カズさんの旅たび

 ~歴史、文化、芸術、美食紀行。。

カンボジア・アンコール遺跡(その2)

2013-06-03 | カンボジア
こちらは10世紀中頃に掘られた「スラ・スラン」と呼ばれる全長700メートル×幅300メートルの貯水池(バライ)で「王の沐浴池」とも称される。アンコール・トムの東側にある東バライの南、バンテアイ・クデイの入口(東側)側にあり、向かい側には、水辺へ降りることができる西テラスがある。テラスの両側には蛇神ナーガの欄干があり、獅子像が二体飾られている。この場所は日の出スポットとしても人気がある。


ツアーでの遺跡訪問は、アンコール遺跡周辺Mapを参照。

アンコール遺跡ツアーの2日目は、午前8時半、スラ・スランの向かい側「バンテアイ・クデイ」の見学からスタートする。南北に延びる街道を横断すると、街道と並行する様に延びる煉瓦造りの外壁があり、中央にバンテアイ・クデイの「外周壁東塔門」が建っている。形状や塔部の四面に人面像(観音菩薩像)が刻まれている点など、アンコール・トムの南大門に良く似ているがやや小ぶりである。ちなみに、少し分かりにくいが塔門の側面にはガルーダ像が刻まれている。
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バンテアイ・クデイは、12世紀にアンコール・トムを建設したジャヤーヴァルマン7世(在位:1181~1220頃)によりバイヨン様式で建てられた中規模の仏教寺院である。外周壁東塔門をくぐると、所々に石畳が残る砂地の直線道が続き、左右は静かな森に囲まれている。所々に藁ぶき屋根の出店があり参拝用の品々や洋服などが売られている。しばらくすると前方に獅子像と蛇神ナーガが飾られた砂岩テラスが現れ、奥に「第三周壁東塔門」が見え始める。

砂岩テラスには、低い階段が中央と左右にあり、それぞれ獅子像が護り、その後ろに蛇神ナーガ像の欄干を配している。横から見ると獅子の後ろで鎌首を持ち上げるナーガが勢ぞろいしている様だ。環濠は、周囲320メートル×300メートルの矩形で、左右の森の中に掘られ、脇に第三周壁が続いている(バンテアイ・クデイ・プランを参照)。


2001年には、この蛇神ナーガ像の欄干の手前北側にある北祠堂(基壇と柱が残る)の址から、上智大学アンコール遺跡国際調査団により、頭部と胴部が切断された274体の仏像と千体仏の石柱が発見された。ジャヤーヴァルマン7世の後継者ジャヤーヴァルマン8世による廃仏の址と考えられている。

「第三周壁東塔門」は前後に張り出し門と左右に回廊を持つ十字形で、前方の張り出し門の上部には大勢のアプサラが踊る破風が取り付けられ、左右の回廊壁面には、明り取りの窓とデヴァターのレリーフが刻まれている。
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「第三周壁東塔門」の内部には仏像が数体祀られている。その東塔門を抜けると、中庭になり、ナーガの欄干で飾られた石畳の橋が、正面に柱が並ぶ「ホール・オブ・ダンサーズ」の入口門に続いている。その入口門は崩壊が著しくその先も柱だけが建つ通りが続き、角柱にはアプサラの浮彫が刻まれている。


バンテアイ・クデイは、東西に向けて一直線に建物が並ぶ造りになっており、ホール・オブ・ダンサーズの出口門を出ると、「第二周壁東塔門」が現れ、中央祠堂や堂塔が目前に現れる。第二周壁と第一周壁は隣接して設置され、それぞれの周壁面には、明り取りの正方形の窓や、やや深掘りされたデヴァター像のレリーフと連子窓の浮彫が施されている。第一周壁は田の字型に連結された回廊で、各交点上に合計9基が聳えている。


第一周壁は、天井や堂塔も残っているが、回廊内は狭く圧迫感があり薄暗い。遺跡自体は良く残っているが、近くから見ると、積み上げられた石材がずれている個所が多く、堂塔のいくつかに落下防止テープが巻かれている。また、周壁沿いには崩落した石材が積み上げられており、かなり崩壊が進んでいる印象である。

「第二周壁西塔門」を出て少し離れた南西側(石材が瓦礫上に積まれた場所)から、中央祠堂や堂塔が建ち並ぶ寺院全体を眺めることが出来る。第二周壁手前には、白く片側の根が幹の上部から襞のように広がる不思議な形状をした大きな榕樹(ガジュマル)が空に向かって伸びている。周りに置かれた石材の間を這うように広範囲に根が広がっているのが分かる。
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大きな榕樹は、第二周壁回廊沿いに生息していることから、影響を受けて建物にも大きく歪みが生じている。最初、この光景に違和感を感じたが、しばらく眺めていると、この榕樹が、バンテアイ・クデイにはなくてはならない重要な存在であるような気がしてくるのが誠に不思議である。
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次に「タ・プローム」に向かった。バンテアイ・クデイの外周壁西塔門を出て600メートルほど通りを北上した東門から入場する。東門は、藁ぶき屋根の出店が並ぶ通りの突き当り沿いに柱と壁だけで建っている。その東門を入り森に囲まれた砂地の一本道をしばらく進むと、数本の樹木が伸びる石畳の砂岩テラスの先に「第四周壁東塔門」が現れる。

「タ・プローム」(梵天の古老の意)は、1186年にジャヤーヴァルマン7世が母の菩提を弔うために建てた仏教寺院(後年ヒンドゥ寺院に改宗された)で、東西1キロメートル、南北600メートルほどの敷地に平面型のバイヨン様式で構成されている(タ・プローム・プランを参照)。僧院内には1万人以上が暮らしていたが、現在は深い森で覆われ廃墟と化している。もともと東門が正門だが、現在は観世音菩薩の四面像が残る西門から訪れる観光客も多い。

第四周壁東塔門は、塔門が前後にせり出し左右に短い回廊を持つ十字門で、左右回廊の先から高さ1メートルほどのラテライトの第四周壁が続いている。その第四周壁東塔門に積まれた石材は傾き、北東側回廊は苔むして全体が大きく波打っている。特に屋根部分は、敷地内から伸びる樹木に押されて石材が突出している
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第四周壁東塔門は、通行禁止で、北東側回廊の端の門が入口になっている。傍には幹が裂け空洞が広がる白い老木風の巨木がそそり立っており、避ける様に設置された板張り階段を上って行く。門の横には多くのアプサラが踊る浮彫が施されている。


門をくぐり十字門の内側に回り込むと、エイリアンが触覚を伸ばし建物に寄生するかの様な不気味な光景が広がっている。専門家の中では、巨大な樹木は遺跡を破壊しているのか、それとも遺跡を支えているのかとの議論があるそうだが、確かにこの光景は議論のどちらが正しいか考えさせられる。手前にある踊り場からは、榕樹(ガジュマル)の姿を間近で観察したり記念撮影をすることが出来る。この時間、他に観光客が来なかったのはラッキーだった。
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遺跡内には、見学用の板張り通路が設けられている。通路は一旦第四周壁の東面外側に出て北に向かい、樹海や環濠を回り込む様にして再び第四周壁の北面東側に戻ってくる。通路からは、第四周壁を跨いで天に向かって伸びる樹木の姿を何本も見ることができる。


第四周壁を越え通路の階段を下りた先は、第三周壁東塔門の東面北側回廊前になり、積み重なった石材の前に腰を下ろしアンコール遺跡の絵画(水墨画に彩色する墨彩画)を販売するお兄さんたちがいる。そして第三周壁沿いに放置されたおびただしい数の石材の先(第三周壁北東角)には、半壊した塔門があり門の両脇にデヴァター像のレリーフが見える


板張り通路は、第三周壁にある東面北側回廊に入り、回廊を通って第三周壁内に至る。通路は第三周壁内に重なる様に放置された石材と堂塔を縫う様に続いている。堂塔は、三重の回廊の交点上部に建ち並んでいるが、第三周壁内には単体の堂塔も建っていることから、あちらこちらに堂塔がある印象となり、位置関係がわかりにくい。現在、タ・プロームには、中央祠堂を含め堂塔は全部で39基あるとのこと。
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堂塔は、損壊しているものが多いが、連子窓やデヴァター像などの浮彫や、入口上部の破風には、趺坐し合掌する多くの仏像の浮彫が残されている。また、いくつかの堂塔内部にはリンガが祀られており、板張り通路から出入りできる。

タ・プロームでは、所々で工事が行われているが、これは石材や榕樹の除去作業ではなく、発見された当時の姿を維持・保存するためのものらしい。しかし聖域内では多くの樹木が伸び、既に崩落している堂塔に絡みながら伸びる榕樹もあることから、現状維持の保存作業には大変な苦労があるだろう。
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こちらは、第二周壁の内側から第二周壁回廊の東北角を眺めた様子である。堂塔が回廊上に建っている。回廊壁面には唐草文様の装飾や、塔にかけてデヴァター像など美しい浮彫が施されているが、その右側の回廊の屋根に触覚が絡みつく様に伸びる根毛の様な根に視線が集中してしまう。
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第二周壁の西面南側の内側から伸びる白くなめらかな樹皮を持つ不気味な榕樹(ガジュマル)がタ・プロームを代表する人気の撮影スポットで、この日も多くの観光客が入れ代わり立ち代わり記念撮影して混雑していた。「密林に埋れ忘却された遺跡」と呼ばれるタ・プロームのイメージをこの時間に味わうのは難しいようだ。ここではウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons)の画像をお借りした。
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混雑するタ・プロームだが、中央エリアをやや離れた第三周壁の北面西外側は、比較的人通りが少ない。こちらの塔門上部には、多くの仏像の浮彫が施された破風があり、まぐさ石(リンネル)にはカーラと唐草文様が表現されている。榕樹ばかりに目が行きがちだが、この様に繊細な浮彫彫刻も多く見られる。しかしこちらの塔門にも左右と足元に蛇の様に榕樹が伸びてきていることから、近い将来は浸食されるのだろうか。。
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第三周壁の西塔門は、横長の回廊に三塔門を持つ豪華な造りだが、全体に大きな歪みが生じている。手前には蛇神ナーガの参道が続き、西門近くから全体を眺めると、中央祠堂や副祠堂などに加え、榕樹も高く聳えている。敷地内の榕樹は周りの樹木と比べ低い位置に葉がついていないことから、定期的に剪定しているのだろう。
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タ・プロームでは、遺跡本来のイメージを保つ様に、できるだけ観光客が映らないように撮影してみた。

「タ・ケウ」(クリスタルの古老の意)は、10世紀末(975年頃)にジャヤーヴァルマン5世(在位:969~1000頃)により建設が始まったヒンドゥ寺院だが、王の死去により未完成のまま放置された。東西120メートル×南北100メートルの5層基壇(ピラミッド型)で、上部に中央祠堂と四方に副祀堂を持つ美しい姿をしている。こちらは東側から見上げた姿である。


アンコール・トムの北東に位置する「プリヤ・カーン」は、チャンパ王国との激戦が行われた場所で、ジャヤーヴァルマン7世が父王ダーラニンドラヴァルマン2世の菩提を弔うために1191年に建てられた仏教とヒンドゥ教との習合寺院(バイヨン様式)である。東西800メートル×南北700メートルと広い敷地を持ち、東側がメイン入口となるが、見学ルートの便が良いとされる「西塔門」から向かった。しばらくすると、環濠に架かる蛇神ナーガの欄干がある陸橋が見え、その先に「西塔門(三塔が並ぶ)」が現れる。

プリヤ・カーンの最初の見所は、「西塔門」の左右に延びるラテライトの外周壁にあるガルーダ像である。像は、砂岩で造られた2メートルほどの大きさで、外周壁面に立てかけられるように設置されている。ガルーダとは、人々に恐れられる蛇(ナーガ族)を退治したことで知られる聖鳥で、像は蛇神ナーガを踏みつけ尻尾を上空で掴む力強い姿で表現されている。しかしどことなく愛らしいゆるキャラにも見えることから観光客に大変人気がある。
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西塔門から次の第三周壁まではしばらく砂利道を直進する。第三周壁の西塔門から先は、高い柱や高い壁で左右を囲まれた長く細い通路(中央通路)が一直線に延び、途中回廊も複雑に組み合わさりながら続いている。通りには所々にリンガが祀られ、聖域中央部には、ひと際大きな仏塔が祀られている。
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仏塔を過ぎて再び中央通路を直進すると「第二周壁東塔門」から視界の広がる空間に到着する。側壁の辺りには多くの石材が折り重なり放置されているが、他にも多くが崩壊していることから建物の位置関係が分かりにくい。北東方面には横長の大きな建物があることから、次にその方面に向けて、この先の「ホール・オブ・ダンサーズ」を経由していく。
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ここに至る中央通路はこの先「ホール・オブ・ダンサーズ」をも貫いて延びているが、通りは広くなり屋根もないことから非情に明るい。周りには朱色の彩色が残る柱が立ち並び、多くの梁には13人のアプサラが踊る浮彫が施されている。これほどの躍動感のあるアプサラが勢ぞろいするのは他では見られないかも。
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「ホール・オブ・ダンサーズ」の交差路から北側に進むと、ナーガの欄干で縁取られた陸橋があり、その先の中島にギリシャ神殿を思わせる「二層の建物」が建っている。その二層の建物の西隣には階段のある2メートルほどの高さの砂岩の構造物があり、上から眺めることができる。二層の建物は、東西に横長で中央部分が前後に張り出し、1階部分に円柱を用いたアンコール遺跡では珍しい構造をしている。経蔵とも言われるが使用目的は不明である。
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そして最後の見所となるのが「第三周壁東塔門」を出てすぐ南側の副門との間の回廊沿いに生息する榕樹である。近づいて見ると二本の巨木が合体している。一本は幹部分で切断され立往生している様な姿で、もう一本は、回廊を壊し屋根に食い込んだ後、空に向かって枝葉を伸ばしている。
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そのまま、東へ続く砂利道を歩き、外周壁に建つ東塔門までやってきた。西塔門と対となる三塔門で、左右にはガルーダ像も飾られているが、外周壁の倒壊寸前を思わせる傾き具合に驚かされた。そのまま迎えにきた車に乗って対岸のバライにある遺跡に向かう。

ニャック・ポアン(絡み合うヘビの意)は、12世紀の後半、王ジャヤーヴァルマン7世により、プリヤ・カーンの東側のバライの中ほどに、人工の島をつくり建てられた仏教寺院である。島には、1辺70メートルの大きな環濠と外面四方に聖池を配し、その中心に、円形基壇を築きその上に中央祠堂を設置するという特殊な形態を採用している。
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円形基壇には、2匹の蛇神ナーガが巻き付いている。そしてすぐ東側には、観音菩薩の化身神馬バラーハが旅人を救う場面を模した彫像がある。ニャック・ポアンは、ヒマラヤ山脈の神秘の湖アナヴァタプタ(阿那婆達多)の水が万病を治すとされるヒンドゥ教の教えに基づき、医療目的のために設計された。人々は、池で沐浴することで病気が治ると信じられた。

お昼は、旅行会社ご用達の緑の庭が美しいカンボジア料理店にやってきた。


カンボジア国内で最もポピュラーな「アンコール」ビールと、バイチャー(カンボジアのチャーハン)を食べ、その後、昨日同様にマッサージ店で過ごした。


午後からは、車で北に1時間ほど離れた「バンテアイ・スレイ」の見学に向かうが、途中、大粒の雨が降ってきたため、駐車場で小ぶりになるのを待ってからサンダルに履き替え向かった。最初に、赤土の土手道を西に歩き、唐草文様の装飾が施された破風のある東塔門をくぐって更に石畳の参道を進むと、左右に角柱のみが建つ「第三周壁塔門」が現れる(バンテアイ・スレイ・プランを参照)。

「第三周壁塔門」の左右南北から延びるラテライトの周壁越しにバンテアイ・スレイの全貌が見える。前方の「第二周壁塔門」から先が聖域中央部になる。寺院自体は小さいが、赤い砂岩の風合いと均整のとれた建物群が美しさを引き立てている。
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バンテアイ・スレイは、アンコール・ワットの建造より、約140年ほど遡る967年、クメール王朝ラージェンドラヴァルマン王(在位:944~969)の下で着工式が行われ、息子のジャヤーヴァルマン5世の代に完成した。バンテアイは砦、スレイは女で「女の砦」を意味する。

ところで、クメール王朝(アンコール王朝)美術の完成度が最高潮に達するのは、10世紀後半のラージェンドラヴァルマン王時代とされている。中でも、バンテアイ・スレイは、北東方面に大きく離れた遠隔地にあるものの、建物全体に施された精巧で美しい深掘り装飾が、観光客に大変人気があり「アンコール美術の至宝」と賞賛されている。


その第三周壁塔門から参道を進んだ先の「第二周壁塔門」の頭上を飾る破風部分には、三頭の象上に鎮座するヴィシュヌ神が刻まれ、その下からマハーカーラが両手に掴む渦巻き状の唐草文様の世界が広がっている。
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塔門の両側には、内側から上部リンネルを支える灰色砂岩に浮彫装飾を施した小脇柱、次に、破風のある屋根を支える赤色砂岩に深掘りされたカーラと唐草文様の浮彫石柱、最後に周壁に続くラテライトの外壁から構成されている。
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「第二周壁塔門」は、二重門になっており、次のラクシュミー神(左右の象から祝福を受ける)の浮彫がある破風(リンネルと一体化している)の下をくぐると「第一周壁塔門」前の周歩廊(雨で水たまりができ足元の悪い)に到着する。周歩廊を北側に回り込んで中央の聖域を見ると、基壇の上の左側(東)に経蔵があり、中央には蹲踞姿の猿の彫像が護る拝堂が建っている。周壁塔門の破風の浮彫と同様に、経蔵や拝堂の門を構成する破風やリンネルの浮彫も緻密に刻み込まれている(北経蔵には、クリシュナ神が、南経蔵にはシヴァ神が表現されている)。
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拝堂の後方西側は中央祠堂に直結しており、その中央祠堂は、南北の副祠堂と密接して建っている。中央祠堂と副祠堂のそれぞれ四面にある門は東門以外はすべて浮彫門になっている。そして東西南北の全ての門の左右両側には、守護神像が祠堂内のリンガを護っている。中央祠堂の門は、ドヴァーラパーラ(男性の守護神)が護っているが、南北の副祠堂の門ではデヴァターが護っている。
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こちらは、その北側副祠堂の北門を護るデヴァター像で、「東洋のモナリザ」と呼ばれる世界的に知られたデヴァターは、この北側副祠堂の南側にあり、現在は基壇に上れないため見ることはできない。いずれにせよ、どのデヴァター像も高さは70センチメートルほどの小品で、腰をくねらし、やや前かがみの三屈法のポーズを取る姿をしており魅力的であることには変わりがない。この日は、雨に濡れ、赤い砂岩が濃い深紅に変わって、一層高級感を醸し出している様にも感じる。
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南西側から見ると、中央基壇への西側階段の左右には二体の蹲踞姿の像が配され、基壇上には、中央祠堂と南北の副祠堂が並んで建つ姿が一望できる。それぞれ祠堂の塔部分は、破損個所も少なく、緑色の層も鮮やかに残っており、赤色砂岩とのコントラストが美しい。
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緑色の層には、悪鬼ヴィラーダ、蛇神ナーガ、ガルーダなどの装飾が施されている。
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祠堂の最下部は、いくつかの層が積み重なって構成され、その層毎に異なる幾何学文様などの浮彫が施されている。いずれも精緻な浮彫で見ていて飽きない。
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西塔門のリンネルには、カーラとマカラの唐草文様が施され、リンネル上の破風にはラーマーヤナ物語で猿軍が戦う様子が表現されている。
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1時間ほど見学した後、シェムリアップ方面に戻ることにし、途中、東バライ東南にある「プレループ」に立ち寄った。バンテアイ・スレイを建設したクメール王朝ラージェンドラヴァルマン王により961年頃に建立されたヒンドゥ教寺院で、かつて境内で行われた火葬が名前の由来となっている。
正面口の東側には、火葬場で使用された石槽や堂塔が並ぶエリアがあり、その先に矩形型の敷地面積を持つ、ピラミッド状に三層の基壇が重ねられた高層の寺院がある。最上階は、四方に副祠堂が建ち、中央には二層の基壇の上に中央祠堂が聳えている。
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プレループとバンテアイ・スレイとは、同じ王の時代に建設されたが、プレループは、煉瓦とラテライトから築かれているのに対して、バンテアイ・スレイ以降は砂岩とラテライトによる建築となり、建築資材の移行期となった。ちなみに、煉瓦による祠堂に彫られた女神像は漆喰彫刻である。

頂上の基壇からは、眺めがよくアンコール遺跡がある樹海が見渡せる。この場所からは夕日とアンコール・ワットが見られるとして人気がある。


夜は、シェムリアップ市内にあるアプサラシアターで、アプサラショーを鑑賞した。アプサラショーは、カンボジアの古典舞踊の流れを汲む伝統的なもので、ユネスコの世界無形文化遺産にも登録されている。内容は、王宮儀式を中心とする王宮古典舞踏と、庶民に受け継がれる民族舞踏の二つの流れがある。1970年代のクメール・ルージュの弾圧により滅亡の危機に陥いったものの、現在では、僅かに残った舞踏家たちの努力で復興しつつある。

アプサラショーはシェムリアップ市内のレストランや専用ホールなど何か所かで開催されている。大半が夕食付で鑑賞するものだが、こちらの「アプサラシアター」は、その中でもやや高級クラスになる。最初に、料理(クメールセット)が配膳され、40~50分ほど経過した午後8時半頃からショーが始まった。最初にアプサラ衣装を身に着けた踊り子による王宮古典舞踏が披露される。


その後、男女ペアで、農民の収穫風景を踊りで表現する民族舞踊が披露され、後半は、王宮古典舞踏から古典叙事詩「ラーマーヤナ」が演じられ1時間程度で終了した。感想は、昨年ウブドで鑑賞したバリ舞踊の高度な踊りの技に圧倒されたこともあり、やや見劣りする感はあったが、若い男女が踊る姿は健康的で爽やかな印象があった。


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翌朝は、アンコール・ワットに日の出を見に行くため、トゥクトゥクに乗り午前5時にホテルを出発した。アンコール遺跡のハイライトであり、既に5時半には、多くの観光客が環濠の傍に集まっていた。今朝の日の出は、雨季にも関わらず空と雲がオレンジ色に染り、その朝焼けを背景にした中央祠堂の上昇感のある形状は一層神々しく感じた。


環濠に反射するシンメトリーも、幻想的で忘れられない美しい光景で、アンコール遺跡見学のフィナーレを飾るに相応しい最高の瞬間であった。


日の出後は、もう一度アンコール・ワットを見学してホテルに戻った。この日は、市内観光、アンコール国立博物館でクメール美術を鑑賞した後、午後6時シェムリアップ発でハノイに向かった。


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ハノイには午後7時40分到着し、その夜は、インターコンチネンタル ハノイ ウエストレイクに宿泊した。翌朝より、世界遺産「ハロン湾」クルーズに2泊3日で参加した。1泊目はクルーズ泊で、鍾乳洞見学(スンソット洞窟)ハロン湾に沈む美しい夕日や船上でのコース料理などで過ごし、
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2泊目は、カットバ島に上陸して、国立公園トレッキング、マッサージ、島内のレストラン(グリーンマンゴー)で食事をしホテルに宿泊した。3日目は再びクルーズに乗船してハノイに戻るといった充実した内容だった。両日ともクルーズ泊のコースがあったが、やはり、船泊と島泊とのカップリングが変化に富みベストチョイスだったと思う。


ハノイでは、再びインターコンチネンタル ハノイ ウエストレイクに宿泊し、最終日は、ホーチミン廟の見学や水上人形劇を鑑賞して午後9時ハノイ発の便で帰国した。

(2010.8.3~8)

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