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ポトマックの桜(エライザ・ルアマー・シッドモア)

2012-03-28 05:46:56 | 日記
3月28日 (水曜日)  晴れ   朝方はまだまだ寒い。

新聞記事によると

日本では遅れている桜の開花だが、ワシントンはすでに満開だという。
25日に始まった桜祭りでは東日本大震災での支援への日本の感謝を表す
イベントや、日本観光のPRも行われた。


日本の自然と文化を礼賛したシッドモアも、きっと天国で応援してくれていよう。

ワシントンのポトマック河岸に日本から送られた桜が有名だが
いきさつは? 

少し詳し内容をしらべてみた。
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区内散歩(中央区)の記事に・・・・。

E.R.シッドモア

 東京市長後藤新平の贈った桜が、いまも季節になると、
アメリカの首都ワシントンのポトマック河畔に咲き、
アメリカ市民を楽しませていることはよく知られています。

明治45(1912)年、この桜をアメリカに贈ることになるきっかけを作った人物は、
アメリカ人ジャーナリストで旅行作家のエライザ・ルアマー・シッドモアでした。

シッドモアは、明治17年頃に初めて来日し、それ以後、何度となく日本の各地を訪れ、
桜の花に魅せられた1人でした。

当時のワシントンは、アメリカの首都としての都市計画が完成したばかりで、
ポトマック河畔の埋め立て地は殺風景な状況でした。
シッドモアは、時の大統領タフトの夫人ヘレンに直接会い、
そこに桜並木を作る提案をし、その場で快諾をえたといわれます。

 桜は、東京市が贈ることとなり、明治43年1月、桜の若木2,000本が太平洋を渡り、
ワシントンに到着しましたが、

桜の若木から病害虫が発見され、すべて焼却される悲運に見舞われました。
東京市は再度桜を贈り、2年後にポトマック河畔に植樹することができました。

それから97年間、桜は咲き続け、毎年3月から4月にかけて桜まつりが催され
ワシントン市民や観光客を楽しませ続けています。

シッドモアは、1856(安政3)年、アイオワ州クリントン生まれ、
学校を出てから新聞記者として活躍、その後、文筆の道を選び、
世界各地を冒険旅行をしながら紀行文を発表するようになりました。

当時、女性ひとりで世界各地を旅することはあまり例のないことでした。
シッドモアの初来日は明治17年頃といわれます。

当時、シッドモアの兄が横浜領事館に勤務していたこともあって、
気軽に立ち寄れたのでしょう。

 彼女にとって、日本の印象は、
「夢のパラダイスだ。最初に見える沖合いの緑の小島から、
視界の最後にうつる絵のような小山のいただきまで、そろって美しい。

人家はおもちゃのように見え、そこに住もう男女はお人形みたいだ。

そしてこの人たちの生活マナーは清潔で愛らしく、美的感覚に富み、際立った特徴を持つ。」(『日本・人力車旅情』恩地光夫訳、有隣堂新書、以下引用は同書)というものでした。日本びいきのシッドモアに映った日本人は「最も丁重で、洗練され、審美眼を備えた民族であり、
明朗、快活で、親しみやすく、相手をひきつけるのだ。」というのですが、
少々褒めすぎのきらいがあります。

 日本びいきのシッドモアではありますが、ほとんどの外国人が日本の西欧風の町並みに
陳腐さを感じたのと同じように、銀座の煉瓦街はシッドモアの気を滅入らせています。

 シッドモアの東京見物は人力車を利用しました。

彼女は「さんじろう」という人力車夫をひいきにしたようです。
「さんじろう」は役人の従者としてヨーロッパ旅行を経験したことがあるといい、
片言の英語を話せました。その上世間のニュースやゴシップの情報に通じていました。

「さんじろう」の案内はシッドモアにとって満足するものでした。

芝増上寺、愛宕山、銀座、日本橋、上野、浅草、両国、向島と、
見るものひとつひとつがシッドモアにとって興味深いものでした。

 越後屋(現在の三越)や大丸が催す絹物大バザーは、
いわばパリのルーブル美術館とボン・マルシェ(世界最初の近代百貨店)の東京版である。

とにかく、芝居のように楽しめる。

両店とも目抜き通りの一角を占め、黒く染めたのれんをひらつかせている。
店のマークと屋号が白く浮き立つこののれんが、街路を隔てる唯一の仕切だ。

店内1階は広々とした大部屋になっており、人目で見渡せる。床の部分は、
まわりを取り囲んだ石の通路より1フィート半(約45センチメートル)高く、

普通の畳が敷いてある。・・・ここには商品陳列所もなければ、カウンターもない。
畳には客が何組も座っていて、美しい髪をゆった婦人や、
地味な絹物を着た男性が、目の前にまき散らしたような、色とりどりの生地の山を入念に調べている。

絹織物は、小僧さんが、腕一杯に抱えるか、かごに入れて蔵から取り出してくるのだ。
客の注文があって初めて在庫品が姿を見せることになる。

 大丸は江戸時代以来、日光街道沿いの通旅籠町(現在の大伝馬町)にあった大きな呉服店でした
説明はまだ続くのですが、女性らしい細かな観察です。
シッドモアはさらに足をのばして、上野や向島の隅田堤で桜に出会うのでした。

中央区文化財調査指導員
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この頃の日本にタイムスリップしてみたくなる。

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