ブログ「かわやん」

森羅万象気の向くままに。

ネット新聞を始めて直面する精神的危機

2008年01月20日 01時11分29秒 | Weblog
 それまでは書くことへのフラストレーションがたまり、新聞社に記事を売り込み、毎年、文化面で記事を書いていた。2004年12月に毎日新聞文化面で韓国の識字運動について書いてから、2005年にネット新聞を出し始め、「どうしても書きたい」とのフラストレーションから解放された。そのことが新聞社に持ち込みまでして原稿を書こうとは思わなくなった。

 私の新聞社の友人はこれまで「また持ち込みできよった」と、はた迷惑な感じをもっただろうが、彼らはそれらから解放されたことになる。しかし、この状況をどう考えればいいのか。

 日々フラストレーションを解放さすことはどういう事態を生んだのか。凝縮したものを生み出す精神的馬力をそいでしまうのかもしれない。ネットでの発表が日々あり、日々精神的馬力を拡散しているということなのか。

 ここらでテーマを限定して集中する状況がきたのかもしれない。日々発散の反発が自分の中に起きてきているからだ。日々発散するものと、精神的馬力でもって臨まねばならないものを分ける必要があるようだ。

 政治的不満もそうだ。これはたしか。日々解消さすことが政権運営では重要。日本人が様々な権利侵害の事態になっても、怒ることをしないのは、日々の発散機能が働いているためか。

日々の発散は生活がベースにある。その生活がこんなに困窮してきてもおとなしい。なぜなのか。日々の不満を吸収する対抗勢力が不在だからか。

 多分、現代人は個々バラバラになってしまい、集団的行為の必要性を感じなくなってしまったことにある。「分衆」ということば生れて久しい。ネットの隆盛はその象徴だ。バラバラの個人はバラバラの考えで一本化されることはない。それはそれでいいのではないか。それでなおかつラディカルであるにはどういうことなのか。アナクロニズムにならず考えたい。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« スケスケ、ギスギスでは | トップ | ヤン・パトチカ『歴史哲学に... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事