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コンテンツ作製のため、山風景等を素材にして様々な試みを綴ってみます。

秋葉山から火事(番外編)その2

2014年09月21日 | 歴史ネタ
さて、広義の意味の秋葉山では、明治期以降にも度々火災に見舞われていたようです。

天龍杉の産地であり、ただでさえ山仕事が多かった昔に加え、多くの参拝者のために菜種油やローソクによるおびただしい数の常夜灯を点さねばならなかったわけですから、火災の危険度はぐっと増していたはずです。

春野観光協会とボランティアガイドによって2013年に発刊された「秋葉山表参道を歩く」を拝見しますと、出典書物は明らかにされてはいませんが、16ページに明治の神仏分離後「明治34年(1901)、昭和18年(1943)、同25年(1950)の3回に渡り火災に見舞われた」と記されています。

また、春野図書館で拝見した「春野町史(だったと思う)」140ページによれば、明治6年11月28日付けで、「秋葉神社祠官 林浜松県令へ神殿はじめ社頭残らず焼失に付仮殿並借屋取建願を提出する。」との記載があります。さらにその前のページには、明治3年2月3日に神仏分離令の実行の命令が下り、山頂に同居する秋葉寺が廃寺とされたのが翌月の26日付けとのことです。境内の観音堂や仏具は磐田の可睡斎へ遷されたとも記されています。

ということだけを判断しますと、神仏混淆であった頂上境内の秋葉寺は廃寺の決定に基づき、境内の寺社建物のうち仏教関係のものが移築、あるいは破棄されたうえに火災で社殿も失い、秋葉社として存続するためには再建願いを提出せざるを得なかったことになります。

この火災が事実なら、秋葉山では明治になってから少なくとも4回の火災に見舞われたことが伺えます。(直接社殿まで被害が及んだ火災は、2回かも?)

神仏分離後の秋葉(神)社の社殿は、明治7年4月に権殿及び仮幣殿の上棟式をが行われ遷宮を終了します。また、5月に拝殿も完成したとあります。

古絵葉書に写る社殿とは、このとき建立のものだと推測しているのですが、いかがでしょうか?

大正14年発刊のガイドブックには拝殿前の金鳥居が写っていますので、建立は大正期とみてまちがいないでしょう・・・

『主に明治時代の新聞記事から見た秋葉山』


秋葉神社に関わる主だったエピソードを列記しておきましょう。
・明治13年10月16 秋葉神社防火大祭を今年より12月15日、16日に変更と『函右日報』に広告を出す。
・明治20年5月15日 秋葉神社社務所開所式が挙行される。
・明治33年3月17日 昨今、濃尾辺りの信者多く登山し沿道の旅店は大いに繁盛す。龍川村雲名より秋葉山30丁目鳥居下に至る新道路このほど工事中の処竣工。
・明治34年3月3日 秋葉山表阪より30町上手西谷より出火 四日まで延焼200町歩と言う。
・明治35年11月20日 東京の人 岡村鶴翁(元仙台藩主)107歳で秋葉山に登る。
・明治36年9月5日 秋葉神社中門完成
・明治37年12月18日 浜松町の有志 浜松秋葉講を組織。金灯篭二基を鋳造。中門へ据付ける予定。


番外編その3へつづく

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