ロマンチストの独り言-7
【明石公園】
明石城には、天守閣は造られなかったそうだ。
摂津から播磨に抜ける街道上の重要拠点だったにもかかわらず。
何故?のこの答えも、詳細な専門的記述も歴史学者の範疇だろうから、僕は、目に見える範囲での明石公園の記述だけを続けようと思う。
歴史上の仔細を調べ記述する事には多くの興味を持っているし、少しばかりの自信もある。(と密かに思っているだけだが)
しかし、この章に至る大半は自分自身の周辺を記述しているだけだから、敢えてこの章だけを特別な歴史読本風に綴る事はよそう。
多くの先達の書を紐解き、別の観点で我がふるさと・明石を見る機会も、いずれの折には持てそうな気がしているから。
三笠山周辺
城跡が、公園として整備されたのは随分昔なのだろう。
戦時中の明石空襲では、安全な場所だった筈の明石公園にも爆弾が落とされ、機銃掃射で多くの避難してきた人達が殺されたと聞いた。
県立公園としての整備は、だから戦前からなされていたのだろう。
僕が明石公園に行ったのは、父が明石郵便局に勤めていた頃だから、小学校から中学校に通っていた時期だったと思う。
時折、公園の北、三笠山にあった軟式野球場での郵便局仲間の試合に連れていってもらった記憶が最初である。
行動範囲が、通っていた小学校を中心にした学区内程度でしかなかった(だから、半径1㌔程度だった)僕にとって、
公園は学区外の遠い場所だったし、焼け跡を含めてさほど広くはない遊び場所が中心だったから、とにかく広すぎる場所だった。
そこに茂る樹木の高さも、種類の多さも驚きだった。
展望台からの明石海峡や市街地の眺めは、小学校の校舎の2階からの眺めが一番高いものだったから、足のすくむ思いがしたのも当然だし、遠く南西方向に「焼酎会社」の建物が見渡せるその場所は得難い経験が出来る場所だと思っていた。
景観は今も同じなのだろうが、駅前のビル群が無かった分、より自然だった筈だ。
父達は自転車で野球道具類を運んでいたようだが、僕はいつも徒歩だったと思う。
自転車は買ってもらっていたが、まだまだ遠くまで乗り回すことは許されていなかった。
樽屋町にあった郵便局(道路を挟んで東側にあった市役所は、その後中崎海岸の埋め立て地に移転、郵便局は建て直されたが今も同じ場所に在る)から、歩いて国鉄のガードをくぐり、南西の茶園場町口から公園に入るのが常だった。
戦後十年以上が経過し、周辺も公園の内部も少しは整備されてはいたけれど、それでも崩れ落ちそうに外堀を限っていた石垣の上はこんもりとして森のようになっていたし、雑草が伸びるに任され茂っていた。
管理事務所だったか、駐在所だったかの横を通り、桝形の両側の石垣から鬱蒼と茂っていた樹木のトンネルを抜けると内野席にベンチのあった野球場。
ここでは、毎年春、読売ジャイアンツがキャンプを張っていた時代だった。
その巨人軍の宿泊場所が大手旅館だったことを知ったのは高校時代、そこは同級生の自宅だった。
だが、その頃には巨人軍のキャンプ地は宮崎だったかに変わっていた。
球場の右翼側から正門方向に半周して、北の陸上競技場との間にある園内唯一の自動車道路を横切り、剛ノ東畔を抜けて三笠山と称されていた芝生の丘陵地に辿り着く。
そこは、公式な試合用のグラウンドではなく練習場だったが、両翼にはポールが立っていたし、外野の芝生も手入れは余りされていない様子だったけれど見事な緑(芝生ではなく、雑草が多かったようだが)だった。
父は左利きで、試合前のシートノックなどをしたり、試合中はスコアブックを手にしていたから、きっと監督だったのだろう。
仲良くしてもらった多くの人達(明石郵便局や、近隣の郵便局に勤めていた人達)に、いつもキャッチボールの相手をしてもらった。
当然だが、ボールは硬かった。
当時は軟球、硬球以外にもう一つB球(トップボールと呼んでいた)というのがあった。
試合はこのB球を使っていたようだが、練習ではA球(所謂軟球)だった。
俗に言う草野球だったけれど、大人たちの野球試合は狭く小さなグランドでのソフトボール程度しか経験の無かった僕たちには憧れだった。
その後野球の試合の度、明石公園以外にも、あちこちに連れて行って貰えるようになったが、今でも三笠山周辺の記憶に、本当に楽しく野球に興じていた父の勤め先の仲間たちの笑い声と、少しばかり下品なやじや喧騒だけが残っている。
今でこそ、公園以外の緑が少なくなった所為で、市民のオアシスなどと重宝がられているこの明石公園も、当時の僕たちにとっては、何か獣でも出て来そうなくらい鬱蒼とした樹木に囲まれた、近寄り難い場所だった。
事実、当時は狸や鼬の出現は日常的なことだったし、青大将と呼ばれた蛇などが、公園内の遊歩道を剛ノ池に向かって身をくねらせている現場に遭遇するのも極当たり前だった。
特に、この三笠山周辺の遊歩道には、大きな桜の木が並んでいたから、花の後発生する毛虫の量は尋常ではなく蛇類も多かった。
毛虫の発生の頃は、下手に幹を揺すったりしようものなら大顰蹙を買う事請け合いだった。
高校時代、時折下校時に太寺・上の丸を経由して、正規の入り口があったわけではないけれど錦城中学の横を抜けて、三笠山を下った事も多かった。
雨が降った翌日などは気味が悪いほど大量の毛虫が歩道を這い回っているのを目撃し、半端ではない公園の樹木の多さを感じさせられた。
剛ノ池の周りも、桜の並木は続いていたが、毛虫の大発生は三笠山周辺に限られていた。
剛ノ池
公園の中には、幾つかの名前が付けられた池があった。
それが、古くから城の中に元々あった遺構なのかも、公園としての整備後に作られたものなのかも詳しくは知らないが、剛ノ池は間違いなく公園として整備された折に作られたものと聞いた。
釣りは禁止されていたけれど、管理されることも無く平気で糸を垂らしたし、菱の実採りも出来たのが北の端。
池の南端から、東側にかけては鑑賞用に植えられたと聞く睡蓮がビッシリ岸近くを埋めていたし北側には、水色の可愛い花を付けるホテイアオイが群生していた。
花の咲く頃は見事なまでに広がった大きな葉の間から幾つもの花が咲き出し微かな香りが流れることもあったが、花が終わってしまった後は少し興ざめがしてしまうほどににょっきり突き出した茎が林立していた。
池の南には一寸した人工の島があり、そこにアヒルの小屋が作られていた。
夜などにはまだまだ公園内をうろつく野良犬も多く、時には狸、鼬の犠牲になったのであろう、それらからの保護の為の場所だった。
いつも池の中を悠然と泳ぐアヒルやガチョウ達だったが、餌をねだって池の周辺を闊歩する剛の者も居た。
大きな瓢箪形に近い形のこの池は人工池だった。
流れ込む川が無かった所為で魚類は居ない筈だったが、外から持ち込まれたのであろう鯉・鮒の類が棲んでいた。
捨てられた金魚も歩道周辺の水際で随分多く見かけたし、当然だがザリガニも住んでいた。
池での釣りは禁止されていたのだろうから、増えるに任されていた池の住人達は巨大だった。
特に北側の三笠山方面からの流れ(これも人工的なものだったように思う)が入り込んでいた辺りには、時折気味の悪いほど大きな鯉や鮒が飛び跳ねていた。
僕達は中学校時代、手作りの道具を持って集落の南に広がる漁港の突堤や、港の外に広がる瀬戸内海で釣りに興じていたが、池や川での釣りはやらなかった。
せいぜい学校の横を流れていた明石川の河口付近(そこは、速い潮流と、川からの土砂の堆積で複雑な地形になっていた為
子供たちの立ち入りは禁じられていたが、僕達は好奇心一杯で学校帰りに立ち寄っていた場所)で大人達が太い竿を駆使して釣り上げていた巨大な鰡を知っている程度だった。
池や川に棲む大きな鮒や鯉は釣り心をそそられたのだが、「危険につき、魚釣り禁止」の看板を無視してまで釣りたいとは思わなかった。
実は中学時代には単純に池での釣りが危険だからとの理由以外に別の理由があったため、放課後何人かで連れ立っての公園への出入りは禁じられていた。
後で詳しく触れたいと思うのだが、僕の通っていた衣川中学校は明石市内では俗に言う「ガラの悪い」中学校の代表格だった。
一方、明石公園の北、市民病院の北を流れる明石川が昔は自然の堀になっていたのだろう。
そこが神戸市と明石市の境界線で、それを越えると神戸市垂水区玉津町上池地区だった。
その地域内にあった玉津中学校と衣川中学校は、双璧みたいなもので強さを誇示するように縄張争いの様な事件が時折公園内で起こった。
所謂集団暴力事件で、警察沙汰になったことも、新聞ダネにもなったこともある。
だから徒党を組んでの公園徘徊は罷りならぬ、ということになっていた。
僕は自らの意志で、意図して直接その現場にいたことはなかったが、何度か争い事の現場には立ち会った。
警察沙汰になって以降も(少なくとも、中学校卒業直前まで)小競り合いは続いた。
地域周辺の多くが意図して避けられ続けたことと、意図して敵対視続けたことの結果が、不思議な抗争になっていた気がする。
同じような環境の場所が他にも点在していたから、今でも剛ノ池の北、相撲場のあった辺りを思い出すと少し苦い思いが浮かんでしまう。
しかし、なんの関わりも持たない子供たちのザリガニ釣りは許されていたのだろう。
いつも短い木の枝に糸を垂らしただけの粗末な道具で、何人かがザリガニ釣りをしていた。
しかし、僕はそこでザリガニ釣りをした記憶も無い。
食べられないと聞かされていたザリガニは釣りの対象ではなかったし、小学校のまわりには遊びの対象として何処にでも見つけられたから、敢えて明石公園まで出掛けることは無かった。
貸しボートは相当古くからあった。
しかし、いつも横目でボートを眺めながら、第二野球場に向かうのが常だったから、僕は父の漕ぐボートに乗せてもらった記憶はない。
休日に家族揃って行楽に出かけるという習慣のなかった我が家では、それ以外の場所でもボートに乗せて貰うという体験は皆無だった。
しかし代わりにもっと大きな、そう、漁船に乗って播磨灘(瀬戸内海の東の端、小豆島と淡路島に限られた一帯で、特に鹿ノ瀬と呼ばれた場所は、好漁場だった)に釣りに出る経験は数え切れないくらいさせてもらっている。
池をぐるりと一周するのに、どれくらいかかっただろう。
今迄に何度も歩いた筈の公園なのだが、真面目に池の周りを正確に一周した経験はない。
大学への期待に心弾ませていた西口香里と歩いたのは三笠山を下り、池の北側から左回りに半周だったが、時々立ち止まって会話していたから30分近くかかっただろう。
東側の遊歩道と違って西側は、樹木が覆い被さるように茂っていた為、夕暮れ時などは少し気味の悪い場所だった。
大学の授業、学生運動、読書の話題など、矢継ぎ早の彼女の質問に答えながらのんびり歩いた
池の周りの遊歩道から一段高い位置には、かつて相撲場があった。
また、幾つかのベンチが並ぶ休憩所も設けられていたような気がする。
そこから剛ノ池東畔の桜並木を眺めると、こんもり茂った緑の森を背景にした見事な俯瞰が得られる場所だった。
池の西側の遊歩道の途中に一ヶ所、外堀方面に向かって細い流れが昼なお暗い樹木の中を西に流れていた。
いつも相当の流れがあったような気がするから、剛ノ池に流れ込む水路がどこかにあったのではないかと思う。
池の南には、大きなつつじの植栽があり、その南を旧競輪場関連施設の跡地に建てられた図書館から下ってくる
2車線の舗装道路が走り、日本陸連公認400m標準トラックを持つ陸上競技場の横を抜けて公園外堀の西
城下町の名残がわずかに町名に残っている鷹匠町・茶園場町を通る市道に続いていた。
競輪場の廃止から、初代の図書館建設までには時間がかかった。
その図書館も随分立派な二代目の建物に建て替えられている。
その建物の前に残っているロータリーには、春先、見事なスミレの群生が見られた。
池の東側は、広い遊歩道が三笠山の方に向かって蛇行しながら続いていた。
桜が両側に植えられ、所々に大人の背丈以上にも育ったつつじの植栽もあった。
芝生も何とか手入れされていたから、学校帰りにそこに座り込んで歌を歌っていたことも何度かある。
大学時代、確か3年の冬、白馬岳南麓・蕨平スキー場でのオープンスキーで知り合った、石津節子、蛇草香年子の二人を案内して、その年の夏、吉田秀夫と4人で山の歌を歌ったこともあった。
二人とも僕達より一つ年上だったが、山が好きだった蛇草さん(はぐさ、と読む)は夏山やスキー場からいつも元気な便りをくれた。
特に「残雪」という題の、暗い歌詞の歌と「山の子の歌」という題の明るい歌が好きだった。
スキーシーズンになるといつも、華奢な身体には似つかわしくない豪快な滑りを思い浮かべる。
その東畔のちょうど中間辺りに、遊歩道を挟んで売店と、貸しボート小屋があった。
売店で何かを買ったとかいう記憶はないし、ボートに乗った記憶も無い。
いつも通り過ぎるだけの場所だったし、自転車を乗り回していた中学時代は勿論下校時に寄り道ばかりしていた高校時代も、不思議なことにそこに立ち寄った記憶がない。
しかし、夏の頃の記憶に一つきり残っていることがある。
時折、自転車の荷台を改造してそこに幟を立て、縦長のアイスボックスを括り付けたアイスクリーム屋さんが居た。
僕達はそのアイスクリーム屋さんで、一度ならず買ったと思う。
魔法瓶のおばけの様な形の保冷装置は何と言う名前だったのだろう。
公園の正門から入ったあたりでも、時折見かけたから、公認だったのだろうか。
そこで売られていたものは、今で言う脂肪分の多いアイスクリームではなくむしろシャーベットと言う方が当たっていたし、僕達には「アイスクリン」の呼び名の方がその味と触感を思い出させてくれるように思える代物だった。
僕の記憶にある剛ノ池は、大学生の頃の二つの早春。
春爛漫の桜並木よりも、桜の蕾は未だ固いけれど、少しだけ暖かさが感じられ始めた早春の一つは大学生活にすっかり馴染んでいた人との、もう一つは来るべき大学生活への期待感をいっぱい抱いた人との散策が印象深く残っている。
陸上競技場
公園の中には、多くの運動設備が設置されていた。
先の野球場は、現在でも「もう一つの高校野球」として有名になっている
軟式高校野球大会の決勝戦が行われるほどに有名(?)だが、他にも直ぐ東隣にバレーコートがあったし三笠山から上の丸に抜ける坂の途中には何面ものテニスコートがあった。
それともう一つ、陸連公認の400㍍トラックを持つ立派な陸上競技場。
シーズンにはその競技場で開催されているトラックやフィールド競技のアナウンスが公園内に流れていた。
僕は、正式に陸上競技部には所属したことはなかったが、中学時代は何度もそこに入場した。
僕の通っていた明石市立中学校は、半数近くが漁業関係に従事している
どちらかと言えばガラの悪い中学校として名を馳せていた。
明石公園内での中学生同士の集団暴力事件などを起こしたこともあったくらいだ。
気性の荒い漁師の町だったし、大半の家庭も決して裕福と言える状態ではなかった。
尤も、世の中全体がまだまだ貧しかったのだが、平均よりもまだ下位だっただろう。
しかし、スポーツだけは何故か強かった。
特に、陸上競技・野球・ハンドボールは明石市内はもとより、東播地域では強豪だった。
この陸上競技場で毎年開催されるリレーカーニバルでは、本物の陸上競技部の選手に交じって幾つかのリレー競技には、足自慢が陸上競技部補欠の様な形で参加していた。
と言うのも、それら有名三種の競技部員達は、ヒーロー達であり当然掛け持ちが出来ないほど練習時間も長く厳しかったが部員の絶対数が少なく、大会直前には選手の貸し借り状態が続いていた。
学校対抗だった筈だが、とにかく秋の運動会の延長の様な形で走り回っていた。
その中で今も強く印象に残っているリレー競技が一つある。
公式なリレー競技だったのかどうかは知らないが、それはスゥエーデンリレーと呼ばれていた。
学校のトラックでは1走が1周、2走が2周、3走が3周、アンカーが4周を走ることになっていたが陸上競技場ではそれぞれ100㍍、200㍍、400㍍、800㍍を走っていた。
各々の距離に応じた専門走者が分担して走る為、全員が同じ距離を走るリレーとは一味違った興味があった。
競技別には強豪揃いだったけれど、トラック選手層は余り厚くなかった為、400㍍や1600㍍は弱かった様に思う。
しかし不思議にスゥエーデンリレーだけは強かったから、印象に残っている。
特に最後の800㍍での大逆転の興奮は今でもドキドキするだろう。
陸上競技ではもう一つ、公園内の競技場ではなくちょうど中学3年になった年、昭和35年6月10日(時の記念日)に開館した明石天文科学館完成を記念して開かれた市内中学校対抗の駅伝大会が、天文科学館のある人丸山周辺を周回するコースで開かれたことを思い出す。
当時僕は運動をやめて「新聞部」で各部の活躍を記事に書いたりしていたから、実況取材の為、自転車で選手達を追った。
結局は3度も人丸山を上り下りするキツイ取材だったから、最後は完全に酸欠状態になったこと、取材の後、皆に大笑いされたことを今も覚えている。
門田広司、石井一志、長谷川正巳、松岡信夫。皆愉快な仲間だったし、陸上競技場の常連だった。
その陸上競技場で、何故だったか理由は覚えていないのだが、一度だけ中学校の体育祭が開かれたことがあった。
駅伝大会のあった3年の秋だったと思う。
「文武両道」「才色兼備」も居たのだが、どちらか一方でも十分人気者になり得た当時、校庭で開かれる体育祭は、我が町内の健脚・剛毅を応援する地元の人達で活況を呈した。
校庭は相当荒れていたが、体育祭の頃は必死でトンボ掛けをしたし、応援席の確保は前夜からの恒例になっていた。
地域ぐるみ、の言葉がまだまだ生きていたから1週間程度はお祭り騒ぎだった。
運動嫌いにはきっと辛い1週間だっただろう。
しかし、残念ながらその秋は、確か新校舎の建設が始まっていた為だったと思うのだが、校庭での体育祭ではなく、広すぎる陸上競技場での開催になり、当然の事ながら観衆は生徒だけだった。
それ以上に残念だったのは、途中から雨が降り始め、一番楽しみだったスゥエーデンリレーを含めて結局多くのリレー競技は中止されてしまった。
僕はその日も「新聞部」カメラマンとしての役割をこなしていたから、中学校の卒業アルバムに挿入された何枚かの当日の写真を見ると、懐かしい場面の幾つかは思い出す事が出来る。
カバさんの愛称で呼んでいた、森本薫の記憶もいつか記すことになるのだが、この日の冷たい雨とその雨の中での演技に興じる姿を写した一枚は、白黒写真のままで浮かんでくる。
上の丸への階段
明石公園の東、南、西には、外堀が残っている。
東側の堀には、剛ノ池よりも見事な睡蓮の群落があったし、石垣の上には見事な椿の木が茂り季節には真っ赤な花が堀の向こうに見渡せた。
その堀の東には、上の丸、太寺方面への道路を挟んで、明石小学校と併設されている明石養護学校の敷地がある。
道路はかなりの急坂で途中二度、ほぼ直角に曲がり、途中からは、南に輝く瀬戸の海が見渡せる。
今では明石海峡大橋が見渡せるだろう。
東側の堀に沿った道路がやや上りになって、最初のカーブを直角に曲がった辺り、こんもりと茂った石垣の上の雑木林(ここにも真っ赤な椿の咲く大木があったから季節には咲き終わった花弁がびっしり径を埋めるほどだった)を左に、石段が続いている。
この独り言を綴り始めるきっかけになった阪神大震災の震源地が見渡せる位置に在ったにも拘らずこの辺りの被害は殆ど報道もされなかったから、そこに住んでいなければ決して実感できない事が幾つもあった。
その外堀に沿った歩道は堀の一部が陥没したあおりで、堀の方に向かって大きく陥没していた。
近年上の丸貝塚のある傾斜地を、見事に整備して建てられた市立文化博物館開館に併せて立派に整備された上の丸に続く石段も、あちこちに歪みや亀裂が走っていた。
僕が、震災後初めてそこを歩いたのは既に3ヵ月位経っていたから、震災直後はもっと酷かった筈だ。
階段を上り終えると、公園への入り口に続く石垣が見える。
右手は、かっては雑木林の向こうに見渡せた海峡の煌きが遮られてしまった所為で僕には今でも少し違和感が感じられて仕方の無い、市立文化博物館の立派な建物。
その建物へのアプローチは、南の市道からは開館時に作られたかなりきつい階段を上って入るようになっているし北側からは広い前庭を通り入館するように作られている。
北側に広がる前庭への道すがら、知らなければ気付かない程の小さな祠がある。
立派すぎる建物の前の、立派すぎる前庭のすぐ近くにある祠は、場違いな雰囲気、佇まいにさえ感じる。
祠についての一番古い記憶を手繰り寄せると、小学校時代、そこから1分くらいの場所に住んでいた祖母の家を訪問した折公園へ蝉捕りに連れて行ってもらった帰りに、園内で拾った木の実を供えた事を思い出す。
いつも赤い前垂れを着けた、石の地蔵が鎮座していた。
周辺には、戦後建てられた長屋風の住宅が、所々に荒れたまま残されている粘土質の土地に並んでいた。
『金木犀と沈丁花』の章で綴った、今でも別れの言葉の中で一番大切にしている、西口香里の印象深い言葉を聞いたのは、地蔵の鎮座する祠の前である。
「ここでお別れした方が... そうすれば同じ頃家に着けるでしょ? 一人でお帰りになるなんて、寂しいわ」
結局、その祠の前で別れること無く、幾つかの会話を続けながら、上の丸・太寺を抜けて彼女の家まで送っていった。
途中、静かに匂っていた沈丁花の会話があった。
彼女の大学入学直前の、春未だ浅き夕暮れの公園散策の記憶。
現在、市立文化博物館が建っている傾斜地は、戦後間もなくの市道拡張工事の際、貝塚が見つかった場所。
上の丸貝塚と呼ばれていたが、博物館工事の始まる以前は荒れるに任されており一部は花壇になったりもしていた。
傾斜地を上りきり、公園への道を越えた辺りにあった祖母の家(東隣は、高校時代の同級生、灰谷代助の実家で、一本北の路には本條喜久の実家もあった)の南には、かなり長い間雑木林が残されていたから夏休みなどには、裏木戸からいつも森に入り込んで、昆虫取りに興じていた。
その祠は十字路の南東に位置し、北へ向かう道、城郭遺構の残された上の丸からの公園入り口の北側には「薬研掘」があったし、周辺はあちこちに雑草が茂る荒れ地が残っていた。
南を限っている石垣の影を映す、睡蓮がビッシリ丸い葉を広げていたその薬研掘も先年の大震災では、崩れた石垣で一部が埋まってしまい、結局水抜きをして堀の陥没部分を補強周辺の土手部分、古い石垣の積み直しや補強工事が実施された。
しかし雑然と茂るに任せて広がっていた睡蓮などの水草も一緒に整理されてしまったようだ。
整い過ぎた景観は、それを始めてみる人にとっては美しく写ることもあるのだろうが僕自身はわがままにも、城址公園の良さは適度に古さを保っていなければいけないと勝手に思っている。
特にこの薬研掘周辺は、北側にあった競輪場が廃止された跡地に、図書館が建てられた後も殆ど手が加えられること無く残されていた唯一の場所だったから、余計残念に思っていた。
奇しくも、その宅地造成の結果になってしまうのだが、文化博物館のすぐ北に、幼稚園からの友カヨちゃん(旧姓赤松嘉代子、結婚後だと思うが、改名して現在は松本佳代子)の嫁ぎ先である松本さんの家が建てられたことを知ったのはつい最近。
海峡をみはるかす絶好の場所だが、母屋の方は先年の震災での被害が大きく建て直された。
この堀に、気味の悪いくらい繁殖していた睡蓮の、早朝花が開く時に発する「ポン」と言う軽い特徴のある音は、剛ノ池で聞く音よりも好きだったが、実際に花が開く折の音かどうかは定かでは無い。
その薬研掘から、北側に建つ図書館への道の西側は、急な傾斜地になっていて片側は石垣、片側は雑木林の中を、細い階段が少し蛇行しながら昼でも薄暗い窪地に向かって下っていた。
石垣の北面であり、水草や雑草が覆い茂った窪地、真夏でも日の射さない場所もあったし文字通り「甍は青く苔むして..」の世界だった。
緑一色の湿地帯の中に、忘れられたような石橋が架かりそこがかつて堀だったことが分かる程度の窪地(雨が降った後等には周辺の水が流れ込むのであろう、堀の体裁を整えていた。)の西側はその場所とは対照的に護岸も整備された池があり、「桜掘」と呼ばれていた。
城郭の構造上、外部から侵入する敵を阻止する目的で作られた堀・濠の類と、城内に配置される堀・池の類は異なった作り方になっているのだろう。
この桜掘は、後世作られたものなのだろうが、その東側の湿地帯が手付かずのまま残された理由は良く分からない。
或は、全て整備された完全な内堀だったものが、戦時中の荒廃の後、手入れされずに残され辛うじて整備されたのが、桜掘と称されているのだろうか。
その内堀からの北斜面一帯は、これも整備されること無くウバメガシを中心とした植栽が茂るに任せて雑木林を形成していた。
途中に辛うじて踏跡が認められる程度の小径が潅木を避けるように蛇行していたし無理やり斜面を這い上がると、図書館から剛ノ池の南に通じている車道に飛び出すことが出来た。
雑木林の中には見事なツバキもあったし、立派な枝振りのカエデやモミジの類もあったのだが気温の変化が余り無い地域だったから、秋の紅葉は望むべくも無かった。
時折、自転車でその林の中を走りまわったりしたことがあったが今考えてみると、マウンテンバイク等の立派な装備を持っていた筈はなく自分の技量だけで乗り回していた時代、皆運動神経もよかったのだろうし、何といっても恐いもの知らずだった。
中学生の頃、その「桜堀」と東に残る湿地帯は、どこかで「薬研掘」と繋がっているのだ、等と推理したことがあった。
城が築かれた当時、秘密の通路がその二つの堀を結び、いざの場合の脱出ルートになっていた等と想像力逞しい僕達だった。
場所柄暗いイメージの漂う桜堀の東側一帯だが、薬研掘からの細い階段を下って来ても剛ノ池側から公園内を貫通している道路を越えて来ても、桜掘そのものには、対照的に意外に明るい雰囲気が漂っている。
記憶の中には、昭和42年初夏の散策の途中、剛ノ池側から桜堀の南を抜け、薬研掘への細い階段を上った日が蘇る。
午後の明石駅でのすれ違いと、偶然の出会いの後、正門から展望台、剛ノ池、桜堀、東の丸、仲良し広場を散策し振り出しの明石駅で別れた記憶。
桜堀の、ひっそりと静まり返った小径を抜け、薬研掘への細い急な階段を上り暫く東の丸にあった国旗掲揚台の下で、眼下の外堀、淡路島を遠望しながら語り合った一時。
仲良し広場の、金木犀の大木の南側にユッカの花も咲き始めていた。
二つの隅櫓
「1619年、藩主小笠原忠真築城の、連郭式平山城。堅牢な石垣は三百年以上を経てなお、見事に放物線を描いて..」
等と、観光ガイドブックでは紹介されているのだろう。
高架になったJR明石駅ホームからは、優美な石垣の上、南東と南西に現在も二つの隅櫓が見渡せる。
南東、南西、二つの隅櫓は、公園正門から入った中央広場からの眺めが、観光案内には良く使われている。
もう一つは、公園南東入り口から入って直ぐにある藤棚(その横にある大きな池は、藤見池と称されていたしそこから少し西寄りには、噴水のある乙女池があった。水面に逆さに映る隅櫓の写真が良く観光課のパンフレットに載せられていた。)からの遠望。
西側からは、野球場の1塁側スタンドからの眺めが良く使われている。
展望台になっている本丸跡に登ってしまうと、隅櫓そのものは意外に小さく、石垣を伴った姿ではない為「絵」になりにくい。遠景ではわからないのだが、石垣は二段になっていて、呼ばれる回廊が櫓の真下を東西に延びている。
この南帯郭からの、見事な放物線を残している石垣の上に建てられた櫓を見上げるのが、はり僕には一番好きなアングル。
桜の古木もあり、季節にはカメラマンが何人も三脚を立てている場面に出会うし、落ち葉の頃も風情のある場所。
昭和30年代には、その二つの隅櫓を見上げる位置にあった中央広場(三の丸広場)の北端にも大きな藤棚があった。
どの様な経路で入手したのかさえ覚えていない、何枚かの古い(と言っても、戦後間も無い頃の)明石公園の写真が僕の撮影した明石公園の写真帳の中に残っていた。
その中の一枚に、この広場にあった藤棚と、隅櫓を写したものが残っていた。
藤の古木は、その後朽ち果てたのか撤去されてしまった。
もう一つ、写真はないのだが、昭和30年代には「サル小屋」が南帯郭の直下にあった。
上部が円形になった鉄製のゲージ、高さは3~4㍍あっただろうか。
いつもその小屋の前には人だかりがあったし、人と猿の嬌声が響いていた。
それ以外の動物は剛ノ池の水鳥だけだったから人気者だった。
餌を与えるなとか、檻の中に手を入れるなとかの注意書きが至る所に書かれていたがあちこちに餌が散乱していたし、金網の一部には穴が開いていた。
ただ、キーキーうるさいだけだったそこの住人達を、僕は余り好きではなかったから何時の頃にその猿小屋が廃止されたのか、飼われていた猿達が何処にもらわれていったのかは知らない。
その二つの隅櫓は、何度か天災に遭っている。
一度は四国から、播州平野を縦断して日本海に抜けた台風による被害。
そしてもう一つは、先年の大震災の折。
そのたびに、優雅な石垣も、三層の隅櫓の白壁・黒瓦も至る所で欠落し、無残な姿に変わってしまった。
海峡に対峙する淡路島のお陰で、台風の直撃は殆ど無い所だが
それでも海からの風が直接吹きつける位置にある城址の隅櫓は、長年の風雨に晒された後台風の余波で大きなダメージを受けることが時折あった。
しかし、先年の震災のダメージは、周辺の民家などの被害同様、築城以来初めての経験だった筈で石垣の修復工事は結局2年近くかかった。
その後着工された隅櫓そのものの修復工事は現在進行中で、スッポリと工事用シートに覆われた姿がJR明石駅の北側ホームから見渡せる。
震源地が目視できる程に至近だったから、被害があって当然だなのだが活断層から外れていたと言う、全くの幸運で、神戸市街の惨状と比較すれば、軽微過ぎる印象だった。
報道の扱いもその実態同様、軽微だった。
しかし、海岸線に沿って東西に細長い明石の町。
淡路島を間近に見晴るかす、海沿いの集落は地盤も弱く高台の傾斜地にあった建造物も含めて、例外なく被害を受けていたから太寺・上の丸・人丸・大蔵町に続く辺りの民家の多くは、長い間屋根に青いシートを頂いていたことを思い出させる光景である。
その震災の被害の内、とりわけ顕著だったのが、城址から東に1㌔程度の距離にある明石市のシンボルにもなっていた東経135度、子午線上に建てられた天文科学館。
電気時計も5時46分を指したまま止まっていたし、プラネタリウムも展望台も亀裂が至る所に走り長期間休館となった。
電気時計も取り替えられ、3年後の平成10年1月17日から再び時を刻み始めた。
その天文科学館の周辺にあった、戦災を免れた多くの建物はその古さゆえに被害に遭った。
そこを離れて20年以上経ってしまっているため、僕には何処がどのように被害を受けていつどのように修復されたのか、全く知り得ない。
しかし、表側だけしか見ていないのだろうけれどその天文科学館の佇まいだけは、大きな被害を受けたことを包み隠すように、ほぼ元の通り修復されているように感じる。
最近、新幹線を利用しての帰省が多くなってしまったのだが、時折新大阪から在来線で明石に戻る時など今でも電車が朝霧駅を通過すると、天文科学館の時計台が気になり始める。
昼間でも、夜でも並走する山陽電車越しに海を見ることが常になっている舞子・朝霧間は殆ど南を見ているのだが朝霧を過ぎると線路は海から遠ざかる。
と、同時に僕は必ず北の窓に目を移す。
朝霧川を越え、大蔵谷駅を過ぎ、少しカーブしながら黒橋の下を抜ける辺りでその直前まで東人丸町の家並みに隠れていた天文科学館の時計台が忽然と現れる。
「帰ってきたよ」
僕は、特に大学時代、長期の、重いザックを担いでの山行の後、電車を乗り継いで明石に戻った時などは思わず窓の外に見慣れたその時計台に向かって呟いた。
春合宿などは殆ど四国・九州方面からの帰郷だったから、その挨拶の対象は二つの隅櫓だった。
天文科学館はその隅櫓の東に遠目にしか見えなかったから。
明石を故郷にする多くの人々は、同じような感想を持っているのではないだろうか。
周りに余程の高層ビルが密集、乱立しない限り、二つの隅櫓も天文科学館の時計台も現在のJR明石駅ホームからは当分今のままの姿を僕達の前に見せてくれるだろう。
本丸跡と展望台
明石城、別名喜春城には、本丸は築かれなかった。
しかし、本丸を築く為の工事はなされていたと聞く。
その本丸跡(正確には、本丸建設予定地跡)は、現在展望台になっている二つの隅櫓の間、西側の坤櫓に近い位置にある。
木が茂ってこんもりした林の様な丘が、その本丸跡だと説明されて
有名な、姫路城や大阪城の比ではないことは承知はしていても、想像していた以上に狭いスペースを見せられることになり観光客はびっくりしてしまうこと間違い無しの貧弱さ。
勿論本物がないから、いずれにしても比較のしようは無いのだが。
本丸跡は、僕が小学生の頃には開かれていたからそのずっと以前から、秋には「菊人形展」の中心会場になっていた場所。
しかし、何時の頃からか次第に規模が縮小され、現在はその場所での大規模な秋の祭典は無い様だがかっては見事な菊人形が飾られ、多くの市民で賑わっていた。
公園全体が菊の香に包まれる、と言う表現は少し大袈裟だが、大手門から中央広場を抜けて本丸跡に至るジャリ道の両側全てに、鑑賞用に愛好家が手間暇かけて育てた大小幾つもの菊の鉢物の展示緩やかな階段を上るその途中にも葦簾で囲われた展示物が続き本丸跡の主会場と一段低くなった西帯郭周辺での「菊人形」は、小学生の目には驚異に写っていた。
中学時代までは続いていただろうか。
入場料も徴収されていたように思うし、西帯郭にあった建物の中では子供には人気が無かったのだが、時代劇風の芝居も演じられていた。
しかし、高校時代には「菊人形」そのものも徐々に規模は縮小されていったと思う。
尤も、余り公園には出入りしなくなっていたから、不確かな記憶だが。
本丸跡の周辺はかなりの広さがあり、周囲はすべて見事な石垣に囲まれていた。
その南に煌く海峡を遠望する展望台は、長閑すぎる我が町・明石の、間違いなく一番の展望。
この本丸跡のある展望台で、僕は幾つもの語らいの時間を持っている。
生まれ育った町を遠くに見渡せるその場所に立って、自分自身の生い立ちを語ったこと同じ時代に、同じ場所で生きた友らと、幾つもの夢を語ったこと。
それらの語らいの日々の多くは今残っているべくも無いのだが、それでも幾つかの情景だけは浮かんでくる。
『幸ちゃん』の章で触れた、遠い夏の午後、甥のヒロちゃんと三人での明石公園散策の記憶の中にこの本丸跡に作られた茅葺き屋根の休憩所が残っている。
歩き疲れた彼の要求を入れて、その休憩所のベンチに座った時の仕種。
小さな足が、真新しい木のベンチで揺れていた。
残念ながら、国鉄が高架になった昭和30年代後半あたりからは、駅堤そのものがそして又同じ頃から駅の南に建ち始めた幾つかの高層ビルが、港を出入りする連絡船の姿を隠し遂には淡路の島影さえも隠し始めた。
もう少し石垣が高く積まれていれば、などと時折思ったりもする。
そうすれば、もっと違った景観が望めただろうし、もっと違った植栽、樹木が茂っただろう。
しかし、それは後世の人間の勝手な希望でしかない。
かつて築かれた城郭を後世に改装した幾つかの城址公園は、その城郭の作られた地形は戦略上の目的に沿って築城された遺構をそのまま残している筈で、明石城の場合は海に突き出た河岸段丘の端を利用した平城だった。
だから、その丘陵の一部を石垣にしただけで高さはせいぜい海抜十数メートル。それ以上の高さは不要だった。
だからこそ、そこから海が見えなくなるのは、高層建造物を必要とする現在では仕方の無いことなのだと諦めなければいけないのだろう。
現在ではその景観の中に「夢の架け橋」明石海峡大橋が含まれその架橋工事の結果として、対岸の淡路島の一部(特に、松帆付近)は、緑がすっかり失せてしまっている。
何年かの後には遠目からの緑は回復するとは思うのだけれど、自然なままに育っていた松林が本当に元に戻ることは無いだろう。
感傷的に語っても、便利さとの引き換えなのだと理解しても、所詮時の流れのままなのだと二つの隅櫓を見る度に考えてしまう。
しかし、見下ろすと眼下に広々とした明るい中央広場の芝生の緑、芝生に囲まれた楠の大木や所々樹木の間から見え隠れする石垣、その向こうには市街地が広がり、黒々とした瓦屋根が輝きさらにその先に深い青緑の淡路の島影が見渡せる、本丸跡の展望台からの景観はそこに足を運んだ全ての人に平等な感激を与えてくれていた筈だし人は何処かに、自分の目で確かめたそれらの日々の記憶を残している筈だ。
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