行雲流水の如く 日本語教師の独り言

30数年前、北京で中国語を学んだのが縁なのか、今度は自分が中国の若者に日本語を教える立場に。

どうしてパンダの赤ちゃんが「シャンシャン(香香)」に?

2017-09-25 20:15:15 | 日記
6月21日、上野動物園で生まれたジャイアントパンダの赤ちゃんに「シャンシャン」(香香)の名がつけられた。「呼びやすく、漢字の香は花開く明るいイメージ」だというのが理由だそうだ。響きもよく、日本語、中国語とも漢字の意味もふさわしいと感じた。

中国の学生にこの命名の印象を聞こうと思っていたところ、ふと、あることに気が付いた。

報道によると、名前の選考は、日本パンダ保護協会名誉会長の黒柳徹子さんや音楽評論家の湯川れい子さんら6人による選考委員会で検討され、応募総数32万2,581件の中から選ばれたという。応募総数では、シャンシャンが5,161件、レンレンが4,454件、ヨウヨウが2,886件、マオマオが1,709件と続いている。

だが、私の調べ方が悪いのか、主な報道をみても、どうして「シャンシャン」が「香香」なのか説明がない。普通の日本人が「香香」という漢字だけを見せられれば、「コウコウ」としか読めない。中国語で同じ「シャンシャン(xiangxiang)」の音では、「郷郷」「翔翔」「享享」「相相」などの漢字もある。「シャンシャン」が決まってから、「香香」の漢字が当てられたのか。応募時点で「シャンシャン=香香」だったのであれば、応募者は日本通の中国人か、中国語を学んだことのある日本人ということになる。その数が5000件を超えているのだから、かなり数である。真相はどうなのか。

どうにも説明ができないので、学生に感想を聞くのは躊躇した。せっかくのいい命名なのだから、ぜひ、この疑問を解消したいがどうすればよいか。

かなりうがった見方かもしれないが、この問題には、日中間の文化に関する慣れが潜んでいると感じられる。同じ漢字を使っていることへの甘えがある。古代中国の音にならった日本の漢字音読みも、現代の中国では大きくかけ離れているものが多い。意味がかなりずれてきているものもある。もともと熱い水の意味だった「湯」も、日本では主として風呂になり、中国ではスープになった。

どちらが本物か、本家かは意味のない議論だ。それぞれに背負ってきた文化がある。ただ、似て非なるものだということへの不関心、似ているように見えることへの過剰反応が、深い誤解につながり、不用意な偏見を育てることがある。何の疑問も感じないまま、「シャンシャン=香香」だと発表する記者会見を聞いて記事を書くメディアと、同じように何の疑問も持たずにそれを受け流している大衆がいるのだとしたら、相当、目が曇っているのではないか。少なくとも、「シャンシャン=香香」とすることに違和感のないほど、両国の文化交流が進んでいるとの楽観論には立てないからだ。

こうした認識に立てば、不十分な選考過程の説明によって、我々は、日中双方が音から意味まで、共通のイメージを抱くことのできる「香香(シャンシャン)」の尊さをより深く実感する機会を逃していることになる。同じ漢字を使うことに慣れ、甘えているが、共有している文化の尊さを十分にはわかっていない。私は実にいい命名だと思うのだが、その意義を、説得力をもって伝えられないのがもどかしい。

ヒットした中国版『容疑者Xの献身』にひと言

2017-09-25 14:33:11 | 日記
10年前の話になるが、東野圭吾の推理小説で、ガリレオシリーズの『容疑者Xの献身』が大ヒットした。原作は各賞を受け、映画も好評だった。台湾、香港で中国語版が公開され、非公開だった大陸でも海賊版がネットで流れ、それをみた多くの若者が東野圭吾ファンになった。私のいる大学でも、文学部の教授が「最近の中国の学生は東野圭吾ばかり読んでいて、古典を読んでくれない」とこぼすほどだ。

私の先学期のクラスでも、同作品の評価を論じた男子学生がいた。私は原作を読んでいないが、映画のあらすじは次の通りだ。



高校教師をしているが、人生の生きがいを見失った優秀な男性数学者、石神哲哉(堤真一)が、自殺をしようと首に縄をかける。ちょうどそこへ、引っ越してきたばかりのアパートの隣人が呼び鈴を鳴らす。女児を連れた女性、花岡靖子(松雪泰子)だった。闇夜を照らす明りのようなその笑顔に、石神は救われる。靖子は元ホステスで、小さな手作り弁当のお店を開いて生計を立てている。前夫は暴力を振るって金銭をたかるチンピラだ。

石神の靖子への思いは、愛情と呼ぶには淡い感情だったが、彼にとっては初めて抱く愛情だったのだろう。その気持ちにすがって、彼は生きる一縷の望みを得る。一人暮らしの石神は毎日、靖子に会うために彼女の店で弁当を買い求める。薄幸の男女が、砂漠のような都会の片隅で、奇跡的な出会いをする。

ある晩、靖子を訪ねてきた元夫から暴力を振るわれ、靖子と娘は抵抗しているうちに殺してしまう。薄い壁から物音を聞いた石神は、母子を救おうと、完全犯罪を計画する。翌日にホームレスを殺して、それを元夫に見せかけ、彼女たちのアリバイを偽装するのだ。恋愛の経験がない石神には、こうした形でしか愛情を表現するすべを知らない。最後は、石神の学生時代のクラスメートで、物理学者の湯川学(福山雅治)が、数学のパズルを解くように、完全犯罪を解決していくというストーリーだ。

中国ではその原作に基づき、中国の俳優を使って撮ったリメイク版が今年3月、公開され、話題になった。ネットでの評価は中の上程度で、チケットの売り上げは4億元を超えたので、ヒット作と言ってよい。気になっていたが映画館に行くチャンスがなく、先日、ようやく中国の動画サイトで公開されているのをみた。





感想は二点。

まず、都会の希薄な人間関係や心の病、さらにはホームレスの存在など、現代中国(大陸)の都市部では、すでに日本と同様の社会現象が普遍化しているのだという実感だ。同じ社会背景がなければ、深い感情を共有することはできない。リメイクにタイムラグが生じたのも、当時はまだ、多くの中国人がストレートに共感できる社会的背景の乏しかったことがあげられるだろう。この10年の変化はかくも大きいということである。

中国には、日本のような手土産をもって引っ越しのあいさつをする習慣がないので、中国版では、隣人の女児が学校のチャリティーに出す古本を提供してもらうため数学者の家をお願いに訪れる、との設定になっている。それ以外は、中国でも個人経営の弁当店はあちこちにあるし、クラブのホステスも職業として存在しているので、社会背景として違和感がない。家庭内暴力も大きな社会問題となっている。

一方、作品の内容に関する感想は、チケットの売り上げとは矛盾するが、かなり厳しい採点をせざるを得ない。登場人物がみな「まとも過ぎる」のだ。中国版では、日本版の湯川学に当たる役が、警察研究機関の学者になっている。そのため、正義を代表する型にはまってしまって、「非正統」の感じがない。あくまで自分の学問の趣向として難事件を推理する独自のスタイルがないと、湯川学の味わいが出ない。勧善懲悪一辺倒では、ガリレオが生かされない。

中国版の靖子役も、薄幸の感じが全く出ていないので、リアルさに欠け、非常に白けた印象を与える。社会の底辺で暮らす者の明るさと暗さの双方を演じなければならない、要の役柄だ。身近の映画ファンに聞いたら、女優は監督の友人として友情出演しただけなので、演技はさほどうまくない、とのこと。こういう私情がはさまるとせっかくの作品も台無しだ。

そして、本作品において最も重要な数学者の役。中国版でも、数学にしか関心がなく、世間との接点を持つことのできない孤独さは好演されていると思う。だが、物語の核心である、隣人の女性への特殊な感情が十分に描かれていない。好意を寄せる相手の目をじかに見ることもできない臆病な心、それでいて、自分を死から救ってくれた、隠しようのない愛情がこぼれ落ちてくる。この点では、堤真一の演技が圧巻だ。ラストシーンの警察署での号泣は、ゆがんだ愛情の苦悩が、迫真の演技で表されていた。むしろ、彼の好演が、リメイクを色あせたものにしていると言ったほうが良いかもしれない。

もともと、中国に石神哲哉のような内向的な性格の男性が少なく、「非正統的」な感情への理解が十分でないことも一因かも知れない。「宅男」は中国でも急増しているとは言え、オタク文化発祥の日本には、こうした男性が少なくない。こうなると文化的な問題なので、優劣では論じられなくなる。

ともかくも、中国版をみて、堤真一と松雪泰子の好演を改めて見直すことができたのは収穫だった。もう一度、日本版の『容疑者Xの献身』をみたくなった。

留学を選ぶ中国人学生の複雑な事情

2017-09-24 21:04:37 | 日記
新学期が始まり、知り合いの学生からたて続けに留学の推薦状を書いてほしいと頼まれた。仲介業者が作った案文にサインをするだけのケースが多いのだが、私は一人一人とじっくりと話をし、相手のしっかりとした考えや家族の支援を確認してから、自分の言葉で書くようにしている。こうしたやり方が、学生たちには新鮮らしい。向き合ったコミュニケーションにこそ異文化交流の価値があると思うので、推薦状にかかわるやり取り自体に意味を見出している。おかげで慣れない英語のライティングもかなり上達した。

学部学生の7割以上が女子で、留学希望者も圧倒的に女子学生が多い。中国は学歴を非常に重んじるので、いわゆる一流大学でなければ就職も容易ではない。そこで少しでも箔をつけるために、海外への留学を希望する。過酷な競争社会を生き抜くためには、やむを得ない選択なのかもしれない。一人が行くと、他の学生も感化される。焦燥心理の連鎖も働いている。だが、だれもが行けるわけではない。

夏休み期間、彼女たちは両親と話し合いをし、将来の選択について了解を得たという。多額の学費がかかるので、大富豪でもない限り、そう簡単には工面できない。多くは自分で商売をしている家庭だ。自分が受けられなかった教育を、娘には受けさせてあげたいとの親心がある。学生たちもその親心に感謝し、期待に応えられるよう、勉学に専心する決意が感じられる。

ある学生は、父親が四川省から広東省に出稼ぎに来て、さんざん苦労をした挙句、ようやく小さな会社をたちあげた。以前は考えもしなかった留学だが、親の仕事が軌道に乗り、家計に少し余裕が出だという。父親も学校にあいさつに来たが、乗っていたのは新車のレクサスだった。

父親は香港返還前、大陸から香港に逃げたと打ち明けた女子学生もいた。かつては、貧しさゆえ、海路や陸路で国境を越え、英国領の香港に逃げる「逃港」が頻発した。捕らえられれば収容所行きだ。逃避行には生命の危険もあった。そんな父親が香港でゼロから働き、改革開放後、少しばかりの元手をもって返ってきた。欧米は手が届かないが、香港への留学であればなんとかなる、と親が認めてくれたという。

彼女たちはいわゆる1990年代生まれの「90後」だが、中国社会の歴史と変化を、それぞれの学生が背負っている。そこに日本人の教師が留学の推薦状を書いている図もまた、世の中の大きな変化を反映している。だからこそ、一通一通を丁寧に書かなければならないと思う。

昨日は、半年のニュージーランド留学を終え、大学に戻った女子学生からお茶に誘われた。得難い体験を話したいと興奮していた。国内にいて、大学のブランドやテストの点数にこだわり、日々クラスメートと競争をしているような環境に育った。人と比較することでしか、自分の存在価値を見出せなかったが、国外に出て、多様な考えや生き方があることを知った。自分らしさがいかに大切かを知った。

信仰に興味を持ち、キリスト教会にも通った。多くのイスラム教徒とも交流したが、メディアで報じられているような、テロリストとは全く違い、平和を愛する人々であることを知った。直接、自分の目で見て、耳で聞き、触れなければわからないことだった。まだ具体的な進路はわからないが、金銭や名声にとらわれることなく、自分にしかできない生き方をしたいと考えている、という。

国や社会による制約はあっても、それぞれが必死の思いで自分を探そうと煩悶している。教師でさえ、自分を完全に把握することは難しい。おそらく自我、自己の追求は人間にとって永遠のテーマなのだろう。無我の境地などは、はるか先の話だ。だが、一緒に求める仲間のいることが、大学のよさである。



今日、汕頭大学の入学式が行われた。明日から、本格的な授業が始まる。




中国のネット刑事ドラマが熱い対決

2017-09-22 19:49:08 | 日記
夏休みを終え中国に戻ったら、著名動画サイトでネット専用に制作された刑事ドラマ2作のPKが話題になっていた。二つの作品は動画サイト・優酷(Youku)の『白夜追凶』と動画サイト・愛奇芸(Iqiyi)の『無証之罪』。試しに何本かを見たが、実に面白い。私は根っからの刑事ドラマ好きで、多くの作品を見てきたが、かなりレベルが高い。中国ではここ数年、ネットドラマの人気が急上昇し、テレビドラマをしのぐ勢いで伸びている。

ネットドラマは毎回、放映後しばらくは有料会員のみの閲覧だが、一定期間後は無料で開放される仕組みだ。テレビドラマと同様に広告が入るが、メーンのスポンサー広告にはドラマの出演者が登場し、ドラマのストーリーに沿った演出がされるケースもある。よりPR効果を高めようという意図がある。まだ若い市場のせいなのか、編集の自由度が高い。ネットにおけるメディア間競争、広告商戦は激化している。中国のネット規制しか報じない日本では、完全に見落とされている実態だ。



『白夜追凶』は8月30日にスタートし、計32回のうちすでに20回が放映された。これまでのアクセスは9億8000万回を超えた。俳優の潘粤明が一人二役で、一卵性双生児の兄弟を演じる。兄は敏腕刑事だが、弟は不良で、凶悪殺人犯として指名手配を受けるという設定だ。弟は冤罪を訴え、兄はそれを信じ、無罪を晴らすために兄弟で奔走する。

弟が指名手配されたため、兄は捜査の任務から解かれるが、同僚が彼の能力を頼って顧問として様々な難事件の処理に協力を求める。だが、兄は過去の事件がきっかけで暗所恐怖症にかかっており、夜は弟が兄の身代わりとして捜査に参加する。瓜二つなので、だれも見分けがつかない。鑑識担当の幹部が、証拠を一切残さない連続猟奇殺人の犯人として浮上するなど、相次ぐ怪事件の中で、徐々に、弟を陥れた組織の背景が浮き彫りになっていく。



『無証之罪』は9月6日スタートで、計12回のうち8回が公開され、うち無料で閲覧できるのは6回までだ。だがアクセスは2億に迫り、ネットでは『白夜追凶』を超える評価を得ている。舞台は、マフィアが依然、はびこっている雪深い東北の町だ。ある夜、若い女性が町のやくざ者に襲われ、彼女に思いを寄せる同級生の男性が助けに入るが、過剰防衛で相手を殺してしまう。そこへ、見知らぬ紳士風の男性が現れ、「私の言うとおりにすれば、罪を逃れられる」と教える。若い二人はその申し出に乗って、完全犯罪に手を染める。

たがてその男性は長年、警察で遺体の検視をしてきた元法医学者であることが判明する。だが実は、当地で相次ぐ連続猟奇殺人事件の犯人でもある。必ず殺害現場に雪だるま「雪人」や、特徴あるたばこ、子どもが遊びに使う動物の骨などを残す。実はあの夜も、二人が殺してしまった男を彼が「雪人」として殺そうと思い、現場に居合わせたのだ。犯罪の背景には、元法医学者の妻と娘が突然失踪した過去の不幸な未解決事件が横たわっている。深い真相の闇に、若い二人や刑事、地元のやくざ者たちが巻き込まれていく。

共通しているのは、人間の赤裸々な心を直視し、あからさまに描いて見せていることだ。立場、関係、人情、欲望、エゴ、そういったものがグツグツ沸騰する鍋に放り込まれている。法と正義は絵に描いたようには一致しない。事件という一線を越えた領域でしか垣間見ることのできない、人間の心の闇、人生の不条理がありのままに描かれている。

日本に一時帰国中、『刑事7人』や『愛してたって、秘密はある』など、何本かの事件ドラマを見続けたが、残念ながら期待外れだった。一話完結も、続きものも、メリハリがなく、人気俳優に頼ってだらだら引き延ばしているような作り方を感じた。視聴者の予想を越える奇想天外なエンディングに気を取られるあまり、リアリティのない突飛な結末が目立ち、心に訴えてくるものがない。つまり人生や生活、人間が描かれていない。

たかがドラマ、されど・・・である。日本でも優れたネット作品が出てきてもいいのではないか。中国では松本清張以来、現代の東野圭吾に至るまで、日本の推理作品に対する人気が非常に高い。日本でヒットすれば、すぐに中国語の字幕がつけられ、中国でも幅広く流行する。それがシェアリングを原則とするインターネット時代だ。開かれたルールを先取りしたビジネスモデルを考えてよい。

「遊び心」が多様なアイデンティティを生む

2017-09-13 10:44:21 | 日記
「遊び心」の話を続けたい。「遊び」については古今、多くの学者が人間に特有な行為として、その文化的な意味を探求してきた。「遊び」をまじめに研究するのは自己矛盾のような気もするが、ヨハン・ホイジンガ著『ホモ・ルーデンス』(里見元一郎訳)が試みた日本語の「遊び」に関する言語的な考察は興味深い。

日本語の「遊び」は、「緊張をとくこと、娯楽、気晴らし、物見遊山、休養、遊蕩、賭博、無為、怠けること、仕事につかないこと、などを意味する。またそれは何かを演じたり、何かに扮したり、物真似したりするのにも使われる」が、注目すべきは、「回転体やその他の道具の限られた範囲内での自由な動き」をも表していることだという。ホイジンガによれば、この用法は、オランダ語「speling」や英語「play」の遊ぶにも共通している。

確かに、「ハンドルの遊び」といった言い方がある。杓子定規に決めないで、状況の変化に応じ、微調整のゆとりを持たせることだ。「遊び心」はこの用法に近い。

ホイジンガはまた、

「日本の生活理想のたぐいまれな真面目さは、実は、いっさいが遊びにすぎないという仮構を裏返しした仮面の姿である。ちょうどキリスト教中世の騎士道に似て、日本の武士道はまさしく遊びの世界の中に滑り込み、遊びの形式で行われる…遊びの領域に高貴な生活が仮面をつけて表現されている」

と述べる。遊びとまじめと、いずれかが仮構、仮面であるかは見分けが難しい。遊びの持つ仮面と、それに対するまじめ真面目(まじめ)のいずれにも「面」がある。まじめは「まじまじと見る」であり、真面目は後から漢字を当てたものだ。だが面=顔が、自己の個性や表現、アイデンティティ、さらには他者の目を意識したあり方であることを思えば、遊びの探求は、「自分とは何か」という根源的な問いかけにもかかわってくる。

英語で人を表す「person」の語源は、ラテン語で仮面を意味する「ペルソナ」だった。人間の存在に対する認識が仮面から派生しているのは、自己の把握がいかに難しいかを物語る。

単一な自己というものが存在すると信じ、まじめに、へとへとになるまでそれを演じ続けるのが、果たしてアイデンティティの追求なのか。一途な道を定め、それに従って突き進む猛烈人間が、果たして自己実現に向かっているのか。定年退職を控えたサラリーマンが、行き場を失うことを恐れ、会社にしがみつこうとする姿を見ていると、遊びのないまじめさは、必ずしも賢い生き方ではないように思える。

人は他者の目に映る自分を意識しながら生きるよう迫られる。その他者の目はまた、自分が他者の目に映し出したもの、つまり鏡に映った自分のイメージだ。自分らしさはもともとが関係の中で生まれる、不安定な存在だ。そんな鏡の自分に、融通のきかない、遊びの幅がない型を与えてしまっては、窒息してしまう。アイデンティティを確認するどころか、逆に自分を殺すことにはならないか。

がんじがらめのルールから自分を解放し、多様な自己を受け入れる遊び心があってもいい。アイデンティティは決して一つである必要はない。そうすれば他者に対しても、一つの固定的なイメージでとらえるのではなく、様々な表情を受け入れることができる。役を演じることを強制するのではなく、「君はそこに座っているだけで意味がある」と認めることにつながる。他者に無関心なのではない。一つの鏡を押し付けるのではなく、「われわれ」という、お互いが見つめあい、自在に響きあう関係に自己を委ねるのだ。

それを仮面というのであれば、大いに結構ではないか。仮想、仮構の自己に振り回され、身動きが取れない矛盾に陥るよりはましだ。原理原則さえを踏まえていれば、自己は分裂や分解をすることはない。

例えば、人には食べ物の好き嫌いがあるとされる。ただ多くは、好き嫌いを主張することに自分のアイデンティティを求め、実際の食感ではなく、観念に縛られているだけなのだ。だから食べず嫌いというものが生まれる。多くのステレオタイプもまた同様で、メディアによって刷り込まれているだけだ。われわれの環境に対する認識は、かくももろく、頼りない。だから、自己を固定してしまうと、ちょっとした変化への対応についても微調整ができず、場合によっては、自己が崩壊するかのような錯覚に陥ってしまう。

教室においては、教師と生徒という役柄からも自由である必要がある。たとえ自己のアイデンティティが仮面の集まりであっても、押し付けられた画一的なものよりも、遊び心によって生まれる多様な表情の方が生きやすくはないだろうか。