旅とエッセイ 胡蝶の夢

ヤンゴン在住。ミラクルワールド、ミャンマーの魅力を発信します。

今は、横浜で引きこもり。

バッド・トリップ - 悪夢の一週間

2024年02月23日 18時15分32秒 | 旅日記
バッド・トリップ - 悪夢の一週間、

 今回は、2部に分かれます。最初の一週間は地獄のタイ編。その後は、ミャンマー編。極楽編とまでは言えないけど、明るくなるぜ。

 その前に。『北さん(自分のことです。)の感じるミャンマーの魅力はズバリなんですか?』こう、若い女性から聞かれました。うーん。一言では難しい。
まずは、ミャンマーでなければならない、わけではない。
 アジアの仏教国なら、タイ、カンボジア、ラオス、スリランカがあるね。タイ、バンコクはいかん。発展しすぎだ。東京との違いが、タイ・ミャンマーの違いより小さい。物価は円安だし、日本と大して変わらん。ラオス、カンボジアは良い。ラオスは、むしろミャンマーより住みよいだろうし、自然も人もよい。
 スリランカはヒンズー教徒も多く住んでいて、やはりインド文化圏だろ。アジアの上座部仏教の国。それとはちょっとイメージが違う。あとネパール、モンゴルも。お米の国ではないでしょ。
 ラオスには、日本企業は進出していないので、日本語教師の需要が無い。カンボジアには、アンコール遺跡群のガイドの日本語教育はあるが、それだけで間口は狭い。ベトナムが行きたい国のNo.2 だが、行くならハノイだな。
 話しがずれてる。ズバリ何でしょう。生きてるって楽しいな。そう実感できることかな。ミャンマーの人の生活は厳しい。ヤンゴンの街は、車も少なくなった。ガソリン代が高騰した。タクシー代は3年前の3倍。飯代も上がった。夜は人が表に出ない。生活は苦しくなったがミャンマー人は、のんびりしてるのよ。
 とにかくわくわくする。道を渡るのも、大袈裟に言えば命がけだから、アドレナリン全開でいっちゃうわけね。今のヤンゴンでは、毎日の計画停電が2日交替で、5 - 9 AM 13 - 15 PM, または、9 - 13 と 17 - 19 時。その他に突発的な停電がある。小型懐中電灯を持ち歩いたほうが良い。
 ミャンマーの人は優しい。人に全く干渉しないから、外国人だからといって、話しかけられたり、ジロジロ見られることはない。自由でいられるのだ。どうぞ 、お飲下さいと水瓶を道路に設置する人たちだものね。

 * どうも電波状況が悪くて、入力に倍の時間がかかってしまう。後は帰国後にしよう。

 あのね。なかなか筆が進まなかった。あの一週間のバッド・トリップは、出来ることなら、忘れたい。でも、まあここまで書いちゃったんだから、さっさと済ませて、ミャンマー極楽編にたどり着こう。

 本当は、細かいなにがしは切って切って、事実をテンポよく進めた方が良い。分かってはいるのだが、今回は敢えて、ベタにぞろぞろと書き進めることにする。省略すると、事の背景がぼやける。さあ、ドロドロと行くよ。
おんどろろ、おんどろろ、覚悟しいや!
 
 自分は、四国遍路を終え、次の目標が見当たらなかった。仕事は辞めていたから、時間はある。金は無い。遍路のブログを書き終えると、ポッカリ穴が開いた。グダグダと寝転がってTVを見るか、本を読む一か月。
 そんな時に、ミャンマーから鈴木先生が一時帰国した。自分の教え子だった青年2人と一緒に中華街に行き、半日を過ごした。2人は、大して日本語は上手くなっていなかったが、本当に楽しそう。日本の会社で友達も出来て、来週箱根に遊びに行くそうだ。鈴木さん、ちゃんと約束を守って彼らを日本に連れてきていたんだ。もう半年も日本にいるそうだ。
 実はもう一人、生徒がいたのだが、彼はシーマン(船乗り)になったそうだ。これは意外だ。彼は良い家のボンボンで、好奇心が強くて、よく授業をサボる明るい若者だ。何故、船乗りに?反政府(反軍部)の活動に熱心なあまり、警察に睨まれたらしい。ミャンマーの警察は国軍の下部組織なんだ。国内にいられなくなったんだな。でも、彼は地図帖を一週間貸して下さいと、熱心に見ていたから、海外に関心があったのを思い出した。
 この半日で、自分の行く道が見えた。もう一度、ミャンマーに戻って先生をやるか。しかし、年末。余裕の無いところで、訪緬を急ぎ過ぎたようだ。ミャンマー直行便のLCLが無いことは、分かっていた。ならば、バンコクかハノイに一泊すればよい。成田⇔バンコク、バンコク⇔ヤンゴンでどうだろう。
 別々の便で、総額6万円ちょっとでチケットを買った。ただ、日程に余裕がない。年末年始をはさんだ。これが悪夢の始まりだった。クーデター以前は、一か月の観光はVISAが不要だった。今は、一日でもVISAがいる。だが、VISAを大使館に申請するには、日にちが足りない。でも大丈夫。いざとなれば、到着時に商用VISAを取得出来る。申請書類は入手済みだ。ところが、ガビーン!これが無くなっていた。
 マズイ。すかさずE-VISAを申請した。上手くいけば、翌日入手できるはず。1月9日(火)の昼に出発で、なんと8日が休日。正月休み明けの4日に申請した。5日に入手出来れば、滑り込みセーフ。
 ところが、5日の夕方に大使館からメールが入り、旅程表が本人である証明が必要とか、言ってくるじゃあないか。ネットの旅行会社に無理を言って、旅程表にパスポートNo.を入れてもらった。それを送り返したのは、5日の夜中になった。E-VISAは、ミャンマー政府関連の旅行保険に強制的に入らされたりして、1万円ほどかかった。
 出発日の9日の朝に、もしメールが未着だったら、仕方がない。出先のバンコクで入手するか。VISAの未着が気になり、荷物の準備がおざなりになった。今回は、一度帰国するが、その後再入国して先生生活をするかも。それを考え、荷物は多めになった。本など5-6冊入れた。
 20kgsまではOKなように、バンコク⇔ヤンゴン便は、荷物の超過料金を前もって払った。成田⇔バンコクは、中国東方航空と言う便で、なんと上海で乗り換えだ。この航空会社を選んだことに、後でいやというほど後悔させられる。この便のメリットは、一つだけ。荷物が2ケ、48kgsまでOKなことだ。上海乗り継ぎは、厄介だが安いのだから仕方がない。
 乗り継ぎの上海空港では、中国元がないので、給水機の水を飲み、本を読んで時間をつぶした。上海空港の職員の英語の通じなさには、びっくりした。「今、何時?」上海のローカルタイムを聞いたのだが、これが全く通じない。時計を指さし、今、何時ですか?空港の青年は、ポカンとするばかり。勘も鈍い。スマホの翻訳サイトを出すから、もういいよ。
 搭乗時間になった。そこで止められたのが、悪夢の始まり、始まり。搭乗口で自分を止めた係員は、おばさんだったが、彼女も英語は一言も通じない。スマホを見せられ、良く分からない日本語を勘を働かせて読むと、荷物に電池が入っていたらしい。鍵を出せという。ここが悲劇の第一ポイントになった。
 出がけに気付いたのだが、南京錠の鍵が一つしかなかったんだ。成田で買おうと思ったんだが、番号合わせのタイプしかない。またトランクの穴が小さいから、細い鍵でないと入らない。まあいいや、そのまま出国してしまった。上海空港の搭乗口で、鍵を出したらおばさんはティッシュでくるんだ。それ一つしかないから、必ず返してね。念を押しても通じない。またスマホを出す。制服を着ていて、ここまで英語が通じないとは。
 おばさんはちょっと考え、面倒になったのか、ティッシュをはがして鍵を返した。行け、行けと言うからそのまま進んだ。まあ、バンコクで開ければいいや。しかし、それは大きな間違いでした。トランクは、飛行機に乗らなかったのだ。

 そのままバンコクの空港に着いた。ドン・ムアンではなく、第二空港のスワンナプームだ。この空港は初めてだが、成田よりはずっと立派だ。夜の11時頃、トランクを受け取ろうと荷受け場のレールで待っていたが、ちっとも出てこない。嫌な予感。同乗者らしき人は、一人もいなくなった。
 空港の係員に聞いた。彼は、英語が通じる。彼はあちこち電話をして、2-30分待たされた。結果は最悪。トランク(バッゲージと呼ぶ)は、上海空港に置かれたままだ。理由は、違法なリチウム電池が見つかったから。
 電池、入れたかなー。その後何度も記憶をたどったが、確かな記憶はないものの、出がけに血糖値測定器用のCR-2032を投げ込んだかもしれないと、思い当たった。CR-2032なんて、目覚まし時計やおもちゃに使うポピュラーな電池だが、機内で発火する可能性が100憶分の1 でもあるというのか。
 空港のBaggage claim の職員に書類を書いてもらい、日付が替わって1月10日の真夜中、予約していたホテルへ行った。手荷物のリュックだけだ。日本は冬だが、バンコクは暖かい。というか暑い。
 ホテルにチェックインした。フロントでは、若い女性が一人で事務をしていた。この娘さん、名はパッターカディーさん。とても親切で気立てのよい子だった。飲み物とカップラーメンは売っていたが、マッチ、ライターの類はない。どうしてもタバコが吸いたいので、教えてもらったコンビニへ行った。ライターは、成田で2ケ取り上げられていた。
 コンビニに向かう途中、近道をしようとして入った広場で、犬たちに取り囲まれた。狼群攻撃をされるのか。彼らは見事なフォーメーションで俺を取り囲み、唸り声をあげる。タイの犬だろ。昔は、皮膚病であちこち赤むけして、腹を出して寝ていたじゃあないか。経済が豊かになると、犬まで元気になるんかい。時々、仲間に勇気を示したいのか、フォーメーションを抜けて直ぐ近くに来るのがいる。今にも手にかみつきそうだ。ネイティブアメリカンの若者が、抜け駆けして騎兵隊に迫るような感じ?
 ここで噛まれてはマズい。狂犬病の予防注射を、一週間も打たなければならなくなる。「バカヤロウ!お前らにかまっていられるか!」こっちも怒鳴って威嚇する。広場を過ぎると、犬たちは去った。ヤレヤレ。
 やっとコンビニにたどり着き、飲み物、朝食のパン、Tシャツ、そしてライターを買った。途中の上海以来、10時間ぶりにタバコを吸った。真夜中で人通りはなく、幹線道路から離れているので車も通らない。頭がクラクラした。フラフラと、麻薬中毒のように歩き、ゴミ箱の横で前向きに転倒した。ファー、やっちまった。幸い誰も見ていない。
 ホテルの受付のお姉さんは優しかった。受付のパソコンは、貸してもらえなかったが、自分が持参したパソコンを苦労して立ち上げてくれた。何だか、余計なソフトが次々と出てきて、なかなかYahoo Japanにたどり着けない。コンセントは、トランクの中なので、内蔵電池が切れるまでの命だ。やっとたどり着いた時には、午前3時を廻っていた。
 ところがアーア、期待したVISAはメールで届いていない。これで問題は2つになった。本日の夕方の便なのに、トランクは上海、ミャンマーのVISAは無い。夜が明けたら、バンコクのミャンマー大使館に行くか。遅れるかもしれないと、ミャンマーに連絡が出来ただけが救いだ。

 朝になると、昨夜転んだ時の打撲で、左ひざの左上部がボコっと半円に盛り上がって、赤黒く変色していた。手のひらには切り傷。ひざは触ると痛い。でも歩くのには支障がない。足は、しばらく組めなかった。10日もすると、ひざに溜まったリンパ液(?)が下がって、左足の甲が膨れた。甲は痛くはない。この傷は、二か月経った今でも変色している。
 ミャンマー大使館の所在は、調べてある。荷物は大きなリュックが一つだが、ここでは不要なジャンパーがじゃまだ。タクシーで最寄りの駅に行き、電車を乗り継いで、大使館を目指した。フロントのパッターカディーさんに聞くと、通勤時間なので渋滞にはまると、タクシーでは2時間かかるかもしれません、と言う。
 この後一週間、バンコクの電車と地下鉄を乗り継ぐことになる。便利だが、料金は案外高い。また路線によって、切符がコインだったりカードだったり。乗り継ぎの度に切符を買うのは、面倒だ。また、駅間が相当離れているのはザラだ。車内は、日本ほどは混んでいないが、冷凍庫のように冷房をきかせているので、長く乗っていると寒くなる。それで、トイレに行こうとすると、大抵の駅にはない。係員に言うと、連れて行ってくれて鍵でドアを開け、事務所のような所に案内される。日本で出がけにプリントアウトした、バンコク市内の路線図が大いに役に立ち、ボロボロになるまで使った。色分けされた路線。車内の英語アナウンスで、次の駅名が分かる。
 やっとたどり着いたミャンマー大使館は、建物の内外にミャンマー人があふれかえり、道路の先の先まで座り込む、難民キャンプと化していた。だが、皆さん大人しく何かを待っていて、これだけ人がいるのに静かなくらいだ。E-visaは8番受付だという。9時(10時?)からなので、自分も難民と化して待った。
 時間になったが、8番は開かない。時間を3-40分過ぎ、やっと係員が来た。中年男性だ。顔を見ていやな予感。自分は、日本でE-Visaを申請した。この番号です。本日の夕方の便なのですが、発行されているでしょうか?ここで確認していただいて、出来ればプリントアウトして下さい。そう頼んだ。
 男性は黙って聞き、E-Visaは、コンピューターで確認してくれ。ここは大使館(embassy)で、imigration ではない。へっ?ここでVisaを発行してるじゃん。8番窓口は、E-Visaの担当でしょ?しかし、取り付く島もないとは、このこと。彼は、ここはxxではない。△△だ。を何度も何度も繰り返すのみ。くそ軍事政権だからこうなのか。それとも以前からこうなのか。
 鉄面皮には、何を言っても通じない。歩み寄る気は、全くない。話を聞く気はゼロだ。ごったがえす入り口に戻り、事情を説明すると、ああ面倒くさいとおばさんは、8番、8番、E-Visaは8番。これほど感じの悪いミャンマー人には、初めて会った。こりゃあ、いかん。今ここでVisaを申請すれば、3日後には受け取れる。土日を挟んで月曜か。二重に金はかかるが、旅行保険は取ってあるし。その書類も持っている。でも写真が無い。トランクの中だ。
 仕方がないと一旦撤収。何の役にも立たなかった大使館を後にして、スワンナプーム空港へ行った。informationで、バッゲージクレームの書類を出して、掛け合ってもらったが、ラチが開かない。それでは、中国東方航空の事務所か係員はどこ?カウンターに行くと、2人くらいしかいない。何故か上海航空で聞いてくれという。上海航空は、ちょう出発便が近いのか、結構職員がいる。青年が親切に対応してくれた。上海空港の荷物担当と思われる部署に電話がつながった。
 しばらく待たされ、日本語の通訳という男性と話しが出来た。だがこの通訳、何を言っているのかさっぱり分からない。荷物は上海にある。違法なバッテリーが入っている。ここまでは、昨日の段階で分かっていることだ。通訳は、直ぐに上海航空の青年と代わってくれ。青年が自分に英語で説明する。オイ、何のための日本語通訳だ、お前さんは。おかしいだろ。どっちが通訳なんだよ。通訳は、とにかく待て。待っていろを繰り返す。だからいつまで?待て。バッゲージが無いと困る。金も薬もバッゲージの中。待て。この後、どうなる。いつまで待つのか?何を待つのか?待て。ラチが開かない。上海航空の青年は気の毒そうに、待つしかありませんね。くそ。2つの問題の両方が解決しないじゃあないか。
 
 搭乗の時間は迫り、行っても意味はないが、ドン・ムアン空港へ向かった。空港で乗る予定だったタイ・アジア航空のカウンターで、トランクが未着という事情を話した。すると、チケットのキャンセルは、特に何もしなくて良い。ただ乗らなければよろしい。あー、ついに乗りそこなった。
 空港隣接のホテルの職員に、市内で20~25ドルでお勧めのホテルは無いか聞き、教えてもらったホテルへ向かった。そのホテルが満室だったので、近くに泊った。パソコンが使えないし、電池も切れそうだったので、宿の隣のコンビニでシムカードを買った。ホテルの受付のお姉さんが、ちゃっちゃっとシムを入れ替えてくれた。ハイ、これがタイの電話番号ね。後ろに貼っておくわ。
 これは便利だ。Yahoo のメールもラインもMapも使える。スマホの充電コードは、フロントで借りた。E-Visa のメールは、まだ届いていないが、ミャンマーの鈴木さんとは、双方向で連絡が取れるようになった。問題は二つ。Visaとトランク。
 翌朝フロントのお姉さん、彼女は本当によく気がきく。こういう気働きが出来る女性は、10人に一人か50人に一人だ。スワンナプーム空港のバッゲージの担当部署は、なかなか電話が通じない。ずいぶんと時間がかかったが、結局何も変わらない。トランクは以前として上海。上海は待てと言っている。書類の番号がはっきりしただけ。タイ人の書いた1は、7に見える。
 コンビニのちょっと先に、ローカルのタイ料理屋があったが、ここの飯は実に美味かった。値段は、日本の半額ほど。その後、近所のレストランを数軒廻ったが、最初の店がベストだ。

 Visaをタイで取り直そう。どこかで写真を写せないかな。翌日は、最初に紹介されたホテルに移った。1泊目のホテルで、クレジットカードで払おうとしたら、6ケタの暗証番号を入力してくれと言われた。6桁?暗証番号?結局現金で払ったが、これはマズい。手持ちの現金には、限りがある。大半の金はトランクの中だ。だが、サイフの他に、数万円とドルを入れた札入れをリュックの底に見つけ、ホっとした。これが無ければ、大ピンチだった。暗証番号は結局4桁で、次のホテルからはクレジットが使えた。

 実は、荷物の未着はこれで二度目だ。何十年も前に、イエメンのサヌア空港で、航空会社のミスで数日待たされた。仕事の書類は、手持ちのアタッシュケースに入れてあったが、街に出てまず靴下を買ったっけ。でもこの時は、お客さんが面倒を見てくれ、いざとなれば、お金を借りることも出来た。数日後に空港まで取りに行って、トランクを回収した。ゴメン、の一言もない。まあ、空港の職員のミスではないのだが。それ以来、手荷物にいくらかの現金と、少々の着替えなどを入れる習慣が身についた。
 またチェックインと同時に、ホテルのネームカードかパンフレットを入手して持ち歩く。若い時の恐怖体験、「私はどこ?私のホテルは何処?」を避けるためだ。恐怖のカルカッタ、暗黒の下町体験は一度でよい。この経験は、以前にブログで書いた。

 さて、さすがに少し飛ばすか。旅行会社は、何もしてくれなかった。いんぎんに、違法の電池を入れたお前が悪いんじゃん。上海に戻るか、と考え始めたが、チケットの変更に応じるとは思えない。何を言っても、誠に恐縮ですが。Visaの取得のため、ミャンマー大使館を再訪した。写真は路上の軽トラと机を置いた所で、電信柱を背景に撮り、パスポートのcopyと一緒に15分ほどで出来上がった。安い。これが、魔法のように良い出来の写真なんだ。
 フと思いついて、東京のミャンマー大使館のサイトを見た。番号を打ち込むと、今までの under proceeding(処理中)が消えていた。ってことは、発行された?その通り。ヤンゴンの鈴木さんに頼むと、メールで送ってくれた。やった!Visaが取れた。これで一つ解決。
 宿に戻り、スマホからフロントのパソコンに移送して(別のお姉さんにやってもらった。)プリントアウトした。Visaはペラな紙一枚で、発行日は9日だった。メールは、適当に送り忘れたんだろう。
 後はトランク。実は、奥の手を試していた。バンコクには、この国に住み着いている中学からの友人がいる。彼に頼めば、タイ語で交渉をしてもらえる。苦労して昔の交信記録を掘り出し、連絡はついたのだが、あいにく彼は、体調不良で寝込んでいた。仕方がない。
 よし、こうなったら日本大使館に行ってみるか。今のままでは、ラチが開かない。トランクが上海から動かないのなら、ミャンマー行きは中止して、バンコクから上海に戻るしかない。とはいえ、土日を挟んで観光もしたよ。








 ワット・プラケーオや中華街に行った。タイは、外国人観光客で溢れていた。特に欧米系の人が多い。空港には日本人もいた。中華街は、昔のようにごった返していたが、物価が驚くほど高い。飯屋は日本の倍はする。まあ、店の選択に間違った。タイ人が食べる屋台風の店にすればよかった。
 ホテルから最寄りの駅まで2-3kmある。バイクの後ろにまたがって乗る。最初は怖いが、安いし気持ちがよい。バイクタクシーに乗って、ショッピングモールやローカルマーケットに行き、ゴムゾーリや着替えを買った。気がかりがあるので十分は楽しめない。
 糖尿病の薬は切れた。インシュリン注射は、厄介なので最初から手荷物には入れなかった。血糖値を計るのも入れていない。タイの薬屋で、ポピュラーな一種類だけ入手した。値段は安い。
 さて、日本大使館。結局、力にはなってくれなかった。タイ国内のトラブルならねー。でも部屋と電話を貸してくれた。この電話で、タイの空港、中国東方航空のクレーム担当、そこで聞いた上海空港のバッゲージ担当に電話をした。2-3時間かけて、思いつく所に片っ端からかけまくった。上海空港の担当者の女性は、思いがけなく英語が達者で、こう言った。うーん、その番号では記載がありませんね。
 そ、そうなの。もしかして。スワンナプーム空港へまた行った。これで何度目だろう。またまたinformation で待たされたが、今回は対応が違った。2Fのinformationに行け。そこに職員が来る。何で?と聞いても、分からないとの回答。2Fのinformationは、飛行機から降りてまだ外に出ていない人がいる所だ。警備員に事情を話し、中に入れてもらった。必ずここから出ろという指示だ。そこで、またまた待たされた。いーよ、いーよ。バス3時間待ちとか、お遍路で慣れてる。
 やっと、作業着を着たおじさんが現れた。ついてこい、とグルグル引き回され、ドアを開けると貨物の集積所じゃないか。これは、これは、もしかして。事務所の前にトランクが山積みされている。荷札を調べたおじさん、「これは君のかい?」あー、あった。俺のトランク!見ると鍵がかかっている。
 これ、いつ到着しました?いつ?おじさんは、知らない。何度も聞くと、どこかに行ってしまった。タイのバッゲージクレームの人には、何度も電話して、何かあったら電話してね。変化があったら、電話してね。または、メールで教えてね。繰り返し念を押したのに。
 さっそく中を確認すると、お金は無事で、見たとこ何の変化もない。ところが、小さな色紙が入っていた。中国語で何やら書いてある。そーか、開けたんだな。開けて電池を取り出したんだ。鍵を開ける職人を手配するのに、時間がかかったのか。やっぱり、上海空港で鍵を渡しておくべきだったか。待て、待てしか言わないで、事情を説明してくれたなら。

 これで悪夢は終わった。ネットでバンコク⇔ヤンゴンを最短で予約し(別会社)、翌日にはバンコクを発った。さて最初の旅行会社は、トランクのトラブルについて、何もしてくれなかった。バンコク⇔ヤンゴン便については、往路でキャンセルしたから、復路も自動的にキャンセルされた。荷物の超過分だけのキャンセルはできない。恐れ入りますが、まことに恐縮ですが、オメーには何もしてあげないよ。駄目。出来ない。何もしないし、する気もない。
 しかし、復路は後に発券された。これには頭にきた。これなら、片道のチケットで良かったではないか。復路のチケットを2枚持って、どうする。クレームをしつこくメールした。返事の度に、上の奴に代わる。そしてついに彼らは返金に応じた。そりゃー、そうだろ。復路もキャンセルされたと言われたから、往復で買ったんだ。

 ところで、中国東方航空はいくら、100%自分に非があっても謝らない航空会社として、その筋で有名だそうだ。さもありなん。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする