ブログ「かわやん」

森羅万象気の向くままに。

「貧乏人ほど気を遣う」

2008年01月23日 13時44分45秒 | Weblog
「貧乏人ほど気を遣う」という「貧乏人」という言葉に染みついた卑下感(これはどちらの側にもあるー貧乏、富裕どちらもということ)があるから、なるべく使いたくないのだが、ここではどうしても実情をわかりやすく示すため使う。

 われわれ経済的にそれほど豊かでないものは、何か日々世話になると、あるいは何かしていただくと、「これは大変な世話になった。早くお返しをしないといけない」と懸命に思い、実行するものだ。

「こんなに目をかけていただいてすまないことだ」とする上下関係がそこにはいつの間にか忍び込んでいる。「すまないことだ」という感覚は、太陽があたらずしぼんでいた草花が陽が照ることで新芽がでるように、「あー申し訳ない」となる。倍ほどお返しをしてしまわないと気がすまない。

 ところが「申し訳ない」としてお返しを受けた側は、とりたてて何とも思っていない。当然のことだ。「申し訳ない」など思わないし、いつもそうしたお返しを受けているから、鈍感になっている。

 その結果、立場の弱い側は「申し訳ない」とお返しすることで満足し、もらう側はもらうことで一定満足するという実にいびつな関係が築かれる。

 生活保護の打ち切り餓死者がでたり悲惨なニュースを聞くが、立場の強い側=役人は、「そんなに困っているとは思わなかった」というコメントを必ずする。金持ちがもらうことに慣れているのと同じ原則なのだ。

「お返し」する意識は、その人間関係、社会関係を維持したいからするのであり、生保打ち切りを告げられる人は、「それでは何とか仕事を探してみます」と打ち切りに同意する。役所との関係をそのまま継続したいから打ち切りに同意するのだ。その心情がわからないのが役人であり、事件がおこり例の言葉を出す。「そんなに困っているなとは思わなかった」。

 金持ちはどんどん金をため、貧しい側は「すまない」と思い、つまり「すまない」と思うから現行の関係を懸命に維持しようとするのだ。これではいけない。声をあげないと。ところがその声の上げ方に熟知していない。なんだか自分のことを思い描いて書いているようだ。


しかし、問題はこれからなのだ。貧しいながらもお返しする意識(これは賛意を送っているのではない)どころではなくなると、富裕層の側は「何だ! 恩義もへたくれもないのか」となり、不平等な関係が露骨にあらわれる。

 演繹すると、立場の強い側に異議申し立てをすると、「何ということか」といっそう敵意をあらわにする。なぜなら、最初から対等な関係ではないからだ。つまり「申し訳ない」と思い、必要以上にお返しをする、気を遣うのは、不平等、不自由の関係の堅持と思うことから始めよう。そうすると、帰結するのだ。「礼儀もわきまえない」という批判が。その発言は社会的正当性をもっているから、投げかけられた側は負のレッテルを貼られる。

 野宿者に対する住民登録を抹消しようとすることに「もっともだ」とエールを送るテレビのコメンテーターなどこうした根本的な構造を知らない。なさけない。役人も、役人。なさけない。最低の生存権がわからないのか。

 それにしても儒教倫理がわたしに染みついているようだ。
コメント
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