山風景とデジタルコラボ+α                                   

コンテンツ作製のため、山風景等を素材にして様々な試みを綴ってみます。

秋葉山から火事(番外編)その6

2014年09月30日 | 歴史ネタ
石垣積から考察する秋葉神社の変貌を見ていくこととしましょう!

といっても、昭和63年以前と現在との比較に過ぎませんが。

A~Hについて、細部を検証していくこととします。

もう一度この鳥瞰画像と、


現在の俯瞰画像

を脳裏に焼き付けておいてくださいませ!

その7へつづく


秋葉山から火事(番外編)その5

2014年09月27日 | 歴史ネタ
現地調査の際に、突如思い出したことがありました。

北遠のマチュピチュともよばれる光明寺遺跡です。
光明寺も昭和6年の火災で、二俣へ移転がされたことをです。

図書館での調査を終え、急遽思い立った事前リサーチなしでの突撃でしたので、やたら難儀しました。
涼しい夏だったとはいえ、9月の中旬でしたので、夏草が繁茂しており、
かつアプローチ位置を間違えたため、藪漕ぎせざるを得なくひどい目にあったのでした。

そうこうしながら、参道最後の階段地点までたどり着けました。


火災で焼失した寺院跡の平地は、夏草でご覧のとおりです。
これでは探索意欲は失せるというものです。


展望所すら、このありさまですから。


遠州一の大パノラマ


参道を見下ろした左手に立つ樹木が視界を遮りますが、その右手には確かにアクトタワーが見えますね


時刻は16:30 遺跡探索は不完全燃焼で終わりました。



翌日は、別の社殿跡地を再訪してみました。

かつては、このような立派な拝殿と、


本殿が建っていたんですね。

本殿前に幣殿はなく、拝殿から一旦屋外に出なけれなならない仕様だったと思われます。

ここが昭和7年から、昭和63年までの社殿地です。

この画像は、昭和の中期くらいの撮影のものと推測されますが、終戦を迎えると玉除け祈願の必要がなくなったため人気が廃れ修繕費用を捻出できず、長らく放置状態が続いたようです。(昭和63年に、さらに下段の祈祷所のあった位置にコンクリート製の社殿が再建される)

五年半前の画像

本殿址基壇の上に建っていた小祠は、崩壊していました。

今回の再訪時には、コンクリート製のものに造り替えられていました。


当該場所は、龍爪山穂積神社でございます。

さらに登ると昭和7年までの社殿跡地もあるのですが、1基の石塔と10m四方の僅かな平地が残るのみで、立派な社殿が建っていたことを偲ぶものは確認できませんでしたが・・・


その6へ続



秋葉山から火事(番外編)その4

2014年09月24日 | 歴史ネタ
その10最終回で、春野図書館で見つけた昭和15年~17年にかけての大造営後の画像は一つだけだと申しましたが、実はワタシには判別できない怪しい画像がもう一つありました。

右側の、拝殿内部を撮影した中段画像がそれです。


拡大してみましょう!

キャプションには、
上段が「大正時代の秋葉神社」 まあ、合ってます。
中段が「焼失前の秋葉神社」 微妙です。大造営の前なのか、後なのか判然としませんね。
下段が「遠州秋葉神社機織井(はたおりい)」 こちらは現存することを確認済みです。

さらに拡大します。

階段状に見える祭壇部分から先が、幣殿だろうと思われます。
となれば、階段を上り詰めた先には本殿へ通ずる観音開きの戸があるはずです。
画像から判断できることは、拝殿と本殿の高低差は2m程度でしょう。
古絵葉書に写る明治期の拝殿と本殿の高低差は、ほぼフラットのように見えますので、下社に掲げられる航空写真からすると、大造営後に撮影された画像である確率が高いかもしれませんね。

現在の拝殿内部と概観を、参考画像として掲載しておきます。



現在の拝殿と本殿の高低差は1.5m程度に思われます。

その5へ

秋葉山から火事(番外編)その3

2014年09月21日 | 歴史ネタ
春野町史(たぶん)に記される「秋葉山大火」についてを、そのまま記載しておきます。


秋葉山の大火
秋葉山の大火と郷土の対応

 昭和18年3月13日、熊切村(※注1)の村長酒川敬三郎は小出先生の村葬を終え応召軍人(※注2)を引き連れれて名古屋へ出張した。また、職員の鳥居は応召兵を引き連れ静岡へ出張。池島書記と水口書記補は戦時下の金属供出ということで、胡桃平、砂川方面に金属回収にでていた。
 午後二時ごろか、秋葉山裏山に山林火災の報が届いた。そこで、熊切村からも消火応援のため警防団が召集され、三時ごろには先発隊が出発した。このころには、気多村の久保田方面は大部分が出動、砂川分団も犬居町方面に出動応援ということなた。この火災は延焼が甚だしく、すでに秋葉神社は全焼、秋葉寺は一部焼失し、延焼面積は数百町歩に亘り、火勢はいまだ盛んであった。
 三月十四日、熊切村役場では古川書記が火災現場へ出動し、助役、収入役、村松書記は役場へ出動、池島書記と水口書記補は前日のように金属回収に従事した。しかし、秋葉山の火勢は衰えをみせず、この日までに 秋葉神社は全焼、秋葉寺はわずかに釣鐘堂を焼失、山林の被害は龍山・龍川・犬居、気多の四か村に亘り延べ1380町歩(約1369ヘクタール)を焼失したらしい旨報告を受けた。また、熊切村警防団は夕刻までに全員無事で引き上げを完了し、同日夜八時には鎮火したらしいとのことであった。



 三月十六日は森林組合関係でやはり供出木材の打ち合わせを行ったが、翌十七日には今度の火災地元代表者として、
犬居町長代理・犬居町警防団長・秋葉神社社司代理・秋葉寺住職・栗田氏・気多村助役・気多村警防団団長・同副団長・福川山林部・峰之沢鉱山事務所・龍山村警防団第六分団大石徳平氏が観られ、鎮火に対しての礼を述べいった。以上は「熊切村役場日誌に見える記事である。しかしながら、現在過去残されている書物によっては、この大火の経過に違いがある。たとえば『龍山村史』によれば、この火事は龍山村戸倉の雲折山中で試掘鉱夫が行った焚火の不始末が原因であったらしく、折からの強風と近年稀な旱魃のため、思わぬ大火になったと言う。
 とくに、秋葉山の裏参道側の西ヶ池谷からの火の手が強く、火災発生から一時間後には秋葉神社の境内琳近くまで火が迫っていたらしい。また、折からの強風による飛び火のため消火活動もままならず、午後四時近くには秋葉神社は燃え落ちた。また火は翌日も延焼を続け、鎮火したのは十五日の午後五時頃と言われ、およそ1280町歩を焼いたという。このように焼失面積は鎮火日時にも違いがでている。
 熊切村警防団第九分団に残る「秋葉山付近火災概況報国」によれば、発火点は龍山村の平山鉱山(平山戸倉の中間)あたりで、被害は建物として秋葉神社全焼、秋葉寺鐘堂、秋葉寺神楽殿、18町以上の茶屋全焼、山林は推定1500町歩(磐田郡1000町歩、周智郡500町歩、被害見込額800万円、被害の範囲は、
①天竜川方面、戸倉より千草、小川村境まで
②気田川方面、小川、松間、カミサゴに至り人家の類焼あり、北は前不動まで
③久保田方面は福川山林事務所チョボ一平まで
であった。また、警防団は郡下全部、掛川、浜松、二俣、光明寺の地方も全部が出動した。当時の第九分団の行動は、三時半に出発、三十町茶屋、片山、松島、坪屋、東海楼の家財一切を気田川の安全地帯へ搬出、十四日は午前一時仙光寺裏山へ防火線構築、午前五時秋葉寺下方面の防火勤務、午後三時二十分に解散、とういことであった。
 この大火は、それまでの秋葉山を覆っていた千古の老杉を一切燃えつくし、今日まで、「秋葉山の大火」として語り継がれている。また諸記録の違いも、この大火が町域のみならず他町村もまき込んだ非常な大火であり、人々の記憶にいつまでも残る事件であったことを伺わせる。

注1 熊切村
注2 応召軍人

番外編その4へつづく

秋葉山から火事(番外編)その2

2014年09月21日 | 歴史ネタ
さて、広義の意味の秋葉山では、明治期以降にも度々火災に見舞われていたようです。

天龍杉の産地であり、ただでさえ山仕事が多かった昔に加え、多くの参拝者のために菜種油やローソクによるおびただしい数の常夜灯を点さねばならなかったわけですから、火災の危険度はぐっと増していたはずです。

春野観光協会とボランティアガイドによって2013年に発刊された「秋葉山表参道を歩く」を拝見しますと、出典書物は明らかにされてはいませんが、16ページに明治の神仏分離後「明治34年(1901)、昭和18年(1943)、同25年(1950)の3回に渡り火災に見舞われた」と記されています。

また、春野図書館で拝見した「春野町史(だったと思う)」140ページによれば、明治6年11月28日付けで、「秋葉神社祠官 林浜松県令へ神殿はじめ社頭残らず焼失に付仮殿並借屋取建願を提出する。」との記載があります。さらにその前のページには、明治3年2月3日に神仏分離令の実行の命令が下り、山頂に同居する秋葉寺が廃寺とされたのが翌月の26日付けとのことです。境内の観音堂や仏具は磐田の可睡斎へ遷されたとも記されています。

ということだけを判断しますと、神仏混淆であった頂上境内の秋葉寺は廃寺の決定に基づき、境内の寺社建物のうち仏教関係のものが移築、あるいは破棄されたうえに火災で社殿も失い、秋葉社として存続するためには再建願いを提出せざるを得なかったことになります。

この火災が事実なら、秋葉山では明治になってから少なくとも4回の火災に見舞われたことが伺えます。(直接社殿まで被害が及んだ火災は、2回かも?)

神仏分離後の秋葉(神)社の社殿は、明治7年4月に権殿及び仮幣殿の上棟式をが行われ遷宮を終了します。また、5月に拝殿も完成したとあります。

古絵葉書に写る社殿とは、このとき建立のものだと推測しているのですが、いかがでしょうか?

大正14年発刊のガイドブックには拝殿前の金鳥居が写っていますので、建立は大正期とみてまちがいないでしょう・・・

『主に明治時代の新聞記事から見た秋葉山』


秋葉神社に関わる主だったエピソードを列記しておきましょう。
・明治13年10月16 秋葉神社防火大祭を今年より12月15日、16日に変更と『函右日報』に広告を出す。
・明治20年5月15日 秋葉神社社務所開所式が挙行される。
・明治33年3月17日 昨今、濃尾辺りの信者多く登山し沿道の旅店は大いに繁盛す。龍川村雲名より秋葉山30丁目鳥居下に至る新道路このほど工事中の処竣工。
・明治34年3月3日 秋葉山表阪より30町上手西谷より出火 四日まで延焼200町歩と言う。
・明治35年11月20日 東京の人 岡村鶴翁(元仙台藩主)107歳で秋葉山に登る。
・明治36年9月5日 秋葉神社中門完成
・明治37年12月18日 浜松町の有志 浜松秋葉講を組織。金灯篭二基を鋳造。中門へ据付ける予定。


番外編その3へつづく

秋葉山から火事(番外編)その1

2014年09月17日 | 歴史ネタ
木下恒雄氏の著『山の人生 川の人生』207ページから209ページをご覧いただきましょう。

著者が「和知野信一郎氏」より聞き取った言葉を記録として、口語のままで掲載されています。


常夜灯のことで思い出したがの、坂下んとこに伊豆の石が在るってことぉ知ってるか、坂下の参道近くの道端に転がってる奴。もうあれよぉ知ってる衆も居んずらのぉ。
そりゃわしが、伊豆から来たっていうのぉ見たんじゃないが、他人(ひと)から聞いて知ってることだがの。一抱え(ひとかかえ)もある白っぽい石だよ。
わしん思うに、そりゃ秋葉山の参道の常夜灯や何かの石柱を作った時の残りの分だと思うだいの。要するに、登山口辺でもって、石工が注文を受けて、そこで石柱を作ってたと思うだいの。そりゃ古い昔のこんだいの、それ常夜灯に年月日が出てるで。
聞いた話じやぁ、その伊豆石というのはの、掛塚(天龍川河口)からあがって来る船が載せてきたもんだということだったの。おそらくそれやぁ秋葉山で入用があるでって、船頭が頼まさっての、そんでこっちへ上がってくる次いでに、その船に載せて来たもんだと思うだいの。
何で伊豆の石がっていうとの、掛塚の港ぉ出て東に向かった船、江戸行き、東京だいの、あっちへ荷を積んで遠州灘ぁ通って行った帰りの船が、空船で遠州灘へかえると、そこで船が軽いと風に流されていまうで、そんで伊豆の何処っかの港へ寄ったとこで、船の重石に伊豆の石よぉ積み込んで、掛塚へ無事に戻ってきた。それが掛塚の伊豆石であり、坂下に残っている伊豆石だいの。
思うに掛塚の港辺に於かれて在った石がだよ、今度ぁ川船に載って、天龍川から気田川の上がって、そんで坂下に来たっていうことだいの。
ここで伊豆っていうと遠いとこと思うがの、昔っからの話じやぁ結構、こっちの秋葉山と伊豆の方とは、関わりがあるっていうことだでの。
例えばの話、戦争(太平洋戦争)前のことだがの、神社を造ったり修繕したりしてた大工というは、その宮大工というはの、伊豆から来てたっていうことだで。それとそれも戦争前のことだがの、宮司をやってた人というも、伊豆の方から来てたっていうことぉ聞いてるの。そんだで繋がりというはあっただいの。それよぉ思うと、昔っから往来(ゆきき)というがあっただいの、伊豆の方とはの。まぁわしの話よぉ信じて、そんなことぉ調べて見るのもええことだと思うよ。


今まで、自らも気づいていませんでした。
何故ワタシが、そこまでして秋葉山についての調査にとりつかれたのか?

現場へ出向いた机上調査で
この文章を読んだ瞬間に、これこそがその答えとだと確信しました。

すべての道は秋葉に通ず。陸路のみならず、海路も含め。

番外編その2へつづく

秋葉山から火事(その10)最終回

2014年09月16日 | 歴史ネタ
今回このブログでの拙考察を掲載するに当たり、秋葉山に纏わる過去の宗教的ないざこざやそれに対する個人的な思いは一切ないということを最後に記しておかねばなりません。
あくまでも個人的な興味から、明治期から秋葉社の社殿建築がどのような変革をたどってきたかのかの疑問を調査したに過ぎません。
当然、あくまでも素人調査と素人考えのみですので、検証不足や誤謬もあることお許し願いたいと存じます。


ということをご理解願ったうえで、皇紀2600年の大造営についてを検証すべく現地へ赴き、机上での調査をしてまいりましたので結果をご報告したいと存じます。

地元の郷土研究誌「温故知新(昭和58年12月発行 第31号)」の表紙です。

「焼失した大正時代の秋葉神社本殿」とキャプションが付けられています。

マジですか!

それが事実とするならば、ワタシの立てたこれまでの仮説すべてが水泡に帰すってことですよね。

どう考えても「大正時代に建てられた秋葉神社本殿が、焼失した」、としか解釈できませんもの。
そんなことありえません!古絵葉書画像に写る社殿は、神仏分離政策後の明治初期の建物のはずでしょう・・・
大正期に建て替えられて、それが焼失したなんてありえませんよ!
などとボヤいたところで、どうにもなるものでもありません。


虚脱感と格闘しながら、「温故知新」を読み進めるしかありませでした(ペラペラ捲るだけの斜め読みですが)
そしてワタシの節穴の目が、この597ページをめくった瞬間に釘付けとなったのです。

もちろん、思わず息を呑みましたよ。
先ほどのキャプションに、反証すべき画像を同郷土研究誌から見つけることが出来たのです。
というよりも、ワタシの立てた仮説を立証できる画像をようやく発見できたと言ったほうが正しい表現でしょう。
三時間ほど春野図書館に篭って見つけることのできた、大造営後を撮影する唯一の画像となったのです。

「昭和18年3月の大火にて焼失した本殿」
僅かな期間に存在した社殿画像が、やはり残っていたんですね。
この画像を、ずっと探し求めていたんですもの。

画像から判断できることは、ワタシの仮説どおり拝殿前のスペースは当然のごとく確保されています。
拝殿間口は6間変則5間で、現在の拝殿を一回り小振りにした権現造りだったと判断できます。
社殿建築の基本ともいえる高床式も採用されています。
向拝の庇は唐破風が主たる構造物で、上部に見える破風は単なる意匠としての千鳥破風のように見えます。
もしかすると現在の社殿意匠は、この画像をモチーフとしたものかもしれません。

このページに記載できたのなら、当然のごとく画像出典元があるはずです。
しかしながら、遠方よりの調査にはおのずと限界があります。
そしてワタシ自身、とりあえずの納得はできたものとも自覚しております。

したがいまして以降の追調査は片手間とし、掘り下げた調査検証については地の利を活かせる地元の方等にお任せしたいと考える次第です。

おわり

といいつつ、番外編へつづく




秋葉山から火事(その9)上社へ遷座なる

2014年09月16日 | 歴史ネタ
昭和六十一年十月二十五日御本殿及附属舎の竣工を始め、御末社十一棟、神楽殿及手水舎の新築又参道並鳥居、狛犬、燈籠等が逐次奉納建築され、秋葉山本宮としての威容整ふるに至りぬ
ここに大神の御神威の発揚を冀ひ、以って宝柞長久、天下泰平、国運隆昌、火災鎮護、家内安全を記念して萬代不朽の石碑を策定す


昭和六十一年十月二十五日付けの御本殿及び附属舎の竣工を始めとし、御末社十一棟、神楽殿及び手水舎の新築、又、参道並びに鳥居、狛犬、燈籠等が逐次奉納建築され、秋葉山本宮としての威容がようやく整った。
ここに大神の御神威たる威光を強く願うべく、「宝作長久」、「天下泰平」、「国運隆昌」、「火災鎮護」、「家内安全」を祈念して永代朽ちることのない石碑を建立したのである。

またしても勝手な解釈ですが、さほど的ははずしてないと思います。
復興経過を年表に纏めようとも考えましたが、手間なので画像貼り付けにてお許し願います。

復興碑裏面その1


復興碑裏面その2


下社に掲げられる「第三次御造営奉賛会趣意書」

秋葉山本宮秋葉神社は遠州秋葉山に鎮座して火之迦具土神をお祀りします。和銅二年初めて社殿が建てられたと伝えられる名社であって、朝廷の御信仰も厚く正一位の神階を賜って正一位秋葉神社とも申し上げ、火防の神の本宮として全国から信仰されて来ました。
御祭神は、火の主宰神であります。火はエネルギーの根源であって、我々の日常生活を豊かにすると共に一日も欠かせぬものであり、同時に疎かに出来ぬものでもあります。今日の科学の発展の源であることは人々の知るところで、この大神の御恵を蒙らぬものではないのであります。
先年来秋葉山頂の霊地に御復興を志しました。御蔭を以って社殿、社務所、斎館の竣工を見、自動車にて山頂本宮に御参拝出来るようになりました。
今度第三期工事として神楽殿、神門及透塀を新築し参道を改修して火防の神の本宮としての威容を整え御社頭の尊厳と御神徳の昴揚を計り度く計画いたしました。
御崇敬者各位には何卒趣旨に御賛同賜りまして、事業完遂出来ますよう御支援御協力賜り度く願う次第であります。

秋葉山本宮秋葉神社御造営奉賛会

そして、昭和61年10月 竣工相成った真新しい秋葉神社社殿画像

建坪130坪に及ぶ総檜造りで
拝殿は間口8間変則7間の入母屋造り、参拝者のための庇となる向拝屋根も入母屋破風に唐破風をあしらった豪華な意匠のものとなっています。
そして拝殿にも、本来後方の本殿のみに装飾される千木(ちぎ)と堅魚木(かつおぎ)も施されるという念の入れようです。
神社建築特有の高床式形式の採用は見送られたようですが(本殿は高床式風です)、866m附近に鎮座するゆえの防寒対策としては妥当な選択でしょう。
またこれも参拝者のための厳冬期対策でしょうか、拝殿内部も嘗ての造りと同様な畳敷きが採用されています。
拝殿に後ろに隠れて見えませんが本殿は流造りで、社殿全体としての意匠はいわゆる権現造りを基調とされたものです。

そして、向拝の真下附近には秘密の地下宮殿が・・・


現在の様子(平成26年9月)その1


現在の様子(平成26年9月)その2


現在の様子(平成26年9月)その3


恐らく第一次造営とは、昭和61年10月に竣工する「社殿造営」のみを指すのだと思われます。
第二次造営が昭和63年5月からの境内整備でしょう。
第三次造営が第二次造営と一部重複して、「神楽殿」・「神門及透塀」・「玉垣」・「階段参道」となるのでしょうか?


最終回(その10)へつづく

秋葉山から火事(その8) 復興へ向けて

2014年09月15日 | 歴史ネタ
されど大神の御神徳は海内に通じ、山上の元の御座所に遷御し奉り、愈々御神威の発揚を仰ぐべしと常に絶へず模索す
然る所山麓の市町村の協力を得て秋葉山頂に達する林道が開通し、建築資材の運搬の便開け、昭和五十五年五月二十七日山上の拠点となるべき斎館の新築を見るに至る
これより復興の機運高まり、財界の有志に依り奉賛会が結成され、之に応へて全國津々浦々より協賛の誠が捧げらる」


しかしながら、拙社大神(火之迦具土神)の功徳は国内に知れ渡っており、山頂の元の御座所(場所)に戻してほしいとの願いが聞こえたため、より一層の神の威光を高揚させねばならないと、常々模索していた。そうしていたところ、山麓の市町村の協力があって、秋葉山頂に達するスーパー林道が開通する運びとなり、建築資材の運搬も可能となったため、昭和五十五年五月二十七日には山上の拠点となる斎館が新築されることとなった。これを契機に、社殿復興へ機運も高まり、財界の有志による奉賛会が結成され、これに応えた全国津々浦々よりの協賛の志が寄せられたのである。

と、テキトーな解釈です。

戦後の年表としてわかっていることは、天竜スーパー林道が昭和58年に全線開通したこと。(両側から工事を進めていたとすれば、もっと早い時期に秋葉山までは開通していたと思われる)

あともうひとつ、昭和57年に秋葉茶屋が開業したことくらいです。

この二点を踏まえ、またしても航空写真とまいりましょう。

昭和23年(1948)

まだ、なにも建物らしきものは見えません。

昭和30年(1955)

画像が不鮮明すぎて、まるで判別がつきません。

昭和42年(1967)

スーパー林道開通前にもかかわらず、社務所や斎館が建っています。工事用の飯場らしき建物も散見できます。
ということは、当時の資材運搬はヘリ使用が濃厚でしょう。

昭和51年(1976)

この10年間においては、上社復興の進捗はなかった模様です。

で、下社拝殿左側に飾ってある航空写真の撮影時期は、

秋葉茶屋のRC建物が完成していますので、昭和57年から本殿建設着工前までの期間ということになります。

巨大なRC建物が山頂に建築できるようになったのは、スーパー林道開通の恩恵といっても過言ではないでしょう。

奉賛会の面々とは・・・



です。

奉賛会の会長さんて、あのお方だったんですね!

その9へ続く

秋葉山から火事(その7)下社

2014年09月15日 | 歴史ネタ
続きまして、次の一文です。

「時(とき)あたかも大東和戦争の戦中戦後にして、人員物資共に窮乏甚だしく、直ちに復旧する能はず
止む無く山麓坂下に奉還す」


類焼により社殿(上社)が消失してしまったが、ときはまさに太平洋戦争真っ只中、そして終戦となった。必然的に人員や物資の窮乏著しく、直ぐには元の位置に復興させることは叶わなかった。したがってやむなく、山麓の坂下に奉還させたのである。

下社参拝口の現在の様子です。(奉還当時に下社という概念があったかまではわかりません)

煙突のような常夜灯モニュメントが綺麗に塗り替えられたことが、一年半前との相違点ですね。

参道階段を登ります。社殿までの高低差は、30mあるかないかです。

初めて訪れたときから気づいていました。参道階段がずいぶんと雑な造りであると。
これってどうみても河原の石を積んだだけですよね。
戦時中の急造ですから、それも致し方なかったことを納得できます。

社殿正面です。

拝殿、本殿一体式ですね。屋根は質素な切り妻。拝殿は、土間を採用しています。間口は6間社殿ですが、中央の柱を抜いた変則5間となっています。

で、下社にはわからないことがやまほどあります。
①昭和18年3月の類焼から、どのくらい経過して社殿竣工へこぎつけたのしょう?
②そして遷座式の正確な年月日はいつだったのか?
③さらに、燃えてしまった御神体を、どのようにして新たに調達したのか?(それとも、火事場より持ち出せたのか?)
④建設費用はどうしたのか?
⑤なぜこの地を選んだのか?
等々です。

①についてを、航空写真で確認してみましょう。昭和23年と現在の比較です。

下社のすぐ右隣にある六所神社の参道は、くっきりと写っています。
下社本殿屋根もうっすら写っている様にみえませんか。

このあたりについては、秋葉神社へ直接尋ねれば教示してもらえるかもしれませんね。

さて、隣の六社神社にも触れておきましょうか。


そもそもこの六社神社も、大正年間にこの地に遷座されてきたもののようです。
山の人生・川の人生「木下恒雄書」P.274~275
古老からの聞き取りによれば「もともとは、犬居のはずれ後藤モータースのあたりにあった」
記述だけでは、大正年間初期に遷座されたことはわかりますが、六宇が一緒に合祀されたかまでは不明です。

明治の終わりから大正の初期にかけて、国の政策により神社整理がすすめられました。
六社神社の境内には、大正4年建立とかかれた灯篭が建っています。

時期としては、ちょうど符合するのですが・・・

その8へ続く