行雲流水の如く 日本語教師の独り言

30数年前、北京で中国語を学んだのが縁なのか、今度は自分が中国の若者に日本語を教える立場に。

物事の尊さは、そこに隠れた人の力があるから

2017-09-30 07:21:28 | 日記
日中国交正常化45年に合わせ、昨日の朝日新聞夕刊に以下の記事が掲載された。この記事の裏方として取材のアレンジをした同社の逸見那由子記者から知らされ、朝日新聞のサイトで記事を読んだ。私も長らくかかわってきた無錫の桜、そして、それを支えてきた長谷川清巳さん、娘の新発田喜代子さん、夫の豊さんが紹介されているのを見て、うれしく思った。

関係者の高齢化が進んでおり、いかに継承するかが深刻な問題となっている。上海の日本人留学生たちが参加し、徐々に活動への理解が広がっていることは喜ばしい。今回の記事がさらに大きな力となることを願いたい。

何事においてもそうだが、物事の尊さは、そこに隠れた人の力があるからである。30年以上も続けられてきた桜植樹も、そして、この記事もまたしかり。逸見記者の思いが形になった喜びを共有したい。

(9月29日)http://digital.asahi.com/articles/ASK9V761NK9VUHBI03L.html

(以下、ネットから引用)
 中国江蘇省無錫市の太湖湖畔は中国有数の桜の名所として知られる。約30年前、苗木を植え始めたのは元日本兵だった。29日は日中国交正常化から45年の節目の日。友好の思いは、両国関係の冬の時代を乗り越えて引き継がれている。

友好の桜、中国はや満開 江蘇省で国際花見ウィーク

 元日本兵は、三重県出身の長谷川清巳さん(1922~2009)。娘の新発田喜代子さん(67)によると、長谷川さんは42年、中国安徽省に出征し、戦地を転々とした。生きるため、中国人の空き家から食べ物を盗んだこともあったという。

 終戦後、衣料品店を営んだ長谷川さんは中国と関わりを持たなかったが、78年、出張する機会が訪れた。当時の中国は文化大革命が終わった直後で混乱していた。それでも、現地の人は長谷川さんを温かく歓迎。「過去のことは忘れましょう」と一緒に酒を酌み交わした。

 「こんな国の人たちと、どうして戦争をしなければいけなかったのか」との思いが募ったという。

 「日中の友好と平和の印として桜を植えたい」。長谷川さんは「日中共同建設桜友誼林保存協会」を立ち上げ、88年に太湖湖畔にある公園に苗木を植えた。以来、毎年春になると50人ほどで訪れ、植樹を続け、今は3万本を超えた。現地友好団体の呼びかけで中国の市民も活動に加わってきた。

 長谷川さんが亡くなった後、尖閣諸島を巡る対立などで日中関係は極度に悪化した。協会の活動を引き継いだ喜代子さんと夫の豊さん(65)の元には、「なぜ中国と仲良くするんだ」という批判が寄せられることもあるという。だが豊さんは「関係が難しい時だからこそ、草の根で交流を続ける意義がある。受難の時代を乗り越え、両国間の友情がさらに深まる日が来ることを願いたい」と話す。

 喜代子さんは「父には贖罪(しょくざい)の念があったのだと思う。桜が今も毎年咲くことを、きっと喜んでいる」と話す。協会は来春も無錫市を訪れる予定だ。(軽部理人)

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