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伯父の命日(8.28)

2012-08-28 18:35:24 | 日記
8月28日  (火曜日)  晴れ  今日も暑い  夕


お彼岸まではこんな天候が続くのだ!
”暑さ寒さも彼岸まで”と言うから・・・我慢できるが

これが、予報もなければ、情報も無い状況だと、
人はどうするんだろうなあ~!と考えてしまう。

多分に涼しい土地に引っ越す人と このまま、ジッと我慢する人に別れそうだ。

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午前中、父の兄(伯父さん)の命日でお線香上げに出かける。

この伯父さんが、生前はよく話をしてくれたものだ
戦争という馬鹿げなことをしたことや
 自身が2.26事件のK庁攻撃隊だったことなど
 本当は、話はしたくなかったんだろうが
 凄惨な戦場の事など・・・私は”ゾクゾク”して聞いていた。
 訳もわからず参加させられていた事も。

中学の授業で事件の事は知っていたが、生き証人がここに居るなんて
当時は高校になったばかりで、びっくりしたものだ。

私はこの伯父さんが好きだった。何せ、なんでも信じてくれた。
連合いになる人の紹介も一番先に行ったくらいだったから・・
酒は飲めなくて、大福や饅頭が大好きで、顔に似合わない人だった。


私の記憶力はまだ大丈夫の様だ。・・が欠けてきているんだろうな!
わからない!
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その後マレー作戦やらで戦車隊だったらしいが、3台もつぶされて
生き残ったが、ガダルカナル島への命令で
持っていた全てを捨てて挑んだが、ガ島はそれより前に全滅してしまったとのこと
など・・・・
あのワニの皮は惜しかったとかいっていた。記憶がある。

まあ!私の理解がどこまでなのかわかってないが
多くの方の命の引き換えに
今が有ることは、肝に銘じたものだった。
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従姉妹夫妻が話し相手をしてくれる。

お互いの親戚の伯父・叔母の状況など聞いたり
世間話で時が過ぎる。

こう暑くては、日中何もできないので、家にいるとのことで
何処も一緒だ!と笑って・・・過ぎる。

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孫君たちは一泊旅行に出かけた。
今日と明日はは静かだ・・・・やりたい事がはかどる。

一昨日、買ってやった本”宇宙”を見て
何か真似て書いている。

新聞も見て、何んだか書きだしている。
30分ほどは静かだ!
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みたら、書き順がでたらめで、記号らしきものが・・・・これって字?なんだ
こんな風に見えるんだ。

まあ良しとするか・・・・・・・・・。

絵の才能は・・・難しいかも・・・・・。

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まあ居るとうるさいが、居ないと気が抜ける。
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参考に記述)

2.26事件

昭和11年2月26日

下士官兵に告ぐ
1 今カラデモ遅クナイカラ原隊に帰レ!
2 抵抗スル者ハ逆賊デアルカラ射殺スル!
3 お前達ノ父母兄弟ハ国賊トナル皆泣イテオルゾ!


事件後三日後 上記の文発令
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これは2・26事件ごの投降命令文
軍部の一部が軍部の上層部意見が食い違い、クーデターをを決起!

この事件を起こす原因にもなっている、相沢事件、相沢中佐・永田少将を殺害!
事件を起こした軍の皇道派青年将校・安藤輝三・河野・大尉・栗原・中橋・磯辺・野中・中尉

この事件の日雪が降っていた

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当時軍は 統制派・皇道派と分かれていた、

軍は真崎勘三郎教育総監当時の統制派は天皇機関説を遵奉するものである
真崎は統制派であった。


     のち 落語家の柳家小さん師匠が一兵そくでこの事件に参加していたらしい!
     それを聞いた事があります。(おにぎり作りだった)
 
5,15事件後、
さらに昭和11年には、陸軍内部の「皇道派」と「統制派」との抗争による「2,26事件」がおきた。

 超国家主義者「北一輝」の「尊皇討奸」思想の影響を受けた青年将校たちの率いる反乱軍が、「昭和維新」を掲げて、2月26日の早朝、首相官邸はじめ高橋蔵相邸、斉藤内大臣邸、渡辺教育総監邸などを襲撃した、いわばクーデターともいうべき事件であった。

反乱軍は、圧倒的な兵力と重火器によって、警視庁や霞ヶ関、三宅坂一帯の官庁街を制圧、岡田首相の甥の松尾大佐(首相の身代わりになったといわれる)、高橋是清蔵相、斉藤実内大臣、渡辺錠太郎教育総監、などの政府要人を殺害した。

この2,26事件の伏線ともいうべき事件が、その前年の昭和10年8月に起こった「
相沢事件」である。

陸軍内部において、天皇直裁を叫ぶ「皇道派」とこれを統制せんとする幕僚たちの「統制派」との反目から、統制派の領袖であった永田鉄山陸軍省軍務局長を8月12日白昼、局長室において相沢三郎中佐が斬殺したのである。

 相沢中佐は逮捕され軍法会議により死刑判決、翌11年7月3日死刑を執行された。

 2,26事件は、ラジオ放送やビラによる「兵に告ぐ」という
香椎戒厳司令官の命令によって、反乱軍は投降,帰隊して事件は鎮圧されたが、

事件後、野中、河野両大尉は自決、軍法会議の結果、
7月5日反乱罪として青年将校、民間人ら17名に死刑判決が下った。

 一方、首謀者たちの命令のままに何も知らずに参加した
反乱軍の兵士たちの多くは
その後、満州の最前線にやられて、その多くが戦死し、
特に安藤大尉の兵士たちは突撃を強要されてほとんど戦死したという



2、26事件の昭和11年は、その後の歴史勉強では
この事件が意味することを深くは知る由もなかったが、

これから先、陸軍内部では、真崎甚三郎に代表される「皇道派」を蹴落として、
東条英機などの「統制派」が主導権を得て、
蘆溝橋事件から日中戦争へといたる泥沼戦争へ足を踏み入れていくのである。
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★しかし、この9年後には敗戦(終戦)をむかえたわけであるから
 226事件は統制派に大きな機会を与えてしまったのだろう。
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。なお、
★今の状況でも、このままの政治不安・外交軟弱・経済不安が何年も続くと
 外圧・内圧が高まって、 この様な事件の前触れがが起こらない保障はない・・・・。

なんて、いらぬ心配をする。

”平和ボケにしておけ”と誰かが言ってるような気がする。
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