気儘に書きたい

受験勉強よりもイラストを書くのが好きだった高校生の頃---、無心に絵を描く喜びをもう一度味わえたらいいのだが。

亡き父の思い出Ⅰ

2014-08-31 22:52:18 | 風景画
親子でいられた年月は短い間だったけど亡き父は「いい父ちゃん」だった。
太平洋戦争が敗色の様相をみせはじめた頃、関西大学生だった父は学徒動員され海軍に入隊した。
終戦後何年も音沙汰がなかったので戦死したものと思われ、位牌が祭られていた。
復員後門司砕石所に就職して資金を貯めると関西大学に戻った。大学を卒業して繊維会社「マルタメ」に入社し、昭和26年4月21日に亡き母と結婚した。翌年長女が生まれ次の年に長男が生まれた。
折からの繊維不況で会社が倒産したのを機に、帰郷して家業を継ぐことになった。
映画「三丁目の夕日」のように、当時の日本は貧しく毎日を生きるのが大変だった。
店舗の一部で起居する生活が始まった。店の前の焼きそば屋にアメリカの兵隊がジープに乗ってよくやって来た。店の二階は大家が米軍相手のダンスホールを経営していたので、夜は騒々しかった。昭和31年に次男が誕生して5人家族となった。
当時の娯楽は銭湯の帰りに貸本屋で本や漫画を借りたり、たまに映画を観ることだった。
父はよく一人で映画を見に行っていた。子供向けの映画はもっぱら母の出番だった。
ある晩、夕食後に父が「日本誕生(1959年)」を観に行くという。その映画に天の岩戸を開ける役で朝潮(3代目)が出演することを知っていた私はいてもたってもいられなかった。朝潮は子供の人気者だった。
私は一緒に連れて行ってと父に懇願した。「だったら早く夕飯を食べなさい」と父に言われ、私はご飯を必死にかき込んだ。
上映開始時間に間に合わないからか、それとも最初から私を連れて行く気がなかったのか父は私が食事を終えるのを待たずに出かけた。
父が映画を観終えて帰ってくると、ふてくされた私に映画の話をしてくれた。わたしは目を耀かせながらそれを聞いた。

生活に余裕ができると、洗濯機、炊飯器、冷蔵庫、白黒テレビと家電製品が少しづづ増えていった。