「されど大神の御神徳は海内に通じ、山上の元の御座所に遷御し奉り、愈々御神威の発揚を仰ぐべしと常に絶へず模索す
然る所山麓の市町村の協力を得て秋葉山頂に達する林道が開通し、建築資材の運搬の便開け、昭和五十五年五月二十七日山上の拠点となるべき斎館の新築を見るに至る
これより復興の機運高まり、財界の有志に依り奉賛会が結成され、之に応へて全國津々浦々より協賛の誠が捧げらる」
しかしながら、拙社大神(火之迦具土神)の功徳は国内に知れ渡っており、山頂の元の御座所(場所)に戻してほしいとの願いが聞こえたため、より一層の神の威光を高揚させねばならないと、常々模索していた。そうしていたところ、山麓の市町村の協力があって、秋葉山頂に達するスーパー林道が開通する運びとなり、建築資材の運搬も可能となったため、昭和五十五年五月二十七日には山上の拠点となる斎館が新築されることとなった。これを契機に、社殿復興へ機運も高まり、財界の有志による奉賛会が結成され、これに応えた全国津々浦々よりの協賛の志が寄せられたのである。
と、テキトーな解釈です。
戦後の年表としてわかっていることは、天竜スーパー林道が昭和58年に全線開通したこと。(両側から工事を進めていたとすれば、もっと早い時期に秋葉山までは開通していたと思われる)
あともうひとつ、昭和57年に秋葉茶屋が開業したことくらいです。
この二点を踏まえ、またしても航空写真とまいりましょう。
昭和23年(1948)
まだ、なにも建物らしきものは見えません。
昭和30年(1955)
画像が不鮮明すぎて、まるで判別がつきません。
昭和42年(1967)
スーパー林道開通前にもかかわらず、社務所や斎館が建っています。工事用の飯場らしき建物も散見できます。
ということは、当時の資材運搬はヘリ使用が濃厚でしょう。
昭和51年(1976)
この10年間においては、上社復興の進捗はなかった模様です。
で、下社拝殿左側に飾ってある航空写真の撮影時期は、
秋葉茶屋のRC建物が完成していますので、昭和57年から本殿建設着工前までの期間ということになります。
巨大なRC建物が山頂に建築できるようになったのは、スーパー林道開通の恩恵といっても過言ではないでしょう。
奉賛会の面々とは・・・
と
です。
奉賛会の会長さんて、あのお方だったんですね!
その9へ続く
然る所山麓の市町村の協力を得て秋葉山頂に達する林道が開通し、建築資材の運搬の便開け、昭和五十五年五月二十七日山上の拠点となるべき斎館の新築を見るに至る
これより復興の機運高まり、財界の有志に依り奉賛会が結成され、之に応へて全國津々浦々より協賛の誠が捧げらる」
しかしながら、拙社大神(火之迦具土神)の功徳は国内に知れ渡っており、山頂の元の御座所(場所)に戻してほしいとの願いが聞こえたため、より一層の神の威光を高揚させねばならないと、常々模索していた。そうしていたところ、山麓の市町村の協力があって、秋葉山頂に達するスーパー林道が開通する運びとなり、建築資材の運搬も可能となったため、昭和五十五年五月二十七日には山上の拠点となる斎館が新築されることとなった。これを契機に、社殿復興へ機運も高まり、財界の有志による奉賛会が結成され、これに応えた全国津々浦々よりの協賛の志が寄せられたのである。
と、テキトーな解釈です。
戦後の年表としてわかっていることは、天竜スーパー林道が昭和58年に全線開通したこと。(両側から工事を進めていたとすれば、もっと早い時期に秋葉山までは開通していたと思われる)
あともうひとつ、昭和57年に秋葉茶屋が開業したことくらいです。
この二点を踏まえ、またしても航空写真とまいりましょう。
昭和23年(1948)
まだ、なにも建物らしきものは見えません。
昭和30年(1955)
画像が不鮮明すぎて、まるで判別がつきません。
昭和42年(1967)
スーパー林道開通前にもかかわらず、社務所や斎館が建っています。工事用の飯場らしき建物も散見できます。
ということは、当時の資材運搬はヘリ使用が濃厚でしょう。
昭和51年(1976)
この10年間においては、上社復興の進捗はなかった模様です。
で、下社拝殿左側に飾ってある航空写真の撮影時期は、
秋葉茶屋のRC建物が完成していますので、昭和57年から本殿建設着工前までの期間ということになります。
巨大なRC建物が山頂に建築できるようになったのは、スーパー林道開通の恩恵といっても過言ではないでしょう。
奉賛会の面々とは・・・
と
です。
奉賛会の会長さんて、あのお方だったんですね!
その9へ続く