山風景とデジタルコラボ+α                                   

コンテンツ作製のため、山風景等を素材にして様々な試みを綴ってみます。

秋葉山から火事(その10)最終回

2014年09月16日 | 歴史ネタ
今回このブログでの拙考察を掲載するに当たり、秋葉山に纏わる過去の宗教的ないざこざやそれに対する個人的な思いは一切ないということを最後に記しておかねばなりません。
あくまでも個人的な興味から、明治期から秋葉社の社殿建築がどのような変革をたどってきたかのかの疑問を調査したに過ぎません。
当然、あくまでも素人調査と素人考えのみですので、検証不足や誤謬もあることお許し願いたいと存じます。


ということをご理解願ったうえで、皇紀2600年の大造営についてを検証すべく現地へ赴き、机上での調査をしてまいりましたので結果をご報告したいと存じます。

地元の郷土研究誌「温故知新(昭和58年12月発行 第31号)」の表紙です。

「焼失した大正時代の秋葉神社本殿」とキャプションが付けられています。

マジですか!

それが事実とするならば、ワタシの立てたこれまでの仮説すべてが水泡に帰すってことですよね。

どう考えても「大正時代に建てられた秋葉神社本殿が、焼失した」、としか解釈できませんもの。
そんなことありえません!古絵葉書画像に写る社殿は、神仏分離政策後の明治初期の建物のはずでしょう・・・
大正期に建て替えられて、それが焼失したなんてありえませんよ!
などとボヤいたところで、どうにもなるものでもありません。


虚脱感と格闘しながら、「温故知新」を読み進めるしかありませでした(ペラペラ捲るだけの斜め読みですが)
そしてワタシの節穴の目が、この597ページをめくった瞬間に釘付けとなったのです。

もちろん、思わず息を呑みましたよ。
先ほどのキャプションに、反証すべき画像を同郷土研究誌から見つけることが出来たのです。
というよりも、ワタシの立てた仮説を立証できる画像をようやく発見できたと言ったほうが正しい表現でしょう。
三時間ほど春野図書館に篭って見つけることのできた、大造営後を撮影する唯一の画像となったのです。

「昭和18年3月の大火にて焼失した本殿」
僅かな期間に存在した社殿画像が、やはり残っていたんですね。
この画像を、ずっと探し求めていたんですもの。

画像から判断できることは、ワタシの仮説どおり拝殿前のスペースは当然のごとく確保されています。
拝殿間口は6間変則5間で、現在の拝殿を一回り小振りにした権現造りだったと判断できます。
社殿建築の基本ともいえる高床式も採用されています。
向拝の庇は唐破風が主たる構造物で、上部に見える破風は単なる意匠としての千鳥破風のように見えます。
もしかすると現在の社殿意匠は、この画像をモチーフとしたものかもしれません。

このページに記載できたのなら、当然のごとく画像出典元があるはずです。
しかしながら、遠方よりの調査にはおのずと限界があります。
そしてワタシ自身、とりあえずの納得はできたものとも自覚しております。

したがいまして以降の追調査は片手間とし、掘り下げた調査検証については地の利を活かせる地元の方等にお任せしたいと考える次第です。

おわり

といいつつ、番外編へつづく




秋葉山から火事(その9)上社へ遷座なる

2014年09月16日 | 歴史ネタ
昭和六十一年十月二十五日御本殿及附属舎の竣工を始め、御末社十一棟、神楽殿及手水舎の新築又参道並鳥居、狛犬、燈籠等が逐次奉納建築され、秋葉山本宮としての威容整ふるに至りぬ
ここに大神の御神威の発揚を冀ひ、以って宝柞長久、天下泰平、国運隆昌、火災鎮護、家内安全を記念して萬代不朽の石碑を策定す


昭和六十一年十月二十五日付けの御本殿及び附属舎の竣工を始めとし、御末社十一棟、神楽殿及び手水舎の新築、又、参道並びに鳥居、狛犬、燈籠等が逐次奉納建築され、秋葉山本宮としての威容がようやく整った。
ここに大神の御神威たる威光を強く願うべく、「宝作長久」、「天下泰平」、「国運隆昌」、「火災鎮護」、「家内安全」を祈念して永代朽ちることのない石碑を建立したのである。

またしても勝手な解釈ですが、さほど的ははずしてないと思います。
復興経過を年表に纏めようとも考えましたが、手間なので画像貼り付けにてお許し願います。

復興碑裏面その1


復興碑裏面その2


下社に掲げられる「第三次御造営奉賛会趣意書」

秋葉山本宮秋葉神社は遠州秋葉山に鎮座して火之迦具土神をお祀りします。和銅二年初めて社殿が建てられたと伝えられる名社であって、朝廷の御信仰も厚く正一位の神階を賜って正一位秋葉神社とも申し上げ、火防の神の本宮として全国から信仰されて来ました。
御祭神は、火の主宰神であります。火はエネルギーの根源であって、我々の日常生活を豊かにすると共に一日も欠かせぬものであり、同時に疎かに出来ぬものでもあります。今日の科学の発展の源であることは人々の知るところで、この大神の御恵を蒙らぬものではないのであります。
先年来秋葉山頂の霊地に御復興を志しました。御蔭を以って社殿、社務所、斎館の竣工を見、自動車にて山頂本宮に御参拝出来るようになりました。
今度第三期工事として神楽殿、神門及透塀を新築し参道を改修して火防の神の本宮としての威容を整え御社頭の尊厳と御神徳の昴揚を計り度く計画いたしました。
御崇敬者各位には何卒趣旨に御賛同賜りまして、事業完遂出来ますよう御支援御協力賜り度く願う次第であります。

秋葉山本宮秋葉神社御造営奉賛会

そして、昭和61年10月 竣工相成った真新しい秋葉神社社殿画像

建坪130坪に及ぶ総檜造りで
拝殿は間口8間変則7間の入母屋造り、参拝者のための庇となる向拝屋根も入母屋破風に唐破風をあしらった豪華な意匠のものとなっています。
そして拝殿にも、本来後方の本殿のみに装飾される千木(ちぎ)と堅魚木(かつおぎ)も施されるという念の入れようです。
神社建築特有の高床式形式の採用は見送られたようですが(本殿は高床式風です)、866m附近に鎮座するゆえの防寒対策としては妥当な選択でしょう。
またこれも参拝者のための厳冬期対策でしょうか、拝殿内部も嘗ての造りと同様な畳敷きが採用されています。
拝殿に後ろに隠れて見えませんが本殿は流造りで、社殿全体としての意匠はいわゆる権現造りを基調とされたものです。

そして、向拝の真下附近には秘密の地下宮殿が・・・


現在の様子(平成26年9月)その1


現在の様子(平成26年9月)その2


現在の様子(平成26年9月)その3


恐らく第一次造営とは、昭和61年10月に竣工する「社殿造営」のみを指すのだと思われます。
第二次造営が昭和63年5月からの境内整備でしょう。
第三次造営が第二次造営と一部重複して、「神楽殿」・「神門及透塀」・「玉垣」・「階段参道」となるのでしょうか?


最終回(その10)へつづく