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【検証13】奴国~邪馬台国時代の北部九州は?

2020-04-11 11:27:36 | 古代史
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今回は弥生後期から古墳初頭にかけてのヤマト王権成立過程における北部九州の変化の模様を詳細に調査された福岡の考古学者 久住猛雄さんの論文「3世紀のチクシと三韓と倭国」に基づき、刮目天の仮説を検証しよう。少し長いので数回に分けて掲載する予定だ。ご参考までに今回の記事に関連する弥生前期後葉から古墳前期までの年表を以下に示す。



2.2世紀〜3世紀初頭(弥生時代後期後半〜終末期古相)の北部九州
(1)平原「王墓」の時期とその意義〜「倭の女王」墓説〜

最初の話題は糸島市の平原王墓の築造期だが、ここでは副葬品の鏡や周溝の遺物などから久住さんは3世紀初頭であろうとしている。だが、副葬された漢鏡は伝世する場合があるので鏡の編年で議論すると間違える可能性があるし、溝などから出土する土器や鉄鏃などの年代も確実な証拠とは言えない。すでに刮目天は古墳時代初頭から盛行する竹割形木棺が決め手ではないかということで、平原王墓は270年頃伊都国で戦死した女王台与の墓だと推理した(【検証4】平原王墓の被葬者は誰だ?(^_-)-☆)。

(2)「都市」的拠点集落の展開と「伊都国」・「奴国」の対外交易
墳墓の様相からは一見「衰退」したかのように言われてきた弥生時代後期の北部九州だが、集落の様相は全く異なる。福岡市博多区比恵・那珂遺跡群(久住 2008・2009、図 17)や春日市須玖岡本遺跡群(井上義也 2009)は、いずれも 100ha におよぶ「都市」である。

比恵・那珂は弥生後期には方形区画環溝を中心に据え、広い倉庫群エリアがあり、運河(船溜)が想定され、直線的な条溝が段丘を縦横に区画し、集落外縁の一部には道路遺構があり、「都市」的な景観が成立している。終末期造営の長大な道路は、先行する道路群を再整備して繋げたものであることが判明しつつある(森本幹彦ほか 2015)。



すでに【検証9】奴国の大王は凄かった(*^^)vで見たとおり、福岡市の比恵・那珂遺跡は弥生前期から人は住み始めているが、中期初頭に半島南部から早良平野吉武高木遺跡に移住した旧呉王族天御中主の一族が、中期中葉に王宮を須玖岡本遺跡に遷した。その頃から比恵・那珂遺跡は急速に人が集まり、その後列島内の産品を集める交易センターとして整備された大都市となった。最盛期は吉野ヶ里遺跡の広さの4倍はあったと言われている。(2022.6.14 赤字訂正)

さらに段丘北部を東西に裁ち切った幅 30 mもの大型水路(運河)の屈曲部に、長大で堅牢な井堰(図 18)を造営していたことが判明した。この大型井堰(後期前葉〜中葉)には、九州に自生しないスギ材の長大な横木を多く使用しており、建築材だけでなく井堰材にまで遠隔地から大木を運搬させる強大な権力と交易力が「奴国」にあったことが分かる(久住 2016c)。重大な発見だが、比恵・那珂を中心に奴国中枢で発見された長距離交易に関する中国系(水銀朱原料の辰砂もある)、韓半島系、列島各地の様々な遺物(図 19)から考えると驚くには値しない。


後期前葉は奴国が最盛期を迎えた時期だろう。西暦57年に後漢光武帝から蛇(ナーガ)紐(つまみ)の「漢委奴国王」の金印を賜った。初代王天御中主(あめのみなかぬし)の「中」は「那珂」などと同じで龍蛇神ナーガの意味だ。金印はこれを信奉する民族を表し、御中主はその王という意味なのだ。金印は多分、「宋史 王年代紀」の第16代王沫名杵尊(あわなぎのみこと)かその先代の天萬尊(あめのよろずのみこと)の時代のものだ。
福岡市博物館 金印

岡田英弘さんが指摘するように、光武帝は華僑の権益を護り、倭人たちとの交易が円滑に行くように奴国王に依頼したというのが実態のようだ。シナの皇帝は総合商社のオーナー社長なのだ(「日本史の誕生」(弓立舎)1994、pp.28-29)。シルクロード貿易の目的で日本列島の珍しい産品を得るためにわざわざやって来た華僑を伊都国に居住させて(ウイルスなどの疫病の水際対策かな?)、今宿五郎江遺跡に対外交易センターを置いていたことはすでに述べた(【検証10】ヤマトはなぜ伊都国を捨てた?|д゚))。

「国生み神話」の伊弉諾尊(イザナギ)は第17代倭国王だ。縄文海人ムナカタ族の姫伊弉冉尊(イザナミ)を娶り、列島各地の産品を入手できるようにするのが目的だったと思う。江南出身の倭人と日本列島固有の縄文人が王族レベルで婚姻を結んだ事件は、下で述べるが、その後の列島に住む人々に物凄いインパクトを与えたようだ。イザナギ大王は江南出身の海人アズミ族と一緒に丸木舟に乗って瀬戸内海を東に吉備・讃岐や淡路島まで渡ったのだろう。倭国の特産品のアワビなどの海産物を塩漬けにして保存するために大量の塩が欲しいので、主に塩田開発のためではなかったかな。伊弉諾神宮のある淡路の多賀の地に「幽宮(かくりのみや)」を構えてそこで亡くなったのだろう(^_-)-☆

イザナギ大王の次の世代以降に人種的な混血が進み、奴国の伝統的な祭祀に縄文の思想がミックスして日本(ヤマト)民族が形成される最初の段階だと考えている。イザナギ大王とイザナミ姫の間に生まれたスサノヲが王位を継ぐのだが、多分神話の挿絵でよく見るように縄文系の容貌をしていて、しかも奴国の伝統的な祭祀儀礼を山陰や近畿などの縄文系の祭祀(多分、大型の見る銅鐸や羽振りなど)に変えようとしたのが原因で宮廷司祭師升らがクーデターを起こしたのではないかと推理した(倭王帥升(すいしょう)は何者だ?(´・ω・`))。つまり、国生みは長江文明と縄文文明の衝突を引き起こし、列島を巻き込む戦争の原因を作った日本の最初の大事件だったのだと思う。
渋谷区立松涛美術館「スサノヲの到来―いのち、いかり、いのり」展(2015年08月30日)より

「漢書 地理誌」に「楽浪海中に倭人あり、 分ちて百余国と為し、 歳時をもつて来たりて献見すと云ふ」という有名なくだりがある。范曄「後漢書 東夷伝」では後漢に朝貢するのはそのうち三十国で、それぞれ王を名乗り世襲制で、大倭王が邪馬台国に居たと書かれているので、邪馬台国の前の時代から列島には王が割拠して勝手に朝貢していたと考えられがちだが、王というよりも地域を治める部族長という感じだろう。奴国に王宮を置いていた人物が列島の国々を束ねる大王で、上述のとおり那珂・比恵遺跡では各地の人々が交易のために集まって大都市を形成していたのだ。倭国大王の権威は、列島の産品を運ぶ倭人や縄文人の海人が丸木舟で立ち寄る潟港を持つ津々浦々に行き届き、地元の住人に水や食料などを補給させて、比恵・那珂の交易センターで円滑に交易させるのが奴国大王の役割だったのだろう。

弥生中期末の伊都国王は奴国の大王と肩を並べるような王墓に葬られているので、通説では奴国王と対等な倭国の盟主のように考えられているが、誤りだ。鏡よりも貴重な、奴国王族の印である周王朝の呉王族(子爵)を表す玉璧の破片が伊都国や朝倉の拠点集落で出土しているので、奴国大王が重要な拠点集落に親族を王と封じたと推理している。

比恵・那珂の「道路」は、ⅠA期に延長2km におよぶ直線的な道路として再整備され始め、新たな大型方形環溝(2号環溝)も造営され、両者が集落の軸線となり集落全体が「区画整理」された(図 17)。

ⅠB期にこの「都市計画」が進行し、その過程で「奴国」は須玖岡本から比恵・那珂に遷都したと推定できる(久住 2012b)。

比恵ではⅠA期に大型墳墓が造営されたが、北部九州の後期後葉からⅠA期の有力墳墓(唐津・中原遺跡、宮の前C地点墳丘墓、福岡市東区名子道墳丘墓、三雲寺口石棺墓群方形区画)と同様に、瀬戸内系高坏が後期中葉に「在地化」した高坏群を供献し、比恵に遷った「王」は外来者ではない。

三雲・井原遺跡群も 60ha 前後の集落域(図 21)を維持しながらこの時期に「環濠」の再掘削が認められ(角浩行 2006)、ⅠA期に楽浪土器の搬入がピークに達する(番上地区土器溜)。楽浪土器が多種多量出土した番上地区土器溜からは、楽浪系の「石硯」が2点出土した(武末純一2016)。楽浪土器が多く含まれる上層出土で、ⅠA期前後の可能性が高く、暦年代は「公孫氏の時代」(仁藤敦史 2009)の時期幅(190 年代〜 239 年)を含む。当時の「倭国」外交は、240 年代の「卑弥呼」外交まで、「邪馬台国」がどこにあろうと、伊都国王都である三雲を経由した。

上述のとおりクーデターにより第18代奴国王スサノヲを殺害した師升が倭王に立ち、107年後漢に朝貢した。その頃から7‣80年間は師升一族が倭国を統治していたと思われるが、後漢王朝の衰退で韓人や濊人が暴れて半島は混乱した。その頃から旧奴国王族が倭国王と抗争を繰り広げた。(2021.7.14 赤字訂正)

クーデターを逃れたスサノヲの子イタケルの子孫で、大国主の先代狗古智卑狗(久々遅彦、久々比神社(豊岡市)の祭神で木霊久々遅命ククノチ)が半島南部の鉄素材を入手して、鍛冶製鉄により武器や農工具などの鉄製品を作り、吉備大王ニギハヤヒ(スサノヲの弟・天照大神尊)や旧奴国王族にも供給し、旧奴国は勢力を取り戻しつつあった。阿蘇山西北部や菊池市に軍事基地として鍛冶製鉄の集落を造り、鉄鏃など鉄製武器を製造して筑紫平野をしばしば攻撃したと推理している。

しかし、後漢の遼東太守公孫氏が204年に帯方郡を置いて、半島は落ち着きを取り戻した。倭国王難升米も帯方郡との交易で力を取り戻し、菊池周辺の旧奴国の軍事基地を攻略した。狗古智卑狗(大国主の先代)が戦死したので、沖ノ島ルートで半島南部の鉄素材を旧奴国王族に供給していた宗像の人々は動揺し、難升米王に懐柔されて、ムナカタの姫巫女による太陽神の神託を請けて政治を行うことに双方合意して倭国大乱(第一次)は終息した(注1)。

ⅠA期とIB期中ごろまでは3世紀前半の邪馬台国連合倭国の時代のことだが、上のとおり政治の実権は伊都国男王の難升米が握っており、必要に応じて太陽神の神託を卑弥呼に請い、意思決定を行っていたと考えている。これによって倭国は伝統的な祭祀を捨て、奴国の祭祀に道教の要素を取り入れて、縄文系祭祀と融合した形に変わり、あれだけ盛行した甕棺埋葬の時代は終わった。

上のとおり、帯方郡との対外交渉と身の安全のために奴国から王宮を伊都国の三雲・井原に遷し、列島内の交易のために奴国に長官を置いて都市開発を命じたのだろう。だから須玖岡本の奴国大王の王宮は廃されていたのだということだから、邪馬台国時代の比恵の墳墓は「比恵に遷った王」ではなく「魏志倭人伝」に記された奴国の長官兕馬觚(じまこ)などの倭国高官の墓だろう。(2020.4.12 一部修正)

以上からこの時代までの北部九州の様子が分かり、その変化が刮目天の仮説によって矛盾なく説明できることが分かったと思う。疑問点や分かり難いところがあればコメントください。次は北部九州を主な戦場とした2度の大乱の末にヤマト政権が成立するまでの3世紀後半の話なので、またよろしくお願いします(^_-)-☆

【参考記事】
古代史の謎を推理する(^_-)-☆


(注1)「魏志倭人伝」では女王卑弥呼を共立したとしているが、公孫氏を滅ぼした魏の将軍司馬懿が帯方郡太守劉夏に倭国の懐柔を指令し、劉夏と難升米が談合して、魏の朝廷の人々の注目を集め、司馬懿の功績をアピールするために倭国を女王国ということにしたと推理した。
「魏志倭人伝」行程記事の真相だよ(^◇^)

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