現地調査の際に、突如思い出したことがありました。
北遠のマチュピチュともよばれる光明寺遺跡です。
光明寺も昭和6年の火災で、二俣へ移転がされたことをです。
図書館での調査を終え、急遽思い立った事前リサーチなしでの突撃でしたので、やたら難儀しました。
涼しい夏だったとはいえ、9月の中旬でしたので、夏草が繁茂しており、
かつアプローチ位置を間違えたため、藪漕ぎせざるを得なくひどい目にあったのでした。
そうこうしながら、参道最後の階段地点までたどり着けました。
火災で焼失した寺院跡の平地は、夏草でご覧のとおりです。
これでは探索意欲は失せるというものです。
展望所すら、このありさまですから。
遠州一の大パノラマ
参道を見下ろした左手に立つ樹木が視界を遮りますが、その右手には確かにアクトタワーが見えますね
時刻は16:30 遺跡探索は不完全燃焼で終わりました。
翌日は、別の社殿跡地を再訪してみました。
かつては、このような立派な拝殿と、
本殿が建っていたんですね。
本殿前に幣殿はなく、拝殿から一旦屋外に出なけれなならない仕様だったと思われます。
ここが昭和7年から、昭和63年までの社殿地です。
この画像は、昭和の中期くらいの撮影のものと推測されますが、終戦を迎えると玉除け祈願の必要がなくなったため人気が廃れ修繕費用を捻出できず、長らく放置状態が続いたようです。(昭和63年に、さらに下段の祈祷所のあった位置にコンクリート製の社殿が再建される)
五年半前の画像
本殿址基壇の上に建っていた小祠は、崩壊していました。
今回の再訪時には、コンクリート製のものに造り替えられていました。
当該場所は、龍爪山穂積神社でございます。
さらに登ると昭和7年までの社殿跡地もあるのですが、1基の石塔と10m四方の僅かな平地が残るのみで、立派な社殿が建っていたことを偲ぶものは確認できませんでしたが・・・
その6へ続く
北遠のマチュピチュともよばれる光明寺遺跡です。
光明寺も昭和6年の火災で、二俣へ移転がされたことをです。
図書館での調査を終え、急遽思い立った事前リサーチなしでの突撃でしたので、やたら難儀しました。
涼しい夏だったとはいえ、9月の中旬でしたので、夏草が繁茂しており、
かつアプローチ位置を間違えたため、藪漕ぎせざるを得なくひどい目にあったのでした。
そうこうしながら、参道最後の階段地点までたどり着けました。
火災で焼失した寺院跡の平地は、夏草でご覧のとおりです。
これでは探索意欲は失せるというものです。
展望所すら、このありさまですから。
遠州一の大パノラマ
参道を見下ろした左手に立つ樹木が視界を遮りますが、その右手には確かにアクトタワーが見えますね
時刻は16:30 遺跡探索は不完全燃焼で終わりました。
翌日は、別の社殿跡地を再訪してみました。
かつては、このような立派な拝殿と、
本殿が建っていたんですね。
本殿前に幣殿はなく、拝殿から一旦屋外に出なけれなならない仕様だったと思われます。
ここが昭和7年から、昭和63年までの社殿地です。
この画像は、昭和の中期くらいの撮影のものと推測されますが、終戦を迎えると玉除け祈願の必要がなくなったため人気が廃れ修繕費用を捻出できず、長らく放置状態が続いたようです。(昭和63年に、さらに下段の祈祷所のあった位置にコンクリート製の社殿が再建される)
五年半前の画像
本殿址基壇の上に建っていた小祠は、崩壊していました。
今回の再訪時には、コンクリート製のものに造り替えられていました。
当該場所は、龍爪山穂積神社でございます。
さらに登ると昭和7年までの社殿跡地もあるのですが、1基の石塔と10m四方の僅かな平地が残るのみで、立派な社殿が建っていたことを偲ぶものは確認できませんでしたが・・・
その6へ続く
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