山風景とデジタルコラボ+α                                   

コンテンツ作製のため、山風景等を素材にして様々な試みを綴ってみます。

秋葉山から火事(その6)おさらい

2014年09月09日 | 歴史ネタ
拝殿他、古絵葉書で偲ぶ明治期建立と思われる社殿をもう一度ご確認ください。

人物が二名写りこんでいます。人物を1.5mとすれば、社殿の大きさも自ずと判断できると思います。

そして斜め前方より

入母屋造りの拝殿の後ろに、千木(ちぎ)と堅魚木(かつおぎ)を配する切妻屋根の本殿が写っています。

これは明らかに、権現造りですね。幣殿(石の間)は、拝殿と本殿を繋ぐ簡素なものだったと思われます。
当時の葺き屋根は檜皮葺と思われますが、大正年間には銅葺き屋根も登場しますので、なんとも言えません。

いずれの画像にも鷹?をあしらった「征清記念碑【塔】」が写っていますので、撮影時期は明治28年~昭和15年までの間ということになります。

もはや既に読者皆様方におかれましては、明治期の社殿配置がB段面よりC断面に上るとすぐに拝殿となる、当時の秋葉社模様が脳みそにインプットされましたよね。

では、大造営では社殿前のスペース確保するために後方にセットバックさせたのではなく、C段面を前方にずらした造成を行ったのではないかと勘ぐる方もいらっしゃるでしょう。

その答えがこちらです。

上段が現在の配置図(航空写真)
下段が1976年(昭和51年)の画像です。
社務所や仮斎館は再築されていますが、秋葉茶屋(食堂・売店)建物の建築開業は1980年(昭和57年)まで待たねばなりません。
B段面の階段前には、昭和18年の大火を間近に見たであろう狛犬と、寄進灯篭も写っていますよね。
俯瞰して比較する限りA、B、C面とも復興前と比較して、なんら面積に変化がないことがお分かりいただけるでしょう。

で、今一度こちらをご確認願いましょうか。(明治期建築の社殿鳥瞰図)

なんのことはありません。本殿後ろに、ちゃんとスペースが描かれているじゃありませんか。
余談ですが、さらに後方には御神木もあったようです。
以上により、C断面を前方にずらしたとは考えにくいという結論に達します。

さらにさらに、こちらをご覧ください。

神仏混淆だった時期の鳥瞰図です。観音堂や多宝塔がB段面に描かれています。

画家の描写が正しければ、
この時期の拝殿前には現在と同様な、それなりのスペースが設けられてたことになるんですね。
しかもです、
雨の日でも正面から参拝し易いようにと、現在の社殿と同様な唐破風仕様の拝殿建築ですから、明治のものに比べ数段アクセシビリティーに優れていたのではないでしょうか?

ということはですよ、「何らかの理由で明治期になって社殿を前方に移動させたものの、やはり様々な不都合が生じたため、昭和15年から17年にかけての大造営で元の位置へ戻した」ということになりませんか・・・

その7へ続く





秋葉山から火事(その5) 昭和十八年三月十三日

2014年09月08日 | 歴史ネタ
さてさて、次の行の読み解きに進みましょう!

「その翌昭和十八年三月十三日、如何なる禍事ならむ磐田郡龍山村雲折の峯(峰)之澤鉱山よりの失火に端を発せし山火事の類焼に遭い、御神殿悉く烏有に帰せり」

この禍による消火活動に従事した方からの聞き取りを記録した書物があるようですが、現時点で未確認です。
このことについての詳しいサイトがありますので、無断リンクを貼らせていただきます。

その1
その2
その3
その4
その5
その6

峰之澤鉱山は、日本鉱業系列の鉱山でした。
そうなんです。
我が家附近にも戦後まで同系列鉱山が稼動していた時期があり、秋葉山同様戦時中に鉱山施設の「用度」から失火し、危うく我が家までもが類焼の憂き目に遭いそこねるといった過去があったのでした。

話を秋葉山火災に戻しましょう。

戦艦大和が絶対に沈まない、いわゆる「浮沈伝説」と同様に、あっけなく類焼により秋葉社殿は灰燼に帰してしまいます。

火災から5年後(昭和23年)の秋葉社附近の航空写真です。


これをご覧いただければ、神社附近の消失範囲がおおよそお分かりいただけるでしょう。

画像処理を駆使すれば、


さらに、鮮明なものとなりますね。

おさらいその6に続く

秋葉山から火事(その4)勝手な推論

2014年09月05日 | 歴史ネタ
皇紀2600年を契機とした大造営がどのようなものだったかは、古絵葉書からは判断できそうもありません。
それもそのはずです。この僅かな期間が、太平洋戦争が開戦したちょうどその時期とかさなりますからね。
玉避けの龍爪神社ならいざ知らず、秋葉山頂で悠長に画像撮影し絵葉書販売している場合じゃありませんもの。
もし何らかの記念画像が神社に保管されていたとしても、灰と化していることは間違いないでしょう。

なら、検証アプローチを変えましょう!

火災焼失後で復興前の秋葉神社の航空写真と、現在の航空写真との比較です。

古絵葉書画像では、B段から階段を登りC段に達すると、スペースなくそのまま拝殿となるのが嘗ての社殿配置でした。
ところがですね。復興前の基礎跡も、現在の配置とほぼ同様に、拝殿前にスペースが設けられていることが確認できます。

復興前の鳥瞰画像もご覧いただきましょうか。(秋葉茶屋が建築されていますので1980年(昭和57年)以降の撮影です)

本殿位置には、小祠の仮宮が建てられいるのも確認できますでしょう。

鳥瞰画像のC段面の社殿基礎部分だけでも、階段上部から参拝者のためのスペースを確保し、一番奥に本殿、次に幣殿、手前に拝殿くらいなら、十分に建築できるだけの面積規模だったことが確認できますでしょう。
それ以前の社殿配置では参拝者達は、B段からC段の拝殿へと手すりもない階段を上りつめ、そのまま拝殿にて参拝しなければならなかったのですが、これでは参拝者にとって危険極まりありませんよね。
一人がコケたら皆コケた状態になるのは、想像に難くありません。

で、勝手な結論です。
すなわち皇紀2600年(昭和15年)を契機として催行された大造営とは、裏山を造成整地したかまではわかりませんが、現在の配置と同様に社殿の全てを後方へセットバックさせ、参拝者のアクセシビリティーに配慮した社殿配置に作り直したのではあるまいか?


現在の拝殿正面画像もご確認ください。

しかしながらこれ以上検証するすべがないため、この推論は単なるワタシの妄想に過ぎません。

大造営がどのようなものだったか?
わずかの期間存在した造営後の社殿画像が残っていれば、拝見したくはありませんか・・・


その5へ続く

秋葉山から火事(その3) 古絵葉書よりの推測

2014年09月04日 | 歴史ネタ
前置きが長くなりました。
そろそろ本題にうつりましょうか。

まずは、これをご覧いただきましょう!

「正一位秋葉神社畧圖」です。(以前に原本を入手したのですが、JPGとPDFに落としたのち、原本は行方不明状態です)

大造営前の、秋葉神社の鳥瞰図(右上約四分の一)ですね。
手水舎のA段、中門(現在は金鳥居)があったB段、本殿があるC段の境内構造は、現在も変わっていません。
で、注目していただきたいのは、拝殿の屋根の形状です。

古絵葉書その1 鳥居がありませんので明治期かもしれません


古絵葉書その2 鳥居が設置されました(たぶん金色)


古絵葉書その3 灯篭と狛犬もありますので、昭和8年以降の撮影だということがわかります。


古絵葉書その4 入母屋造りの拝殿の屋根形状を再度確認願います。


で、ここからが最重要ポイントになります。

古絵葉書その5 どうですか? あなたは気づきましたか?


明らかに、その1~4までの拝殿の屋根形状とは異なるでしょう!
しかもですね、幣殿と思われる位置に、かつて拝殿だった屋根構造の建物を確認できませんか?

ここからは推測です。
昭和15年を期に行われた大造営では拝殿を解体して、幣殿位置にセットバックさせ組み直した。そして本殿と拝殿は新しく造り変えたのではないか?
これぞ世紀の大発見。

な~んてね。

そんなわけはありませんよ!

一番手前(右側)の建物は、中門の屋根が写りこんだだけなんですよ。
まさしく、社務所(参篭所)2階あるいは屋根上より撮影した画像にちがいありません。

その4へ続く


秋葉山から火事(その2) 皇紀二千六百年

2014年09月03日 | 歴史ネタ
それでは碑文の、冒頭前段部分から紐解いていきましょう!

秋葉山本宮秋葉神社は、紀元二千六百年(昭和15年 西暦1940年)を奉祝し、御神殿の大造営を斎行せしが、
その翌昭和十八年三月十三日、如何なる禍事ならむ磐田郡龍山村雲折の峯(峰)之澤鉱山よりの失火に端を発せし山火事の類焼に遭い、御神殿悉く烏有に帰せり


紀元(皇紀)二千六百年(昭和15年 西暦1940年)には、中央のみならず日本各地でさまざまな催しや事業があったようです。



秋葉街道筋の森町でも、ご他聞にもれず催行されたようです。

で、碑文の「秋葉山本宮秋葉神社は、紀元二千六百年(昭和15年 西暦1940年)を奉祝し、御神殿の大造営を斎行せし」を読み解くと、
「昭和15年の紀元二千千六百年を祝し、秋葉神社本殿も大造営に着手した」と解せませんか?

その3へ続く

秋葉山から火事(その1)復興碑

2014年09月02日 | 歴史ネタ
秋葉山から火事の意味とは「指導的立場にあるものが、過ちを犯してしまう」たとえ

火伏の神様だって昭和18年に火災で焼失した事実をご存知ですか?


ともあれまずは、秋葉山本宮秋葉神社(上社)境内にある復興碑文をご覧くださいませ


画像が小さく読めない方のために、ワープロ打ちしたものも掲示しておきましょう。

復興記念碑
秋葉山本宮秋葉神社は、紀元二千六百年(昭和15年 西暦1940年)を奉祝し、御神殿の大造営を斎行せしが、
その翌昭和十八年三月十三日、如何なる禍事ならむ磐田郡龍山村雲折の峯(峰)之澤鉱山よりの失火に端を発せし山火事の類焼に遭い、御神殿悉く烏有に帰せり
時(とき)あたかも大東和戦争の戦中戦後にして、人員物資共に窮乏甚だしく、直ちに復旧する能はず
止む無く山麓坂下に奉還す
されど大神の御神徳は海内に通じ、山上の元の御座所に遷御し奉り、愈々御神威の発揚を仰ぐべしと常に絶へず模索す
然る所山麓の市町村の協力を得て秋葉山頂に達する林道が開通し、建築資材の運搬の便開け、昭和五十五年五月二十七日山上の拠点となるべき斎館の新築を見るに至る
これより復興の機運高まり、財界の有志に依り奉賛会が結成され、之に応へて全國津々浦々より協賛の誠が捧げらる。
昭和六十一年十月二十五日御本殿及附属舎の竣工を始め、御末社十一棟、神楽殿及手水舎の新築又参道並鳥居、狛犬、燈籠等が逐次奉納建築され、秋葉山本宮としての威容整ふるに至りぬ
ここに大神の御神威の発揚を冀ひ、以って宝柞長久、天下泰平、国運隆昌、火災鎮護、家内安全を記念して萬代不朽の石碑を策定す


平成九年十月十日
神社本庁長老
秋葉山本宮秋葉神社宮司 川村豊

この碑文だけでも様々な事象がおわかりいただけるでしょう!

その2へ続く