カズさんの旅たび

 ~歴史、文化、芸術、美食紀行。。

カンボジア・アンコール遺跡(その1)

2013-06-01 | カンボジア
ここは、カンボジア北西部のシェムリアップ中心部「プレア・サンリーチ・テップ・ボン通り」沿いに建つリゾートヴィラ(DE LA PAIX)のスパ・プールである。ホテルには3泊滞在し、翌日からは現地旅行会社の個人ツアー(2日間)でアンコール遺跡を巡ることにしている。アンコール遺跡とは、カンボジア王国の淵源「クメール王朝(アンコール王朝)」が9世紀頃から13世紀初頭にかけて建設した宮殿や寺院のことで、特にアンコール・ワット、アンコール・トム及びタ・プロームは、アンコール三大遺跡として知られている。


ちなみにカンボジアへは昨日の午前11時成田発バンコク行きの便に乗り、グランド ハイアット エラワン バンコクに1泊(数日来の激務を癒すべく、チャオプラヤー川沿いのオリエンタルホテルのスパ3時間コースを堪能し、夕食は、海鮮料理屋で蝦蛄料理などを頂き、翌日はBaan Rim Naamで昼食)した後、今日の午後3時のバンコク発で午後4時10分にシェムリアップ国際空港(ホテルから南東方向約9キロメートルに位置)に到着したところ。ホテルのプールでひと泳ぎした後は、中庭が見えるレストランでカンボジア料理(魚の酸味の効いたスープココナッツミルク入りカレーなど)を頂き昨日に引き続き、優雅に一日を終えた。

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さて、翌朝は、中庭に面した回廊で朝食クイティウなど)を頂き、迎えに来た旅行会社の男性スタッフの車に乗り込み午前8時に出発した。最初に、シェムリアップ中心部から北6キロメートルに位置するアンコール・ワットの1キロメートル西側にある「アンコール・バルーン」に向かった。そのバルーン(気球)に乗り200メートル上空から東側を眺めると、目の覚めるような鮮やかな緑が地平線まで広がり、その樹海の中に唯一突出したアンコール・ワットの中央祠堂の威容が見える。アンコール・ワットは今もクメール王朝の権威を象徴している。
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ツアーでの遺跡訪問は、アンコール遺跡周辺Mapを参照。

それでは、再び街道を東に戻った突き当りにある「アンコール・ワット遺跡」を見学する。アンコール・ワット(王都・寺院の意)は、12世紀前半に即位したクメール王スーリヤヴァルマン2世(在位:1113~1152頃)により国家鎮護を目的に建てられたヒンドゥ教寺院で、東西1,500メートル×南北1,300メートルの大伽藍と、美しい浮彫彫刻を特徴とするクメール建築の傑作である。幅190メートルの川の様な環濠の外側からは中央祠堂と左右の副祠堂を望むことができる。
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その中央祠堂に向けて西から東にかけて環濠に砂岩の直線陸橋が架かっている。陸橋の左右にはヒンドゥ教の天地創造神話「乳海攪拌」を表す蛇神ナーガ(竜王ヴァースキ)の欄干が縁取られていたが、今では大半が失われている。陸橋の途中から振り返ると、続々と入場してくる観光客の向こうに、先ほどまでいたアンコール・バルーンが見える。陸橋を渡った土手道の先の巨石の様な塊がアンコール・ワットのメインゲート「西大門」で、東西1,030メートル×南北840メートルの矩形の外周壁の西面中央に築かれている。その西大門の左右(南北)にはやや低い塔門「象の門」があり共にメインゲートを模っている。
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「象の門」は、当時は車馬が通るための門だったが、南側の門の中央には「タ・リーチ」と名付けられた2メートルを超える黒く大きなヴィシュヌ神立像が祀られ、花や線香が供えられている。円錐形の僧帽や厚い唇をした優しい表情はクメール美術の特徴でもある。
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外周壁の外側の環濠側には列柱が並ぶ回廊が続き、内側(東側)の壁面には明り取りのための連子窓と「デヴァター」の浮彫レリーフが並んでいるが、南側「象の門」近くにある「歯を見せて笑うデヴァター」のレリーフは、観光客に人気の撮影スポットとなっている。デヴァターとはもともとサンスクリット語で神を意味するデーヴァを語源としたヒンドゥ女神のことで、壁面には、華麗な文様を背景に、王冠髪飾りを始め、首飾り、腕輪、腰飾りなどの装飾を身に着け、薄手の衣をまとった美しい姿で表現されている。
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そして、このデヴァターの他に、やや小さなサイズの「アプサラ」の浮彫が壁面や柱など至る所に見受けられる。アプサラとは天女や踊り子のことで、カンボジアの宮廷舞踊アプサラ・ダンスは、この天女の舞い「アプサラ」を発祥としている。
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さて、外周壁にある西大門を抜けると、再び蛇神ナーガの欄干で飾られた石畳の「西参道」が東に延び、遠く前方にアンコール・ワットの中央祠堂と左右の副祠堂(五点型寺院)が見える。

西参道を中ほどまで進むと左右に階段があり、左側を下りたすぐ先に、日本国政府アンコール遺跡救済チームにより2005年に修復された「北経蔵」が建っている。その北経蔵の東側にある聖池手前から左側に回り込むと、中央祠堂と副祠堂との五本の祠堂が一堂に会して望め、更に聖池に映り込んだ美しいシンメトリーな姿も併せて楽しめる。
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五点型寺院は、クメールの宇宙観である須弥山(メール山)と周りの霊峰を具象化したもので、クメール建築では、中央祠堂を中心に、正方形の四つ角に副祠堂を配置する。初期の建築様式では、平地にそれぞれ単独で祠堂を建てていたが、アンコール・ワット様式では回廊を階段状に押し上げ、頂部に設置する祠堂を田の字状の回廊で連結する手の込んだ造りとなっている。

それでは、聖池を回り込み、第一回廊(北側階段から)に向かう。アンコール・ワットの回廊は、第一回廊から中心部の第三回廊までの三重回廊から構成されているが、最初の第一回廊は東西200メートル×南北180メートルの広さで、刳形装飾と呼ばれる、えぐって波状にした基壇の上に、列柱が二重ある回廊と分厚い屋根から形成されている。その回廊内壁にあるのが、アンコール・ワット最大の見所の一つ「浮彫レリーフ」で、高さ8メートル、周囲全体760メートルにわたり施されている。
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レリーフは、西面北側のラーマーヤナ物語から左回りに、マハーバーラタ物語(西南南側)、偉大な王の回廊(南面西側)、天国と地獄(南面東側)、乳海攪拌(東面南側)、ヴィシュヌ神の阿修羅との勝利(東面北側)、クリシュナと怪物バーナの戦い(北面東側)、神々の戦い(北面西側)と続いている。

「ラーマーヤナ物語」では、ラーマ王子を助ける猿軍とランカー島(セイロン島)を本拠地とするラークシャサ(羅刹)軍との壮絶な戦い(ランカ島の戦い)が表現されている。槍や剣を振りかざし激しい戦闘が続けられている。
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ラーマ王子は、古代インドの英雄でヴィシュヌ神の化身とされる。物語は、そのラーマ王子の婚約者シーター妃がラークシャサ(羅刹)王ラーヴァナに奪い去られ、ランカー島に監禁されたことから、ラーマ王と猿将ハヌマットが救出に向かう内容である。

「偉大な王の回廊」では、アンコール・ワットを建設したスーリヤヴァルマン2世(在位:1113~ 1152頃)が世界の覇者として玉座に座り、拝謁する人々に下知を与えてる様子が刻まれている。クメール王朝(アンコール王朝)は、もともと、メコン川下流域(現在のカンボジア、ベトナム南部)に栄えた古代国家「真臘(しんろう)国」が、8世紀に分裂し、802年にジャヤーヴァルマン2世により統一されたクメール人の国家で、12世紀初頭、スーリヤヴァルマン2世治世下で、タイ中部、マレー半島、ベトナム南部に及ぶまでの王朝最大の領土となった。
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「天国と地獄」の壁画リリーフは長さ66メートルにわたり上中下の三段で構成されている。レリーフでは、王(スーリヤヴァルマン2世)と王妃、王族や従僕が裁きを受けるために輿に乗って進む様子から始まっている。
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こちらの中段には、18本の腕を持つ夜摩天(閻魔大王)が牡牛ナンディーに座って人々に裁きを下しており、その手前には王族一行が着座してその裁きを待っている場面が表現されている。
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そのすぐ先では、裁判を受けた人々の内、罪人とされた人々が地獄(アヴィーチ(阿鼻地獄))へと落とされている。
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レリーフはその先から中段と上段が天国を表し、下段が地獄を表す場面となる。下段の地獄の場面は、次々と悲惨で残酷な場面が続く。向かって左側は舌を抜かれる罪人が、右側では磔にされる罪人がいる。他にも、串刺しされる人や、釘を打たれる人々など痛々しい刑が行われている。
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「乳海攪拌」のレリーフは49メートルに渡り続いている。神々と阿修羅の両者で大海を攪拌すれば、不死の霊薬アムリタを取り出せることから、マンダラ山を攪拌棒として、そこに絡ませた蛇神ナーガ(竜王ヴァースキ)を神々と阿修羅が引くことで、大海を攪拌する。大海は乳海となり太陽、月、神々など様々なものが生じた後にアムリタを取り出すことができた。その後両者で争奪戦が繰り広げられるが最終的に神々の勝利に終わると言った内容である。
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レリーフは、阿修羅が蛇神ナーガを引いている場面からスタートする。こちらのレリーフでは、上段の天空に天女アプサラが舞い、中段に阿修羅が渾身の力を込めて蛇神ナーガを引き、途中に大身の阿修羅王が加わっている。そして下段は大海を表しており、驚いた魚が飛び跳ねている。

第一回廊と第二回廊の間(西側)には、田の字型の平面を持つ幅3メートルほどの十字型の回廊が連結しており、それぞれ区切られた空間には、四つの沐浴地が設置されている。沐浴地は、石畳の底と刳形装飾の側面壁から造られ、中央側に向けて階段がそれぞれ一か所毎に設けられている。かつては雨水を湛え、参拝者はそこで身を清めたという。
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アンコール・ワットは、もともと、ヒンドゥ寺院として建設されたが、16世紀に境内に上座部仏教の寺院が建立されたことから、多くの仏教徒が参拝するようになった。十字型の回廊の南側壁面には、大小様々の仏像が並んでいるが、クメール・ルージュにより多くが破壊され現在は僅かとなっている。その中央には天蓋や戸帳など様々な荘厳仏具で飾られた大きな仏陀立像が奉られている。回廊の柱や天井には朱色の彩色が残っている。
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当時、日本では、アンコール・ワットがインドの祇園精舎であると誤った認識が広まり、大勢の日本人が祇園精舎の参詣としてアンコール・ワットへ出かけていった。十字回廊の中央付近には、そのうちの一人、森本右近太夫の墨書(1632年訪問)の跡が残っており「御堂を志し数千里の海上を渡り」「ここに仏四体を奉るものなり」と書かれている。
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次の第二回廊へは、十字回廊の東側と連結しており直接階段を上って行けるが、一旦、手前の階段を下り、第一回廊と第二回廊との間の広場を進んでいくと、突然雨が降ってきた。8月は雨期の時期でありカンボジアではこういうことが頻繁に起こる。

さて南側の広場から見える第二回廊は、高い刳形装飾の基壇の上に造られている。大きさは東西115メートル×南北100メートルあり、四隅に堂塔があるが、いずれも頂部は崩壊している。アンコール・ワットの連子窓の連子は奇数と定められており、第二回廊の外壁の連子窓の連子は7本で統一されている。内側の回廊には取り立てて装飾がなく殺風景な通路が続いている。
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最後の第三回廊は第二回廊より更に11メートル高い場所になり、かなり傾斜の強い階段を上って行く。その第三回廊は、一辺60メートルの正方形で田の字に回廊を配し、中央に中央祠堂が、四隅に副祠堂が設置されている。そしてその区画にある沐浴地から見上げる高さ65メートルの中央祠堂は巨大で威圧感がある。中央祠堂の側面角には各層毎にデヴァターの浮彫が二体づつ施されているのが見える。
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中央祠堂の基部には二重の列柱があり、その奥の壁面には、数十体ものデヴァター像のレリーフが取り囲む様に配置されている。中央祠堂のデヴァター像は、動きを抑えた清楚な佇まいといった印象である。
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全体的に保存状態も良く、冠や首飾りなど細部に至るまでより精緻な浮彫装飾が施されている。中でも特に王冠飾りは、高浮き彫り技法が駆使され、それぞれ異なるバリエーションがある
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アンコール・ワットの見学を終えた後は、街道沿いにあるカンボジア・レストランに移動し汁無しのクイティウ(フォー)、チャプチャイ、スープ、ライス、デザートが付いたランチセットを頂いた。その後、マッサージ店で休憩した後、午後は、アンコール・トムに向かった。


アンコール・トムはアンコール・ワットから北に1キロメートルの位置にある一辺約3キロメートル四方の広大な敷地に、周りを幅100メートルの環濠と、ラテライトで造られた8メートルの高さの城壁で取り囲まれている。1190年、クメール王朝の中興の祖で初の仏教徒の国王と言われたジャヤーヴァルマン7世(在位:1181~1220頃)により築かれたクメール王朝最大の都で「輝ける新都城」と呼ばれた。

都城内へは、東(死者の門)・西・南・北の城門と北東(勝利の門)の5つの城門から入場できるが、車道が整備され保存状態も良い「南大門」から向かう。その手前の環濠に架かる陸橋の左右には蛇神ナーガ(竜王ヴァースキ)の欄干が飾られており、向かって左側に神々が、右側にアスラ(阿修羅)が中腰姿で蛇神ナーガを引いている。
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城門手前の蛇神ナーガの欄干像は全ての城門前に設置されているが、クメール・ルージュにより大半が破壊された。現在は、徐々に修復が続けられている。像を近くで見ると、阿修羅が蛇神ナーガの頭部持ち上げる姿など大変迫力がある。
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南大門の上部は小塔になっており、東西南北の四面に観世音菩薩の彫刻(四面仏)が施されている(他の4つの城門も同じ)。また、四面仏の周辺に刻まれた数体の仏陀像や、門の左右側面の蓮の蕾をすくい上げようとする象の彫像など、クメールの美術の巧みで繊細な浮彫を随所に見ることができる。その南大門のアーチ門は、一般的に石を円弧状に組み合わせ圧縮力で支えるとは異なり、石材を少しずつ迫り出して積み上げる「迫り出し方式」が採用されている。
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その南大門をくぐると、再び周りを森に覆われ街道と変わらぬ一本道が続くが、当時は多くの人々が住み、盛んに経済活動が行われるなど賑やかな通りだったという。そして、そのアンコール・トム中心部には、ジャヤーヴァルマン7世が、王権の神格化を図るべく建設したピラミッド型寺院「バイヨン」がある。寺院正面口は東側になることから、寺院手前から道に沿って大きく回り込み、大きく破損した蛇神ナーガの欄干で飾られた広い砂岩の陸橋テラスから向かう。

破損したデコボコのテラスを歩いて行くと、バイヨンの威容が目の前に迫ってくる。高さ43メートルある中央祠堂は、クメール的宗教観である須弥山を見立てており、バイヨンは「美しい塔」を意味するが、現在は、中央祠堂の頂部はえぐれ、崩壊が著しい。バイヨンは、その中央祠堂を中心に三層から成り立っている。第一層は、外側の第一回廊(160メートル×140メートル)と内側の第二回廊との二つの回廊で構成され、第二層に16の塔堂を配している。
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近くで見ると塔群が並ぶ姿に迫力を感じる一方、それぞれの塔の中央に刻まれた観音菩薩像の顔(四面仏)も確認できる。観音菩薩は四方へ慈光を放ち人々を救うとされる。正面門は、大きく東に張り出す巨大な塔門だったと思われるが、損傷が激しく、現在は柱と梁だけが続いている。
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正面門を入ると左右に続く列柱にはアプサラの浮彫が施されているが、こちらには3体のアプサラが蓮台の上で軽やかに踊る躍動感のある姿が表現されている。王冠や首飾りなども繊細に装飾され、全体に朱色の彩色が残っている。
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最初の第一回廊の場所は、屋根がないため分かりにくいが、大きなレリーフが続いていることから特定できる。その第一回廊の南面レリーフには、チャンパ国(ベトナム中部のヴィジャヤに都を置く港市国家)によって占領(1177年)されたクメール王朝が、ジャヤーヴァルマン7世により王都を奪還(1181年)するまでの攻防戦が表現されている。こちらは戦地に向かうクメール軍の様子で、象の豪華な鞍に座るクメール人指揮官が、クメール歩兵を率いている。歩兵は角刈り頭に長い福耳をしており、褌姿に上半身に太い紐をかけて槍を担いでいる。
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他にも、クメール軍には象上のクメール人指揮官が率いる蓮華装飾の冠を被り鎖帷子風の長い上着を着た中国人部隊が参戦している。

こちらは、森の中で繰り広げられるクメール軍とチャンパ軍の戦闘シーンで、クメール軍兵士が勇敢にチャンパ軍内に飛び込み、チャンパ軍兵士を槍で一突きしている。チャンパ軍兵士は、花弁の装飾のある顎まで覆う兜を被り半袖の短い上着を着ている。
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そして、こちらは、トンレサップ湖の水上戦の様子。船に乗るのはチャンパ軍兵士(水軍)で、魚が泳ぐ水中に落ちて漂うのはクメール軍兵士の姿である。トンレサップ湖とはシェムリアップから南に車で30分ほどの距離にある東南アジア最大の湖である。
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こちらは、トンレサップ湖で船に乗るクメール軍兵士(水軍)で、半袖前開きの上着を着て槍を携えている。湖には、多くの魚が泳いでいる。
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そのすぐ隣のレリーフには戦いが終了したのか勝利に沸く船上の人々の様子になり、湖には多くの魚に加えてワニが表現されている。ちなみに、今もトンレサップ湖では、ワニのマーケットがあり、ワニ肉やワニ革を使った革製品の販売などが行われている。そして、レリーフ下段には、クメール人の売り手と買い手とのやり取りや、闘鶏に集まる人々、魚を料理する女性、椅子に座った女性が商売をする姿など、当時の市場の風景や人々の生活する様子が生き生きと表現されている。庶民は男女とも上半身は裸で、男性は褌姿、女性は髷を結い金製の装飾品を身に着け腰にサンポットを巻き付け、足元は裸足だった様だ。
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浮彫レリーフは、どの場面も、精巧な浮彫彫刻に加え、場面構成、人物描写など表現力が素晴らしく、一級品の芸術絵画を鑑賞している様であり、当時のクメール美術のレベルの高さに大変驚かされる。

次に、やや急な階段を上った第二層を過ぎ、更に階段を上ると、バイヨン最大の見所である第三層(上層テラス)に到着する。上層テラスでは中央祠堂を周回しながら、巨大な四面仏が林立する様子を間近に見学することができる。
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四面仏が刻まれた塔は現在37個所あるが当初は54個所あったとされる。観世菩薩像は鮮やかな蓮の王冠飾りも付けており、ジャヤーヴァルマン7世を神格化して偶像化したものとする説もある。厚めの唇と温和な表情は「クメールの微笑み」と呼ばれ、まさに衆生を救うための仏の慈悲の様相を呈した如くである。
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中央祠堂内には、1933年、フランス極東学院の調査により発見されたブッダ像が祀られている。こちらは、バイヨン寺院の北側から出て振り返って見た様子である。どことなく北側からの全景の方が美しく見える様な気がする。
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バイヨン寺院の北側の通りを進むと、王宮前広場になり、西側に南北方向に続く長大な「象のテラス」がある。やはり、ジャヤヴァルマン7世によって造られ王族の閲兵などで使われた。南北に長さ300メートル強あり、3メートルの高さの基壇上に乳海攪拌を模した蛇神ナーガの欄干が飾られている。基壇の側面に象の浮彫レリーフが続いていることから名付けられたが劣化が激しい。
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もともと、この辺りには、クメール朝第4代で名君「獅子の男」と呼ばれたヤショーヴァルマン1世が889年に築いた旧都ヤショーダラプラがあり、ジャヤヴァルマン7世は、旧都を取り込むことで新都を建設したとされる。そして、象のテラスの中心部から西側には、10世紀末に造られたピミアナカス寺院(歴代の王が儀式を行う)があったが、現在は樹海に覆われている。他にも、プリヤ・パルライ、バプオン、東側にもプリア・ピトウ、北クレアン、南クレアンなどの王族たちの施設があり、アンコール・トムの北東門(勝利の門)から参道が通じている。

象のテラス上を北に歩いて行くとテラスの北西角に象が蓮の蕾をすくい上げようとする彫像のレリーフがあり、撮影スポットとして人気がある。そして「象のテラス」の北隣には「ライ王のテラス」がある。一辺が約25メートル、高さは約6メートルで、王族の火葬場として使われたとの説がある。
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ライ王像のレプリカ(本物はプノンペン国立博物館所蔵)がテラスの中央に飾られている。ライ王とは、ライ病を患ったとも伝わる旧都ヤショーダラプラを建築したヤショーヴァルマン1世とされるがはっきりしていない。他の説として、火葬場として使われたことから、夜摩天(閻魔大王)とも言われている。


栄華を誇った仏教都市アンコール・トムは、ジャヤーヴァルマン7世の死後、後継者ジャヤーヴァルマン8世(1243頃~1295)により、ヒンドゥ教の都として改変され、多くの仏像浮彫を削り取り、境内にあった仏像をも破壊したという。その後、1431年にはタイの中部アユタヤを中心に展開したタイ族によるアユタヤ王朝との戦争を経て、都は放棄され、樹海に覆われてしまう。

次に、アンコール・トムの南400メートルに位置(アンコール・ワット寺院の北西1,300メートル)するプノン・バケンに向かった。

「プノン・バケン」は、アンコール・トム建設より約270年ほど先立つ10世紀初頭、ヤショーヴァルマン1世(在位:889~910)が旧都ヤショーダラプラの中心地に須弥山を模して建てた、標高67メートルのプノン・バケン山の頂上に矩形型の基壇を五段重ねた47メートルの高さのピラミッド型(バケン様式)のヒンドゥ寺院である。それぞれの段に小祠堂が配置され、最上段の基壇まで東西南北に急階段が延びている。階段下の左右には煉瓦造りの経蔵が配置されている。


プノン・バケンは、アンコール遺跡のなかで最も高い位置にあることや360度の展望がきくことから、夕暮れ時には鑑賞スポットとして混雑する。この日も、西側の急階段や、最上段にある損壊した中央祠堂の周りには、多くの見物客が集まっていた。寺院自体は、中央祠堂と同様に、四隅の小祠堂も損傷が激しく瓦礫となっている。


残念ながらこの日は曇っていたが、北東約30キロメートル先の山岳地帯「プノン・クーレン」の山並みまで見渡せた。なお、手前の樹海がアンコール・トムである。


西側には、11世紀にクメール王国により完成した東西8キロメートル、南北2.1キロメートルの長方形の巨大な貯水池「西バライ」が見える。時折吹く風も心地よく気持ちが癒される場所である。


初日の遺跡見学は以上で終了し、日没後、シェムリアップのヴィラに戻ってきた。夕食は、昨夜同様に中庭が見えるレストランで頂いた。最初に、前菜を頂き、その後、甘辛ソースを付けた牛肉ステーキを頂いた。


最後に、イカの生胡椒炒めを頂いた。イカの食感と生胡椒の華やかな香りとの相性が素晴らしい一品である。

(2010.7.31~8.2)

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