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【検証9】奴国時代の話(その1)

2023-11-12 08:47:20 | 古代史
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2020-07-03 17:35:47に記事にしましたが、図のリンクが切れていたので修理し、関連記事のリストも付けました。よろしければお付き合いください(#^.^#)

今回は2019-09-25 08:09:59 にタイトル「奴国の時代は凄かった」として掲載した記事に対して、内容を増やしたので改めて2回に分けて掲載します。金印の奴国に対する従来の見方とは異なるこの認識は、その後の歴史を解明する上でとても重要です。物事の最初を見誤ると後々まで間違いを引きずり、謎が解けないということになります。通説と異なるので、疑問点などがありましたら遠慮なくお寄せ下さい。

西暦57年に後漢に朝貢し光武帝より「漢委奴国王」の金印を賜ったが、江戸時代に志賀島の石の下から偶然金印が発見されたことより、范曄(はんよう、398年 - 445年)の「後漢書」に書かれたこの内容が史実だったと認められた。刮目天は「新唐書」「宋史」の「日本は古(いにしえ)の倭の奴国(なこく)」という記述を最初の仮説としたが、今回はその奴国の時代にスポット・ライトを当てて検証したい。

漢王朝などが周辺諸国に与えた金印などの紐(つまみ)のデザインはそれぞれの民族の特徴を表すもので、ラクダや羊など色々とあることが知られている。倭人の奴国王に与えた金印は蛇紐だった。当時の奴国の人々は蛇をナーガ(nag)と呼び、神として祀っていたことから、倭の奴(ナ)国と書かれた(本当は那国と書いてくれたら問題なかったのだが、卑字をあてられたのは面白くないので、誰も日本は奴国だったとは考えにくかったのだろう。印面の委奴国を「いとこく」と間違って読む説まで登場し、いまだに混乱しているようだ)。蛇を神とするのは長江下流域で水田稲作・漁労を行っていた呉や越の人々なのだが、越人は「大国主はトビヘビだった(^◇^)」で述べたように蛇を「トビ・トベ」と呼んでいた模様だから、奴国の人々は江南の呉に由来する倭人と呼ばれる海人アズミ族と考えられる(古代日本は海人国家だった(^_-)-☆)

倭人について最初に書かれた中国文献『論衡』によれば、周の成王(紀元前1042~前1021年)の時代に「越裳(えつしょう)は雉を献じ、倭人は暢草を貢ず」とあり、呉人のことだと思われる(越裳は越人のこと)。

倭人は当初は江南を根拠地として半島南部や列島だけでなく、遠く西の方ではマダガスカル島あたりまで活動していた痕跡が見つかっている(「東鯷人(とうていじん)って?(^^)/ (注)」参照)。半島南半分から九州玄界灘沿岸地域では倭人語が話されていたので、この時代は半島南部は倭人と越人と列島の縄文海人が住む領域だったようだ(後に、半島や列島の縄文人と混血して、縄文系も含めて江南系と同様に倭人と呼ばれた模様だ)。

この江南出身の呉の人々である倭人によって韓半島南部で水田稲作が行われたようだ。紀元前10世紀には九州の玄界灘沿岸へも入植し、唐津や板付で水田跡が見つかっている。縄文人もそれ以前から稲作は行っていたが、主として陸稲(熱帯ジャポニカ種)を畑で栽培していた(注1)。半島の縄文人に江南出身の倭人が水田稲作技術を教えたと考えられる。倭人や半島の縄文人が温帯ジャポニカ種を北部九州に持ち込んで水田で栽培したのが弥生時代のはじまりだと考えられる。

よく韓半島の人々が半島経由で日本に数多くの文化をもたらしたように言われるが、この時代の半島人が韓人だというのは全く誤りだ。主として倭人や半島に進出していた縄文海人が列島に文化を持ち込んだのが本当だ。前4世紀から後2世紀には北は京畿道から南は慶南・全羅道までの30カ所以上の遺跡で九州北部の弥生土器が見つかっている(藤尾慎一郎「弥生時代の歴史」講談社現代新書、2015、p.121)。韓半島へは、以下で述べるとおり戦国時代に大陸からの戦争難民が後から居住するようになった。



戦国七雄のひとつである(紀元前403 - 前230年)が最初に秦によって滅ぼされ、難民が馬韓の地(現在のソウル付近)に居住したことから韓人と呼ばれるようになったと考えられる。秦が紀元前221年に史上初めて全土を統一するも、秦人らは始皇帝の圧政から逃れるために韓半島南東部への入植が続いた模様だ。その地を辰(秦)韓と呼んだが、秦人は辰韓の王にはならず、常に馬韓から王を迎えたと「晋書」にある。

すでに半島北部(平壌付近)に殷(商)から分かれた箕子朝鮮(紀元前12世紀? - 前194年)があったが、現在の北京付近を都にしていた燕(紀元前11世紀 ー 前222年)が秦に滅ぼされたので、燕から亡命した衛満が燕・斉・趙からの亡命者を誘いいれ、亡命者コロニーの指導者となり、箕子朝鮮を滅ぼし、衛氏朝鮮(紀元前194 - 前108年)を建てた。そのため箕子朝鮮の準王が南へ逃げて馬韓の地を占領し、韓王と名乗ったと「後漢書」にある。(2020.7.9 追加・訂正)

朝鮮民族の男系のルーツをY染色体DNAで調べると、主として紀元前三世紀から前二世紀に大陸から来たと考えられるシナ人が全体の4割になっている。上で述べた箕子朝鮮の殷(商)人が約1/3で、その他越人などを入れると8割以上がシナ大陸出身で、満州などツングース系の北方民族は1割以下となっていることからも確かのようだ。

従ってそれ以前の半島南部は江南系と縄文系の倭人の世界だった。

だから、繰り返すがそこで話された言語も日本語祖語の倭人語だった。六世紀初頭に辰韓の地に建国された新羅によって(注2)、七世紀中頃までに倭人は半島からほとんど追い出されたが、現代コリアンは、当時の倭人文化の影響をかなり受けているのだ。

また、念のため言っておくと、日本に帰化した百済人のほとんどは倭人だろう。新羅からの帰化人というのも、ほとんど新羅・伽耶付近に住んでいた倭人だと考えている。彼らは新羅(辰韓)人に混ざって生活していたので秦人が話していた陝西地方の方言を話すことができたようだ。七世紀初頭に九州東部や中国西部に移住したこれらの人々(帰化人)を隋使が見て秦王国と呼んだようだ。渡来人は異民族とは限らない?( ^)o(^ ))。



【関連記事】日本民族とその周辺民族の父系のルーツ!
Wiki「日本人」の「日本人および周辺(日本からおよそ5000km以内)の諸民族のY染色体ハプログループの割合」より作成。ゲノム・ワイドな分析は遺伝子の混合を分析するものだが、民族のルーツを調べる上では、古代文献との関係が理解しやすいこのY染色体DNA分析が非常に有用。上の記事で下図の各ハプログループの解説をしていますので参照ください。


(左クリックで拡大します!)

(注1)Wiki「稲作」によると、日本では陸稲栽培の可能性を示すものとして岡山の朝寝鼻貝塚から約6000年前のプラント・オパールが見つかっており、また南溝手遺跡からは約3500年前の籾の痕がついた土器がみつかっている。半島でのイネは他の穀類と同様に列島から来た縄文人が畑で耕作していたのだろう。
遼東半島で約3000年前の炭化米が見つかっているが、朝鮮半島では稲作の痕跡は見つかっていない。水田稲作に関しては約2500年前の水田跡が松菊里遺跡などで見つかっている。研究者の甲元は、最古の稲作の痕跡とされる前七世紀の欣岩里遺跡のイネは陸稲の可能性が高いと指摘している。
( 甲元眞之、「東アジアの先史農耕」『青驪』 No.5 2008-2-29 p.30-33, hdl:2298/22921)
箕子朝鮮の殷(商)人系の人々は農耕・牧畜を行う民族だったから、韓半島南部に水田稲作技術を持ち込んだのは江南系の倭人(呉人)だ。

(注2)Wiki「新羅」によれば、『三国史記』の新羅本紀は「辰韓の斯蘆国」の時代から含めて一貫した新羅の歴史としているが、史実性があるのは4世紀の第17代奈勿王以後であり、それ以前の個々の記事は伝説的なものであって史実性は低いとされる。
また、「当初は「斯蘆」(しろ、サロ)と称していたが、503年に「新羅」を正式な国号とした[1]」とある。

ここまでお付き合い、ありがとうございます。
次回(その2)に続きますので、よろしくお願いします。

【関連記事】
半島の古代史だ!(漢四郡まで)
日本列島に集まった人々とは?(^_-)-☆


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