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古代史を科学的に解明するアブダクションとは?(その2)

2020-08-17 19:33:16 | 古代史
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高柴昭様の三つの疑問の一点目への回答です。

1)倭人伝の「卑弥呼以死」を、殺害されたとしておられますが、「三国史記」などの記述も併せ考えれば、当時卑弥呼はかなり高齢であったと考えられ、その死は老衰による自然死と考えるのが妥当と見ています。
「卑弥呼以死」については殺害説の場合、不吉だからとして殺しておいて、なぜ大きな冢を作るのか合理的な説明ができないのではないでしょうか。
殺された遺族などが密かに葬るのならば理解できますが、倭人伝には「大作冢」とあり、大々的に冢を作ったと読むことができます。


「三国史記」新羅本紀では卑弥呼の遣使が173年ですから、卑弥呼は247年ころ、つまり74年後ころに死亡したことになります。おっしゃるとおり、もしも二十歳代後半か三十歳代前半で女王になったとしたら百歳を超えていることになります。そうであれば老衰による自然死説も成り立ちそうですが、医療などのない時代にそこまで生きたのか、疑いも生じます。

「三国史記」は高麗17代仁宗の命を受けて金富軾が撰し、1145年に完成した正史で、新羅成立を紀元前57年としています。半島の古代史だ!(漢四郡まで)で述べていますが、その時代は原三国時代(馬韓・辰韓・弁韓)に当たりますので、通説では新羅成立を古く見せるために時間軸を古い方に引き伸ばしたものとみられています。「三国史記」の卑弥呼遣使の記述の173年の時期は「三国志 韓伝」や「後漢書」などから後漢の半島支配が緩み、相当混乱した時期にあたりますので、通説では「三国史記」のその記事も信用されていません。

「後漢書」によると倭国が乱れた時期が桓帝・霊帝の治世の間(146年 - 189年)とあるので、通説では女王になるのが二世紀末と考えられているようです。しかし、公孫氏が半島を平定し、帯方郡を成立させたのが204年ですので、卑弥呼はその直後に三十歳前後で女王に共立されたと推理しました。ですから、そこから43年後ころの卑弥呼の死亡推定年齢は73歳前後となります。

誤解と幻想の卑弥呼(*^▽^*)にも述べましたが、卑弥呼は当時の一般人と比べるとぜいたくな食事をしていたと思われますが、毎晩温泉にも浸かり、かなり健康な生活をしていたと思います。当時は現代のような健康を害するような食品はほとんどない自然食品ですので、まだ老衰で死亡する年齢だとは考えにくいでしょう。何らかの病気で死ぬ可能性はありますが、余り人前には現れないので、感染症はかかりにくいとは思います。滋養強壮に効くスッポン料理も食べていたようですし、濁り酒も飲んでいたようです(#^.^#)



しかしながら、以前にも述べましたが、当時の状況は、敵の狗奴国が倭国討伐軍を出す時期ですので緊迫した状況です。そこに不吉な予兆とみられる日食を伊都国男王(倭国王難升米)が見たことにより殺されたという推論の方がその後の出来事を考えると死因を病死などと考えるよりも可能性は高いと考えられます。

卑弥呼の死後に男王が立ち、それに皆服さず内戦になって、その後卑弥呼の一族の13歳の台与が女王を継承する魏志倭人伝の記事とも整合性が取れます。つまり、女王が老衰で死亡したからいきなり男王が立って内戦になるのは不自然です。それならば先に台与が女王を継ぐ方が自然かも知れません。すでに卑弥呼の男弟(伊都国男王)がいるわけですから内戦には直結しませんから内戦になるシナリオを別に考えなければなりません。

卑弥呼が伊都国男王に殺されたと考えると、卑弥呼を元々支えていたムナカタ族は相当落胆したと想像できますので、倭国の結束が乱れ、狗奴国軍が侵攻して、倭国が瓦解したと考える推論が容易にできます。それ故、倭国を占領した狗奴国軍の内部で内戦が起きたと推理できます。

ですから、新たに別のシナリオを作るよりも、すでに分かっていることから自然に推理できるものの方が、より確からしいシナリオだと考えられます。


次に、卑弥呼の墓ですが、径百余歩(約150m)の円墳と言うかなり大きなものだと思います。同じ時期の纏向箸墓古墳は前方後円墳ですが、後円墳部分と同じ大きさですから、纏向狗奴国の大王に匹敵する大きさの墓です。

殺害した伊都国男王としても、すでに述べた理由があって生贄として卑弥呼を殺したのですが、卑弥呼が恨んで祟られることも恐れたと思いますので、卑弥呼の魂を慰めるために大きな墓を築き、奴婢百余人を殺して一緒に周囲に埋葬したのだと思います。殉葬は口封じの意味もあったかもしれませんが、大掛かりなことをしましたのでその情報はすぐに卑弥呼の一族に漏れたのでしょう。

「殺された遺族などが密かに葬るのならば理解できますが」とありますが、ひそかに葬るならばそのような人手と手間のかかるこのような大きな墓を造るはずありません。卑弥呼の墓を造らせたのは権力者としか考えられません。したがって暗殺を命じた伊都国男王難升米としか考えられません。

当時の人々は、持衰(じさい)と同じ理由で殺しておきながら、殺された人の崇りも恐れるからと考えられます。特に、王などの位の高い貴人が不慮の死で亡くなった時には祟ると考えていたようです。

平安時代には天変地異が起こるとそういう貴人が鬼となって祟ったために起こったと人々は考えていたようです。朝廷はゆかりの神社に対して、神階を上げて、田や民を贈り、丁重に鎮魂の祈祷を行っていますから分かります。科学が発達した現代人は迷信と笑うかもしれませんが、それが古代から受け継がれた日本人の心なのです。現代の日本人でも、神社で手を合わせ、無病息災や日本の安泰を、皇祖神などが祀られている神社でお祈りするのはその名残りでしょう。

以上見たように、卑弥呼の死因が老衰か病死か殺害されたか、誰によって殺害されたかの推理は前後の状況に依ります。卑弥呼が病死や老衰などで死んだのならば、次に起こったことを、より複雑な話を作らないと説明することはできませんから、そのような理屈はアドホックな屁理屈とみられ、推論の妥当性や信頼性を欠きます。

起こった結果から原因を推理するアブダクションの手法は、ひらめきや思い付きであっても説得力を持つものです。

そしてその推論が正しいか、単なるこじつけなのかどうかは、

その推論によって、それまで謎であったことが解明される事実によって判断されます。

より妥当な推論により、より多くの謎が解明できます。

【関連記事】

卑弥呼の墓は見つかってるよ(^◇^)

古代史の謎を推理する(^_-)-☆




次回に続きます。どうぞよろしくお願い致します(*^▽^*)
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