馬鹿も一心!

表題を変えました。
人生要領良く生きられず、騙されても騙されも
懸命に働いています。

葉隠れ 相討ち 捨て身

2010-09-25 16:01:28 | 日記
武士道の精神を説いた抄訳 「葉隠れ」を読み返していた。その中に「相討ち」という言葉があった。同時に打ち合うという意味ではなく、互いに打ち倒し合うという剣理であって、それには「捨て身」の境地が求められる。この言葉、非常に重い、私の心内は毎日がこの言葉をどのように解釈し決断するかの繰り返しをしている。 ずっと古い出来事に「相討ち」「捨て身」の覚悟で行動したことがある。昭和56年3月28日 労働組合書記長として春闘(現在は使われていない)を指揮していた。この夜娘が誕生した。帰宅も出来ず会社の社員クラブで組合役員とストライキ準備していた。しかし妻の出産にも立ち会えなかった。 4月も帰宅は出来ない程、労使交渉こじれ打開 妥結の道は閉ざされたまま、ついにゴールデンウイークに突入した。日夜眠れぬ日々が続いた。連休明け私は決断した。秘密裏に作戦を一人練った。公共施設を集会の為借りる手続きをした。その申請を公共施設にしたところ、消防署にも集会の届けを提出してくださいと言われた。私は最寄りの消防署に行き公共施設での借用日と集会目的と人数を申請した。消防署は何も言わず黙って届書を受理した。 連休中も労使交渉は断続的続いたが互いに合意に至らない。ついに会社側と最終回答として深夜の労使交渉に臨んだ。組合は従業員98%の支持でスト権を確立していた。 会社側労務課長が黒板に労働賃金の数字を黒板に提示した。「これが最後の回答であり一切譲歩しない」明言した。組合要求とは若干だが開きがあった。組合要求には答えてくれなかった。どの位の秒数か分からないが私は言葉が出なかった。頭の中は激しく台風のごとき揺れ動いていた。これで終わりだと思った。私はゆっくりと短いセンテンスで話した。 NOとは言わず、なぜその数字が受け入れられないかを語った。社側、人事部長、人事課長、労務課長は真一文字に口を閉め私を見つめていた。私は話を終えた。労働課長が「そうしますと会社回答はのめないということですか」と尋ねた。私は頷いた。労働課長は立ち上がり黒板に示した会社側回答を消し組合要求の数字を書いた。書記長 これでいいですね。私はぼんやりと黒板の数字を見つめていた。会社側全員立ち上がり、無言で会議室を出て行った。私は立ち上がれず「やっと終わった、生まれた娘を見ることが出来るのだ」朦朧とした気分だった。勝利した感動は無く早く帰宅して何も考えずに眠りたかった。後に労働課長となぜ組合要求通りで妥結したのか聞いた。課長は「実は警察から組合がストを打つ、そして公会堂も借りたと会社側に密告したのだ」驚いた会社側言った。「組合は政治的活動をする団体ではなく、企業内組合ですので賃金値上げ交渉です」従って協力は無用ですと断った。その話を聞いて驚いたが、確かに公共施設借用目的にストライキの為と書いた。消防署にもストライキ決行した場合の集合場所と届け出た。これらの情報が警察署に流れ、会社側への通報となった。こうした状況の中で最終交渉が行われ会社側は書記長が相討ち、捨て身で来ると感じとった。単なる恫喝ではなく本気だと思ったのだ。私は交渉中もストライキについては触れることはなかった。皮肉なことに会社側は愚かな警察の密告によりびびり、何もしない組合に折れてしまったのだ。これこそ、相討ち覚悟、捨て身の戦法になっていたのだ。警察は組合に逆に有利なる加担を結果的にしてしまった。 後に組合として勝利したが、私個人へは報復が待っていた。陰湿な人事による「ざまー見ろ」的処遇会社に恨みは沸かなかった、それより周囲の組合幹部のよそよそしい視線と寄り付かなくなった組合幹部。私は 会社を去った。 2歳の息子、生まれたばかりの娘、マンションのローンを抱えしかし、めげていられなかった。夫として父として食べさせていかなければならなかった。絶対にみんなを見返すのだいう激しい怨念のように心身を奮い立たせた。後年、当時の労務課長は順調に出世して関連会社社長になった。会社を破壊するという汚名を着せて追い出した心の重荷を背負っていた。職務上致し方なかったのだが、互いに本心は理解していた。無二の親友になったのだ。今は 伊豆城ヶ崎海岸に夫人と暮らし、私も桜を見て温泉に浸かる。上京して柳橋にも立ち寄る。 次回続く 余談、イチローが10年連続200本安打達成その思いのコメントが掲載されていた。ここまでの道のりは> 1年目の春季キャンプでマイク・ハンプトン投手(当時ロッキーズのエース)対戦したとき(メディアからヒット打てると思うか)との質問が飛んできた。あの質問は一生忘れない。 私も先週おばさんとの会食で昔の屈辱の話をしたら「そんな事 いつまでも覚えている。くだらない」とお叱りを受けたが何も言わなかった。スケールは象と蟻程の違いがあるが、その屈辱 怨念こそ苦しい戦いに勝つ原動力なのだ。実体験しない人ほど、きれい事をもっともらしくしゃべる。

たまに贅沢

2010-09-25 11:31:40 | 日記
9月24日(金)昼 浦賀から来客、この方浅草橋に事務所があったが
不況で撤退、自宅がある神奈川浦賀に事務所移す。
しかし、都内に電話FAXが無いと顧客と連絡とりずらい事もあり
弊社の事務所に電話を置き転送させることにした。
私は承諾した。元電気メーカーで技術者として勤めていたことがあり
技術面の相談に乗ってもらっている。
今後もお願いすることがある。

デザイナー女性が西表島に行っているので妻が来て昼食を作った。
毎年 9月末に佐渡島から10キロの新米を予約購入している。
その新米と新秋刀魚、漬物、サラダ、味噌汁で
浦賀から来た方も一緒に食べた。
その方が突然 ご飯のお代わりが欲しいと言った。
食べる前に新米とは言わなかった。
この方、グルメで浦賀に住んでいるのも釣りが好きで
ヨットを所有して休日は釣り三昧
毎朝 ご飯を食べていると言う。
こんなにおいしいお米はめったに食べられないと感嘆!
佐渡島の農家から直接買うのだが8年前あるきっかけがあって
知り合いになり毎年8月末に予約購入している。
ご飯と漬物だけで十分おいいしい。

午後から、妻とゴルフクリップマーカーを検品
北海道のゴルフ場でホールインワンを成し遂げた方の
記念品を裏にレーザー彫刻で個人名を入れた。
数量103個

夕方 妻への労いも兼ねて息子とその嫁さんを連れて
柳橋にある洋食大吉で食事
作家池波正太郎が通い小説にも登場する下町の洋食屋さんだ。
付き出しにお新香が付く、食堂の雰囲気
蟹クリームコロッケ、ビーフシチューは人気で
この濃厚で柔らかい食感はにはうなる。
息子の嫁さん大感激
午後9時、浅草橋で息子たちと散会。
たまに贅沢。 
これが、がんばれる源。