旅とエッセイ 胡蝶の夢

横浜在住。世界、50ヵ国以上は行った。最近は、日本の南の島々に興味がある。

蝦夷とアイヌ

2016年03月23日 18時49分16秒 | エッセイ
  蝦夷とアイヌ

 関東、東北生まれが蝦夷(えみし)の末裔だとしたら、そも蝦夷とは何者?アイヌ人をベースとして征服者、大和人の血が混じった混血児なのか?現在北海道内に住む自称アイヌ人は23,782人(2006年北海道庁の調査)。純アイヌ人の見た目は明らかに民族として和人とは違う。ほりが深くてヒゲなどが濃い。アイヌ=コーカソイド(白人)説が出た所以だ。平たい顔に鼻ぺちゃ、釣り目の細目じゃあない。アイヌ人のDNAを調べたが、内地を飛び越えて南西諸島、沖縄の人に近いという。これは面白い。あと大陸と樺太に住むツングース諸族の血が混じっているというが、これは分かる。同じ文化圏の人達だ。交易で婚姻関係が結ばれたんだろう。
 古代・中世の琉球国人と北海道のアイヌ人に、中央の大和を飛び越えて定期的な交流があったとは思えない。琉球人もアイヌ人も共に古代縄文人の血を受け継いでいる、という証しなのだろう。辺境(大和から見て)なるが故に純血が保たれたということか。してみると縄文の血に混ざる大和人、弥生人とは何者なるや?
 大和朝廷なる集団が、原住日本人の王国、邪馬台国や出雲族をおそらく汚い騙し討ちによって滅ぼし、彼らに文字が無かったことを幸いに、自分達を正統化する歴史を作りだした。『日本書記』『古事記』である。そして大和朝廷が朝鮮の百済(くだら)と強い繋がりを持つことは、自らも記している。天智天皇は日本より任那/百済の方がよほど大切だったらしい。大和=百済/朝鮮で、彼らが渡海して日本を征服した?事はそう単純ではない。朝鮮自体が単一民族とはいえないのだ。百済を滅ぼした高句麗はツングース系の騎馬民族と考えられる。単一の朝鮮人ではないのだ。古代の極東地域は思った以上にダイナミックに交流し戦争をしてきたらしい。それに朝鮮から大陸の人が南下して日本に来たのなら、逆に丸木舟を漕いで北上して日本から朝鮮に渡って行った人がいても不思議ではない。
 縄文時代とは、旧石器時代後の約1万6,500年前の紀元前145世紀から約3,000年前の紀元前10世紀をいう。最終氷期の最寒冷期は、紀元前160世紀すなわち1万8,000年前で、氷河が堆積して海面が低くなりオホーツク海から北海道に歩いて渡れた最後の時期になる。なにしろ縄文時代は長い。万年王国(王がいたわけではないが)だ。クリやドングリを主に採集し、川では魚、海では貝や海草に魚を捕り、野山で獣を捕まえる。昆虫食や野草は副食。人口の急激な増加の無い限り自然が再生、循環する万年王国だ。田畑のような自然破壊はほとんど行わない。
 とはいえ1万年は長い。1万年前の日本列島の平均気温は現在より約2度低かった。8,100年前、縄文早期の日本列島の推定人口は2万人だ。その後気候が温暖化する。気温は6,000年前には現在より1度以上高くなり氷河が溶けて海面が上昇し、関東平野などはほとんど海没した(いわゆる縄文海進、奥東京湾の形成)。その結果、東日本はブナを中心とする冷温帯落葉樹林からコナラ、クリを中心とする暖温帯落葉樹林が広がり、西日本はカシ、シイの常緑照葉樹林となった。木の実の生産性は照葉樹林より、特に暖温帯落葉樹林が圧倒的に高いので東日本を中心に日本の人口は急増した。6,000年前、縄文前期で11万人、4,000年前、縄文中期には26万人と推定される。
 ところが4,500年前から気候は再度寒冷化しはじめ、2,500万年前には現在より1度以上低くなり(ピーク時より3度低くなった。)、日本の人口の中心であった東日本は暖温帯落葉樹林が後退し、人口扶養力が衰えた。栄養不足に陥った東日本人に大陸からの人口流入に伴う疫病の蔓延が襲いかかり、日本の人口は大きく減少した。3,500年前、縄文後期で16万人、3,000年前,縄文晩期で8万人と推定される。
 そして弥生時代以降、稲作農耕の普及と国家の形成に伴って、人口は目覚ましく増える。2,000年前、縄文から弥生に切り替わり日本の推定人口は59万人となる。その後は人口は緩やかに上昇を続け、800年前には551万人に達する。ついでに言うが、鎌倉時代でおおよそ600万人、戦国末期で1,000万人をちょっと超え、江戸時代で3,000万強に増えた。そこからは一気に増えて1億を突破する。今後は急激に減少して22世紀に入る頃には5,000万人を切るらしい。3,000万人位がちょうど良いのじゃないかな。
 さて縄文晩期の8万人から弥生早期に59万人。稲作の開始がこの人口爆発の原因であることは言うまでもない。とはいえ千年単位の話だ。当時の平均寿命は短くて早婚だったろうから、千年で4-50世代は経ている。おじいちゃんの(おばあちゃんでも良い)おじいちゃんの、そのまたおじいちゃんの、千年は長い。
 縄文人は顔立ちや体形はわりと一定していて、地域・時代によって大きな差異はないが、弥生人は個別差が大きい。一つのルートではなく、複数の渡海元があったことをうかがわせる。稲作は中国南部からと、朝鮮半島経由と二系統(またはそれ以上)の伝播があったようだ。馬を船に載せて上陸し、鉄製の剣を揮って力づくで征服した、とは思えない。おそらく圧倒的多数の縄文人が、大陸から戦火を逃れて渡って来るのっぺり顔を受け入れ、彼らの進んだ技術を徐々に自分達のものにしていったんのだろう。弥生人は何波にも分かれてやってきた。原住民の縄文人は彼らと交流し、婚姻し自らの文化を失うことなく、大陸の文化を吸収し新しい文明を作り上げ、子孫を増やしていった。
 また食べ物が変われば、歯やあごの形も変わる。徳川将軍家では260年間、硬いものを食べなかったせいで末の将軍ほど貧弱なあごをしている。中国の王朝でも貴族・王族が、数世代怠惰な生活をしていると足腰が弱り、北方の勇猛な部族に滅ぼされている。エジプトのファラオは代々糖尿病に苦しんだ。いいものばかり喰っているから病気になる。
 現代日本人の血にはおおまかに言って3割の縄文、7割の弥生の血が流れているという。母方DNAは3系統が全てアフリカから出て、時間をかけ全世界に広がったとされているが、日本人はその3系統全てのDNAを持っている世界でも極めて稀な民族だ。万世一系とか、単一民族とかいう割りには、東のどんづまりで古代に激しく混血している事が分かる。だってよく見て御覧。日本人の顔のぶれは半端じゃあない。マレー人にもモンゴル人にも欧米人にも見える顔がいる。以前インドのムンバイで見たお廻りさんの一群は、気持ち悪いくらい皆同じ顔と体形(丸顔・色黒・口ひげ、腹がプックリ・足は異様に細い)をしていた。同じ地域から来ているんだろうな。
 あと背の高い弥生人、チビでズングリムックリの縄文人というのは造られたイメージだ。サンプル数の少ない中で、両者の平均身長の差は2cmほどにすぎない。ついでに弥生人に関連する体質として、下戸がある。下戸遺伝子は中国中南部で誕生したと考えられている。
 では縄文人(原日本人)はどこから来たの?以前は北方からと南方からの二大流入説が有力だった。特に南方説では、幻の大陸スンダランドが出てきて夢を掻き立てられた。スンダランドは氷河期に海面が100mほど低くなった時に現れた。紀元前7,000~14,000年前のヴュルム氷河期に出現し、紀元前12,000~4,000年にかけて約8,000年にわたる海面上昇で水没した。現在のタイランド湾から南シナ海、マレー半島東岸からインドシナ半島に接する大陸棚が広大なスンダランドだ。
 ちなみに当時、シベリアからベーリング海峡は地続きでアジアからアメリカ大陸へ歩いて渡れた。オーストラリアとニュージーランドは地続き、黄海も平野でスンダランドと繋がっていた。ペルシャ湾全体も平野であった。ほー、ではアトランティスはどこだ。このスンダランドがモンゴロイドの故郷で、その一部が北上しモンゴルやシベリアに進出して、寒冷地に徐々に適応しマンモスハンターになった。その連中の一部が日本にもやってきた。いいなー、スンダランド起源説。けれども日本人南方起源説は、現在ではしょぼんでいる。遺伝学や考古学の観点から、日本人の起源はバイカル湖あたりという、〝日本人バイカル湖起源説〟が有力なのだ。
 何だ。縄文人も北から来たのか。というか今では弥生人の渡来総数は考えられていたよりもかなり少数で、渡来自体が中国南部・東南アジアからであった可能性が高まった。縄文=南方、弥生=北方のイメージが真逆になった訳だ。つまり縄文=北方、弥生=四方八方で主に南方。日本人には「北方系」モンゴロイドの遺伝子が色濃く、特にその比率は本土日本人よりも沖縄・宮古とアイヌに高い。お隣の台湾が「南方系」モンゴロイド遺伝子を強く持つのとは対照的である。まあ学説はまた代わるかもしれないが、現在のところそうなっている。
 話しを戻すよ。蝦夷(えみし)はアイヌか?答えはノン。南九州の熊襲(くまそ)とか蝦夷(えみし)とかは蔑称だ。辺境のまつろわぬ蛮族のイメージか。ただ中世以降の蝦夷と書いて〝えぞ〟と読む場合は、ほとんどアイヌ人を指している。同じ漢字を使うから紛らわしい。‘えぞ’の語源ははっきりしないが、一説ではアイヌ語で人を意味する言葉がなまったものだという。北海道を蝦夷地(えぞち)と呼ぶ場合、えぞはアイヌと一部の和人を指している。欧米ではYezo。蝦はエビの意味だ。長いあごひげの生えた顔がエビに見えたところから来ている。えみしのことを毛人ともいう。沖縄人やアイヌ人がほりが深くて毛深いのは、純粋な縄文人の特徴が濃く出ているのだろう。
 蝦夷(えみし)と大和人は、権力者の一部(例えば征東将軍、坂上田村麻呂は渡来人)を除けば、民族的にはほぼ同じだが生活環境は違っていた。近年の寒さに強いように品種改良された米でなければ、東北は米作に適さない。
 ただ2,500年前の寒冷期にアイヌ人(純血縄文人+ツングース系諸族の混血)が津軽海峡を渡って、東北地方に南下してきたのも事実だ。南下は13世紀にモンゴルの侵略を遁れても行われた。東北地方に多くのアイヌ語の地名が残っている。特に青森県、次いで岩手県と秋田県に多い。江戸、鎌倉、福生(ふっさ)、能登、何でもかんでもアイヌ語起源にするのもどうかと思うが。
 日本語に溶け込んだアイヌ語を紹介しよう。オットセイ、コマイ、シシャモ、トナカイ、ノンノ(花)、ホッキ貝、ラッコ、ルイベ。今回はテーマが拡散してしまった。❛蝦夷とアイヌ❜と❛縄文人❜を分ければ良かった。俺が何故縄文好きなのか分かる?縄文の方が大らかで自然と一体化しているし、美人度が高いからさ。

 おまけに貴方の縄文度チェック
・唇を動かさずに両目ともウインクが出来る人
・くせ毛っぽい人
・耳垢が湿っている人
・両目とも二重まぶたの人


深圳と珠海

2016年03月18日 19時42分57秒 | エッセイ
深圳と珠海

 これも古い話だす。25年ほど前ね。香港がイギリスから中国に返還されたのは1997年、マカオはポルトガルから1999年に返還された。と言ってもその後も一見返還前と何の変わりもない。それぞれ隣接して加工区(工業団地、税制の優遇等がある。)が広がっていて、香港は深圳(しんせん)マカオには珠海(チューハイ)がくっついている。
 当時自動車部品の商売をしていた自分は、名古屋の部品メーカーが深圳から部品の小パーツを購入する(現地の工場に製造委託をする。)のを手伝い、何度も訪れた。珠海の方は一度だけ行ったが、こちらの商売はそれ以上進まなかった。珠海の方が深圳よりきれいに感じたが、訪れた工場の印象しか残っていないのだから、何とも言えない。奥の方まで広いんだろうなと思う。
 一度小さなカーフェリーに乗って2時間ほど南シナ海を渡った。明るい黄土色をした海は、お汁粉のように濁っていて透明度は無いに等しい。ただちょっと沖に出るとゴミなどは浮いていないし、波は全く無かった。船には現地の家族連れが乗っている。小さな売店があって無愛想な売り子のお姉さんがいて、売っている物(パン・牛乳・菓子等)が当たり前だが全部中国製で面白かった。
 さて深圳、香港の半島側を電車に乗って北上する。中心部から1時間弱だ。香港も郊外に行くと似たような高層アパートが林立している。香港と中国本土の間には小汚い川がある。ろくに水は流れていないが、堀になっていてその底にはゴミがこれでもかと投げ捨てられている。香港と深圳の間には空港のように入国審査がある。香港の人は簡単に深圳に入れるが、その逆は厳しい。全員パスポートを出すが、スタンプは押されず申請用紙のようなものにスタンプされ、それを出国時に出す。香港に住んで深圳に通勤している人が、毎日2回スタンプを押されたらすぐに余白が無くなってしまうものね。
 この通関、時間が決まっていて一度朝早くに行き開くまで待っていた。その時、外国人は自分一人で銃を持った公安(警察)の兄ちゃんがチラチラ自分の方を見る。目を合わせないように避けていたがしつこい。どんないちゃもんを付けられるか分からないので、いやーな気分だ。通関所を出て深圳に入ると長い陸橋があって、広い道路の向かい側にホテルと漢方の材料屋が並んでいる。ホテルは相当立派なのが並んでいる。物価の高い香港などよりは相当安くて、高級ホテルが100米ドルくらいで泊れる。
漢方の材料屋とは変な言葉だが、そんな匂いがするし何やら分からない植物の破片やドライアニマルやらが、きれいに区画されて並べられている。西側に住む中国人がビジネスで来て、おっ安いなと買っていくような品を集めている。そんな店が何軒も並んでいて、お土産として売れる物は何でも並べる勢いだ。一度頼まれたクコの実(杏仁豆腐に載せる赤い奴)を買って帰ったら、頼んだ人が安いと驚いていた。当時流行った痩せる石鹸は1ヶ50円位だった。店には山積みになっていて、これはかさばるが喜ばれる土産だった。
ビジネスはホテルの正面から車に乗って取引先の工場へ直行だったから、工場団地全体の様子は分からない。ずい分と奥の方まで広がっていそうだ。いつ行ってもいたる所で建設工事をしていて、ホコリっぽく汚れていて喧しい。全体は分からないが、入口の辺りでも行く度に景色が変わっている。新しい建物が次々に建てられ、道路が掘り返されている。深圳には中国全土から若くて健康な労働者が集まってくる。ここで働けば、給料がそれまでの2倍3倍(当時、平均1万5千円/月位)になるのだ。地方出身者の集合だから春節(旧正月)の時は街から人がいなくなる。一斉に里帰りだ。全土で数億人の民即大移動だ。
治安の問題があるのか公安がホテルの中でもウロウロしていた。ホテルの裏の通りは、何事かと思うくらい大勢の若いお姉ちゃんがたむろしている。華美な服を着ている訳でも、化粧が濃いのでもないが通りを埋め尽くす数だ。このお姉さんたちもまた全国から集まった売春婦の皆さんなのだが、どうにも素人っぽい連中だ。彼女達も最初から売春しようと思って出てきた訳ではないだろう。ホテルの地下のバーにもよく分からないお姉さんがあふれていた。成程、公安は彼女達がホテル内で動き廻らないように巡回しているのか。
工業団地の深圳が出来る前の香港では、雑居ビルのような建物の中でたくさんの会社が、電卓やら玩具やら家具やら棺桶やらを作っていた。たいていのビルの共用部は恐ろしく汚い。吸い殻やゴミが投げ捨てられ、水が溜まり饐えた匂いがする。上半身ハダカの男が荷物を持って出入りしている。その横をタイトスーツを着たお姉さんが、ハイヒールをコツコツいわせて歩き水溜まりを飛び越える。粗末なエレベーターに乗って訪問先に行き、扉一つ開けるとホテルのフロントのように立派な受付が現れ、美人受付嬢が嫣然と微笑み、流暢な英語で出迎えてくれる。そのあまりの落差に唖然としたもんだ。
とにかく香港も深圳も金、金、金だ。他人を引き倒してでも金儲けをしようという欲望が渦を巻き、息をするのも苦しいほど。金儲けに熱中する人々は早口で声が大きく、脇目もふらずに歩く。東京人より1.3倍は早足だ。またこの人達は喰い道楽で、うまくて安い料理屋は流行り駄目な店は潰れる。ただこれを中国人のスタンダードだと思うと大間違いだ。中国は広くて、中国語にも色々ある。同じ中国人のはずの台湾の人が大陸の中国人に騙され、呆れて言葉が出ない、なんてことが当時は当たり前にあった。
納期が遅れている理由を聞くと、完成品を積んだトラックが運転手ごと消えたという。トラックのタイヤは見事にツルツルで溝が全く無い。事故なのか強盗なのか、運転手の盗難なのかてんで分からない。ここでは良くあることだそうだ。盗むならもっと金目のものにしろよ。
製品の精度が上がり、取引を始めたら年間どのくらいの注文がもらえるのか知りたいという。最もなリクエストので〝年間発注見込み表〟を出した。一年を四半季に分けて、この位の数量をこの時期に注文する予定、というものだ。それを渡して数カ月たって工場を再訪したところ、一年分の数を作っちゃたので引き取ってくれという。何の為の予定表やら。
工場訪問時は、台湾の客家の連中と行動を共にした。どの工場も彼らが探してきたのだ。連中は自分と一緒の時は英語で話してくれるのだが、現地の人と一緒の食卓につくと、ほとんど通訳してくれない。まあお互い単語の限られたヘタッピ英語だから、移動や商売では使えても飲んでワイワイやっている時に通訳するのは面倒くさいんだろう。中国人同士で大声で話してギャハギャハ笑っている。話し相手のいない自分は、大皿に載った茹でたエビの殻を手でむしって唐辛子の入った漬け汁につけて食う。ハハ20匹は食ってやった。ザマミロ。
日本の工場のオジさんを連れて行った時は、日本語の通訳を雇ったのだが、これがまた難しい。シリンダーと言うと通訳が分からない。「円筒、つつの事だよ。」「シリンダー何?日本語ですか?」
これは自分の話ではないのだが、最初にいくつかの候補となった工場を見て廻り、価格はどこも問題なく安かったから、品質と生産能力のチェックを行った。日本のメーカーの社長と個人商社の日本人と二人で案内を伴って3ヶ所訪れた。或る工場で昼飯が用意されていたので頂いた後、2人で印象を話していたそうだ。「あの社長は何だか頼りない感じですね。」「うん、どうもここはハゲ頭の番頭が実権を握っているようだな。」「この工場どう思います?」「いかんな。特に悪いのは---」長いテーブルの端には、最初からついてきたメガネチビの目立たない姉ちゃんがチョコンと座って、何やら熱心にメモを取っている。秘書?事務員?この娘は最初から一言も喋っていない。
別に気にもならず、二人はワイワイと思ったことを話していた。そぬちに社長たちが戻ってきてお別れとなったのだが、その時姉ちゃんが指でメガネをズイと押し上げ、流ちょうな日本語で言った。「本日はお忙しいところ、また遠い所からお越しいただき、本当にありがとうございました。」
えっ?あっ?

 

極地探検

2016年03月16日 20時56分32秒 | エッセイ
 極地探検

 大航海時代に次ぐ近代的・科学的な探検の時代。19世紀後半から20世紀初頭にかけて、地理学上、考古学上の重要な発見が相次いだ。ナイル川の水源を探り、ヴィクトリア瀑布を発見したリヴィングストン博士がアフリカで行方不明になった。博士の捜索に向かい、ザンベジ川の畔で苦心の末にイギリス人ジャーナリスト、スタンリーが博士と出会ったのは1870年のことだ。
 フランス人の博物学者アンリ・ムーオが、カンボジアの密林の中でアンコール・ワットに出会うのは1860年。砂に埋もれたボロブドュールの仏塔の発見は1814年、意外と早い。マチュピチュは1911年に発見。中央アジアではスウェーデンの地理学者スヴェン・ヘディンが、砂の中から楼蘭の遺跡を1900年に発掘。イギリス人のスタインが1902年、日本の大谷探検隊が三次に渡って調査・発掘した(1902~1914年)。同じころに敦煌では、壁の中に封印された大量の文書が発見された。日本人僧侶の河口慧海は、周到な準備の後に単身でチベットに潜入した(1900~1902年)。イギリス人カーナヴォン卿の援助によって、アメリカ人のカーターがツタンカーメン王墓を発見するのは1922年のことだ。
 そして極地探検、先に探検が始まったのは北極だった。アジアとヨーロッパ間の航海を、もし北極海を通れば大幅にショートカット出来る。可能だろうか。この北西航路の探索が最初の動機だった。また北極圏ではアザラシの毛皮、北極くじらの鯨油、セイウチの牙などの資源が取れる。ところが南極と違い、北極圏には人が住んでいた。ロシアがアメリカにアラスカを720万ドルで売り飛ばしたのは1867年のことだ。そこに住んでいるイヌイットの人々には断り無しだ。ロシア帝国としては、クリミア戦争で敵国のイギリス(カナダ)に取られるくらいなら、中立国のアメリカへ渡した方が良かった、という事情がある。当時アラスカを買ったアメリカの大統領は、無駄な冷蔵庫と酷評された。
 デンマーク出身のベーリングは1728年にシベリアとアラスカ間に海峡があることを発見、その後コマンドルスキー諸島やアリューシャン諸島を発見した。日本の間宮林蔵は1808-9年、樺太探検によってこれが半島ではなく島であることを確認した。最上徳内は1785-6年に千島・樺太・エトロフ・ウルップを探検、その後も何度も探検行を重ねた。
 19世紀以降は北極点到達への競争となり、1895年ノルウェーのナンセンは北緯86度14分迄行き、北極が海洋であることを立証した。1909年、アメリカの軍人出身のピアリーが北極点に初到達したとなっているが、実は極点に到達していないのではないか、と当時から批判の声が上がっていた。渇望されていた北西航路だが、最近の温暖化の影響で北極の氷が大量に溶けたため開通しそうである。しかし船が高速化した現在、敢えて流氷の危険のあるこの航路を使用するメリットは無くなってしまった。もし19世紀に北西航路が開通していたら、日本は植民地になっていたのではないか。北極を抜けて南下したら直ぐ日本だ。欧州の船舶は石炭が必要なので、北海道や新潟の開港を迫られたに違いない。軍艦も欧州から直ぐに派遣出来るようになったはずだ。危なかったー。

*フランクリン遠征隊
時代をちょっと巻き戻すが、1845年に英国海軍は頑丈で最新式の装備を備えた2隻の船に士官24人、乗組員110人、計134人の遠征隊を組織して北極圏に派遣した。ヨーロッパとアジアを結ぶ北西航路の中で、まだ航海されていない未踏部分を横断して航路を完成させることが目的だった。また当時極点近くに開けた海面が広がる、という説があった。この遠征隊の隊長の人選は難航した。有力候補の二人から断られ、結局59歳のフランクリンが選ばれた。フランクリンは過去3回北極海に遠征していて、その内2回は隊長であった。クロージャー大佐が副官となったが、この人を隊長にした方が良かった。この人も隊長候補に挙がったようだが、生まれが卑しい、アイルランド人だからという理由で却下されている。このことでも分かるように海軍が組織したこの探検隊にはおごり高ぶったところがあり、それが後に足を引っ張る。
フランクリン遠征隊は3年分の食糧を積みこんでいるはずだった。ところが当時先端技術だった缶詰で不正があった。急な大量注文で納期に間に合わなくなった缶詰工場は、多くの缶の中身に腐った肉や石を詰めた。また缶の溶接に使った鉛が内側に溶けだし、フランクリン隊は鉛中毒にかかった。この鉛中毒に関しては、船の蒸留水製造装置にも原因があったらしい。使用した材料から非常に高濃度の鉛を含有した水を大量に生産したようだ。
極地の探検で1年2年、船が氷に閉じ込められるのは最初から織り込み済みだ。ところがフランクリン隊は3年分あるはずの食糧が、半分以上使えなかった。また壊血病予防の為に用意した果汁が極く初期の段階で腐敗してしまった。ともあれフランクリン隊は、1845年5月にテムズ川河口グリーンハイスを出港し、7月にグリーンランドで5人が解任され2人が帰国したため、総勢は129人になった。7月下旬に捕鯨船が帰国する2人と出会って以来140年、遠征隊は消えた。
予定の3年が過ぎ、フランクリンの妻の訴えもあって、初めて捜索隊が組織された。1850年にはイギリス船11隻とアメリカ船2隻がカナダの北極海に向かった。この大規模な捜索隊からも遭難者が出たが、貴重な地理的情報も得ている。1850年の捜索でフランクリン隊の1845-6年の冬季宿営地と3名の墓を発見したが、後にこの遺体を調査し直接の死因は肺炎だが、高濃度の鉛が体内に蓄積されていることが分かった。
次の発見は1854年、測量中に失踪した隊の遺物が発見された。またイヌイットに遇い35-40人の白人一行がバック川河口近くで飢えて死んだということを聞いた。このことは他のイヌイットの証言にもあり、遺体には人肉食の跡があったと報告している。測量隊はイヌイットから譲り受けたフランクリン隊の銀のフォークとスプーン数本を持ち帰った。
別の測量隊はカヌーでバック川河口まで北上し、船名の刻印のある木片を見つけ、また船医の名が刻まれている木片も見つけた。この時点でイギリスは乗組員が公務中に死亡したと公式に判断した。そこから政府・海軍の腰は重くなり、フランクリン夫人は私費で捜索隊を組織した。この捜索隊が重要な発見をする。ついに文書を発見したのだ。
イギリス海軍の記録用用紙に、2つのメッセージがびっしりと書かれていた。紙が不足していたのだろうか。船の図書館には1,000冊の蔵書があったのに。最初のメッセージは1847年5月28日付けで、この時点で2隻は流氷の中で越冬していること。それまでの隊の行動が記され、フランクリンの名で『全て順調』と書かれている。2つ目のメッセージは、同じ用紙の余白に書かれていて不吉なものだった。1848年4月25日付けで、2隻が1年半氷に閉じ込められた末、乗組員は4月22日に船を放棄したこと。1847年6月11日に死んだフランクリンを含め、その時点で24人の士官と乗組員が死んでいたことが記されていた。フランクリンが死んだのは、全て順調のメッセージが書かれてから僅か2週間後だった。
クロージャーが遠征隊を指揮しており、残り105名が翌日に出発して南のバック川方面に向かうと記されていた。しかしこのメモには重要な誤りがあった。ビーチー島で冬宿営した年が1845-6年ではなく、1846-7年とされていた。この遠征隊はメモを発見した所より南の地点2ヶ所で、計3体の人骨と大量の遺物を載せた救命ボートを発見した。長靴、絹のハンカチ、石鹸、櫛、多くの本などだ。人力で本などを運ぼうとしてはいけない。
1860~69年の間にホールが2回の遠征を行い、キングウィリアム島の南岸でキャンプ地・墓・遺物を発見した。ホールはイヌイットの中で生活した人物で、イヌイットから多くの聞きとりをし、フランクリン遠征隊はイヌイットの中で生き残っていないと考えた。イヌイットの話には彼らがフランクリンの船を訪れた証言や、餓え疲れた白人の一隊に遭遇したというものがあった。
別の遠征隊は1880年にイヌイットを含むチームを編成して、徒歩と犬ぞりで島へ行った。この隊は結局フランクリン隊の痕跡を見つけられなかったが、1852~58年の間にクロージャーともう一人の隊員が400km南の地域にいたという証言を得た。その後1948年に「通常のエスキモーが作ったのではない大変古いケアン」がその400km南で発見され、その中に硬い木材で組み立てた箱の断片を発見したが、文書は無かった。1981-2年に人類学者が組織した遠征隊はキングウィリアム島に行き、1859年にボートを発見した場所の近くで6~14体の遺体と人工物を見つけた。骨には人肉食の跡が見られた。骨を研究所に持ち帰って調べたところ、壊血病の原因であるビタミンC欠乏の場合に見られる孔食やスケーリングが多く見られ、また高濃度の鉛が含まれていた。
その後1992年にも発掘が行われ、さらに多くの骨が見つかった。最初に埋葬されたビーチー島の3体の遺体も発掘され、慌ただしい埋葬であったことが分かった。またこちらの遺体からも高いレベルの鉛が検出されている。その後別のキャンプ地で錆びた缶が見つかり、沈没した船の場所が特定されたとかの話は出るが、クロージャーの率いる本隊の行方は全く分かっていない。イヌイットの長老の夜話に、幽鬼のような白人の一隊が凍った荒野をさまよう姿が出てくるだけだ。日本人の探検家、角幡唯介氏が、フランクリン隊が目指したであろうカナダの居留地北限から北へ向かう旅を行っている。興味のある人はどうぞ。『アグルーカの行方(129人全員死亡、フランクリン隊が見た北極)』アグルーカとは隊を率いて氷原を彷徨う白人の隊長、おそらくクロージャーのことをイヌイットが怖れと尊敬の念を込めてそう呼んだ。彼は相当長い間、生きていて南下を試みていたようだ。
また日本人では植村直己氏が1978年、初めて犬ぞりによる単独での北極点到達を果たし、女優の和泉雅子氏が女性による二番目の北極点到達を果たした。和泉さんは今真言宗の僧侶になっているそうだ。

南極探検でも悲劇が起きた。1911年12月14日、ノルウェーの探検家アムンゼンが初の南極点到達を果たした。イギリスの軍人出身のスコットは、アムンゼン到達のわずか1ヶ月後、翌1912年1月18日に極点に到達した。アムンゼンは当初北極点を目指したが、初の北極点到達をピアリーに先んじられたため、
目標を南極に変更し犬ぞりを使って成功した。
 スコット隊は学術調査を兼ねていたため、アムンゼンより距離が長く難所のマクマード湾に基地を設営しなければならなかった。スコット隊は雪上車で先発隊を出し本隊は馬ぞりで進んだが、雪上車は走行してまもなく故障、馬は次々に凍死した。人力によってそりを引き、苦難の末に到達した極点にはノルウェーの国旗が刺さっていた。失意の中、本船に戻るスコット隊に猛烈なブリザードが襲いかかる。スコットと同行の4人は全滅した。遺骸は10ヶ月後に発見されたが、食糧・燃料のデポジットの直ぐ近くであった。アムンゼンはその後、北極で飛行機により遭難者の救援に向かい消息を絶った(1928.6)。皮肉なことに遭難者は助かった。
 日本では白瀬矗(のぶ)が1910年、「開南丸」で極点到達を目指し南極に上陸した。1912年南緯80度5分まで達して付近を「大和雪原(やまとゆきはら)」と命名している。しかしこの白瀬隊の探検は内紛続きで、白瀬は後半生を探検の借金返済に費やした。

*シャクルトンの帝国南極横断探検隊
1914年8月~1917年、イギリスが20世紀中に派遣した南極探検隊のうち、4番目の探検隊で南極大陸初横断を目指し失敗した。しかしながらこの探検隊には壮大なドラマが待っていた。アーネスト・シャクルトンはアイルランド生まれ。1914年の探検の前に1902年、スコットの第一回南極行と1907年に個人的に組織した探検、計2回の南極経験があった。
国家が全面的にバックアップしたスコット隊と違い、シャクルトンの探検は常に資金難に苦しめられた。使用した船は木造の帆船である。おまけに探検の時期が悪い。ちょうど第一次世界大戦(1914-1918年)の真っ最中だった。それにしてもシャクルトンの隊員募集が恰好よい。
Men Wanted : For hazardous journey. Small wages, bitter cold, long months of complete darkness, constant danger, safe return doubtful. Honour and recognition in case of success. ― 求む男子 : 危険な旅。微々たる報酬、極寒、完全な暗黒の長い日々、不断の危険、安全な帰還の保証無し。成功の際には名誉と知名度を手にする。
この広告が本当にロンドンの新聞に掲載されたのかは不明だが、探検隊へは5,000を超える応募があった。探検隊の帆船エンデュアランス号は1914年8月9日にプリマスを出港し、ブエノスアイレスに短期間停泊したあとサウス・ジョージア島を訪れ、最終的に12月5日28人の乗組員と共に南極大陸の海岸へと出発した。砕氷艦ではないただの帆船では、よほどの幸運に恵まれない限り南極大陸までは到達出来ない。  シャクルトンもある程度近づいたら、流氷の上に物資と犬ぞりを上げる予定であったと思われるが、最終的に1月中旬氷に取り囲まれ身動きが取れなくなった。船を解放する努力は無駄に終わり、1915年2月末には計画を変更して船で越冬することにした。船は流氷と共に北上したので、南極の春が訪れれば氷から抜け出ると思われた。ところがそれほど容易には脱出できず、7月にはシャクルトンは船長に氷から脱出する前に壊れてしまうに違いないと伝えた。
 そして10月末、船の右舷は大きな浮氷に強く押し付けられ、ついに船体は曲がって大音響と共に裂け始めた。氷の下から海水が船内に流れこみ、ポンプで排水を試みるが流入する海水の方が多く、シャクルトンは数日後に船の放棄を決断した。その後乗組員は船から出来る限りの物を運び出した。そして1915年11月21日、エンデュランス号は氷の下へ沈んでいった。この時写真やカメラを運び出したため、この探検隊の記録写真は現在でも見ることが出来る。
 船の物資無しでは、計画されていた探検を続けることは不可能で、今や主たる目的はイギリスへ帰還することそのものとなった。無線は積んでいたのだが、当時の性能では人の住む所までは電波が届かず、探検隊の消息は全くどこにも伝わらなかった。本国も戦争中で、探検隊どころではなかった。誤算は続く。救命艇と物資を曳いて行けるような平らな地表はなかった。氷はいたる所隆起し、その高さは3mに及んだ。更に気候が暖かくなり、流氷は薄くなって犬ぞりでの移動の危険性が増した。
 シャクルトンは一番近いと思われるボーレット島を目指したが、速度は遅く7日間で18kmしか進めない。行進の負担を軽くしようと船荷の多くを置き去りにしてきたため、物資は不足した。一行は後々に備えて持参の保存食には手を付けず、アザラシやペンギンを主要な食糧とした。またあらゆる燃料をアザラシの脂肪でまかなった。しかし氷上のアザラシやペンギンはどこかへと消えてしまった。キャンプの周りで殺し過ぎたのではないか。食料は割り当てにして減らされ、最終的にはそり犬まで食べた。また食糧物資を、出発地点に戻って取ってきたりした。
 見込み違いが重なり、隊員の不平不満は相当溜まったものと思われるが、シャクルトンは隊長として厳しい指導力を発揮した。1916年4月、浮氷が裂けて隊のキャンプが二つに分断された。隊員達は全員3隻の救命艇に乗り込み、結果的に行動力が増した。しかし覆いのない救命艇はアザラシの肉や脂肪はおろか、氷でさえ手にするのか困難だった。また夜の気温は摂氏マイナス30度まで低下し、荒れる海で隊員達は常に海水でずぶ濡れになった。多くの隊員が凍傷にかかり、士気は地に落ちた。このためシャクルトンは、最も近いエレファント島へ帆とオールで向かい、7日後にやっと到着した。
 エレファント島は剥き出しの岩や氷で出来た、完全に不毛の土地で付近に船の通る航路はなかった。南極の冬、暗黒の季節は急速に近づいている。シャクルトンは隊を分け、自らが率いる6人で捕鯨基地のあるサウス・ジョージア島へ向かう事にした。3隻あった救命ボートの中で、一番ましなジェイムズ・ケアード号(遠征の出資者の名前からとった。)を選び、真に合わせの道具と材料でボートを改装した。舷側の高さをあげ竜骨を補強し、木財と帆布で間に合せの甲板を作った。油絵の具とアザラシの血で防水加工を施した。2本のマストを立て、約1トンのバラストを足して重くし、転覆する危険を減らした。この悪条件の下で腕の良い船大工だ。とはいえ長さ7mの救命ボートである。
 この船で世界の中で最も荒れ狂う海域に乗り入れるのだ。船乗りは何世紀も前からこの海域のことを、「吠える40度」「狂う50度」「絶叫する60度」と呼んできた。エレファント島は南緯61度にある魔のドレーク海峡の南側境界にあり、目指す南緯54度にあるサウス・ジョージア島までは1,500kmだ。波は普通で7m、しばしば20mを超える。風速は度々20mになる。シャクルトンは信頼出来る若者、天測の名人、船大工と問題を抱える2人を選びきっちり1ヶ月分の食糧を積んだ。1ヶ月を過ぎたらどのみち生き残れない。天測は日の出前の僅かな時間、縦に横に揺れるボートの上で目視で行われた。悪天候の中観測出来たのは4回だけだったが、実に正確であった。一度真夜中に見たこともない大波が被り、船はほとんど水没した。全員で必死になって海水を掻き出して沈没を免れた。
 3人づつで交替し、舵と帆と水の掻い出しを行い、非番の3人は船首の小さな覆いのあるスペースで休んだ。衣服はそりの旅を想定してデザインされたもので耐水性はなく、凍るような海水は容赦なく浸みとおった。気温が急速に低下し、凍った飛沫が蓄積されて転覆する危険性が出てきたので、斧を持って横揺れする甲板にはい出て氷を落とした。
 そしてついに14日目に島を見つけた。そこでこれまで経験したこともないような最大級のハリケーンに襲われ、9時間の苦闘ののちかろうじて上陸を果たした。捕鯨基地は島の反対側にあったが、何人かの隊員は弱っていて船で島を廻りこむのは不可能だった。シャクルトンは海岸にボートを引っ繰り返して待機所を作り、まだ歩ける3人の隊員で山越えをして島の反対側にある捕鯨基地を目指した。山の尾根、氷河を横切り36時間連続で旅を続け、体力のぎりぎりのところで基地にたどり着いた。
 探検隊が消息を絶って2年、初めて文明社会と連絡が取れた。島の反対側の3人は翌日救出された。救命ボート、ジェイムズ・ケアード号はその後ロンドンまで持ち帰り、現在はシャクルトンの母校ダリッジ・カレッジで保存されている。シャクルトンはエレファント島に残した、信頼する副隊長以下22名を救出すべく、基地に着いた3日後から航海に出たがそう簡単にはいかなかった。その間、島に残留した22名は暴風によってテントがずたずたに引き裂かれたため、2つの救命艇を屋根として使い、海岸の石を用いて小さな小屋を建てた。テントの残骸を壁に使い側面に雪を積み上げた。この小屋はひんぱんに起こる地吹雪や時折吹くハリケーン級の暴風にも耐えたが、天候が良くなると凍らせておいたペンギンやアザラシの肉が溶けて腐り始め、断熱のために積み上げた雪が溶けだして床が海水であふれた。
 シャクルトンは残された隊員の救出を何度も試み、実に4回目にして漸くエレファント島に戻ることが出来た。一、二、三回の挑戦は、ウルグアイ政府や個人の援助で行ったが、浮氷群と悪天候に阻まれて失敗した。そして遂にエレファント島を発ってから四か月後の1916年8月末、シャクルトンはチリ海軍の船を借りて取り残された22名全員を救出した。
 摂氏マイナス30度を超える極寒の地、荒れ狂う暴風の中で2年間、誰に知られる事もなく苦闘した探検隊28名はシャクルトンの指揮下、全員が生還した。

 しかしシャクルトン探検隊の、ロス海支隊では犠牲者が出た。もともとシャクルトンの帝国南極横断探検隊は2つの隊で構成されていた。第一の部隊はシャクルトン自身が指揮し、エンドュアランス号でウェデル海に行きそこに基地を設立し、選抜隊が南極点を経由してロス海のマクマード入江まで大陸を3,000km横断する。第二の隊はイニーアス・マッキントッシュの指揮下に、オーロラ号でロス海の基地に向かい、シャクルトンが通って来ると考えられるルートに補給物資を置いておく。
 マッキントッシュはシャクルトンから全面的な信頼を得ていた。彼がオーストラリアに着くと財政と組織の問題が待ち受けていた。オーロラ号は堅牢な捕鯨船だが、船齢40年の老いた船で別の航海から帰ってきたばかりだった。修理の為に出港が遅れ1915年1月にマクマード入江に到着した時には、予定より3週間遅れていた。マッキントッシュは一等航海士のステンハウスを船の指揮官に残し、自ら犬ぞり隊を率いて見事補給所の設置を成し遂げた。
 ステンハウスは残りの陸上部隊と物資の陸揚げを、マクマード入江が冬に向かって凍る前の数週間で成し遂げなければならない。ステンハウスは何度も失敗した後でオーロラ号を所定の位置に操船し、2つの大きな錨を投じて海底に固定した。戦艦でも保持できるほどの太綱と錨が使われた。しかし冬の厳しい気象に晒されたオーロラ号は4月半ばまでに難破船のような状態になっていた。
 食糧の一部は岸に揚げられたが、陸上部隊の個人備品、燃料、装備の大半は未だ船内にあった。船は冬の間もそこに留まっている予定だったが、5月始め激しい風が吹き、太綱が錨から切れた。オーロラ号は大きな氷の流れに乗り、湾の中に漂い始めた。この時点でオーロラ号には18人の乗組員が乗船し、岸には10人が残された。オーロラ号は脱出の努力むなしく氷に閉じ込められたまま北へ流され始めたが、悲惨なのは衣類や食糧もろくに無いまま取り残された陸上隊だ。
 オーロラ号は結局312日間漂流を続け、その間舵が壊れやっとニュージーランドにたどり着いた時は、沈没寸前の状態だった。オーロラ号は1916年4月にNZに着き、6月にシャクルトンが突然フォークランド諸島に現れた。1917年1月、修理が終わりほとんど新しい乗組員に入れ替わったオーロラ号がエバンス岬に到着し、陸上部隊の生存者7人を収容した。マッキントッシュ始め3人が死んでいた。
 シャクルトンは1922年、新たな南極探検を組織する。しかし彼はサウス・ジョージア島に着いて直ぐに心臓発作により急死し、その地に葬られた。この探検隊は隊長の死後、ほとんど見るべき成果をあげずに引き返した。これをもって極地探検の英雄時代は終わりを告げた。


ギリヤークとオロチョン

2016年03月08日 09時23分49秒 | エッセイ
 ギリヤークとオロチョン

 ギリヤーク人って知ってる?ギリヤークでネット検索すると、必ずギリヤーク尼ヶ崎が出てくる。舞踏の大道芸人だ。全身白塗りで、たった今墓穴から出てきましたって風情でくねくね踊る。インパクト抜群、子供が見たら引きつけを起こして3日は泣きやまない。一度どこかの路傍で見たことがある。何十年も前の話だ。どこでどんな状況でギリヤーク尼ヶ崎のおっさんに遭ったのか全く覚えていないが、あの白塗りクネクネは鮮明に覚えている。彼は母方にギリヤーク人と欧州人の血が混ざっているそうだ。
 「ギリヤーク」はロシア語風に訛ったもので、もともとは「ギリミ(吉里迷)」といった。「漕ぐ」に由来し、「大きな舟に乗る人々」がその意。現在は「人」を意味する「ニヴフ」という自称を用い、ニヴフ民族と呼ばれている。樺太と対岸のアムール川下流域に住み、古くは狩猟・魚猟をしていた。また近世には日本と清の貿易の仲介もしていた。なかなか才覚のある人達だ。
 現在多くはロシア領内に住む(総人口約5,300人)が、第二次大戦前に日本領だった南樺太に居住して、日本国籍を持っていた者は網走市などに強制移住されたり、進んで移住したりした。1966年時点で網走3世帯、函館2世帯、札幌3世帯で30人。
 吉里迷はモンゴルの遠征に屈し服従した(1263年)。そして元は吉里迷の要請を受け、骨嵬(クイ)と于里于(イリウ)を攻撃する。骨嵬(苦夷、蝦夷とも)はアイヌを指している。亦里于は不明だ。これが「北からの蒙古襲来」(1264年)で、日本の元寇(文永の役、1274年)より10年早い。
 間宮林蔵が樺太西岸のニヴフ集落を訪れたのは1808年と1809年、アムール川下流域に入ったのは1809年であった。林蔵はニヴフを「スメレンクル夷」と記した。これは樺太アイヌ語の「sumari(キツネ)」と人をいう「クイ」が合わさった「キツネびと」を意味するらしい。
 ギリヤーク人の他に、樺太にはアイヌからオロッコ(Orokko)と呼ばれる少数民族がいた。ウィルタとも呼ばれる。現在ロシア国内にいるウィルタ族の総人口は推定346人。ウィルタも南樺太から敗戦後に日本に移住した家族が、1978年の時点で網走市に6世帯13人いたという調査がある。最後のモヒカン族、ならぬ消えゆくオロッコ族だな。
 ではオロチョン族はどうだろう。北海道にはオロチョンラーメンがあるが、オロチョン族も日本に移住したのか?答えは否。オロチョン族はヤクート族などと共に狩猟とトナカイの遊牧で暮らしている。広くはツングース系のエヴェンキ族に入る。民族がピラミッド状に裾広がりになっている。ツングース系といえば、中国で金王朝を築いた女真族も、清を築いた満州族も、渤海国も含まれる。森の勇壮な民だ。しかしこのオロチョン、樺太には住んでいなかったので、近代日本との直接の繋がりは無い。
 では何故北海道にオロチョンラーメンがあるのか。単に語呂が良かったというだけらしい。ジンギスカンと同じだね。



ボートでカレイを

2016年03月03日 18時01分42秒 | エッセイ
   ボートでカレイを

 川釣りはよく知らない。ブラックバスを釣った事は無い。だけど海の魚なら数限りなく釣って喰ってきた。海釣りの良いところは、釣った獲物がそのまま食材になることだな。新鮮だからうまいんだな、これが。でも何事にも例外はある。真夏に釣れ過ぎたサバとソーダガツオは身がバサバサ。腕力のトレーニングのようだったエチオピア。エチオピアとはシマガツオの別名というか愛称なのだが。昭和の時代も相当古い頃に、エチオピア皇帝(王?)ハイレ・セラシエが来日した年にバカ釣れしたので、エチオピアと名付けられた。こういう命名は面白いね。
 数100m道糸を下げ、指定の棚(海底近くだと思うが?)に達すればガツン、達すればガツンといくらでも釣れる。40cmくらいの肉厚扁平な魚だから重い。釣るのは実に楽しい。だがそれも最初の三匹までだ。乗り合いの釣り人は全員電動リールを使っている。掛ったらスイッチポン、後は自動でジージー。その中で一人必死にリールを巻いて巻いて、ヒーヒー言いながら釣った。確か15-6匹釣ってクーラーは満タンになった。
 ところがこの日、船上で怪我をした。大型ナイフでエチオピアの腹を切り、はらわたとエラを取り外して海へ捨てる。ウミネコが空中からダイブして、それをすかさず食う。どうせ家でやるその作業を、船上で済ませておけばゴミ箱の中でくさくならないし、鳥の栄養にもなる。おまけにカミさんの小言も多少は減るし、またこれは乱暴な血抜きになるのかもしれない。
 その作業中に注意力が散漫になって、左手の親指の関節部分のちょっと下を、2cmほどザックリと切ってしまったのだ。思いの他深い傷で、血がドクドク出てくるが、痛くはない。海水に漬けた手ぬぐいをきつく絞って指に巻いたが、血は止まらず手ぬぐいがみるみる赤くなる。こりゃどうしよう。かなりな怪我だね、こりゃ。でもここで自分が船頭に申告したら船は桟橋に戻ってしまう。そうなるとここにいる20数人の釣り人は、払った金の半分の釣果と楽しみになってしまうじゃない。自分はそこで釣りを止め、親指を更にきつく縛った。そのうちにやっと出血が止まった。結局医者にも行かなかったが、今でも大きな傷跡が残っている。やはり深傷だったんだな。
 そんな苦労をして釣りあげたエチオピアだが、煮ても焼いてもくそまずい。とても食えたもんじゃあない。多分味噌漬けや粕漬けにすれば良いのかもしれないが、この大量の魚肉をそうするだけの味噌が惜しい。またそれではたしてうまくなるのか疑問だ。5cmのダボハゼでも頭を落として味噌汁の具とする自分としては、珍しく捨ててしまったよ。まあシマガツオにも種類があるらしい。彼の名誉のために一言。あちゃー、エチオピアの話、長かったなー。
 ボート釣りの悪い点は、波風に弱いこと。自力で漕ぐので、大して沖へは行けないこと。途中でエサやコマセ、仕掛けが無くなっても追加出来ないこと。良い点は、釣り場も時間も自分で決められること。隣とお祭り(糸や仕掛けが隣や後ろの釣り人に絡むこと。)しないこと。値段が乗り合いに較べて安いこと。そして何より良いのは、海面との距離が近く(ほとんどすれすれ)魚の当たりが鮮明で、上げてくる途中も迫力があることだな。
 アジ釣りでもボートで小さなコマセ袋を使い、針の小さなサビキを用いた釣りは、つける重りも小さくてダイレクトに当たりが来る。いきなりカカカっガツガツガツと来るとドキドキする。これがアジ乗り合いでは、当たりが竿の手元までは伝わらない。竿先がツンツンするくらいだ。上げてくる途中でも、うん、竿がしなっている、お祭りではないし、間違いなく掛っているな。そんな感じだ。まあサバ、アイナメ、タチウオといった大きな魚が掛れば、乗り合いで使う頑丈な竿でも引きは楽しめるけどね。サバやイナダのような青物は走り回るから、隣とお祭りする前にしゃにむにリールを巻いて上げなくちゃならない。引きを楽しむ余裕はない。
 乗り合いでは、この場所いいじゃん、もうちょっと釣ろうよと思っても、船頭が「ハイ、上げて」と言ったら上げなくちゃならない。いつまでこの釣れない場所でやるの、も同じことだ。その点、ボートでは自分が船頭なんだから、ここらでいいか、いや公営プールの前もっと沖へとか、海苔シビの二段目と三段目の間もっと走水寄り、とか自由に選べる。しかし移動は手こぎで錨の上げ下げは労働だ。
 季節によって何が釣れるのかは、だいたいの見当はつくが、たまにしか行かないので結局は出たとこ勝負になる。底物(キス、メゴチ、カレイ等)か胴付き(カサゴ、イシモチ、ウマヅラハギ等)かサビキ&コマセ(アジ、サバ、シコイワシ等)なのか。最初の一投は特に迷う。サビキの重りの代わりにテンビンをつけて、そこから仕掛けを伸ばして中層と底の両狙いにしたりする。その日の獲物が小さければ、ハリスと針を細くて小さいものにしたり、潮が濁っていたら太くするなど、頭の中であれこれ考え、手持ちの材料の中で工夫する。それがまた楽しい。
 ボート釣りでは底が砂地だったり、岩礁だったりまた海草が生えていたりするので、釣れてくる魚種が様々になる。一日で20種近くを釣ったこともある。小魚がほとんどだったけど。また食べられないものが釣れてきたりもする。ヒトデ(いっちょ前に餌を飲みこむ。)、ハオコゼ、サメの子、小フグ、小さすぎるキスやカレイ。その日よく釣れる獲物がメインターゲットになるが、一番釣りたいのはカレイだな。
 定番のアジは持ち帰って食べる時は大変結構だが、釣りの趣きからしたら今一つだ。重りを船上からぶん投げて、底に着いたらゆっくりと引いてくるキスの探り釣りや、キスよりも少々太いハリスと針にたっぷりの青イソメをつけて、舟の下に置き竿にするカレイ釣りの方が面白い。掛れば面白いが、釣れる確率はアジやイシモチなどよりもずっと落ちる。カレイは昔に比べてずいぶんと減った。昔はカレイ乗り合いがあったが、今はない。あの乗り合いで子っぱカレイを根こそぎ釣ったのが良くなかったんだろう。最近では滅多に掛らなくなった。一日釣ってアジが20匹なら、30cmのカレイが一匹のほうが俺は良い。
 一度38cmのマコガレイをボートで釣ったことがある。水深の深い京浜大津だ。置き竿に掛っていたのだが、餌を飲みこんだままじっとしていたので、竿を巻き始めてから気がついた。竿が満月にしなった。根掛り?と思った瞬間にググーと強く引く。おお、魚だ。大きい!でも安心は出来ない。針に掛ったまま海底の根(岩礁の穴の中)に潜ったかもしれない。まず海底から引き離さなければ。ゆっくりゆっくりリールを巻くと、海底の獲物が横に走った。凄い力だ。ボートが獲物に引っ張られて動く。『老人と海』じゃああるまいに。錨で固定されているとはいえ、小さなボートはちょっとした力でフラフラ動くんだ。
 こりゃあでかい。大物だとは分かるが、どんな魚か分からない。リールのドラグを調整してゆっくりと巻く。この魚は急にグーっと力をかける。すばしこくはないが、力が強い。このグーの頂点で心臓がバクバクする。大きめの針、多少太めのハリスだが基本的にキス用の繊細な仕掛けなんだ。グー、ブチっでハイお仕舞い。あれは何だったんだろうね、は何度も経験した。こういう緊迫したやり取りでは時を忘れる。5分?10分?10数分はかかったろうか。獲物が海底から離れてからがまた長かった。グーと引くのに耐えるのもしんどいが、急にフっと軽くなるのは心臓に悪い。
 あっくそバレた。針をうまく外されたか、と思った。だがその直後にグっグっと圧がかかる。獲物が反転したか、海面に向かった瞬間軽くなるのだ。徐々にこの動きはカレイじゃないか、と思えてきた。そしてついに、水面下の魚体が見えた。黒っぽいひし形、やったカレイだ。こりゃーでかい。
 ところがギッチョンチョン、ここからが難しいんだ。水面を見たカレイは必死の抵抗、その最後の反撃でブチっ、引き揚げる際に海中と空気中の比重の差でブチっ。捕虫網の先っぽのようなものを持っていれば海中で捕獲出来るので、取りこみの成功率は高くなる。だがあいにくその時は持っていなかった。頼むぜ、頼むぜよ、上がってくれよ。海中に姿を現し、右へ左へ突っ込んで暴れるカレイを、腕を海中に入れ抱えるようにして、ボートの上に持ち上げた。ドサっと落ちた瞬間に、針がブチっと切れた。危なかったー。これが38cmのマコガレイだった。
 クーラーボックスの中でも暴れて内側からクーラーを倒すほどだった。いっそナイフを入れて一気に締めれば良かった。だけどこれを釣りあげたら、5分ほど虚脱状態になっちゃった。家に持ち帰って煮魚にしたが、立派な卵を腹にパンパンに抱えていた。大きくて鍋に入りきらず、半分に切った。生姜を入れてシンプルに煮たが、これは絶品だった。あんなにうまい煮魚は食ったことがない。白身の魚肉は箸でホロっと骨から離れる。後に28cmほどのヒラメを釣ったが、あのマコガレイにはてんで敵わない。今これを書いていて、あのカレイに済まなかった、という思いがわいてきた。さぞ卵を生みたかったろうに。
 カレイは冬の魚だが、春先に突然何日かパカパカと釣れたりする。しかし会社員は今釣れているからといって、急には休めない。次の週にいそいそと行ってみると、残念2-3日前まではよく釣れていたのにね、ってことになる。ああ何んだかまた釣りに行きたくなってきた。殺生堪忍。