を鍛えている。戦場を颯爽と駆け抜ける呂布軍の姿が目に焼き付いていたんだろう。
 呂布には華がある。味方にすればこれほど頼もしい男はいない。悪党でも恰好がよく、化け物のように強い。といって容貌魁偉の大男といる訳ではない。曹操も悪役ながら魅力があるが、呂布にはとても敵わない。呂布が前半早々でいなくなってしまうのは、実に寂しい。
 さて美髯公・関羽はその悲劇的な死もあって民衆から祭られ、関帝廟として信仰されている。横浜・神戸・長崎の中華街には立派な関帝廟がある。しかし三国志の中で、自分が一番好きな登場人物は彼ではない。全身これ肝の人、趙雲子龍が一番好きだ。趙雲の活躍には心が躍る。三銃士で言えばダルタニアン。いつも真っすぐで孤高で潔い。殿を任せたら、これほど信頼出来る武将はいない。彼は結婚していたのね。奥さんがお茶目心を出して、針で突いたら血が止まらなくなって死んだ、という。本当なら奥さんが可哀そう。
 あと馬鹿で大酒のみで短気で、欠点むき出しの張飛も好きだ。そう思うのは自分だけでは無いと見えて、中国には趙雲廟も張飛廟もしっかりとあるんだな。特に趙雲については、義和団の元になる義和拳が崇拝していたそうだ。
 
 さて三国志とは離れるが、中国で最もよく祭られているのは、海の女神・媽祖(まそ)ではないかな。マ祖は航海・漁業の守護神として、中国沿海部を中心に信仰を集める道教の女神だ。台湾・福建省・潮州で特に強い信仰を集めている。ということは、華僑によって海外にも広まる訳だ。天上聖母、天妃娘娘、海人娘娘、媽祖菩薩とか色々と呼ばれている。親しみを込めて媽祖婆・阿媽とも呼ぶ。
 媽祖は宋代に実在した官吏の娘、黙娘が神になったと云われる。960年、福建省興化府の官吏の7女として生まれ、幼少より才気煥発、16歳で神通力を得て村人の病を治すなどの奇跡を起こした。28歳の時に父が海難に遭い行方知らずとなる。これに悲歎した彼女は旅立ち、峨嵋山の山頂で仙人に誘われ神になった。別の話では、父を捜しに船を出して遭難した。遺体は媽祖島(馬祖島、現在は南竿島、福建省)に打ち上げられたと云う。
 中国では文化大革命で「迷信的、非科学的」として全ての廟祠が破壊されたが、今では徐々に復興されている。日本では江戸以前では南薩摩、江戸期では何故か水戸、茨城の大洗、青森県の大間に祀られている。沖縄、ベトナムにも媽祖信仰がある。2006年に横浜中華街、2013年に東京新宿区新大久保に媽祖廟が出来たそうだ。
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太平天国

2017年03月20日 11時21分22秒 | エッセイ
太平天国

 ジョン・ウェインが活躍する、古き良き時代の西部劇もよいが、ほとんどの作品は見尽くした。新しい嗜好のウェスタンが面白い。『明日に向かって撃て』から始まって、『ダンス・ウィズ・ウルブス』『コールドマウンテン』『パトリオット』(これは西部じゃないか)。
 最近見たTV映画『ブロークン・トレイル』は抜群に面白かった。最初に中国人の娘達が登場する。題名だけでは何の映画か分からず、カンフー映画かと思った。アメリカに売られてきた5人の中国娘を、女衒が馬車で買主のいる西部に運ぶ。冴えない中年カウボーイが、伯父の老人の勧めにより軍馬500頭の輸送を請け負う。その両者が荒野で出会って、一緒に旅をすることになる。言葉が通じないので、娘達とカウボーイ達の間で誤解と疑心が生じるが、苦難の旅を続ける間に心の交流が生まれる。そこにまた新たな登場人物が加わり物語は展開する。
 ネタばれになるから、これ以上は書かない。でも一つだけ。インディアン(ネイティブアメリカン)が現れ、通行料として馬2頭を要求するが------ 交渉が成立して別れる時、インディアンが呟く。「何で、醜い白人があんな美人を連れているんだ?」西部劇には中国人が実によく登場する。ジョン・ウェインと中国人の親父、鉄道建設と言えば中国人労働者。実際19世紀末~20世紀初頭にかけて、アメリカに渡った中国人は10万人以上になる。彼らは苦力(クーリー)と呼ばれ、黒人奴隷の代替として大陸横断鉄道の建設、カリフォルニアの金鉱開発に使役された。
 アメリカの産業革命を底辺で支えた彼らの一部は、そのままアメリカに残り南洋華僑として定住した。苦力たちは当初インド人が多かったが、アヘン戦争後は多くの中国人がアメリカやヨーロッパ諸国の多くの植民地に渡った。その数は、太平天国の乱で一層増えた。移民や出稼ぎは、客家や東南部の沿海地方の住人が多い。アメリカに渡った多くの苦力の中には、太平天国の残党も数多くいたようだ。

 太平天国の乱が始まるのは1851年、日本では嘉永4年だから黒船来航の2年前だ。この乱は10年続き、死者数は3,000万人とけた外れに多い。太平天国はキリスト教を自称していて、それまでの農民反乱とは一風変わっている。
 秦末の「陳勝・呉広の乱」、漢代の「赤眉の乱」と後漢末の「黄巾の乱(太平道)」。唐代の「安史の乱」は農民反乱とは言えないが、唐末には「黄巣の乱」が起きた。そして元末に起きるのが「紅巾の乱(白蓮教徒の乱)」。明を興こした朱元璋自身が、紅巾軍の指導者の一人であったが、政権を取ってからは白蓮教を弾圧する。民衆パワーの怖ろしさを身を持って知っていたのだ。明末には「李自成の乱」、そして清代、康熙・雍正・乾隆の黄金期の治世の直後に「白蓮教徒の乱」が起き、アヘン戦争後に「太平天国の乱」、清末には「義和団」。
 直近は1989年の天安門事件か。チベットやウイグル族の反乱は、漢族の支配に対する民族独立運動だから民衆蜂起、農民反乱とは一線を画す。なお「義和団」は反政府ではない。時の権力者、西太后が義和団と手を結び、列強帝国主義に宣戦布告をしたのだ。義和団に包囲された北京の外国人と中国人キリスト教徒の救出に向かう諸国の中で、最も多くの兵力を出したのは日本とロシアであった。清朝最後の抵抗運動、義和団はこうして日本の歴史と結びつく。
 徳川の江戸幕府政権は260年続いたが、中国の大帝国でも300年保ったものはない。平和が確立すると、荒野の開拓や治水事業により収穫量が飛躍的に増えて人口が増す。鉄器の使用等の技術革新が生まれる。ところが農民は子供に均等相続をするから、代を重ねるごとに農地が細分化されて、やがては貧農の大群と化す。皇帝は外戚と宦官に交互に食いものにされ、官僚・役人が腐敗して賄賂が横行し重税が課すから民衆が困窮する。飢えた農民は土地を捨てて流民となる。または食い詰めた農民が蜂起する。中国の流民の数と移動距離は凄まじい。帝国を虎視眈々と狙う北方の騎馬民族が侵入する。繰り返しだな。どこかで断ち切れないものか。
 中国の反乱は、大てい秘密結社が中心となり道教系が主流だ。そのコアには武術の団体がいることが多い。義和団が正にそうである。白蓮教は南宋の時代に遡る宗教結社で、弥勒下生を願う仏教色の濃い集団だ。終末思想を中心に置き、明教(マニ教)や民間宗教の影響を受けている。明という国名が明教から来ている。白蓮教は、明でも清でも邪教として弾圧されてきたが1796年に蜂起した。
 白蓮教徒の乱は鎮圧まで8年を要し、国庫を空にする巨大な経費を費やした。清朝正規軍の八旗・緑営は、長い平和によって堕落して役に立たず、郷勇と呼ばれる義勇軍と、団練と呼ばれる自衛武装集団によって反乱は鎮圧された。また乱後清朝は増税を行い、朝廷では宰相が権力を乱用して蓄財し、官吏は民の金銭を収奪した。帝国主義の狼群が迫っているのに、帝国は急激に衰退し始めた。反乱の規模と被害は限定的だったが、清朝の威信は失墜し、郷勇から誕生した湘軍・准軍が勢力を拡大した。その頭領が曽国藩・李鴻章らである。

ここらで一服;戦争での死者数Top10を発表しよう。下から行くね。

10. ヤコブ・ベクの乱 : 800万人 清末(1862-1877)東トルキスタンのムスリム蜂起。
9. ロシア内戦 : 900万人 1917-1922年
8. ティムールの征服戦争 : 1,500万人 1369-1405年
7. 第一次世界大戦 : 1,700万人
6. 日中戦争 : 2,000万人 それは凄い数だ。第一次大戦よりも多い。ほとんどは中国人の民衆だ。
5. 明王朝の滅亡 : 2,500万人 女真族(清)の侵攻よりも、李自成の乱による被害の方が大きい。
4. 太平天国の乱 : 3,000万人
3. 安史の乱 : 3,300万人 この反乱での皇帝の逃避行の中で、傾国の美女、楊貴妃は恨みにより同行者に殺される。
2. モンゴル帝国の侵略 : 5,000万人、時代を考えると凄い死者数だこと。未だに死に絶え、復活しない都市がある。
1. 第二次世界大戦 : 6,000万人 この内の半数はロシアの民衆だ。

世界人口は時代が遡れば遡るほど少ない。現在の1/5、1/10なのだからその被害の度合いは凄まじい。
ついでにバンデミック、疫病の大流行による死者はと言うと、

・紀元541年:東ローマ帝国、ペストの流行。30万人以上。
・1346-1350年:黒死病(ペスト)ヨーロッパの全人口の1/4~1/3にあたる2,500万人。
・15世紀 アメリカ大陸:主に天然痘、50年で人口が8,000万人から1,000万人に減少。免疫が無いケースでの被害は凄まじい。
・1918~1919年、スペイン風邪(インフルエンザ)、世界人口の3割が感染し少なく見て4,000万人、5,000万~1億人が死んだ。
第一次大戦の死者1,700万人の内1/3はスペイン風邪で死んだ。日本でも39万~48万人が死去した。

 では本題に戻るか。太平天国の乱の始まり始まり。

 太平天国の乱を起こした洪秀全は、広東省出身の客家人で科挙の試験に挑み三度落第、ショックの余り熱病になって寝込んだ。その病床で不思議な夢を見る。夢の中で、ヤハウェと思われる老人から破邪の剣を与えられ、イエスらしい男から妖を斬る手助けを受けたという。6年後の試験にも落第した洪秀全は、旅先でプロテスタントの勧誘パンフレットを入手し、儒教を捨てキリスト教に改宗する。そのパンフレット『勧世良言』ではゴッド(God)に「上帝」という訳語を充てていた。漢字にはすべからく意味がある。これでは根本的な所で誤解を生じる。ちなみに奇書『聊斎志異』を書いた蒲松齢も、万年科挙落第生だった。
 洪は自らの解釈によるキリスト教の教義として、拝上帝教を説き始める。拝上帝教は入信すれば男女を問わず平等、男同士は兄弟、女同士は姉妹、ヤハウェは天父、キリストは天兄、洪秀全はキリストの弟つまりはヤハウェの次子で、人間界に至って神の意思を実行する者とした。洪秀全は教会で学習し洗礼を求めたが、教会は認識が不十分だとして洗礼を拒絶した。
 洪秀全は起義を宣言して清朝に反旗を翻し、天主を称して太平天国を建国した。その洪秀全は、洪家拳の後継者であったそうだ。太平軍は広西から湖南へ進出し南京を占拠、天京と称して太平天国の首都とした。
 太平天国の主張は「滅満興漢」、平等社会の実現を目指し、アヘンの吸引を禁止し、辮髪を切り纏足を止めることを奨励した。清朝側は、辮髪を切り断髪にしたことから彼らを長髪族、反乱を長髪族の乱と呼んだ。アロー号戦争で列強と交戦中の清朝正規軍は、後方の反乱に割く兵力が限定され、一方の太平軍は大衆を吸収して膨れ上がり、清軍を圧倒した。
 洪秀全は幹部に王の称号を与えて軍事を任せ、その発言力はしだいに低下して行く。太平天国軍膨張の背景には、清朝による増税があった。清朝は戦争に於ける戦費調達と敗戦後の損害賠償を支払うために、法令の何倍もの税を徴収した。またアヘン戦争後横行した多くの匪族と失業者を太平天国が吸収した。当初の太平軍は士気が高く、軍律が厳しくてモラルが高かった。
 太平軍有利の中、選択肢は太平天国側にあったが、彼らは最も不味い選択をしてしまった。南京(天京)防衛に最大兵力を割きつつ、北京を狙う少数精鋭の北伐軍を派遣し、さらに同時に西方へも軍を派遣した。中途半端なあれもこれも作戦だ。北伐軍は北京に直行せず迂回路を採り、天津を攻めるが陥とせず、転進中にモンゴル人の将軍率いる清軍の猛攻を受けて全滅。征西軍も曽国藩の湘軍に大敗、その後盛り返して清軍を壊滅して戦線を膠着させるに留まった。

 太平天国は、理念が先駆的で面白い。天朝田畝制度は、田畝があれば誰でもそこで耕し、収穫物は皆で分け合い豊かな衣食を手に入れるという、マルクス主義のような制度だが、実際には施行されなかった。纏足と売春を禁じ、女性の科挙参加を実施したが、女性合格者が重用されることは無かった。また決起直後には、男女は夫婦といえども別々の集団に分けられたが、天主以下首脳部は例外とされた。
 洪秀全以下幹部の五王は、南京城内に壮麗な宮殿を築き多数の妻女を囲った。洪は宮殿の奥深くに鎮座し、民衆の前から遠ざかった。西欧列強(英米仏)は、キリスト教を自称する太平天国に使節団を送ったが話しは噛みあわず、列強は中立を採った。やがて実務を担う楊秀清が洪秀全をないがしろにし始めた。表面上楊秀清に恭順していた洪は、同じく圧迫されていた幹部の王を唆し、楊一族と配下の兵・家族4万人を虐殺する。その後も内紛が続いて太平天国は弱体化した。
 清朝は機を逃さず、曽国藩ら湘軍は長江上流から攻め天京を包囲する。すると洪秀全は、若い武将を抜擢して反転攻勢に出る。安徽省の戦いで太平軍は大勝し息を吹き返す。そこへ洪一族の若者が天京に到着した。彼は香港のイギリス人宣教師の下に身を寄せていたので、西欧文化をよく理解していた。洪秀全の信頼のもと、彼は鉄道・汽船といった交通網の整備、鉱山の開発、新聞の発行や福祉の充実、科挙の改革を提言した。また西欧との通商関係、宣教師の活動の自由も主張した。明治維新の8年前のことだ。
 そうした改革提言は、洪秀全の他には理解する者はなく、実を結ばなかった。新指導部の若い将軍たちに王位が与えられ、やがて士気を鼓舞するために王位が乱発された。そのために2千人もの王が誕生した。若い将軍(王)は改革を唱える若者と対立し、戦場では上海を独断で攻撃した将軍が出たが敗退した。租界の多い上海を攻撃したことで、欧米を敵に廻した。別の将軍は、仲間の救援を得られずに戦場で孤立して戦死した。
 曽国藩に習って軍を結成した李鴻章の准軍は、乱が収束しても解散せずやがて北洋軍閥になる。太平天国の規律はすっかり弛緩した。食の確保に追われて略奪と強引な徴収に走った。投降した清朝兵士を大量に編入したことによって、兵の質がさらに低下した。上海の官僚と商人が資金を出して、列強による傭兵部隊が編成された。太平軍は、西洋式の銃・火砲を備えた傭兵部隊に勝てなかった。
 天京は孤立し、食糧は尽きた。雑草を「甜露」と呼んで食べるまでになったが、洪秀全は撤退を受け入れなかった。防衛兵は暴徒と化し、洪秀全は栄養失調によって死んだ。最期の言葉は「私は天国に昇り、天父天兄から兵を借りて戻り、天京を守る」であった。天京が陥落すると、老人や子供を含めて20万人が虐殺された。洪秀全の墓は暴かれ、遺体は晒された。生き残りの諸王は各地で散発的な抵抗を行ったが、1870年代には全て鎮圧された。

 太平天国のことは、日本では当初は明朝の後裔が起こした再興運動のように伝わり好意的に捉えられた。「滅満興漢」のスローガンと、辮髪を落としたことが強調されたのだ。しかし情報が増すと、洪秀全が明朝とは関係が無く、島原の乱を想起させるキリスト教を信仰していることから嫌悪されるようになる。幕府は1859年にイギリス領事に要請され、英仏両軍に1千頭ずつの軍馬を売却している。雑穀や油も輸出した。これは戦争特需だ。
 薩摩藩の五代友厚と長州藩の高杉晋作は、清朝の情報収集を兼ねて交易のために上海に渡航した。同行した藩士の日記では、太平天国の乱を否定的に見ている。しかし清国の現状を知り、海防の充実と国内改革による民心の安定化を求める論議は、急速に高まった。
 そして中国では、孫文が太平天国に傾斜したこともあり、辛亥革命前後から評価が持ち直した。欧米列強が、開国したばかりの混乱期の日本に対して、直接軍事介入を行うことなく、植民地化し損ねたのは、太平天国の乱と同様な民衆反乱が起こる事を危惧したからだと唱える人々がいる。さて、これはどうだろうか。
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サザエさん

2017年03月15日 17時20分41秒 | エッセイ
サザエさん

 台湾に着メロを売る商売をしていた。15年ほど前の話だ。ちょっと省略し過ぎたかな。台湾の携帯コンテンツの代理店と商売をする窓口にいた時の話。着メロ(今じゃあ懐かしい古語)の人気曲上位には、ドラマの主題歌と並んでアニメソングが定番だ。『新世紀エヴァンゲリオン』『ルパン三世』とかね。台湾では日本の大ていのアニメは放映されている。まあ台湾だけではない。タイでTVをつければ『一休さん』に『ドラゴンボール』、『セーラームーン』。南米では『らんま1/2』、ドバイじゃあ『どらえもん』のしずかちゃんの入浴シーンが、いきなりカットされて画面が飛んだ。
 で台湾、「日本で一番視聴率が高いアニメは何?」「それは、---『サザエさん』かな」「えっ?Sazae-san?何それ、私は日本のアニメには詳しいの。そんなの聞いたことがない。日本で一番人気があるのなら、何で台湾で放送しないのよ」「うーん、ドラマチックじゃないからかな。悪役もいないし」「どんなアニメなの?」「ファミリー物。毎日の出来事を淡々とアニメにしている」「-----ちびまる子ちゃん? クレヨンしんちゃん?そんな感じかな」「いや違う。もっとフラットなデイリーライフを----」「日常生活、いいじゃない。私ら、ちびまる子ちゃんでシミズ・シティーを知ったし、私の友達は『じゃりん子チエ』が好きで大阪に行ってきたよ」「あ々でも『サザエさん』は東京で、ダウンタウンではなくベッドタウンに住んでいて」
 「分かんない、分からないよ。何故海外で放送しないのか。日本で一番人気があるんでしょ。じゃあ書いてみて、Sazae-san」「えっ?」ペンとメモ紙を渡された。えーと、下ぶくれの輪郭、頭の上におダンゴ三つ。顔は、わっわっ変になっちゃった。
 『サザエさん』が嫌いな日本人はいないだろ。退屈だの詰まらないだのは分かるが、大っきらいはないでしょ。『サザエさん』は古い。夕刊フクニチに連載が始まったのは1946年。朝日では1949年から30年も続けている。長谷川町子さんは、お袋よりもちょい年上だ。長谷川家は父親が早世、長女の夫は戦死、末っ子の夫も若くして病死したため女性ばかりが残された。町子さんは生涯独身で、家には波平もマスオさんもカツオもいない。
 初期の作品は、子供向けとは言いきれない。強風で駅のポスターが飛ばされそうになる。駅員の一人がポスターを押さえ、もう一人が飛んで行ったポスターを追いかける。それをカツオが見ている。駅員のオジさんが叫ぶ。「人権が蹂躙されているぞ」ポスターには「人権週間」の文字。へっ?何が面白いのかの前に、じんけんじゅうりんって何?
 親に聞いて困らせた。ハハ、そりゃ困る。俺も子供に聞かれたら困る。「人権蹂躙って何?」人権蹂躙、もう死語だな。長谷川さん、毎日毎日のネタ探しでストレスが溜まっていたのね。その反動で生まれたのが、『いじわるばあさん』こちらは今残っていないが、青島幸男のTVドラマは笑えた。『サザエさん』のTVアニメがあれほど長く続いたのは、4コマとはいえ、30年分のストックがあったからだろう。偉大なるマンネリ。やはり外国人に受けるとは思えない。
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タージ・マハル

2017年03月12日 13時12分18秒 | エッセイ
タージ・マハル

 タージ・マハルは知っているね。あの真っ白くて美しい建物は霊廟なんだが、何故印度に墓があるの?ヒンドュー教徒は火葬したら、遺灰はそのままガンガ(ガンジス河)に流しているじゃあないか。タージ・マハルを造った皇帝は、イスラム教シーア派のムガル帝国のお人だったんだ。
 タージ・マハルの四隅に建つ4本の細長い塔はミナレットだ。ミナレットは、お祈りの時間が来たことを知らせるアザームを塔の天辺から流す。でもここはモスクではなくて墓だ。タージ・マハルは誰の墓?いつ何の為に作ったの?知っている人は、まあおさらいだ。ちなみにタージ・マハルの周囲に立つ4本のミナレットは、目に見えないほどの角度で内側に傾いていて、見る人に建物の安定感を与えている。計算された美しさなんだな。葬られるなら、ピラミッドではなくタージ・マハルだな。
 1632年着工、1653年竣工。ムガル帝国第5代皇帝シャー・ジャハーン(世界の王)は、妻をこよなく愛していた。彼の美しい妻の名はムムターズ・マハル。そうタージ・マハルは王妃の名前だ。ムムターズのムムが消え、ターズがインド風に訛ってタージになった。ムムターズ・マハルはペルシャ語で、「宮殿の光」「宮廷の選ばれし者」を意味する。美しくて賢い彼女は、正に帝国の華だった。
 マハルを常に戦場に伴って、シャー・ジャハーンは戦いに勝ち続けた。帝国は最盛期を迎え、南インドをも手中にしようとしていた。しかしマハルは遠征中に、皇帝の14番目の子(姫だった)を出産したのち、産熟熱がもとで38歳にしてこの世を去った。死の床で望みを聞かれた王妃は、「この世で一番美しい墓を作って、そこに葬って下さいな」と言ったとか、言わなかったとか。
 王妃に去られた後のシャー・ジャハーンには、良い事は何一つなかった。あったとしたら、タージ・マハルが完成したことだ。あまりにも死者に膠着するのは考えものだ。2年間喪に服した皇帝は、猛然と霊廟建設に邁進する。タージ・マハルの美しさは、完璧なシンメトリー(対称性)とプロポーション、大理石による純白。白大理石の産地としては、イタリアのカララが有名だが、カララ産の大理石は水と酸に弱くて外部には用いられない。ところが西インドのクンバリアーやマクラーナの白大理石は水にも酸にも強く、最も汚れやすいドーム屋根にまで使うことが出来る。この白大理石があったから、タージ・マハルは出来た。
 タージ・マハルは天上の楽園を模した南北560m、東西303mの長方形の庭園の端に立ち、背後の絶壁の下にはヤムナー川が流れる。庭園には4つの水路と遊歩道があって、水路には天地対称となったタージ・マハルが映る。その美しさは外部だけではない。墓室の透かし彫りには、植物の文様が削り込まれていて、嵌めこまれた一つ一つの石が水晶、めのう、サンゴ、琥珀、碧玉、ダイヤモンド等の精緻な象嵌細工で飾られている。内も外も華美に陥らないシャープで清楚で、気品のある美しさだ。
 シャー・ジャハーンは、タージ・マハルの建設に20年の歳月と2万人の労働力を投入した。世界各地からあらゆる素材と、あらゆる工匠や職人を集めた。インド人、ペルシャ人、トルコ人、アラヴ人、中にはフランスの金細工師やイタリアの宝石工も加わっている。莫大な金を注ぎ込み、国庫は空になった。建設に熱中したシャー・ジャハーンは、政務を全く見なくなり、ついには忠臣たちからも見放された。各地で民族蜂起が起こり、イギリスが侵略を強めた。4人の皇太子は皇位継承を巡って激しく争い、戦いに勝った三男アウラングゼーブによってシャー・ジャハーンはアグラ城の八角の塔に幽閉された。7年の幽閉の後、彼は息を引き取り、愛するムムターズの隣り、タージ・マハルの地下に葬られた。幽閉された塔の窓からは、随分と小さいがヤムナー川のほとりにタージ・マハルが見えた。
 通常、霊廟は庭園の中央に築かれるのだが、タージ・マハルは端、ヤムナー川の断崖に上に建てられた。シャー・ジャハーンは、対岸に対になる自身の廟を、黒大理石で建設し橋でつなぐ計画を持っていた。しかし帝国の傾きがひどく、とてもその計画を赦さなかった。自業自得だから仕方がない。白いタージ・マハルと黒いシャー・ジャハーン廟、完成していたら現在のインド政府にとっては、大変な財産となったことだろう。
 18世紀末~19世紀初頭において、ヒンドュー教徒によって堂内の宝石類が剥ぎ取られ、イギリス東インド会社は丸屋根の上にある頂華を含む金箔を剥がした。そしてイギリス人のインド総督は、タージ・マハルを解体してイギリスで売り払う提案をしている。野蛮人め、これが実行されていたらイギリスは天下に恥をさらすところだった。
 タージ・マハルのあるアグラは、デリーからは約200km、ハイウェイで5時間。特急列車で行くのが良いが、インドで切符を買うのは結構一苦労だ。現在年間400万人(内外国人20万人)の観光客が訪れている。しかし行こうと思う人は、情報を集めてからにしよう。修理中だったり、パキスタンとの関係が悪化すると、空爆の対象となる事を避けるとして偽装がかけられたりするのだ。
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