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【検証12】狗奴国は熊本じゃないよ|д゚)

2020-03-05 11:37:36 | 古代史
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熊本県菊池市付近が狗奴国じゃないかとする説は、菊池の地名が「魏志倭人伝」に登場する狗奴国の官狗古智卑狗に因むものではないかということと、北部九州に邪馬台国があるのならその南に狗奴国が在るという記事からだと思う。また、菊池付近で鉄器が数多く見つかって、邪馬台国を圧迫する強大な軍事国家ではないかという推測から、この説を信じる方は多いのだと思う。

特に、従来から鉄の本格的な国内生産は6世紀ごろだと言われていたが、弥生時代後期後葉(3世紀後半)にすでに始まっていることが、広島県三原市の小丸遺跡に製鉄炉の跡の発見で知られるようになっている。菊池付近でも鉄を生産していたのではないかということのようだ。

これらはあくまで製鉄炉跡の確認をもって製鉄があったとみなしているのであって、直接法(注1)による場合は鉄塊を取り出す際に炉を破壊する必要があるため炉跡が残らないのが通常である。よって炉跡が発見されていないからといって製鉄がなかったということにはならない。むしろ各地の弥生時代後期以前の遺跡からは数多くの鉄器とともに製鉄段階で発生する鉄塊や銑鉄の鉄滓などが遺物として発見されていることから弥生後期以前より製鉄が行われていたと考えるほうが自然である。◆古代の製鉄 2016年08月22日 | 古代日本国成立の物語(第一部)より)

ということだが一方、「魏志 韓伝」に「弁辰の国々は鉄を産出し韓・濊・倭の人々はみなこの鉄を取っている。いろいろな商取引にはみな鉄を用い、中国で銅銭を用いるのと同じである。またこの鉄は帯方・楽浪の二郡にも供給されている。」という記事もある。(藤堂明保等「倭国伝」講談社学術文2010,p.92)

この記事は弥生後期前葉(1世紀)以降の半島南部(弁辰)のことだろう。この鉄は鉄鉱石を直接還元して得られる錬鉄の塊りであり、炭素量が銑鉄よりも少ない軟鉄であり、板状鉄製品として北部九州を経由して、西日本にもたらされている(藤尾慎一郎「弥生時代の歴史」講談社現代新書、2015,p.209)。多分7世紀までの日本は、主としてこの半島南部の鉄資源を確保するために出兵してがんばっていたのだろう。

従って、すでに弥生後期には国内(備後・丹後など)で生産された鉄も一部にはあるが収量や質の問題があるから、主として半島からこの鉄素材を入手して列島内で鍛冶製鉄によって武器や農機具などの鉄器が造られていたと考えている。国産で十分に賄えていれば半島の鉄資源は不要だからだ。

そこで、鉄器が数多く発見されている阿蘇付近の狩場遺跡群の鉄器保有の様相を見ると、以下のとおりだ。
「九州北部でみられたような鉄鎌や鋤先などといった大型鉄刃農具の出土数は少なく、その多くが鉄鏃、次いで鉇(やりかんな)、摘鎌といった小型鉄器が主体となる。また阿蘇郡を中心とした阿蘇山麓周辺の弥生時代後期の大規模集落には、多量の鉄器、鉄片とともに鉄滓が頻繁にみられる。このため、当該地域では鉄器だけでなくその原料素材さえも生産していた可能性が指摘されている。北部九州に素材を頼らずに地域内で成品を加工した可能性もありえよう。」(野島永「弥生時代における鉄器保有の一様相」京都府埋蔵文化財論文集6、2010,p.45)



菊池付近の遺跡でも鉄鏃が多く出土しており、筑紫平野を抱えた奴国のような食料を自給する国ではなく、主として鉄鏃などの武器を生産する軍事拠点であり、鉄素材や食料などを外部から供給していたと推理した。

それでも菊池付近が邪馬台国に対抗する狗奴国だと主張するならば、3世紀の後半に纏向ヤマトで誕生したヤマト王権について前回の検証で見たとおり(【検証11】定説の根拠を疑え(^_-)-☆)、北部九州から土器がほとんど運ばれていないことから考えて纏向ヤマトは邪馬台国ではないし、北部九州の邪馬台国が纏向ヤマトに東遷したのでもないことも考古学から分かる事実だから、それでは邪馬台国でも狗奴国でもない纏向ヤマトはいったい何者なのか、どういう経緯でヤマト王権が成立したかということが全く説明できない。

いや、実は纏向ヤマトは菊池の狗奴国(注3)を操っていた黒幕だというのなら、狗奴国王卑弥弓呼は纏向ヤマトに居たと考える方が自然だろう。つまり菊池は纏向の狗奴国ヤマトの出先の軍事拠点で北部九州の倭国と抗争していたと考える方がいいのではないだろうか?(2020.3.6 注3追加)

刮目天はすでに、【検証6】倭国大乱の実相は?(*^-^*)で弥生後期後葉の第一次倭国大乱期の鉄の供給ルートを以下の図のとおり推理した。



つまり、年齢的には、多分大国主の先代の狗古智卑狗だが、スサノヲ大王の時代からコネのある半島南部(弁辰)の製鉄場から鉄素材を仕入れて、備後(三次・庄原)や丹後半島の鍛冶炉で鉄製品を作り、吉備のニギハヤヒ大王やその直系の卑弥弓呼王(注2)に供給し、ヤマトの拠点集落の開発を行ったのだと考えている。同時に、阿蘇から菊池にかけて鉄鏃などの武器製造の集落(軍事拠点)を造り、北上して倭国の領土である筑紫平野を攻撃したのだろう。これが第一次倭国大乱だ。

上記のとおり恐らく、阿蘇・菊池付近でも一部は在地で製鉄炉を作り、砂鉄や褐鉄鉱を直接還元して鉄素材を供給していたのだと思うが、大量の鉄素材が必要なので半島からも板状鉄製品を供給したものと考えられる。倭国が師升一族の伊都国男王に支配されていたために「魏志倭人伝」にある壱岐・対馬経由のルートが使えないこともあり、ムナカタ海人族の助けを借りて沖ノ島ルート(海北道中ルート)を使って供給していたのだと推理した。大和朝廷が4世紀以降におこなった沖ノ島祭祀はこの頃のムナカタ海人族の貢献を称え、卑弥呼(イチキシマヒメ)の怨霊を抑えてもらうために行われているのだと思う。

【検証3】『神宿る島』宗像・沖ノ島の謎 

【検証7】桃太郎はニギハヤヒだった?(*^▽^*)



(注1)紀元前2000年頃のヒッタイトの遺跡から製錬された鉄が発見されている。ヒッタイトはこの鉄器によりオリエントを制したと言われているが、このときの製鉄法は塊錬鉄製鉄法であった。紀元前12世紀頃、ヒッタイトが滅亡するとこの製鉄技術が四方へ伝播し、紀元前9世紀には中国に伝わった。
 中国では伝来当初は塊錬鉄製鉄法であったが、華北地方では紀元前15世紀頃から始まった銅精錬と製陶技術を応用して鋳鉄製造が早くに始まった。当時の製陶においては1280℃の高温を得ることができたことから、1200℃を越える製錬温度で溶融銑鉄を製錬する間接製鉄法が発達した。春秋戦国時代には製錬炉で溶融銑鉄を撹拌脱炭して効率的に鋼ができるようになり、漢の時代には間接法による製鉄技術がほぼ完成されることとなる。
 一方、江南地方ではオリエントやインドからの伝播と思われる海綿鉄の直接製鉄法が発達したことにより、紀元前後(日本における弥生時代中期の終わり頃)、広大な中国大陸では華北では間接法、江南では直接法という具合に2つの製鉄法が並立することとなった。
◆古代の製鉄 2016年08月22日 | 古代日本国成立の物語(第一部)より)

(注2)卑弥呼がヒメミコからくるとしたらヒコミコの誤写で卑弓弥呼だったのではないかと考えられる。天照大神尊ニギハヤヒ大王直系の男子の皇子(ミコ)が王になっているということだと考えている。

(注3)この段階では纏向に狗奴国が成立していないと考えているが、その前身として吉備大王ニギハヤヒの直系の卑弥弓呼王が先に吉備から河内に拠点を築いたと考えており、纏向遺跡は204年以降に卑弥呼が女王に共立され、半島南部から鉄素材が供給されなくなったので、その対応として卑弥弓呼王が各地に散らばった旧奴国王族を結集するために纏向に政治都市を建設したと考えている。(2020.3.6 追加)


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