アラエイも気持ちはエイティーンの青春ブログ

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その1 6月4日はむし歯の日、天安門から25年の日

2014-06-04 08:28:23 | Weblog
平成26年 2014年6月4日 水曜日

本日は最高に忙しい日の一日目
ひょっとして夜まで、あるいは疲れて
ブログできないかもしれないので出かける前に その1のブログです。

タイトルのように本日はむし歯の日、天安門から25年の日です。
新聞と吾輩のブログ紹介

日経も中国大好き朝日も天安門事件25年を記事に!!
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先ずは日経
天安門事件25年 国家不信、強権で圧迫
中間層の台頭懸念
(1/2ページ) 2014/6/4 2:07 日本経済新聞 電子版
 25年前の6月4日、民主化を渇望して北京の天安門広場を目指した学生は軍からの発砲を受け、多くの死者が出た。共産党が一党支配する政治体制と経済・社会の自由化は今もせめぎ合う。事件後に世界第2位の経済大国にのし上がった中国の矛盾は根深いままだ。

北京市内の天安門広場では、6月4日が近づくにつれ日増しに公安や武装警察の警備が厳しくなった
  事件現場だった天安門広場では3日、掲げられた毛沢東主席の肖像画と向き合うように小銃を持った警官が並び立ち、目を光らせた。一部の警官はテロ対策を名 目に、5月末から警告射撃をせずに相手に発砲することが許可された。望遠レンズで警官を写そうとすると、銃口がすかさずこちらに向く。
 事件当時、北京市内を巡回した元兵士の任洋(仮名)氏は60歳に近づいた今も心の傷が癒えないと話す。「敵意に満ちた目で見られ、周囲の皆が敵に見えた。後になって同じ国民に銃を向けた自分を恐ろしく感じた」
 事件自体を知らない若者は増える一方だ。だが25年前を記憶する人々には「この国には隠していることがある」と不信感がくすぶり続ける。
■ブログ、次々閉鎖
 政府の発表や国営メディアの報道は建前ばかりと嫌う人々は、インターネットに走る。本音をつぶやくブロガーの人気が出ると、当局は検閲の手を強め、次々とブログの閉鎖や拘束に追い込む。
 母国を離れる動きも後を絶たない。中国の国際移民報告書によると、2000年から14年間で約385万人の中国人が海外に移民した。
 事件の風化を待つような姿勢に国際社会の視線は厳しい。米下院は5月28日、中国政府に対して事件で拘束した活動家らの解放を求める決議案を379対1の圧倒的な賛成多数で可決した。欧州連合(EU)が天安門事件後に決めた中国への武器輸出禁止措置は今なお解除されていない。
 「いくら『平和的に台頭する』と言っても信用してくれない」。中国外務省幹部は怒りをあらわにするが「真の大国」が備えるべき信用は25年前に失ったままだ。
■経済政策にも影
事件の“呪縛”は経済政策にも影を落とす。政府は内需を拡大し、20年に10年比で所得水準を倍増させる目標を立てる。ただ中産階級をさらに厚くする政策 は「本音では怖い」(政府関係者)。台頭する中産階級が参加意識を強めて政治を動かす歴史は韓国や台湾が実証済みだからだ。
 「我々は『統治の現代化』を進めなければならない」。習近平国家主席は2月、党幹部を養成する中央党校で講演し、社会管理の強化を指示した。避けられない中産階級の台頭を意識したうえで、不満や権利意識が過度に広がらないようにすべきだと訴えたという。
 関係者によると、国家主席が出る会合としては4時間を超す異例の長さだった。習氏は監視対象にテロリストと並んで人権活動家や民主活動家、西側メディア記者などを挙げ、ネット上での言論統制の強化にも触れた。
 5月4日。現実主義的な活動で知られ、共産党にも理解者が多かった人権派弁護士、浦志強氏が当局に拘束された。改革派知識人らが前日に北京で開いた天安門事件の再評価を求める研究会に、浦氏も参加したためだ。浦氏の関係者もその後一斉に拘束された。
 締め付けを強めるほど反発は膨らみかねない。中国では習氏が新疆ウイグル自治区を視察した直後に自治区で爆発事件が起きるなど、厳戒態勢をあえてかいくぐろうとする動きも目立つ。
  4日を前に「天安門事件以来の規模」の警備を敷く体制には25年たった今も、強権以外に道のない当局の苦境が浮かぶ。中国外務省の洪磊副報道局長は3日の 記者会見で事件当時の民主化運動について「政府はとっくに結論を出している」と述べ、決着済みとの認識を改めて示した。
 「経済は発展した。だが街中で銃を持つ人間をこんなに多く見る社会が、先進国であるはずがない」。25年前の事件に関わった元兵士の任氏は、厳しい現実を前に自らが納得できる答えを見いだせないでいる。
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朝日も!!
天安門事件、4日で25年 習政権は例年にない警戒態勢
北京=林望 2014年6月4日00時16分
 中国の民主化を求めて北京・天安門広場に集まった学生らに軍が発砲した「天安門事件」から4日で25年。習近平(シーチンピン)政権は例年にない警戒態勢を敷き、民主派による抗議活動などを抑え込む構えだ。テロ対策の強化とも重なり、首都の雰囲気はものものしい。
 中国外務省の洪磊副報道局長は3日の定例会見で、「80年代末に中国で起きた『政治的風波』と関連する問題について、中国政府はとっくに結論を出している」と述べ、25年経っても事件の評価が変わっていないことを強調した。
 市内の木●(木へんに犀)地駅の出口では3日夕から、多数の警察官が待機した。1989年6月3日深夜、軍による学生らへの発砲があった現場だ。遺族でつくる「天安門の母」代表だった丁子霖さんの息子も命を落とした。抗議や追悼集会を徹底的に封じ込める狙いだ。
 地方からの長距離バスが到着するターミナルでは、下車する乗客に身分証の提示を義務づけた。昨年10月、天安門前に車両が突入・炎上した事件を受けて始まった措置だが、6月4日を前に検査は徹底されている。
 ネット上の取り締まりも徹底している。中国版ツイッター「微博」では天安門などの言葉が検索できないだけでなく、ろうそくの絵文字も使えなくなった。
 中国駐在の外国人記者でつくる「駐華外国記者協会」は2日、街頭で市民に取材した記者が当局に連行され6時間にわたる尋問を受けるなど、妨害や脅迫が強まっているとして抗議声明を出した。
 中国内外で共産党に抗議する集会などが呼びかけられており、当局は民主活動家らを軒並み軟禁するなど神経をとがらせている。
 4月以降、新疆ウイグル自治区ウルムチ市では多数の死傷者を出す爆発事件が続発。北京市公安当局は全警察官の休暇を取り消し、85万人の市民を動員して不審者情報を集めさせるなど最高レベルの警備態勢を敷いている最中でもあり、空気は張り詰めている。(北京=林望)
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我が輩のブログ:昨年の6月4日
やっぱ沢山書いています。
その1からその3まで!!

現在よりも感動が多く、記事も面白い!!

その2を紹介
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その2 6月4日の思い出@サイゴン
2013-06-04 18:38:25 | Weblog
結局自宅に戻らずにレジェンドで
Emarの授業時間までぶらぶらすることにしています。

そして本日のブログその1で虫歯の日6月4日を書いたが
我輩にとってはやっぱ1989年6月4日の天安門事件
そして11月のベルリンの壁崩壊がすごい年でした。

なによりもその日に日本の作家代表団の団長として北京に滞在中、
70歳の水上勉氏は事件に遭遇する。ホテル7階から目の前で
繰り広げられる惨劇をその後の本の書かれてはいるが
帰国してすぐに心筋梗塞に倒れ亡くなるまで
彼らしい人生を送る!!


私しゃそれから彼のファンになりました。
それに大好きな京都は鍵善のくずきり
が大好きな彼は店のパンフレットに
惚れ具合を書いています。
下記参照です。


そして不破哲三さんとの交流
彼の追悼文がいい!!

私しゃもし許されるなら70歳まで生きて
彼が天安門事件を、その後の85歳までの生き方の
一端を学んで見たい気がしています。。。。。。。。。

興味ある人はどうぞ!!
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不破哲三

 九月八日昼、北京で開かれた第三回アジア政党国際会議から帰って、その状況と成果を「しんぶん赤旗」紙面で紹介する仕事の相談に追われている最中、 ニュース報道の「……八十五歳……」の声が、テレビの画面から耳に入ってきた。すぐ「雁の寺」「飢餓海峡」など作品紹介の言葉が続く。間違いなく水上勉さ んである。

 妻がすぐ長野の勘六山山房に電話を入れる。陶器づくりをしている角(すみ)さんが最初に出て、すぐ長女の蕗子さんに代わる。なくなったのは、今朝がた だったとのこと。「安らかで美しい顔だった」との蕗子さんの言葉がわずかの慰めだった。この秋うかがうつもりでいたのに、もう会えないか、との思いがどっ と胸を締める。
十五年前、交流は思わぬことから始まった


 私と水上さんとの交流は、思わぬことから始まった。北京訪問中に天安門事件にぶつかり、激動と緊張のただなか帰途についた水上さんが、帰国のその夜に心 筋梗塞(こうそく)の発作を起こし緊急入院したことは、報道で知っていたが、一九八九年八月、その水上さんから丹沢山すそのわが家に電話がかかってきたの である。

 妻が電話をとると、水上さんご本人の声、病院のベッドからだった。「作家の水上さんですか」と思わず問いなおしたという。発作から二カ月の病床で、ある新聞の記者から、“同じ病気をしたのに、元気で山に登っている人がいる”と、私と娘の登山写真を見せられたとのこと。

 あとでご当人にうかがうと、「そのときは地獄から呼び出しが来る心境だったから、不破さんに、心臓がそんなでどうして山に登れるんだか、その秘伝を聞き たかった。そうしたら奥さんが出てこられたんで、これはと思って、電話を離さず聞きたいだけ聞いたんですよ」との弁だった。
「目に見えない地下茎でつながった“心友”」

 それから十五年間、京都・百万遍のマンション、長野・勘六山、若狭「一滴文庫」と、水上さんの各地の拠点を夫婦で訪ねたり、丹沢のわが家にお招きしたり の出会いを重ねた。長野の最初の訪問の時に、お寺での修行時代にきたえた腕で精進料理を用意し、「すがすがしい気分で台所にいます」のFAXをいただいた こと、またそのとき、ゆで小豆を妻がおいしいと褒めたら、四年後のわが家への訪問のさい、“お土産にゆで小豆をもってくる人はいないでしょう”と二包みも 持参してくれたこと、など、水上さんの人柄があふれ出る楽しい交流だった。

 日ごろの交流の主力は電話、そのあいだにFAXや手紙でのやりとりが重なったが、FAXと手紙も、数えて見ると往復五十数通に及んでいる。

 水上さんは、違う分野で活動する私との関係を、みごとな言葉で表現してくれた。「考えが通底している」などなど。いちばん頻繁に使ったのは「心友」の言 葉だが、これは実は、一九九二年、京都のマンションでの初対面のときに、妻が口にだしたもの。水上さんが名解説をつけてくれた。「“心友”とは、心臓だけ のことじゃないですからね。いわくいいがたし、というつきあい。そう、目でみえない地下茎でつながっている」。

 十六年ほどたってから、「不破さんとの間になにか通じるものがあると思えた時にあの電話をかけたのでした」と打ち明けてくれたのも、心うれしい便りだった。
対談『一滴の力水』――同じ時代を生きて

 交流の集大成となったのは、光文社の企画による対談である。水上さんは一九一九年、私は一九三〇年の生まれで、年齢には十一歳の違いがある。しかし、話 し合ってみると、同じ時代を生きてきた、という思いが、共通の実感となった。若いころに読んだ『文学全集』も共通、歴史のどの時期にも重なりあう感慨が あった。五〇年代、私は駒込駅から本郷の東大まで毎日都電で通ったが、水上さんは、本郷に住んでいた作家・宇野浩二氏の家に通うため、飛鳥山から同じ電車 に乗り同じ停留所で降りていたという。水上さんの長男の窪島誠一郎さん(戦没画学生の作品を集めた上田市の「無言館」の館主)が生まれたのが鶯谷駅に近い 産院で、妻の一家が住んでいたアパートの近所だったことにも驚かされた。

 こんなこともふくめ、二人の生きてきた時代のこと、文学のこと、若狭のこと、おたがいの母や父のこと、政治のこと、東京と京都のこと、原発のことなど、 思いのたけを語り合って生まれたのが、対談『一滴の力水』だった。おこがましくも、文学の世界の大家と文学について語りあうなどは、私にとってかつてない ことだったが、水上さんが、大家ぶりをかけらも見せずに、“水上勉論”をふくむ文学対談に気持ちよくつきあってくれたのは、ありがたいことだった。

 この対談での忘れがたい交流を思って、二人が本の巻頭と巻末にそれぞれ書いた文章を、出版社の了解をえて、紹介しておきたい、と思う(十四日付掲載予定)。
いただいた最後の手書きの手紙

 水上さんは、本の校正刷りをもって、二〇〇〇年の正月、ハワイ旅行に出かけられたが、そこで体をこわされた。それでも、対談集に寄せられた多くの方々の 感想をお送りすると、必ず、感想の感想をしたためたFAXが返ってきたし、その年の六月、私の最後の国会選挙のときには、入院先の病床から、第一声への連 帯のメッセージを送っていただいた。そのあと、退院とリハビリの状況を知らせた、FAXならぬ手書きの、次のような手紙(八月十六日付)がとどいた。

 「夏がゆきます。リハビリに専(もっぱ)らになります。七月五日に退院してからテレビばかり見ています。不破さんが登場すると、穴があくほど見ます。 水上 勉」

 その後、電話での交流は続いたが、あとに残る手紙の形では、これが水上さんからの最後の文章となった。

 密度の高い、そして人間的なあたたかさに満ちた、十五年の交流を思い返しながら、人生の大先輩への、私たちの心からの敬意と哀悼をこめて、お別れの言葉としたい。
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自分のブログを引用するのは照れくさいが
水上勉さんのことを書いてある
4年前の明日のブログです。

暇な人どうぞお読み下さい。
昔も今以上に長いブログです。
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Friday, June 5, 2009 Part 1

平成21年6月5日金曜日 午前2時25℃ その1

このところ暇なもんで文章が長くなってすみません。
日本語を学んでいる学生さん
あきらめないで読んでみて!!!

夏休み サンデー毎日が続き
改めて主婦の単調であろう日常の生活に
こころがおもいがかさなる。

いくら小生が食事つくりは芸術とのたまわっても!!

しかし子供に手がかからなくなってからは
ワイフは大学や高校で教師経験もあり
いくつかの短期バイトも経験しているので
全く主婦業ばかりではないが??

それにしても今は感謝の気持ちいっぱい!!
毎日家にいるって楽しいが
贅沢ですが少々退屈
小生は外で働くのが大好きだから。

この10数年はそれまでいくら学会海外出張に誘っても
のってこなかったワイフが
小生の思い出を共有しては? にのって一緒するようになった。

写真はその一つ at paris


それでは夏の思い出

まるでブログが講義のレジメ気分になってきた。
本日もオアシスからスタート

oasis: 鍵善のくずきり 
下記文章は今は亡き水上勉さんと思ったがサイゴンの今自信なし!!
彼は昨日紹介した20年前の天安門事件に遭遇し
救援機で帰国直後に心筋梗塞
助かったものの命を短くした。

さて時折師匠が作ってくれるが正直鍵善のくずきり 
とは比較しようがない。 
もし京都に師匠が来てくれたら? 御連れします。 
いやいやいつか招待できることを小生の夢としよう!!
あてにせずに待っていてください。

くずは根のつよい植物で、アメリカなどは日本から種子を輸入して、
土くずれを防ぐ用に供し、何万坪ものくずの花の咲く山があるそうだ。
花はみごとでも、根がおいしくたべられるくずの風雅はアメリカ人の
ものではない。これはなんといっても日本の味だ。あの独特の器に入
れてさし出されるくずきり。蜜の甘さと、くずの淡白さが、舌の上で
冷たくまぶれて、つるりとのどへ入りこむ。うろこのようにかさなって
咲く紫の花びらが、たべ終わったのこりの、氷水の面に、うつっている
ような気がする。私はいつも、二杯目をおかわりして笑われる。
欅(けやき)づくりの店のたたずまいも、京の「鍵善」の風格にちがい
ないが、器や卓がいくらこられていても、味がまずければ永続するもの
ではない。日本の山野の土を守った根が、おいしく加工されているから
である。文明は山野をいくらけずりとっても、
自然の美味はのこすものだ。
くずきりは京の味の王者だと思う。

俵万智ワールド: 5-7-5-7-7 サイゴンの小生の学生さん短歌ですよ!!
「この味がいいね」と君が言ったから○月○日はサラダ記念日
                 ○に何を入れますか??
嫁さんになれよだなんて カンチューハイ二本で言ってしまっていいの
また電話しろよと言って受話器置く 君に今すぐ電話したい
いつもより一分早く駅に着く 一分君のこと考える

いまだに健在なコニーとドリス・デイ
米国女性シンガーでは小生のトップ2

本日はConnie Francis コニー・フランシスが歌った
「ヴァケイション」と「ボーイ・ハント」: 

VACATION :
  Vacation in the summer sun Put away the books
      We are out of school ----------- 
         本日はボーイ・ハントの訳を

Where the boys are :

Where the boys are, Someone waits for me
     あなたはどこにいるの? 誰かが私を待っていてくれるの?
A smiling face, A warm embrace 微笑んで 暖かく抱きしめて
Two arms to hold me tenderly 優しくホールドしてくれる両腕
Where the boys are, My true love will be   
     あなたはどこにいるの? 私の真実の愛があるでしょう?
He's walking down some street in town 彼は街中をさまよい歩き
And I know he's looking there for me 
     そして そこで彼が私を探してくれる事を知っている
In the crowd of a million people,   何百万人の群集の中で
I'll find my Valentine   私のバレンタインを見つけるの
And then I'll climb to the highest steeple, それから一番高い塔に登り
And tell the world he's mine     彼は私のものと世界に告げるの

* Till he holds me, I'll wait impatiently   
        彼が抱きしめてくれるまで 私は待てないの
Where the boys are, Where the boys are Where the boys are,
Someone waits for me * repeat

一回目の休憩
本日はボランティアでいつもの人文大生とお話会。
センターに行ける それだけが仕事です。
真面目に働いている日本の昔の同僚すみません。

--- first intermission --- 3:10am

朝食は1Fで
師匠ができましたの声で!!
Tienさんが買い物ついでにマンゴスチン!!
ホントに美味しい果物の王様。 大好き。

TVに字幕ベトナム語で
なんとユー・ガット・メイルが放送中
余りにも長いページなので次のブログ
その2へ どうぞ!!
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2回目の休憩
午後4時38分
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暇な方:昨年6月4日の我がブログその1からその3までどうぞ!!
自分のブログながら情報も感動も多く、楽しみました。
SushiBarやComTamに行きたくなりました。



さて昨夜のマグルーサとシャラポワのゲームは最高に面白かったです。
そして3セット4ゲーム目を失ってマグルーサは緊張の糸がプッツンでしたが。
       

そしてゲーム終了後は清々しい二人でした。
   

そのあとジョコビッチのゲームを2セットまで!!
好調です。
なんとなく全仏は彼が勝つかも!!

1回目の休憩
午前6時28分

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