山風景とデジタルコラボ+α                                   

コンテンツ作製のため、山風景等を素材にして様々な試みを綴ってみます。

社殿跡

2014年12月02日 | 歴史ネタ
社殿跡など、たぶん調査隊のどなたも気づいていませんよね。

池つぼ付近に神社があったんですよ!

証拠はこれですよ。

みえませんか~

では拡大しましょうね。



そこってここですかね?


ここも怪しい気がしますが


馬頭観音付近に民家があったと記憶していますが、先般の探索では跡形もありませんでした。

再調査が必要のようです。

池つぼ

2014年12月01日 | 歴史ネタ
松崎町門野地区経由で富貴野山宝蔵院へ向かうと、切り通しを抜けた地点に弘法大師御旧跡碑が建っている。
この碑については過去に説明済みなので、そちらをご覧いただきたい。


さて、池つぼと呼ばれるくぼ地がこの碑の背後に存在する。
長さが約100m、幅50mのちょうど卵を縦にスライスしたようなくぼ地状になっている。

現在は杉が植林され、辺りと同化しているため指摘されないと、嘗ては灌漑用水のための池だったとは思いもよらないかもしれない。
ため池が廃止されたのはいつか?植えられた杉の太さからして20年から30年程度は経過していると思われるので、必然的にそれ以前の廃止ということになりまする。

ではなぜここがため池だったと断言できるのか?
谷を堰き止めた地点に碑が建っているのですね。

背面に「門野ヨリ富貴野ニ通ズル道路及水路敷開墾寄附」と書かれてあります。

碑の四面全てに謂れが刻まれておりますので、皆で確認作業をしています。



さて、全てワタシの憶測に過ぎませんが、ここからが核心部分です。
先ずはMAPを確認願います。


① 門野地区の水田は、その立地条件によりしばしば渇水に見舞われた
② そこで、ため池を造るよう、明治期に県へ陳情を繰り返した。
③ 大正の初めになり近代工法も確立され、既存の水源とは別の富貴野山側の水源利用によるため池を県事業で実施してもらえることとなった

そもそも尾根上のあの谷に堰を作ったところで、さしたる水量も確保できるはずもありません。したがって大師橋上流辺りに、ため池への給水堰を設けたのではないでしょうか?
暗渠か、それとも現道にそった水路で引き込んだかは、今後の調査が必要です。現有の水道施設がそれに当たるのではないかとも考えていますが。
MAP上で水田として利用できそうな場所を示してあります。
渇水期に水門を開く設備がどようなものだったかは、今後の研究課題です。

想定される水田への供給ルートを考えてみましたが、全てがワタシの空想の産物かもしれません。

お地蔵様の指さす方向にあるもの

2014年11月30日 | 歴史ネタ
富貴野山宝蔵院が弘法大師によって開かれ、その後7参詣道のうち一色口が禁忌とされたようだ。

古くより栄えた富貴野山・宝蔵院(松崎)には、「富貴野の七口」と言う白川口、皆奈(海名野)口、江奈口、桜田口、船田口(門野)、峰輪口、河津口がある。
しかしこれには弘法大師が開山した云う一色口が禁忌とされ公表されていないと言う。
理由は女谷の形状が修行の妨げ説が有力と考えられている事による。


伝承なので疑わしいのは当たり前だが、その内容を考えてみることにする。

弘法大師伝説は、行基に比べれば多くはないものの修善寺の独鈷伝説など各地に存在するようだ。したがって、そもそも弘法大師が富貴野山に訪れ、宝蔵院を開山したかどうかからして疑わしい。もし大師本人或いはその弟子が開山に携わったことが事実としても、長らくこの地に留まったとも考えにくく、開山当初から参詣道が複数あったとは思えないのは当たり前であろう。
そしてその後「一色口は禁忌」とされ、参詣口が閉じられたということだが、その一色口には開山から900年くだった天明年間に、一色の若者達によって建立された宝蔵院への道標地蔵がいまでも残されていることへの説明がつかなくなる。禁忌としたなら、撤去してしかるべき道標が、そのまま残地されてることからすれば、伝承そのものが眉唾ものといわざるを得ないわけだ。天明年間と言えば、江戸期最大の飢饉が襲ったその真っ只中である。石造物の多くは化政時代のように世の中が平穏な時代に建立されるのが常であるが、天明の大飢饉は伊豆にはあまり影響がなかったのか、或いは飢饉ゆえ仏門に縋るものが多くなったため、道迷いせぬよう厚志により建立されたものか等の理由があろうが、想像の域をでない。
 さて、この道標地蔵が一風変わっている。分岐地点に安置された浮彫立像の地蔵様の光背部分に、富貴野山へ続く方向が書かれてある。また、袖の下から手が伸び行き先を指し示すなど、手の込んだ意匠のものとなっている。ところがである。よく観察すると、左右の文字と行き先が逆転しているように見えることに気づかれるだろう。この謎を解くヒントを与えてくださったのが、先般道中ご同行いただいたおじなべさんである。目的地へ導かせる主体は誰か?お地蔵様の立場になって考えれば、おのずと答えがでます。その解釈はこうである。「(お地蔵様の)右(手方向)又は左(手方向)ふきのみち」と読めばよいのである。つまり、括弧内を省略した文字を彫ったため、参詣者から見て左右が逆転したように見えてしまったというわけだ。したがって参詣者がここでの判断を間違えると、とんでもない方向へ進んでしまうことになるので特に注意が必要である。ともかくも参詣者は難しいことを考えずに、お地蔵さまの前に立ったら、袖の下から伸びる手が指し示す方向へ辿ればよいのである。
道標地蔵は、川金沢沿いに3体佇んでいらっしゃるので、以下のマップに位置関係を落とし込み、三体の画像及び光背文字を掲載しておく。(下流から1体目と2体目は道路開削により設置位置が変わっていると推測される)


第一道標 右ふきのみち 左やまみち ※右手が判別しにくいですが


第二道標 左ふきのみち 右白川みち


第三道標 左ふきのみち 右やまみち


いかがだろうか。三体すべての設置位置が行き先と符号することが理解いただけるものと思う。
ちなみに、この書物の文面も掲載しておくこととしよう。


最後に一色口が禁忌とされた理由が、「女谷の形状が修行の妨げになることによる」ことらしい。
これをいかに解釈するか?一色口から座禅石まで参詣道を登りつめ、尾根に沿って宝蔵院へ達するとすると、あの「のぞき岩」脇を通過したと考えられる。とすれば、こう解釈できないだろうか?
「一色口からの参詣道で必ず通過する「のぞき岩」の形状が女性の陰部を彷彿とさせるので、この参詣道は修行の妨げになる」と・・・

 


 いずれにせよ、どの伝承も後付によるものと思われ、なんの確証もない。

 ただ一色口に佇む道標地蔵だけはいまだに、富貴野山を指し示し佇んでいるのは紛れもない事実である。
 

秋葉山から火事(番外編)その9

2014年10月11日 | 歴史ネタ
あいかわらず、だらだらと長い連載が続きます。

往時を偲ぶ階段上からの絵葉書

秋葉にかぎらず、かつてはどこの手水鉢も溜め水を使用したのでしょうね。
階段と同傾斜で上部へ続く回廊も確認できます。


現在様子です。


その2


社務所前は参詣者の導線を考慮し、たっぷりとスペースが確保されています。

その10へつづく

秋葉山から火事(番外編)その8

2014年10月08日 | 歴史ネタ
次に、A段面からB段面にかけての階段部分をご覧いただくこととしましょう。

「正一位秋葉神社畧圖」のクロッピング画像です。

下社拝殿内右手額に掲げられている写真の大自在鉤(おおじいざいかぎ)は、階段下の向かって右側にあったようです。
中門から右手は、野面積による複雑な形状をした石垣も確認できます。
中門左手には通用口があったのですかね。
階段左手には、社務所から階段に沿って登る回廊もありました。
これなら雨の日でも、社務所から拝殿まで傘をささずとも神事を執り行えますよね。

社務所2階屋根より望む回廊その1

石積みにも注視ねがいます。

古写真その2

野面積で回廊下部分が5m以上となるわけですが、この工法で城壁のごとく1枚壁で積み上げたのかまではわかりません。

手水舎から中門を望んだ画像です。

ストレートだった階段の傾斜角度は、どの程度だったのでしょうね?
画像から推測して算出できないわけではありませんが、面倒なのでやめときます。
それはそうと、社務所の屋根や回廊、手水舎の葺き屋根が瓦仕様になっています。
本来、由緒ある社殿には瓦は使用しないのが通常ですが、費用対効果を考え、付属建物ということで耐久性や防火に優れた瓦葺きを選択したと思われます。
明治20年の社務所開設当時の玄関庇である唐破風部分は、桧皮葺きのようにも見えますが・・・

そして、現在の画像です。(1年半前のものですが)


引いた画像です。(こちらは半月前です)


手水舎は今と同じ位置だろうと推定できますが、明治期の社務所は今よりも10m程度は手水舎に近い位置に玄関があったものと考えられます。

その9へ続く

秋葉山から火事(番外編)その7

2014年10月07日 | 歴史ネタ
さて、石積みの核心にふれましょう!
もういちどこの画像からです。
ポイントは右手からのB地点です。


随身門をくぐれば、秋葉神社はすぐそこです。

で、随身門から続く進行方向右側の石積みです。

これは明らかに、自然石を使用した野面積ですね。
これを積んだ時期が、江戸期なのかそれ以前かは興味があるころろですが、ワタシに知る術はありません。
しかも、これだけの自然石を何処から調達したのでしょうねえ~。

画像右上には、神楽殿も見えています。
画像奥には現代工法で詰まれた石積みと、曲がり階段も見えます。



現代工法(昭和の終わり)による石積み施工部分。 
布積(レンガ積)を振り返ります。きっちり目地止めもされていますね。


神楽殿の真下が、新旧の継ぎ目部分となります。

よく観ますと、この付近のみの野面積にも目地がされています。

現在のA段面からB段面です。

嘗ては、このような城壁石積ではなく、A段面とB段面とを昇り降りする階段はストレートでしたし、その階段の左右には大きく3段から4段程度の段差構造の石積がされてれいたと想像できます。

現在のB段面の階段下は、

潜り抜けられる空中階段仕様に変更されています。

階段上から、随身門方向を望みます。

二段構造の石積みがされていることが、わかると思います。
実はこの画像から、A段面とB段面のおおよその標高差が導き出せます。

コンベックスを持っていって測ったわけではありませんが、
布積みされた間地石一辺の縦の長さを30cmとすると、0.3m×17積=約5.1mということになります。
一辺が50cmなら8.5mの標高差ですね。

番外編その8に続く

秋葉山から火事(番外編)その5

2014年09月27日 | 歴史ネタ
現地調査の際に、突如思い出したことがありました。

北遠のマチュピチュともよばれる光明寺遺跡です。
光明寺も昭和6年の火災で、二俣へ移転がされたことをです。

図書館での調査を終え、急遽思い立った事前リサーチなしでの突撃でしたので、やたら難儀しました。
涼しい夏だったとはいえ、9月の中旬でしたので、夏草が繁茂しており、
かつアプローチ位置を間違えたため、藪漕ぎせざるを得なくひどい目にあったのでした。

そうこうしながら、参道最後の階段地点までたどり着けました。


火災で焼失した寺院跡の平地は、夏草でご覧のとおりです。
これでは探索意欲は失せるというものです。


展望所すら、このありさまですから。


遠州一の大パノラマ


参道を見下ろした左手に立つ樹木が視界を遮りますが、その右手には確かにアクトタワーが見えますね


時刻は16:30 遺跡探索は不完全燃焼で終わりました。



翌日は、別の社殿跡地を再訪してみました。

かつては、このような立派な拝殿と、


本殿が建っていたんですね。

本殿前に幣殿はなく、拝殿から一旦屋外に出なけれなならない仕様だったと思われます。

ここが昭和7年から、昭和63年までの社殿地です。

この画像は、昭和の中期くらいの撮影のものと推測されますが、終戦を迎えると玉除け祈願の必要がなくなったため人気が廃れ修繕費用を捻出できず、長らく放置状態が続いたようです。(昭和63年に、さらに下段の祈祷所のあった位置にコンクリート製の社殿が再建される)

五年半前の画像

本殿址基壇の上に建っていた小祠は、崩壊していました。

今回の再訪時には、コンクリート製のものに造り替えられていました。


当該場所は、龍爪山穂積神社でございます。

さらに登ると昭和7年までの社殿跡地もあるのですが、1基の石塔と10m四方の僅かな平地が残るのみで、立派な社殿が建っていたことを偲ぶものは確認できませんでしたが・・・


その6へ続



秋葉山から火事(番外編)その4

2014年09月24日 | 歴史ネタ
その10最終回で、春野図書館で見つけた昭和15年~17年にかけての大造営後の画像は一つだけだと申しましたが、実はワタシには判別できない怪しい画像がもう一つありました。

右側の、拝殿内部を撮影した中段画像がそれです。


拡大してみましょう!

キャプションには、
上段が「大正時代の秋葉神社」 まあ、合ってます。
中段が「焼失前の秋葉神社」 微妙です。大造営の前なのか、後なのか判然としませんね。
下段が「遠州秋葉神社機織井(はたおりい)」 こちらは現存することを確認済みです。

さらに拡大します。

階段状に見える祭壇部分から先が、幣殿だろうと思われます。
となれば、階段を上り詰めた先には本殿へ通ずる観音開きの戸があるはずです。
画像から判断できることは、拝殿と本殿の高低差は2m程度でしょう。
古絵葉書に写る明治期の拝殿と本殿の高低差は、ほぼフラットのように見えますので、下社に掲げられる航空写真からすると、大造営後に撮影された画像である確率が高いかもしれませんね。

現在の拝殿内部と概観を、参考画像として掲載しておきます。



現在の拝殿と本殿の高低差は1.5m程度に思われます。

その5へ