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【検証2】前方後円墳のルーツ?

2024-04-12 10:48:23 | 古代史
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#2020-04-08 16:45:07に記事にしましたが、図のリンクが切れていたり若干追加・修正して掲載します。よろしければお付き合いください(;^ω^)

#2017-01-14 00:20:00に掲載した記事を大幅に改訂しました。

前方後円墳のルーツ発見か 奈良で弥生末期の円形墓
田中祐也 2016年5月12日19時42分 朝日新聞デジタル

 奈良県橿原(かしはら)市の瀬田遺跡で弥生時代終末期(2世紀中ごろ~後半)とみられる円形の墓が見つかった。奈良文化財研究所(奈文研)が12日発表した。円形の一部に四角い突出部があることから、専門家は「前方後円墳のルーツではないか」と指摘する。



この円形墓の周りに深さ50cmの溝があり、一部だけ墳墓への通路で溝が切断されている。前方部が外に少し開いた形の通路だ。墳丘がすでに削平されていて不明だが、上から見れば小型の前方後円墳と見える。墓の中で葬送儀礼の祭祀をしていたのだろう。

最初の前方後円墳は纏向石塚古墳だが、築造時期についてはいくつか説がある。しかし、被葬者を狗奴国王卑弥弓呼だと考えるので石野博信さんの210年頃という説が一番有力だと思う。

この卑弥弓呼の名は卑弥呼(ヒメミコ)と同様に固有名詞ではなく、「魏志倭人伝」の書写の段階かよく分からないが、卑弓弥呼(日子=太陽神の御子ヒコミコ)を記載ミスしたのだろうと思われる。吉備を平定してヤマト王権の基礎を築いた天照大神尊ニギハヤヒ大王の王位を継いだ直系の子孫のことを指すのだと考えている。

二世紀初頭に奴国を滅ぼした倭王師升の一族の伊都国男王難升米が縄文系のムナカタ海人族を懐柔し、ムナカタの卑弥呼を表向き女王(実態は姫巫女)として共立したものと考えている(注1)。

これによって半島南部の鉄素材が供給されなくなった卑弥弓呼大王は、山陰や北陸などを支配していた狗奴国の官狗古智卑狗(奴国大王スサノヲ直系の出雲・丹波王)に命じて纏向に政治都市を建設した。そして東海・関東・北陸などに展開していた旧奴国王族などを纏向に集め、倭国追討を命じた人物であり、初代ヤマトの大王として「日本書紀」のハツクニシラススメラミコト第十代崇神天皇のモデルだと推理している。

旧奴国王族を裏切り、親魏倭王となった卑弥呼と、奴国を滅ぼした恨みのある師升の一族の倭国に追討軍を派遣する前の、210年頃に卑弥弓呼大王は死んだのだろう。ヤマト王権の象徴となる、最初の前方後円墳に葬られる人物としては一番ふさわしいからだ。

纏向遺跡の初期段階(関川纏向1式の時期)の外来系土器に卑弥弓呼大王の出身地と考える吉備のものが多くみられ、特に鉢・高坏・器台が多く見られ、いずれもその後に減少しているので、吉備やその他の地域から弔問に訪れた人々が大王に地場産品を献じたものだと推理できる。ちなみに甕(かめ)は穀類の煮炊きが主な用途だから、その地の人々が実際に纏向にやって来たことを示している。



纏向最大の箸墓古墳は、280年頃に初代天皇(祭祀王)として即位した応神天皇が、その母である倭国女王台与(神功皇后のモデル)を、最初に葬られた福岡県糸島市の平原王墓から纏向の地で改葬したものだと推理したので築造はこの時期となる(【検証4】平原王墓の被葬者は誰だ?(^_-)-☆)。

纏向遺跡に近い橿原市の瀬田遺跡で発見されたこの弥生時代の円形周溝墓が、古墳時代直前の弥生時代終末期に築造されたということだから前方後円墳の形のルーツなのだろう。

ただ、植田文雄さんは全国的にも方形周溝墓が数十万基と圧倒的に多く見つかっているのに対して、円形周溝墓はその千分の一の数百基だと指摘し、以下のように述べておられる。

「富める者=リーダーがあらわれて、周囲に四角く溝を掘り、土を盛り上げたのが方形周溝墓で、すでに弥生前期には西日本を中心にして広い範囲で見うけられる。方形周溝墓の出現時期と社会のようすを重ねてみると、やはり稲作の導入による社会の階層化が影響したことはまちがいないだろう。稲作によってうまれた富める者の墓は、主に四角だったのである。

これにたいし円形周溝墓は一部が備讃瀬戸内で前期のものが見つかっているが、本格的な展開は方形周溝墓に遅れること数百年、弥生中期中ごろのことである。それも、播磨や大阪湾岸などごく限られたところに、集中的につくられた。さらに後期になると、北信州に出現する。しかし地理的に見ても、瀬戸内と信州に直接的な関係があるわけでなく、これらの地域では方形周溝墓もつくられることから、ある意味円形墓は突然生まれたといえる。縄文時代の伝統が先祖返りのように突如わき出たことも、あながち否定できないのではないだろうか。」
(植田文雄「【前方後方墳】の謎」学生社、2007,p.115)。

前方後円墳の形についても、その形の由来を中華思想の「天円地方」(注2)や壺を横から見た形とする説もあるが、考古学の裏付けは取れるものではなく、弥生時代の円形墓を起源と考えるのが自然だとしている。

さらに前方後円墳も前方後方墳もそれぞれ円形墓、方形墓の前に祭祀の場として前方部が形成されたと考えておられる。これには刮目天も納得ではあるが、方形墓に対して千分の一しか見られない弥生の円形墓が、何故ここに出現したのか?植田さんの指摘する縄文時代の伝統が突如先祖返りする理由は謎なのだ。

しかし、ヤマトの大王の葬儀に集まった旧奴国王族と倭人系・縄文系諸氏族の和を象徴する縄文時代の周堤墓由来の円丘墓に卑弥弓呼大王を葬り、従来は祭祀や弔問に訪れた人々の通路であったその前部に方形の祭壇を取り付けたものを前方後円墳の嚆矢(こうし)としたのだろう。その後のヤマト政権に所属する各地の首長の墓として、前方後円墳が採用され定型化に繋がったことを説明できる答えのひとつではないだろうか。

ヤマト王権が纏向で誕生する過程における最初の前方後円墳が、卑弥弓呼大王の纏向石塚古墳だとすれば、納得できるのではないだろうか?

そうすると大王の墓の形で気になるのが、弥生時代後期(2世紀後半~3世紀前半)に造られたとされる倉敷市の楯築王墓だ。

直径約43メートル、高さ4、5メートルのかなり歪(いびつ)な円丘上に5個の巨石を立てて、縄文時代の名残りのストーンサークルになっている。中央部に置かれた木棺の底には30kgくらい朱(辰砂)が厚く敷き詰められていた。墳丘の各所から壺形土器、特殊器台・特殊壺の破片が出土しており、古墳時代の埴輪の起源とされる。

また、円丘墳の北東と南西に方形の突き出しが付いている中円双方墳になっており、突き出しの軸はそろってはいないとのことだ。祭祀は円丘上で行い、参列した人々の通路ではないかと思うので、前方後円墳とは祭祀の仕方が若干異なると思うが、大王の円丘墳であるというのは共通している。

前方後円墳の様々な属性がどの地域の影響を受けているかを示す下の図から、北部九州にルーツを持つ人々の首長墓だということが分かる。そして出雲も吉備も北部九州の影響を受けていると見られるが、纏向遺跡の外来系土器に北部九州のものが見られないことは重要な意味を持つ。


つまり、元々北部九州出身の吉備や出雲などの人々が纏向遺跡に集まり、その時代の北部九州とは敵対関係にあったので、北部九州の人々はヤマトの大王の葬儀には出席しなかったということだ。北部九州は纏向ヤマトと対立していたことを示しているのだ。(2020.4.9 青字追加)

その時代の北部九州は倭国の中心であったから、邪馬台国も九州に存在し、纏向ヤマトは「魏志倭人伝」に登場する狗奴国で間違いないのだ(【検証12】狗奴国は熊本じゃないよ|д゚)
(2020.4.9 青字追加)

しかも狗奴国のルーツが北部九州の奴国なのだから、旧奴国(クナコク)なのだ。

狗奴国という名称は、恐らく伊都国男王難升米が帯方郡太守に「女王国に逆らう狗コロの奴国の奴らだ」と発音が同じ旧奴国の蔑称を書いて伝えたのだろう。従来、国名などは意図的に卑字が使われたのではなく、倭人から聞いた音を当時の辞書の最初の文字を当てたのだろうという説が有力だったが、伊都国以外のほとんどの国名などは卑字が意図的に使われていたのだと思う。

いずれにしても前方後円墳のルーツを考えると「日本が古の倭の奴国」だったという「新唐書」・「宋史」の記述は正しかったと分かる。

これは、10世紀に東大寺の僧に持たせて宋の太宗に献上した「王年代紀」によって当時の朝廷(第64代円融天皇)が「日本書紀」の高天原神話を否定して、倭の奴国が日本のルーツだったと告白したことを意味するのだ(「日本国」へ、八百年も掛かったのか?(;´Д`))。

【付録】
北部九州における前方後方墳の築造時期およびヤマト王権支配下の各地での前方後円墳築造の時期等を図に示した。



(注1)「王年代紀」の奴国第17代大王伊弉諾尊(イザナギ)が結婚した伊弉冉尊(イザナミ)は日本海沿岸部を拠点とし、半島南部とも交易していた縄文系のムナカタ海人族の姫だと考えている。日本が江南出身の倭人と列島固有の縄文人が王族レベルで混血し日本民族を形成したことを示唆する「国生み神話」となっている。
王年代紀は記紀神話を正した!(^_-)-☆


(注2)日本(およびそれに影響を受けた朝鮮半島南部)でのみ見られる前方後円墳の起源については、これまでに様々な仮説が唱えられている。最もよく知られているものは、弥生時代の墳墓から独自に発展したものであるという学説である。この説においては従来より存在した円形墳丘墓の周濠を掘り残した陸橋部分(通路部分)が発達し、墓(死の世界)と人間界を繋ぐ陸橋として墳丘と一体化したと考えられる。それに対して円部は軍事・政治を担った男王、方部は祭祀を司った女王の墓に由来するという説もある。天は円、地は方〜古代中国の宇宙観より)

中国神話は日本人の神話だった?
中国神話の三皇五帝の伝説で、天は天皇伏義、地は地皇神農または泰(人)皇女媧を意味する。2世紀後半築造の楯築王墓の御神体の亀石が人面蛇体となっている。亀石は祭神のニギハヤヒが天皇伏羲の生まれ変わりだと考えたことを示している。つまり、8世紀にヤマトの大王の名称を天皇としたのはこのような由来だったのだ。
【検証7】桃太郎はニギハヤヒだった?(*^▽^*)


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