山風景とデジタルコラボ+α                                   

コンテンツ作製のため、山風景等を素材にして様々な試みを綴ってみます。

木食応其 (その2)

2013年02月28日 | 歴史ネタ
五輪塔を探すべく、三度やってきたのは、かつて秀吉を祀る絢爛豪華な豊国社があった京都東山「太閤坦」でございます。
時刻は9:30。
管理人さまが、掃除をしていらっしゃいました。


1599年創建当時の絢爛豪華な豊国社の様子は、屏風絵などから思いを馳せるしかございません。


方広寺大仏殿右後方に、豊国社の社殿が描かれていますね。

てなことで木食応其と秀吉が、どんな関係があったののか?は、ウィキペディアでご確認いだだくとしましょう。

これら予備知識を仕入れていただかないことには、「その3」へは進めませんから。



日の目をみた仏たち

2013年02月18日 | 歴史ネタ
わけあって、プレオープンに参加するはめになりました。



山津波により仏像郡が土中へ埋没したのが、北条早雲が誕生した西暦1432年。
そして、掘り起こされたのが109年後の1541年。

2月20日の開館以降 撮影は禁止となりますので、ご注意願います。

それと、入館料300円が必要ですよ。

出展書物

2013年02月12日 | 歴史ネタ
由来

 今年の夏休みに、昔のことについて調べることになりました。私の家にはおじいちゃんがいるので、おじいちゃんに「昔のことを教えて」と言ったら、「長九郎山のことを教えてやるよ」と言ったので、教えてもらいました。私も長九郎山のことはわからないから、ちょうどよかったと思いました。
 昔、江奈から登り始めて、仁科と中川の境に河津・大鍋との往来する道があったそうです。このあたりは大名の領地になっていて、伊豆の国は山国のため小さくいくつかに分かれていたそうです。中川を境に宇久須までが那賀郡で、領地(を管轄する役所)が河津という所だったため、(租税等)納めるものなどはこの道を通っていかなければならなかったそうです。こんな事で人通りが多かったため、おいはぎも、たまたま(頻繁にの意味)出たということです。おいはぎに「長九郎・重郎佐衛門・孫四郎」という人がいたそうです。昔は今のように車などなかったので、用足しに行くには、みんなどこでも歩いていったそうです。山越しで行く人、金を持っていそうな人を見つけては、その人のものを無理に取って自分の物にしていたそうです。そのために、この辺の山に盗賊の名前が付いたそうです。この三つの山の位置は、北から南へと連なる伊豆半島の中心の尾根で、北側に重郎佐衛門、南へ来ると三方平という所があるそうです。ここは池代・大鍋・白川の境に当たる所で、ここから(三方向に)分かれていて、西へ直線で一キロメートルぐらいの所が長九郎山です。孫四郎山(一升瓶平)は、三方平から少し南の尾根から下った大鍋側にあって、長九郎山よりも山の裾は断崖絶壁で、簡単には登れる山ではないそうです。三方平を(大鍋側に)下って行くと、まもなく「とりつぎのだん」といって、およそ二十アール(200平米 14m四方)位の平な所があって、ここで中川から来た荷物と河津から来た荷物のとりつぎ所になっていたそうです。この道づたいには山の神様があり、お地蔵さまもあり、いろいろな名所もあります。道も深く掘りになっていて、いまでも残っているそうです。この他にも大鍋側に、「こぞう山」という山もあるそうです。
 私はこの話を聞いて思ったことがあります。それは長九郎山の他にも近くに山があって、それも名前がついていました。それに昔の人は今と違って車もなかったので、みんな足で歩いたのだど思います。だから足も強くなって、丈夫だと思います。昔の人は大変だったでしょう。私も一度でいいから昔に戻って体験して、見てきて作文に書いてみたいです。長九郎のことはわかりました。いろいろおじいちゃんに聞いて、おじいちゃんもちゃんとお教えてくれてよかったです。






今をさかのぼること30年近く前の、貴重な作文です。

「大なべ側にこぞう山という・・・」

じいちゃんの記憶違いか? あるいはじいちゃんからの聞き間違えか?
いずれにせよ「小僧山」は十郎の北、猿山を越えた北側が正解です。

一年振り

2013年02月11日 | 山行、ハイキング
登山と呼べる山歩きは、とんと ご無沙汰しておりました。

足腰に不安を抱えつつ、屋敷洞へ侵入を開始したのが、7:58。


焚き火で暖をとるハンターにご挨拶をして、さあ歩道へ取り付きます。


腐った丸太橋は慎重に渡りましょう。


東尾根一番の難所を這い上がります。


そうこうして、テラス着。


頂上の山名板。


「取次ぎの段」平地。


熊の爪あと?


三方平歩道口着となったのは11:50。 ぐるり一周の所要時間は3時間と55分でした。


久々の登山でしたが、まだまだ足腰は大丈夫のようです。

33×4間堂

2013年02月06日 | 歴史ネタ
三十三間堂といえば、誰しも思い浮かべるのは東山の蓮華王院


実はこの他にも三箇所、三十三間堂が存在したことを知る人は少ないようです。

蓮華王院は、後白河院へ清盛が寄進したもの。

その清盛の父忠盛が、鳥羽院へ寄進した三十三間堂が得長寿院
現在その跡地は、碑となって残っているのみです。

で、江戸にもあったんですね。
三十三間堂が。

まず最初が浅草カッパ橋付近

その後深川に移転され、明治5年まで存在していたのです。










一つの建物延長120mあまり。

四つを一列に並べますと、総延長は500mにも及ぶことになります。







謎を解く

2013年02月01日 | 
A海市のメガネトンネルネタは、
以前にも紹介したことがありますね。

で、一年半かかって謎が解けました。

大正時代の設計で、あえてメガネ仕様にした理由がです。

東海道線短縮のために造られた当初のメガネのお姿です。


1年半前の画像。おそらく今と、何もかわっていないでしょう。

当初の画像との違いは、埋土がされたことと、伊東線のための線路敷き分が手前に拡幅されたことでしょうか?

で、
でで、
ででで、



メガネスペックとした理由は・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
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その真実が明らかにされる。

ふふふ






これですよ。


向かって左側のトンネルは、当初は水路のためだけのものだったのです。

現在マップを俯瞰すれば、さらに答えは明らかとなります。

したがって現在の左側トンネルは、上部が車道、下部が暗渠水路の二段構造をなしていたのでした。

謎が解ければ、なんていうことはありません。

「車社会を見据えた仕様を大正時代に、そこまで斬新なこと考える設計士が嘗て存在した」

寧ろ、そういうことにしておくことが、夢があっていいじゃありませんか。