なにごとも反面教師だからね。
1. Joe Jones Says:
September 22nd, 2008 at 7:29 pm
I don’t think it’s correct to ascribe any sort of political leaning to the Japanese judiciary. My conclusion, after viewing the system from law offices and legal departments for a few years, is that judges leave their politics at the door here. They look at the facts, look at the relevant law on the books, and write down their gut feeling as to which legal box the case should fall in. This is exactly the opposite of what most US Supreme Court justices do: they take the case, decide how it should come out and then come up with a legal argument to support that conclusion.
The problem is that Japanese lawyers and judges (who go through the same system of formal training) don’t have much training in logic. You can see this in how they write. I can’t count the number of paragraphs I have seen in court opinions that effectively say “This is X. It is X because, well, it’s unquestionably X and it would be stupid to think it is Y.” For lawyers it’s forgivable, since they’re supposed to zealously argue for a client, but for judges it’s harder to stomach. The new law school system is supposed to help, but I’m not sure that it makes any difference since there is so little culture of formal debate here.
debito.org/?p=1908#comment-168570
日本の最高裁の政治的偏りは薄いとして、日米司法文化の違いを語る。
日本では、事案の観察、関連法を調査、その当てはめ、をするけれど、米国では、妥当な結論、それに対する法的論拠という具合に進む、という。
これは皮相な見解だろう。
日本の入門的な法律書によると、むしろ、
現実には、
事案 妥当な結論の検討 それに見合った、関連法・判例の解釈と当てはめをするという作業が大筋で、しかし、判決や最終的な記述では、事案、関連法 (解釈)あてはめ、ということになるにすぎない。
米国では法律を無視して、法律論ぬきで、常識論だけで、判決がだせるのか?な、馬鹿な話はなかろう。
最高裁への政治の影響に関しても、熱く論じられているが、知らんのかね?本屋とかさ、図書館いけばわかることでしょうが。
また、日本での判決などの論述の運びは、これはXである、なぜならば、Xであることが明白であるからである、Yであったらおかしい、というような運びになる、という。
日本の知識人はアホだと言っているようなものである。
そんなもんがあったらおれもおかしいと思うが、さすがに、そういったものはあまりないだろう。ーーー全然ないかどうかはわからんが。
主張と理由というのは、大学受験で、別に法律文でなくてもいわれることだし、判決や論文など、同僚その他学者からのかなり手厳し批判にさらされている。
法律の試験問題なんかも、学説・理由・批判の3点セットが理解できていないと、解けないようにできているのも多い。
日本では、ディベート文化がないから、こうなってしまうのだ、という。
欧米にはディベート文化がある、と日本でもよく言われてきた。だから、ある論点に関して、冷静に様々な視点から検討でき、また、論者と議論を区別できる文化があるのだ、といわれてきた。
ーーーーとんでもない話だ。そういった優れた議論はあるが、しかし、一般には、主張の論拠の当不当と論者の正邪の区別ができない、事実は調査しない、自分がときたまいいと思った意見に執着する、不当な一般化はする、などなど、どこがディベート文化じゃ、と聞きたいケースは山ほどある。
そうした期待していると、むしろ失望する。
そもそもこのコメントの構成も、日本はしかじか、アメリカはしかじか、なぜならおれの印象がそうだからだ、そして、その違いは文化的な違いだ、という安易な運びになっているではないか?
最高裁の判決を批判するなら判決も英語になっていることだし、一例でも出してくれよ。有道先生の提訴した判決文でいいよ。
ただ、欧米人の中には道義や論理に訴えているかのようなレトリックにくるむのがうまい人が多いし、、こういった傲慢な文化論を正々堂々と、平然と言うから、「そんなもんかいな」などと騙されるひとがいるのである。
ま、そこらへんは日本の論者もーーーおれも含めてーーー真似させていただくべきかもしれんが・・・・
参考記事
Law 101
本 Law, Pragmatism, And Democracy/ Posner
英米法概説
日本の司法文化など