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【検証14】奴国~邪馬台国時代のつづきだよ(*^^)v

2020-04-16 09:32:04 | 古代史
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弥生後期から古墳初頭にかけてのヤマト王権成立過程における北部九州の変化の模様を詳細に調査された福岡の考古学者 久住猛雄さんの論文「3世紀のチクシと三韓と倭国」に基づき、刮目天の仮説を検証している。今回は3世紀後半に入るはずだったが、その前に前回の【検証13】奴国~邪馬台国時代の北部九州は?でスキップしてしまった3世紀前半までの大事な部分について補足しておきたい。

この時代に平原 1 号墓が造営された。しかし不思議なのは、平原王墓(ⅠA期)以降、ⅡB期の泊地区(糸島陸橋のある地区)の御道具山古墳まで最有力墳墓が一時断絶する点である。一方で三雲・井原の大集落は衰退せずに継続している。

前回述べたとおり、平原王墓は女王台与のものだと考えているからⅡA期(270年頃)だ。だからその後ⅡB期(280年頃)の御道具山古墳が箸墓古墳と相似形の前方後円墳なので、恐らく台与を殺したヤマト勢の将軍のものだろう。台与を平原1号墳に埋葬して、そのまま伊都国に進駐していたということではないだろうか。

 伊都国では、元岡遺跡群で「超精製」木製品群(図 20)が製作された可能性がある(樋上昇2016、常松幹雄 2012)。伊都国西側の古深江湾沿いの深江井牟田遺跡や御床松原遺跡に楽浪土器の多器種が出土し、こちらが楽浪郡や漢王朝との正式外交・公的交易ルートであった(岡部裕俊1998)。ただし三韓土器は少ない。

これも前回述べた通りで、深江井牟田遺跡や御床松原遺跡が華僑を住まわせたチャイナタウンということだろう。なお、前回図20を他の図と一緒に示してあるが不鮮明なので、福岡市埋蔵文化財センターにいくつかあるので参照されたい。【わかった!】室見川銘板のなぞ(^_-)-☆で見たとおり、弥生後期ですでに漢字が使われていた証拠があった。

一方、東側の今宿五郎江には後期以来列島各地の土器と終末期に三韓土器、また楽浪土器は椀坏類が集中して出土する(森本幹彦2010・2015)。

これもすでに指摘したとおり今宿五郎江がこの時代の対外交易センターということなのだ。久住さんらは、以下のような交易ルートの存在を主として出土した遺物などから考えておられる。なお図の「前期博多湾貿易」は3世紀末の話だから次回以降の話題だ(【検証10】ヤマトはなぜ伊都国を捨てた?|д゚))。



いずれも「海村ネットワーク」論(武末純一 2009・2016)だと、対外交流を行う「海村」の一言で済まされてしまうが、「伊都国」が東西に機能分担して配置した外港という観点が必要である(岡部裕俊 1998・2012、久住2004・2016b)。

また「海村」とは言い難い比恵・那珂が西日本の列島内と対外交流・交易の一大結節点(久住 2009・2012b・2016b c)であることも重要で、筆者がかって想定した「交易機構」としての「原の辻=三雲貿易」といった交易体制の存在を認めるべきだろう(図 22)。なお、対外交易が原の辻(壱岐)と三雲で「全て」行われたとしているとして、拙論に対して批判する一部論者があるが、勝手な誤解であり、様々な交易拠点や交易ルートを認めていないわけではない。


実際、三韓土器は福岡平野でも若干の出土があり、鉄素材交易が背景にあろう。筆者の論はあくまで「主要な」交易ルートの二大拠点の重視であり(壱岐=三韓との交易/三雲=漢王朝との交渉)、その「交易機」を諸国が ‘ 株主 ’ として支えたという趣旨である(白井克也 2001、久住 2007・2012・2016b)。弥生後期から終末期において、楽浪土器と三韓土器双方は壱岐(原の辻・カラカミ)に集中するが(古澤義久 2016)、一方で伊都国の沿岸部と中枢では楽浪土器は多いが相対的に三韓土器は少ないという傾向が厳然とある。この事実を無視して、「海村ネットワーク」間の半ば自由な交易を想定(武末純一 2009・2016)するのは難しい。また三韓土器が壱岐を越えて列島本土に<多量に>搬入されるのはⅡA期以降であり、その場合でも博多湾岸に集中するのが実態である(久住 2007)。

伊都国の時代の前の奴国の時代から、特定の中心地や勢力によらない「海村のネットワーク」があったという説に対して久住さんの主張する「原の辻=三雲貿易」がメインだったというのが事実であり、楽浪郡との交易が伊都国によって管理されていたのだ。何故そうなっているかは刮目天の仮説が解明している。卑弥呼が女王に共立される前の第一次倭国大乱期は以下の図のような状況だったと推理している。



伊都国に王都を遷した師升一族の倭国の時代の楽浪郡や半島南部との対外交易ルートは、「魏志倭人伝」で述べられた帯方郡と倭国の経路なので倭人伝ルートと呼ばれる。ただし、卑弥呼が女王になる前の伊都国時代は壱岐から対馬を経由せず、直接楽浪郡に行くのがメインだったのかも知れない。対馬を経由したとしてもその後は狗邪韓国に立ち寄らず半島の南岸から西岸を経て楽浪郡に向かったと考えている。別に、対馬経由で半島に渡り、洛東江を北上して楽浪郡に向かうコースとその逆コースが奴国時代からあった交易ルートだと岡田英弘さんが指摘していた。しかし、伊都国の時代は半島南部が旧奴国勢力に抑えられていたということなのだ。(2020.4.20 赤字修正)

その旧奴国勢は倭人伝ルートを使えないので不弥国(うみこく、宗像)から約60㎞も離れた沖ノ島経由で半島南部に渡り、鉄素材を入手していたと推理した。半島からは海流に乗って日本海沿岸部に漂着もできるようだが、列島側から半島へは6・7月の比較的波の穏やかな季節だけだ。それでも玄界灘を海流に逆らって丸木舟で半島南部まで漕ぐのは、それに慣れていた海人族しか無理だろう。

縄文時代から海峡を渡って活動していたムナカタ海人族が旧奴国勢に協力してくれたということだ(【検証8】青谷大量殺人事件の真相は?(;´Д`))。出雲や丹後に半島南部の鉄が流入していたので勢力を蓄え、倭国への復讐のために抗争が発生するようになったのが第一次倭国大乱だ。日本海沿岸部の首長の権力は高まり、首長墓として大型の四隅突出型墳丘墓が盛んに作られた。同時に、旧奴国勢力にも鉄製品が伝わり、スサノヲの弟ニギハヤヒは吉備を平定して旧奴国の正統な後継者として天照大神尊となり、後のヤマト政権の基礎を築いたと推理した。

奴国のイザナギ大王の時代に結婚したイザナミが縄文系のムナカタ海人族の姫だったことから旧奴国勢力に協力したのだ。関祐二さんによれば宗像大社には「ムナカタの子はスミヨシ、その子はウサ」という「日本書紀」と矛盾する伝承があった。スミヨシは住吉大神で海を支配するようにイザナギに命じられたスサノヲのことだ。女王台与をモデルとする神功皇后を傍らに居て助ける神だから三百歳の武内宿禰のことでもあるのだ。そして、その正体は「魏志倭人伝」に登場する十三歳の台与を女王に立てた大国主狗古智卑狗だということは以前述べた(狗古智卑狗という人物?(^_-)-☆)。またウサは宇佐神宮の八幡大神応神天皇のことだが、実は、真の八幡大神が大国主のことだということも突き止めている(本当は怖い七福神の謎(;一_一))。つまり、台与をモデルとする神功皇后の子ホムダワケ応神天皇の本当の父親が、仲哀天皇ではなくスサノヲ大王直系の大国主狗古智卑狗だという「記紀」に反する真実を暴露した伝承だったのだ。

だから、奴国が滅んだ後の半島南部も倭人が支配し、山陰・丹波王の狗古智卑狗(大国主の先代から)がスサノヲ大王時代からコネがあったので鉄素材を入手できたということだろう。「三国史記」の新羅第四代脱解王はスサノヲ大王がモデルだったのかも知れない。新羅脱解王から五代の王は倭人系の昔(ソク)氏なのだ。

一方、伊都国の倭国王は上述のとおり半島西部沿岸に沿った倭人伝ルートで楽浪郡と交易しており、その一区間が「原の辻=三雲貿易」ということだったが、二世紀末に相当半島が乱れたので、倭国は楽浪郡との交易ができなくなって衰退気味になった。だが、遼東太守公孫氏が半島を支配下に入れ帯方郡を作ったので、倭国は楽浪郡との交易が復活して勢力を取り戻した。沖ノ島ルートを担うムナカタ族を懐柔して、卑弥呼を女王に共立し邪馬台国時代が訪れたということだということは、何度も述べているので耳にタコができているかもしれないね。ゴメンナサイ(;´Д`)。

「弥生後期から終末期において、壱岐の拠点集落である原の辻・カラカミ遺跡に楽浪郡や三韓土器が集中しているが、伊都国の沿岸部と中枢では楽浪土器は多いが相対的に三韓土器は少ない」ということは、半島南部の人々は上述のとおり旧奴国勢力なので、壱岐までは来ているが、伊都国にはほとんど来ていないということなのだ。

結構誤解があるのだが、当時の半島南部は韓人の世界ではなく、旧奴国勢力の倭人が支配する領域だったのだ。勿論、秦(辰)韓人も倭人が支配する弁辰に入り込んで倭人と一緒に鉄を取っていたのだから居たのだが、列島に鉄素材を運ぶのはムナカタ海人族、つまり大国主の先代狗古智卑狗に従う人たちだったということなのだ(悲劇の女王台与のはなし(その2))。



壱岐は伊都国から海を隔てているので倭国王の支配が少し緩かったようで、旧奴国勢力が楽浪郡の物品を入手するために秦(辰)韓人を使って半島に持ち帰って旧奴国勢力に供給していたということも考えられる。でも弥生終末期の邪馬台国時代になると日本海沿岸部から直接半島南部に渡れなくなったので、困った列島の旧奴国勢が纏向に集合して対策を練り、祈祷を行い、倭国追討軍を送ったということなのだ。これが「記紀」の仲哀天皇の熊襲征伐の話に対応する史実なのだ。



ということで、補足が長くなりすぎたので次の時代に入るのは次回にしよう。

ここまで読んでいただき感謝!かなり細かい専門的な話が多くて難解で疲れるかも知れませんが、刮目天の仮説の重要なポイントなので我慢してお付き合いくださいね。疑問や分かり難いところがあればコメントちょうだい!次回もどうぞよろしくお願いします。

【参考記事】
古代史の謎を推理する(^_-)-☆
王年代紀は記紀神話を正した!(^_-)-☆
10世紀に東大寺の僧が入宋して、日本神話を正す日本の王年代紀を献上したので、「日本は古(いにしえ)の倭の奴国」として日本の国号が正式に認知されました。藤原不比等が作った高天原は北部九州の倭国のことだったとシナ人が認めたからなのですよ(#^.^#)





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