「遊び心」の話を続けたい。「遊び」については古今、多くの学者が人間に特有な行為として、その文化的な意味を探求してきた。「遊び」をまじめに研究するのは自己矛盾のような気もするが、ヨハン・ホイジンガ著『ホモ・ルーデンス』(里見元一郎訳)が試みた日本語の「遊び」に関する言語的な考察は興味深い。
日本語の「遊び」は、「緊張をとくこと、娯楽、気晴らし、物見遊山、休養、遊蕩、賭博、無為、怠けること、仕事につかないこと、などを意味する。またそれは何かを演じたり、何かに扮したり、物真似したりするのにも使われる」が、注目すべきは、「回転体やその他の道具の限られた範囲内での自由な動き」をも表していることだという。ホイジンガによれば、この用法は、オランダ語「speling」や英語「play」の遊ぶにも共通している。
確かに、「ハンドルの遊び」といった言い方がある。杓子定規に決めないで、状況の変化に応じ、微調整のゆとりを持たせることだ。「遊び心」はこの用法に近い。
ホイジンガはまた、
「日本の生活理想のたぐいまれな真面目さは、実は、いっさいが遊びにすぎないという仮構を裏返しした仮面の姿である。ちょうどキリスト教中世の騎士道に似て、日本の武士道はまさしく遊びの世界の中に滑り込み、遊びの形式で行われる…遊びの領域に高貴な生活が仮面をつけて表現されている」
と述べる。遊びとまじめと、いずれかが仮構、仮面であるかは見分けが難しい。遊びの持つ仮面と、それに対するまじめ真面目(まじめ)のいずれにも「面」がある。まじめは「まじまじと見る」であり、真面目は後から漢字を当てたものだ。だが面=顔が、自己の個性や表現、アイデンティティ、さらには他者の目を意識したあり方であることを思えば、遊びの探求は、「自分とは何か」という根源的な問いかけにもかかわってくる。
英語で人を表す「person」の語源は、ラテン語で仮面を意味する「ペルソナ」だった。人間の存在に対する認識が仮面から派生しているのは、自己の把握がいかに難しいかを物語る。
単一な自己というものが存在すると信じ、まじめに、へとへとになるまでそれを演じ続けるのが、果たしてアイデンティティの追求なのか。一途な道を定め、それに従って突き進む猛烈人間が、果たして自己実現に向かっているのか。定年退職を控えたサラリーマンが、行き場を失うことを恐れ、会社にしがみつこうとする姿を見ていると、遊びのないまじめさは、必ずしも賢い生き方ではないように思える。
人は他者の目に映る自分を意識しながら生きるよう迫られる。その他者の目はまた、自分が他者の目に映し出したもの、つまり鏡に映った自分のイメージだ。自分らしさはもともとが関係の中で生まれる、不安定な存在だ。そんな鏡の自分に、融通のきかない、遊びの幅がない型を与えてしまっては、窒息してしまう。アイデンティティを確認するどころか、逆に自分を殺すことにはならないか。
がんじがらめのルールから自分を解放し、多様な自己を受け入れる遊び心があってもいい。アイデンティティは決して一つである必要はない。そうすれば他者に対しても、一つの固定的なイメージでとらえるのではなく、様々な表情を受け入れることができる。役を演じることを強制するのではなく、「君はそこに座っているだけで意味がある」と認めることにつながる。他者に無関心なのではない。一つの鏡を押し付けるのではなく、「われわれ」という、お互いが見つめあい、自在に響きあう関係に自己を委ねるのだ。
それを仮面というのであれば、大いに結構ではないか。仮想、仮構の自己に振り回され、身動きが取れない矛盾に陥るよりはましだ。原理原則さえを踏まえていれば、自己は分裂や分解をすることはない。
例えば、人には食べ物の好き嫌いがあるとされる。ただ多くは、好き嫌いを主張することに自分のアイデンティティを求め、実際の食感ではなく、観念に縛られているだけなのだ。だから食べず嫌いというものが生まれる。多くのステレオタイプもまた同様で、メディアによって刷り込まれているだけだ。われわれの環境に対する認識は、かくももろく、頼りない。だから、自己を固定してしまうと、ちょっとした変化への対応についても微調整ができず、場合によっては、自己が崩壊するかのような錯覚に陥ってしまう。
教室においては、教師と生徒という役柄からも自由である必要がある。たとえ自己のアイデンティティが仮面の集まりであっても、押し付けられた画一的なものよりも、遊び心によって生まれる多様な表情の方が生きやすくはないだろうか。
日本語の「遊び」は、「緊張をとくこと、娯楽、気晴らし、物見遊山、休養、遊蕩、賭博、無為、怠けること、仕事につかないこと、などを意味する。またそれは何かを演じたり、何かに扮したり、物真似したりするのにも使われる」が、注目すべきは、「回転体やその他の道具の限られた範囲内での自由な動き」をも表していることだという。ホイジンガによれば、この用法は、オランダ語「speling」や英語「play」の遊ぶにも共通している。
確かに、「ハンドルの遊び」といった言い方がある。杓子定規に決めないで、状況の変化に応じ、微調整のゆとりを持たせることだ。「遊び心」はこの用法に近い。
ホイジンガはまた、
「日本の生活理想のたぐいまれな真面目さは、実は、いっさいが遊びにすぎないという仮構を裏返しした仮面の姿である。ちょうどキリスト教中世の騎士道に似て、日本の武士道はまさしく遊びの世界の中に滑り込み、遊びの形式で行われる…遊びの領域に高貴な生活が仮面をつけて表現されている」
と述べる。遊びとまじめと、いずれかが仮構、仮面であるかは見分けが難しい。遊びの持つ仮面と、それに対するまじめ真面目(まじめ)のいずれにも「面」がある。まじめは「まじまじと見る」であり、真面目は後から漢字を当てたものだ。だが面=顔が、自己の個性や表現、アイデンティティ、さらには他者の目を意識したあり方であることを思えば、遊びの探求は、「自分とは何か」という根源的な問いかけにもかかわってくる。
英語で人を表す「person」の語源は、ラテン語で仮面を意味する「ペルソナ」だった。人間の存在に対する認識が仮面から派生しているのは、自己の把握がいかに難しいかを物語る。
単一な自己というものが存在すると信じ、まじめに、へとへとになるまでそれを演じ続けるのが、果たしてアイデンティティの追求なのか。一途な道を定め、それに従って突き進む猛烈人間が、果たして自己実現に向かっているのか。定年退職を控えたサラリーマンが、行き場を失うことを恐れ、会社にしがみつこうとする姿を見ていると、遊びのないまじめさは、必ずしも賢い生き方ではないように思える。
人は他者の目に映る自分を意識しながら生きるよう迫られる。その他者の目はまた、自分が他者の目に映し出したもの、つまり鏡に映った自分のイメージだ。自分らしさはもともとが関係の中で生まれる、不安定な存在だ。そんな鏡の自分に、融通のきかない、遊びの幅がない型を与えてしまっては、窒息してしまう。アイデンティティを確認するどころか、逆に自分を殺すことにはならないか。
がんじがらめのルールから自分を解放し、多様な自己を受け入れる遊び心があってもいい。アイデンティティは決して一つである必要はない。そうすれば他者に対しても、一つの固定的なイメージでとらえるのではなく、様々な表情を受け入れることができる。役を演じることを強制するのではなく、「君はそこに座っているだけで意味がある」と認めることにつながる。他者に無関心なのではない。一つの鏡を押し付けるのではなく、「われわれ」という、お互いが見つめあい、自在に響きあう関係に自己を委ねるのだ。
それを仮面というのであれば、大いに結構ではないか。仮想、仮構の自己に振り回され、身動きが取れない矛盾に陥るよりはましだ。原理原則さえを踏まえていれば、自己は分裂や分解をすることはない。
例えば、人には食べ物の好き嫌いがあるとされる。ただ多くは、好き嫌いを主張することに自分のアイデンティティを求め、実際の食感ではなく、観念に縛られているだけなのだ。だから食べず嫌いというものが生まれる。多くのステレオタイプもまた同様で、メディアによって刷り込まれているだけだ。われわれの環境に対する認識は、かくももろく、頼りない。だから、自己を固定してしまうと、ちょっとした変化への対応についても微調整ができず、場合によっては、自己が崩壊するかのような錯覚に陥ってしまう。
教室においては、教師と生徒という役柄からも自由である必要がある。たとえ自己のアイデンティティが仮面の集まりであっても、押し付けられた画一的なものよりも、遊び心によって生まれる多様な表情の方が生きやすくはないだろうか。