あまでうす日記

あなたのために毎日お届けする映画、本、音楽、短歌、俳句、狂歌、美術、ふぁっちょん、詩とエッセイの花束です。

前田和男著「続昭和街場のはやり歌」を読んで

2024-07-06 09:23:01 | Weblog

 

照る日曇る日 第2070回

 

本巻では、「軍艦マーチ」、「第9」、「別れのブルース」から始まって、「銀座カンカン娘」、「原爆を許すまじ」「上を向いて歩こう」など全部で17のはやり歌をスクープしている。

 

「歌は世につれ、世は歌につれ、時代と共に生き抜いた団塊世代の哀歓を鮮やかに切り出した正編に続くその基本的な骨格は変わらないが、全体をつうじて作者の個人史とその屈折に満ちた思想や感慨がほぼ同時代を生きてきた私などには、いささか胸に迫る記述があって、深く心に刻まれる。

 

当時の心ある若者すべてが体験する全共闘運動を経てVANヂャケットの宣伝の請負仕事をする原宿の広告代理店に勤めていた著者は、(やはり学園闘争を「終了」した私が、そのすぐ近くの会社でリーマン稼業を続けていたとは露知らず)、日夜虚業に挺身していたが、3年後のある日、つかこうへいの「初級革命講座飛竜伝」を他ならぬVANの99ホールで見て、「せっかく手にした心地よく安定した職場」を去って、物書き、翻訳などの無職無頼の渡世に戻ったのである。

 

この点が30年間もリーマン生活をつづけた挙句リストラされて仰天し、初めてパンツをはいた猿のような俄かフリーランスになり、他ならぬ作者の斡旋で多くの仕事まで頂戴し、辛うじて生き延びることができた私などとは、まるで人世を生きる作法が違っていたなあ、と今にして感謝しつつも臍を噛むのである。

 

それはさておき、第8話の「飛んでイスタンブール」ではいま国際ボランテイア活動に従事している庄野真代さんが飛び込んできたのには驚いた。

 

デビューしたての彼女は、事務所に3ケ月の休業と断って結局足掛け2年28か国132都市を巡る大旅行をしたそうだが、当時の夫と3人で、売れっ子歌手とも思えぬ1日1ドルの貧乏旅行を続けている彼女と、私はバハマの撮影現場で遭遇したことがあったのである。

 

本書によれば、彼女はその後事故と病気で立て続けに手術を受けたそうだが、そのリハビリ期間に人生を見つめ直し、45歳にして法政大の環境人間学部に入学、1年間のロンドン留学時には念願のボランテイア活動にも従事、帰国後は早稲田大学大学院アジア太平洋研究所へ進み、開発問題をテーマにした修士論文は「フィリピンのストリートチルドレンの音楽を通したエンパワメント―マニラの路上の天使たちのララバイ」。

 

さらにNPO法人「国境なき音楽団」を設立し、不要になった楽器を8千個以上を第3世界に送ったり、東日本大震災ではトラックで30カ所以上で出前コンサートを開催、現在も「子ども食堂しもしたキッチン」の運営に当たっているそうだ。

 

「どうやら日本は飛ぶ方向を間違えたようだ。庄野真代と同じ方向へ飛んでいたら、失われた30年もなく、今の日本はもっと居心地と風通しの良い国になっていたのではないだろうか」という第8話の結びに共感する読者も多いに違いない。

 

 大便の途中で誰かが叩いたら慌てて飛び出す息子よ哀れ 蝶人

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