続きです。
陽の高まりとともにあいつの墓に向かう街道は車列渋滞が始まった。
街道の細い歩道は雑草が点在し舗装もひび割れ
歩く人はいない。
足取り重くヨタヨタ歩く姿は、以前も
ホームレスに間違えられたが
渋滞車列の窓からは、擦り切れた姿恰好に
ゴミ箱であさったようなリュックを背負った爺さんしか見えないだろう。
汗ばむシャツと顔面に滴る汗を拭いながら
ひたすら松戸の共同墓地に向かう。
道行で回想しながら歩む。
木下街道(きおろし)を行く2
2010年3月 余命旦夕迫ったあいつを
このまま死なせる訳にはいかない。
私は予備校時代一緒で
大学入学も一緒
同じく神奈川県の高校で私は海辺の高校
その男は山より厚木にある高校。
手紙を書いたのだ。
再掲
2年前 2010年3月の手紙。(1)
2012-03-25 16:47:17
パソコンに保存した2年前、2010年 3月の手紙を開いた。
当時 私はあいつの容態が日毎に悪くなってゆくのを間近で見て焦燥感で一杯だった。
そして、卒業以来音信の途絶えていた友人に手紙を書いたのだった。
あいつは大学合気道部主将だった。
副将をしていたのは浪人時代同じ予備校にいた。
その友人の住所をあいつから聞き出した。
○○様
私は○○大学 体育会山岳部にいた△▲です。
卒業以来の長いご無沙汰しています。
私達団塊世代も卒業後還暦を越え
過ぎし青春の日々振り返ることや
懐かしき友人と酒酌み交わす60代になりました。
貴君も如何なる歳月をお過ごしになられたか知るよしなく
しかしながら元気であると貴君と同じ合気道部にいた
□□君から聞いていました。
私も幾多の波乱の人生ありましたが
何とか夜露しのぎ今日に至りましたが
まだまだ働かなければならない状況です。
さて突然のお手紙驚き当惑されていると存じます。
□□君は私の住まい近く居住していまして
日常的に会うこと、また私の仕事をお手伝いしていただくこと
ありました。
しかし 昨年6月食道癌であることが判明
9月には 柏の癌センターにて切除しました。
その代償に声帯切除という代償もあり
声を失いました。
それでも元気で相変わらず酒豪ぶりを発揮
仕事していないので午後からは酒三昧
ところが、2月になり癌が再発していることが分かり
リンパ球 肺に転移しました。
3月12日 千葉 谷津保険病院にて再手術しました。
当人は知らないことですが、妹様からの
連絡により余命は三ヶ月から9ヶ月以内との
連絡を受けました。
ご存知のように彼は独身既に両親は他界
入間に7歳離れた妹様がいるのみ
又親族との交流も少ないと聞きました。
今後入退院を繰り返すと聞いています。
私も近くに住むのですが世話も少ししか出来ず
限界を感じています。
手紙にて、□□君の現況を連絡したわけです。
今後も状況次第では貴君に電話等をすることになるかも知れません。
以上のことは まだ学生時代の仲間は殆ど知らない。
もしそちらの都合が良い時あればお会いしたいと思います。
わたしの連絡は以下です。
2010年3月13日
○○
一週間過ぎても連絡が来なかった。
その後 夜遅く自宅に電話が入った。
彼は大手建設会社の役員で関西中部地区の総責任者で
大阪に単身赴任しており、郵便が転送されて遅くなった。
又、私の携帯電話番号を手紙に間違えて書いていた。
その後、40年ぶりに再会する。
続く