to the tomorrow's blog

時間は何をしていても過ぎる。

2021/04/17(土) 雨模様の週末 おとなしく家で休んでいればよいのだが

2021-04-17 15:45:56 | クラシックCD
4月中旬。相変わらず、寒暖差の大きい日が続いている。先週の週末はわりと天気がよかった。

少し早いが孫が喜ぶのでこいのぼりを出した。全員、背泳ぎ状態である。



裏庭の芝桜が咲いた。



休日、天気が良いとほとんどの時間、外で何かをしている。
早朝から散歩したり、日中は畑をかまったり、庭の草取りをしたり・・・
身体を動かしていると疲れて夜は9時前には寝てしまう。最近はharbethの前にいても、それは音楽を鑑賞するのではなく、音楽を聴きながら半眠状態である。眠りながら時どき音楽が聴こえてくるのは気持ちがよい。

今回の週末は雨模様なので、家のなかで過ごせば良いのだが午前中は、冬タイヤなどで雑然していた倉庫を掃除・整理し、午後はお寺の薬師堂の屋根へ雪で倒れてきた雑木が押し寄せてきているというので、住職の依頼によりそれの除去作業へ行ってきた。雨でぬかるんだ地面はドロドロ状態で滑ったが、2時間30分ほどで作業は終了し帰宅した。
結局、雨が降ってもドタバタしている。
休日、半眠で休息しているとき以外は何か結果の出る行動がしたい。こうして時間は過ぎて行く。

日の当たらない花壇のぜんまいが伸びていた。



裏庭にはチューリップが咲いている。



雨が少しずつ降り続ける静かな週末だ。



このような状況で、音楽は睡眠導入のためのものである。5分も聴いていると半眠状態になる。これからの日の長い季節はずっとこんな感じで過ごすと思う。
朝、散歩して朝食をとり新聞を見てインターネットで皆さんのblogなどを確認し、それからCDをかけて聴いていると半眠になる。約40分、休んでいると体力が回復してすっきりと目覚める。その間、harbethから小さめの音量で音楽が流れている。

最近は、人の声の入った長い曲をかけている。
JS・Bach ロ短調ミサ曲 アーノンクール



ゆっくりと長く進行する優しい音楽を半眠状態で感じている。時どき意識が回復し、腕時計で時間を確認して再び半眠状態へ。30分から40分で眠気はなくなり活動を再開する。

Mozart ドン・ジョヴァンニ ジュリーニ



かなり古いが名演、名録音。
たまたまCD2をセットし、鳴らして半眠状態になっていたらすごい楽しい音楽が聴こえてきた。
hmvを見たら第2幕 第2場 セックステット(六人で歌うということ?)の「はかりしれぬ混乱した思いが」という曲であることが判明した。セックステストという表現や「はかりしれぬ混乱した思いが」という題名もなかなかである。

両方の曲とも眠気のため、老眼のため翻訳を読まないので何を言っているのかわからない。ドン・ジョバンニには分厚い翻訳が付いている。しかし、輸入盤なので読めない。オペラ歌詞の日本語訳を開示しているHPがあるけど、現状では歌詞を追って聴くことは無理である。歌詞がわからなくても聴いていても心地よい。
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2021.04.04(日)暖かい週末 畑が始まる 聴いているのはブルックナー7番

2021-04-04 13:58:53 | クラシックCD
先週の月曜日、気が付いたら桜が満開になっていた。満開がこんなに急にやってくるのは記憶になく、狂い咲きのように思う。豪雪暖冬という異常気象の影響だろうか。
先週、ある日の夕方、海岸遊歩道を歩いていたら日本海に沈む陽に遭遇した。



真っ赤な夕焼けではなく、すこしもやついているように思う。大気中にある黄砂のせいだろうか。西風が吹くと中国大陸から黄砂が飛来する。困った自然現象である。洗車したのにボンネットに黄砂が付着してまだらもようになる。マスクはコロナ、花粉、黄砂に対応して一石三鳥のフル活躍である。

暖かい日が多くなってきて、自宅の日陰の庭のぜんまいが背を伸ばしてきた。



雨が降ればみるみる成長しシダになる。日が当たらないので植える花卉には制限があり、近くの山からシダやコケなど取ってきて適当に植えて置いたら、毎年この時期ぜんまいが生えてくる。

昨日は朝から天気が良く、春の畑日和であった。自宅の裏側にある畑の除草が終わり、地面を掘り返して栽培の準備を始めた。



スコップでぼこぼこと掘り返す地道な作業である。自宅から階段を下りた所なので耕運機を入れることができない。衝動的に小型耕運機を買おうかと真剣に考えた。8万円くらいなのでなんとかなる。しかし、10坪強の畑のために・・・。近所のおばあちゃんは自分で耕している。もうじき63歳の私であるが、おばあちゃんを見習うべきであると自分に言い聞かせ、少しずつ掘り返した。石灰を散布し土と混ぜ合わせて第一段階は完了した。やれやれ。とりあえず、耕運機を買わないで良かった。



この後はしばらく放置し、肥料を散布してマルチを敷く。植えるのはトマトやキュウリ、オクラなどの夏野菜が中心である。なにをどれだけとか、どんな配置にするかとか考えるのが楽しい。

今日は日曜日。早朝散歩の後、音楽を聴きながら少し休んだ。8時から春の集落人足(にんそく)だった。途中から雨が降ってきた。山道と海岸清掃を終え帰宅し、娘のダイハツムーヴのスタッドレスタイヤを交換しセルフスタンドでタイヤの空気を入れてやり、家でひとりで昼食。みんな遊びとか買い物に行っている。
食後の運動のため歩きに出た。小雨のなか1時間くらい歩き、最後の方で桜のある公園に寄った。満開になって1週間。もう終わりの段階だ。今日は雨に打たれている。今年は咲くが早ければ散るのも早い。



世間や身の回りではあれこれと起こっては過ぎの繰り返しだが、季節、時間はそんなことに関係なく確実に進む。今という時間は今だけである。



先週も相変わらず早朝散歩を続けていた。帰宅し5時過ぎにはひとりで朝食を取る。その後、新聞を見てから音楽を聴く。新聞を効率よく読むために興味のないところは飛ばすようにしている。以前は、読むことにより視野が広まるように思いこちらから興味を持つように記事に接していたが、そもそも興味のないものは読んでも時間の無駄だと思うようになった。記憶にも残らない記事に時間を費やすのはもったいない。読めばそれだけ記憶の残るものに出会うという考えだったが、能力的に時間を考えると無理がある。
先週の初め頃、朝日新聞で今はブルックナーを聴く人が多くなったという特集があった。新聞を見ていたら突然ブルックナーが出てきてびっくりした。ブルックナーの人柄や音楽の特徴が書かれていた。何で、昨今、人気があるのかという理由のようなものが書いてあったように思うが忘れてしまった。記事を読だことがきっかけで朝の休憩の時間はブルックナーの7番を聴いていた。何で7番なのかは、静かに優しくゆっくりと進むのが良いのと、自然の息吹が盛り上がってくるこの季節にふさわしいと思ったからだ。

一日目は、ジュリーニ/ウィーン・フィルを聴いていた。



私のなかではブルックナーの7番と言えばこの録音と決めていた。指揮者の情念のようなものを感じる。表現の色が濃く悠々としていて、指揮者の主観的な面がかなり出ている。音楽や感情の密度が高いと押しつけがましくなるものだが、この演奏は自然さも兼ね備えている。昔、東京文化会館で来日公演を聴いた。オーケストラはロス・フィルで厚みのある音響が記憶に残っている。確か、空調が故障してむし暑くオーケストラは上着を抜いていたが、ジュリーニは終わりまで正装のままだった。

二日目は、ブロムシュテット/ドレスデン・シュターツカペレを聴いていた。



ジュリーニの前はこの録音が一番だった。久しぶりに聴いたが、暖かく爽やかな音楽だった。ずっと聴いていたくなるような自然な音楽だった。自然は人間の感情とは別なものなのかなと思ったりした。ジュリーニが油絵だとするとブロムシュテットは水彩画のように思う。

三日目はスウィトナー/ベルリン・シュターツカペレを聴いていた。



大地から春の息吹が盛り上がってくる。推進力があって生命力みたいなものが感じられる演奏だった。そして金管の朴訥な音響などいかにも人間の音楽だと思う。

記事によるとブラームスは「ブルックナーの交響曲など交響曲ではない」と言っていたらしい。自分としては今は音楽に浸るとすればブルックナーの方が断然親密に感じられる。音楽の様式的なことはわからないけど。






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