気儘に書きたい

受験勉強よりもイラストを書くのが好きだった高校生の頃---、無心に絵を描く喜びをもう一度味わえたらいいのだが。

タニタの体組成計が好き

2023-04-30 22:32:06 | 車の絵

テレビなどで自分と同じくらいの年の人が映ると、見た目の年齢が気になる。見た目が自分より老けて見えるとちょっと嬉しくなるが、逆の場合は髪で負けていると自虐的になる。

若い人から見たら自分は爺さんに違いないが、自分は毎日ナナハンで通勤して肉体を酷使する仕事にも耐えている働き盛りだ。

風呂上がりに必ず計るタニタの体重計は誕生日ごとに1歳年をとるが、現在61~62歳で推移している。だから好きだ。

 


体調が悪いのは黄砂のせい?

2023-03-29 10:52:33 | 車の絵

今月14日より咳がひどくなった。家にある新ルルや葛根湯など試したが微熱も出てきた。15日朝は37.3°まで体温が上がったが仕事に出た。

就寝してからも咳が続き、屑入を枕元に置いて咳が出るたびに出る痰をティッシュで処理した。

翌週は熱は下がったものの、夜中の三時~四時に咳の発作で寝られず、強力ルル?やエスエスブロン液を処方を無視して飲んだ。

そのうち胃が痛みだしたので、漢方の麦門冬湯エキス顆粒に切り替えたら胃の調子はよくなった。

ここのところ下がっていた血圧は150~165に上昇し、痰が黄色系からピンク色系になるなど体調は悪くなる一方だった。

23日に咳喘息で月に一回通院している呼吸器内科医院で症状を訴え、肺炎を発症しているのではないかと先生に聞いた。

診断は聴診器の音や熱が今は無いことから肺炎の心配はない、咳の発作が出た時はサルタノールを使うようにとの事で、レルベアの強度を100から200に上げ、

さらに5日分の抗生物質と咳止めを処方された。

抗生物質のジェニナック錠200mgを朝2錠、咳止めのオビセゾールコデイン液を朝と就寝前に2mL服用すると即効性はあったが、飲み始めて二日めから咳が元に戻った。

真夜中の咳の発作時にはサルタノールを吸引し、さらに麦門冬湯エキス顆粒を飲んだ。

処方された薬がなくなる27日には血圧は下がり、夕方までは咳が出なくなり、夜は久々に熟睡することができた。

28日の朝一番の痰に鮮血が混じっていた。咳は改善したが咳の原因の痰を抑えるために麦門冬湯エキス顆粒の服用は続けた。

29日の朝も熟睡して目覚めたが、痰はピンク色がかっていた。

30日も快適な朝だった。透明な痰だったのでもう大丈夫だ。

夕方から咳が悪化していたのは黄砂が酷かったのが原因だったのかも。

 


格差社会を感じる時

2023-02-26 20:59:26 | 車の絵

先日、門司港レトロのイベントで、昔風に言えば「スーパーカー」が大集合したようだ。

夕刻、わが店の前をフェラーリ、ランボルギーニ、ポルシェ、マセラッティ、が鈴なりで通り過ぎていった。その数20台以上。

町内にかつて存在したデパートで、客寄せのためにカウンタックLP400を一階正面に展示したことがあったが、私も話のタネに「スーパーカー」を一目見ようと出かけた。

今は、店の前のコインパーキングに、筑豊ナンバーのカウンタックを二十代の男性が長時間、駐車するご時世となった。

家やマンションを買うことができる大金を車につぎ込む若い人たちが少なくないことに格差社会を感じる。

昨年11月に九州クラシックカーラリーに参加した車が店の前を通った時は夢中で写真を撮ったが、珍しくなくなったスーパーカーには興味がわかなかった。


思い出のバイク

2023-01-30 00:52:01 | バイクの絵

41年前に衝動買いして部屋に飾ったり、キャンプに連れてったモトコンポ。子供が園児だった頃、二ケツで幼稚園に行ったこともあった。

通勤に使い始めてから戸外に置くようになると、盗難にあったりあちこち傷みが出た。20年近く乗りタンクに穴があいたのか、満タンにしても三日でタンクが空になった。

エンジンは絶好調だったが手放す時が来たと思った。新聞広告で知った若松のバイク屋に査定に来てもらい15000円でドナドナドーナと引き取られていった。

最近ヤフオクで検索すると希少価値が出て20~70万円で出品されていた。発売当時の新車価格は8万円だったのにバブルの再来かも。

 


S君とのお別れ

2022-11-19 23:15:28 | 風景画

人がこの世に生まれてきたからには、いつか死ぬ運命だと分かってはいるが、S君との別れはあまりに唐突だった。
一週間前、S君と仕事でトラックに乗っている時、「今日、従兄と飲みに行く」とS君が嬉しそうにつぶやいた。
S君は午後5時に仕事を切り上げて帰宅し、お洒落をして会社に戻ってきた。タイムカードを押して意気揚々と盛り場へ向かうS君の元気な後ろ姿を見たのが最後の別れとなった。

その日の午後8時半頃、妻とテレビを見ていると、末弟から私の携帯に電話がかかってきた。
「S君と飲んでたらS君が急に倒れて意識がなくなり、呼吸をしてなかった。・・・救急隊員が今、心臓マッサージをしてるけど動かない・・・。」「今からそっちに行く。」「・・・救急搬送するけど、行先がまだ決まってない。S君の奥さんと叔母さんに連絡とってくれん?・・・搬送先が決まったら知らせる!」電話が切れた。
緊急事態をもう一人の弟に伝え、S君の携帯番号しかわからないのでS君の実家へ車を走らせた。S君の母親から嫁さんに連絡をしてもらうのが手っ取り早いと思った。

運転中に末弟から連絡がきて、搬送先が決まったので救急車に同乗する、S君の家族にも病院に向かうように伝えて、とのことだった。

S君の実家に到着して呼び鈴を数回鳴らし、驚いて出てきたパジャマ姿の叔母に要件を話した。S君の心臓が停止したことは伏せた。

叔母がS君の奥さんの携帯に電話をして、子供をつれて救急病院へ急ぐように話した。

パジャマを着替えるという叔母を、車の助手席に促した。

救急病院の搬送口を入って左手に「緊急処置室」があり、奥でS君の蘇生を試みている様子だった。

担当医が叔母にS君の生年月日や既往歴を訊ねた。S君が健康で肝機能の検査も問題なかったと叔母が気丈に答えていた。

「電気ショックを使っても心電図がまっすぐで、今は心臓マッサージをずっと続けています。心臓が停止している時間が長いので、呼吸が戻っても、脳にダメージが残ることが憂慮されます。」

担当医や看護師が五、六人がかりで救命処置を続けた。

一時して叔母と奥さんが処置室に呼ばれた。「何寝てるんね。S!起きなさい!小さい子供がおるやろ!」悲痛な呼びかけが聞こえた。

病院のスタッフにS君の子供も処置室に入れさせて欲しいとお願いした。

担当医の許可が出て小6、小3の男の子が処置室に入っていった。

処置室で一進一退を繰り返すこと数時間。なんとか心臓の拍動が戻ったと看護師が教えてくれた時、安堵して看護師にS君の命を救ってくれた御礼を言った。

日付が変わって午前1時30分、気管挿管をして人口呼吸器をつけたS君を乗せた寝台が緊急処置室から出てきた。

待機していた全員が寝台に駆け寄りS君に声をかけた。S君の閉じた右目に涙が滲んでいた。S君が病棟2階の集中治療室へ移されたので、関係者は希望を抱いて各々家路についた。

翌日、末弟からS君が危篤状態だと連絡がきた。心臓が止まる度に心臓マッサージを施して蘇生していたが、しだいに心臓が動く時間が短くなっている。コロナ禍で面会が難しいので

二人づつ交代で緊急処置室にはいってS君とお別れをしているとの事。

夕方病院へ駆けつけた時、S君の心臓はアドレナリンを投与しても反応がなく、心臓が停止するまでの時間が30分、20分と次第に短くなっていたので面会は叶わなかった。

午後7時50分、S君は逝ってしまった。享年42歳。S君と一緒に働けてよかった。合掌。


再び独身生活の始まり

2022-10-27 23:27:28 | 風景画

今週月曜日に妻が名古屋に行き、再び独身生活が始まった。今のところ外食をしないで三食自炊している(お昼は弁当持参)。

昨日のオフは貯まった洗濯物を片付けてから、シネプレックス小倉で映画でも観ようとネットで下調べをした。先週2度目の鑑賞をした「マーベリック」級の作品はなく、12月16日公開

の「アバター:ウェイ・オブ・ウオーター」を待つことにした。

天気がよいので近場のツーリングも考えたが、高校の同窓会費を郵便局で振りこみ、トライアルでビールや食料の買い出しをして家に戻ると、外出が億劫になった。

結局、新聞を読んだりネットのニュースを見たりで日が暮れた。

1日を無為に過ごしたような気がして、寝る前に風呂場を念入りに磨いた。久々のゆっくりした休日だった。

 


ハードなキャンプ

2022-08-25 14:28:06 | 風景画

娘一家がお盆休みで六日間帰省した。もうすぐ三歳になる孫娘とラインで話した時、「(九州で)キャンプしたい」と言ったのを叶えてあげなければと思った。

九州鉄道記念館、関門海峡花火大会、いのちの旅博物館、ジ・アウトレット北九州など妻が連れ回し、いよいよメインイベントのキャンプの日が来た。

私のお盆休みは娘たちが帰る前の日から二日間しかなく、二日目の午後四時に娘たちを送ったあと四時半に四回目のワクチン接種の予約をいれていた。

キャンプ場は車で一時間ほどの近場をネットで探し、温泉に入りに何度も行ったことのある赤村の「源じいの森」に設営されたキャンプ場を予約していた。

キャンプは三十数年ぶりで、押し入れの奥からテント、タープ、バーベキューコンロ、クーラーボックス、ウオーターサーバー、コールマンレンジ&ランタン、

ダイニングセット、調理道具などを引っ張り出した。

以前は七人乗りのワゴンに十分に積めたキャンプ道具が、今の車のフィットには無理だった。

コールマンは卓上カセットガスコンロにして、寝袋やタオルケット、ダイニングセットはキャンプ場で借りることにした。

フィットに積んでいた2本の傘やクッションなどすべて降ろし、装備を積めるだけ詰め込んで朝10時に出発した。

妻が助手席でチェックしていて足りないことに気付いた、箸やカレールー、米、野菜、肉などを途中のトライアルで買った。

目的地が近くなるにつれ空模様が怪しくなり、「源じいの森」に付く頃は小雨となった。

私一人、車を降りて事務棟でチェックインをした。毛布三枚とダイニングセットのレンタル料4900円とテント、タープ持ち込み料、大人三人の入営料が加わり締めて6800円を支払った。

雨が小降りのうちにテントを設営してもよいか事務員に聞くと、チェックインは午後一時とのことで却下された。(お金だけは先?)

12時をすぎていたので、赤村を出て車で15分走り、みやこ町のイタリアンレストラン「エフ」で昼食を摂った。それまで寝ていた孫娘は楽しそうに食べていたが、窓の外は大雨となっていた。

食事を終えて「源じいの森」に戻る山中は時速30kmで走っても高速ワイパーが追い付かず、激しい雨で視界が曇った。

キャンプ場の事務棟に付いても傘がないので車から出られない。

妻がダッシュボードから非常用のアルミ箔シートを取り出した。はがき大のものを広げると毛布くらいの広さになった。

私はそれを被って事務棟に走り、傘を三本貸してもらった。

事務員の「夕方には雨があがるようですよ。」の言葉に少し勇気づけられた。

四人で傘をさしてキャンプ場を散策した。

橋の下でバーベキューをしているグループが一組、雨天時に野営するときに利用する屋根が付いたテントサイトが三ケ所あったが、全て先客が利用していた。

地面に水たまりがなく、テントを張れそうな場所を探し、炊事棟の隣に見つけた。

キャンプ場の駐車場から荷物を運ぶために用意されたリヤカーは自由に使うことができて大変助かった。

管理棟からレンタルの毛布とテーブル、椅子4脚を受け取りリヤカーに積み込んだ。

妻と二人で傘をさしながら最初にタープを組み立てた。荷物類をタープの下に集め、次にテントの組み立てを始めると4本の柱のうち1本の連結部分が割れていることに気づいた。

屋根を支える柱の代わりに隣の大木にロープで屋根の一角を吊るしかなかった。

何とかテントが完成したが、雨脚が弱くならないので炊事場で食事をすることにした。四か所ある炊事場は広く、真ん中で二つに仕切っていて、温水も出るようになっていた。

我々の炊事場の反対側では既に若者のグループが食事を始めていた。

我々もダイニングセットとバーベキューコンロを炊事場に持ち込み、飯盒でご飯を炊き、卓上コンロでカレーを作った。

ごはんが炊き上がると炭火で肉や野菜を焼いて夕餉が始まった。孫娘はリクエストのミートボールをたくさん食べた。

暗くなってきたので、妻が寝床の準備をしようとテントに入ると絶叫した。

「テントの床に雨水が溜まってる。」

テント生地が経年劣化により撥水性が弱まっていたようで、雨漏りしていた。

食後に湿気た花火をちょっとだけ楽しみ、歩いて10分くらいのところにある「源じいの森温泉」で湯につかった。

8時半頃、温泉を出て、風呂上りの妻と娘、孫の三人はフィットで寝ることにし、私一人がテントに戻った。

テントの床に敷いた2枚のアルミロールマットの中央を重ねて高くし、横たわった。

レンタルの毛布はウール素材で撥水性があるのが救いだ。

三枚のタオルとハンカチで床に溜まった雨水を吸わせてはテントの隅で絞る作業が続いた。

一番雨漏りの酷いところにウオーターサーバーの蓋を外して、バケツの代わりに置くと雨水が床に溜まらなくなった。

これで眠れると横になり、携帯と財布を枕に寝た。顔と足首に雨の雫が当たっていた。

妻からラインが届いた。

21:52「大丈夫?一晩中大雨警報が出てるみたいだよ}

22:00「ウオーターサーバーで雨漏りを受けながら、タオル三枚とハンカチで雨水を絞りながら、過ごしてます。」

22:01「寝られないんじゃないの?」

22:01「なんとか朝までがんばるわ。」

22:03「危険を感じたら、無理しないで車に引き上げてきて!」

22:04「無理してないから」

22:05「了解です」

22:06「おやすみ」

朝5時に起床して、朝食のカレーとチキンラーメンの準備、撤収の準備をはじめた。

娘と孫が起きてきた。孫が朝までよく寝ていたと聞いて安心した。

朝食後、てきぱきとテントとタープをたたみ、借りたものを返却して家路につき、11時に家に戻った。

孫にも記憶に残るキャンプとなっただろう。

 


新型コロナの第七波に翻弄される社会

2022-08-01 00:25:03 | 風景画

新型コロナ禍第七波の感染拡大は衰えそうにない。
東海市の孫娘の保育園は四日間の閉園になった。
地元の友人、親戚、顧客からも、家族がコロナにかかって自宅待機になったと聞くことが多い。
コロナ禍で落ち込んだ景気を回復させるためにも、重症化率の下がったオミクロンは「普通の風邪」扱いにしたほうが良いのではと思うが・・・。大部分の国民がマスクを律儀につけてるのに、一週間のコロナ感染者数が120万人を超えて世界最悪となった日本は新型コロナにいつまで翻弄されるのか。


19日間の独身生活は長かった

2022-06-30 22:40:21 | 風景画

妻が今月4日に東海市の娘のとこに遊びに行った。婿が慢性扁桃炎の切除手術で入院することになり、娘のワンオペの手助けと孫たちとのスキンシップが使命だ。

婿は5日に入院し6日に無事に手術を終えて13日に退院した。

婿は退院後も一週間の流動食が必要だということで、妻の滞在は延期となったが、私は独身生活に慣れたところで快く受け入れた。

私の日常は就寝が午前一時半頃なのは変わらなかったが、起床時間が一時間早くなって6時半頃となった。

弁当と朝食を作り、三日に一度のペースで洗濯、一週間に一度、布団を上げて全部屋の掃除をした。

カレンダーに毎朝血圧を記録しているが、前日の三食の献立の記入が加わった。

独身生活中の二回の休日は映画(シンウルトラマン、トップガン・マーベリック)を鑑賞し、昼食は外で食べ、トライアルで生活必需品の買い出しをした。

24日に妻が帰る前日は入念に掃除をし、洗濯物を片付け、包丁をよく研いでおいた。

妻のありがたさが身に染みた十九日間の独身生活だった。

 

 

 


和布刈神社

2022-05-31 20:55:14 | 風景画

初詣は和布刈神社に参拝して破魔矢を新調し、おみくじを引くのが我が家の習わしだ。

あまりに身近にあるので今まで絵を描いたことがなかった。

小ぶりな本殿が、関門海峡の一番狭まった景観によく映える。

じっくり観察すれば、昔の宮大工の最高の仕事を残したいという情熱を感じる。

 

和布刈神社・・・西暦200年、神功皇后が三韓征伐の後に創建したと伝わる。

        御祭神は天照大神の荒魂「撞賢木厳之御魂天疎向津媛命」

        (つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめ)

        別称「瀬織津姫」といい、潮の満ち引きを司る。

        海峡の守護神として崇敬を集め、1336年足利尊氏、

        1394~1428年大内義弘などによる諸社殿の修築造営が伝わる。

        現社殿は1767年小倉藩主、小笠原忠総の再建による。 

和布刈神事・・・神功皇后が三韓征伐からの凱旋を祝って、自ら神主となり、

        早鞆の瀬戸のワカメを神前に捧げたという古事に由来する神事。

        710年に和布刈神事のわかめを朝廷に献上したという記録が残る。