行雲流水の如く 日本語教師の独り言

30数年前、北京で中国語を学んだのが縁なのか、今度は自分が中国の若者に日本語を教える立場に。

劉暁波の最終陳述とソクラテスの弁明(補足)

2017-09-01 20:28:37 | 日記
先日、劉暁波氏の49日法要に際して書いた文章の中で、ソクラテスの弁明に触れ、「死の瞬間まで謙虚な心を保ち、真理への探究を貫いた点において、東西の偉人は接点を持ったと言える」と述べた。知り合いから「意味がよくわからない」と指摘を受けたので、補足をしたい。確かに舌足らずであった。

ソクラテスは行動の人だった。高邁な徳を備え、彼の言葉はみな彼を慕う弟子たちが伝えた。神託によって最高の知者の自覚を持ったソクラテスは、無知を自覚した自己の優位を説くことで、知ったかぶりをして知識をひけらかす学者たちの怨嗟を買う。「国家の認める神を信じず、若者を堕落させた」との言いがかりで死刑を求刑され、公開裁判にかけられるが、最後まで知を愛する信念を貫く。沈黙によって逃げることも、命乞いによる妥協も譲歩も拒否し、最後は毒をあおり、従容として一生を終える。

法廷での主張を書き残したプラトンの『ソクラテスの弁明』(田中美知太郎・藤澤令夫訳)に、彼の最後の言葉が克明に記されている。自らの危険を省みず、真理を貫いた点において、劉暁波氏の最終陳述も重なる部分が多いと感じる。以下、ソクラテスの言葉を引用する。

--人は、どこかの場所に、そこを最善と信じて自己を配置したり、長上の者によってそこに配置されたりしたばあい、そこに踏みとどまって危険をおかさなければならない、とわたしは思うのでして、死も、他のいかなることも、勘定には入りません。それよりはむしろ、まず恥を知らなければならないのです。

--世にもすぐれた人よ、君はアテナイという、知力においても武力においても最も評判の高い偉大な国都(ポリス)の人でありながら、ただ金銭をできるだけ多く自分のものにしたいというようなことばかりに気をつかっていて、恥ずかしくはないのか。評判や地位のことは気にしても思慮や真実のことは気にかけず、魂(いのち)をできるだけすぐれたものにすということに気もつかわず心配もしていないとは。

--わたしは、危険があるからといって、いやしいおこないをするということは一つもあってはならないことだと思っていたのですが、いまもまた、いまのようなやり方で弁明をおこなったことを、後悔はしていません。むしろ、人々のやり方をして生きているよりも、いまのこのやり方で弁明をおこなって、その結果死ぬようなことになったとしても、むしろそのほうがずっとましだと思っています。

--もし諸君が、人を殺すことによって、諸君の生き方の正しくないことを人が非難するのをやめさせようと思っているのなら、それはいい考えではないでしょう。なぜなら、そういう仕方で片付けるということは、立派なことではないし、完全にできることでもないのですから。むしろ、他人を押さえつけるよりも、自分自身をできるだけ善い人になるようにするほうがはるかに立派で、ずっと容易なやり方なのです。

ソクラテスは、有罪の投票をした者たちへ「ひどく怒る気持ちはない」と告げ、神の定めに従い、魂の不滅を信じて自ら命を絶つ。恨みやつらみから解き放たれ、「私に敵はいない」との言葉を残した劉暁波氏の精神もまた、それに通じている。

ソクラテスの最後のひと言はこうだ。

「もう終わりにしましょう。時刻ですからね。もう行かなければならないのです。わたしはこれから死ぬために、諸君はこれから生きるために。しかしわれわれの行く手に待っているものは、どちらがよいのか、だれにもはっきりはわからないのです。神でなければ」

シュヴェーグラーの『西洋哲学史』(谷川徹三・松村一人訳)は、ソクラテスは大衆の中に入り、大衆の言葉で知への愛を語り掛け、精神の「助産術」を操る大家だったとしている。彼の母は助産婦だったのだ。そして、

「かれは市場や体育場や仕事場で、朝はやくから夜おそくまで、老若の人々と人生の目的や使命について語りあいながら、かれらにその無知を自覚させて、かれらのうちに眠っている知識欲をめざませるために働いた」

と記している。彼は国家を根本から改善するためには、市井の青年に対する教育こそが先決だと考えたのだ。

劉暁波氏の足跡は偉大だが、中国の多くの知識人が大衆からの遊離に陥った反省に立ち、大衆の中にしっかりと地歩を固めていたのかどうか。これからこの国の歩みがそれを証明することになるのだろう。

「to do」よりも「to be」を大切にする場を

2017-09-01 11:04:54 | 日記
深夜、中国の報道機関でインターン中の学生からチャットで連絡があった。会社から支給された報酬が他のインターン学生よりも少ないのが納得できない、という。中国でのインターンシップ(実習)は1か月から半年ほどまで、長期間に及ぶ。実習自体が大学の必修科目で、就職につながる貴重なチャンスだ。少額だが交通費やアルバイト代が支給される場合もある。

本人からすれば、同じ仕事どころか、自分は残業や徹夜までして頑張っている。だから差をつけられる理由がわからない。ふだんの学習態度から、彼女のまじめさ、能力の高さはよく知っている。「不当な扱い」に傷つき、憤慨する気持ちは理解できる。だが、金銭に振り回され、自分を失うような泥沼には陥ってほしくない。

「私がわがままなのはわかっています。成長しなければならない。ただ、今回のことは受け入れられない。インターン先を変えようと思っています。先生はどう思いますか?」

未熟ながらも、真摯に自分と向き合う姿勢が感じられた。金銭よりも大事なものがある。今の彼女に大切なのは経験だ。困難に耐え、継続することも選択のひとつである。忍耐を学ぶことになる。また、自分が定めた原則に従うのもいい。自分に対する責任を学ぶことになる。しっかり考えた末の結論であれば、そのものが得難い経験になる。後悔の心配をする必要などない。

「君が悩んだ末の決断であれば、どんなことであっても支持する」

そう返事をした。すると彼女は、「悩んだときにいつも聞く曲がある、今夜は特に感慨が深い」と話してくれた。曲名は中国語で「給自己的信」、直訳すれば「自分に宛てた手紙」、アンジェラ・アキのヒット曲「手紙 ~拝啓 十五の君へ~」の広東語バージョンだ。

幼い心が居場所を見つけられず、ばらばらになりそうな経験をする。これは国境を問わない。母親から切り離され、世の中に一人放り出されたときに感じたであろう不安の記憶がよみがえる。そんなとき人は、歌であったり、友人であったり、未来の自分に宛てた手紙であったり、何かにすがることで生きていく。自分という存在は、周囲の環境に照らし出されることによってはじめて目の前に現れる。常に鏡が必要なのだ。実際、その鏡は外にあるのではなく、自己の中に抱えている。

複雑な「自分」をつかまえることは、これまで幾多の哲学者が試みながら、なお答えを見つけ出せずにいる永遠のテーマである。自分さえもわからない人々が、神のように世界を語っている。同じ人間がなんの障害もなく、状況に応じて全く異なる言葉を吐き出す。いかに人工知能に感情を持たせるかを研究する人々がいる。そんな社会にあって、人々は自分に与えた役割を演じ続けるしかない。個人の実体はますますぼやけていく。

彼女に気付かされたことがある。現代の人々は、日々何かの成果を求められ、自分の意図や意識に反し、追い立てられるように走り続けている。変化が激しく、それに合わせて走りも加速しなければならない。「何を」から「早く」へと、求められるものはますますエスカレートし、よりどころになる場所を探すのは容易でない。だが、何かをする(to do)ためだけの生活から離れ、時には自分の中にある鏡を見つめ、かくある(to be)静かな自分に向き合うことも必要だ。

ではどうやって?

教室はそのためにある。戻るところがある、席があるということは、人の存在が受け入れられ、尊重されているということを意味する。「何かをしなければならない」と迫られるのではなく、「ただいるだけでいい」という母の愛に抱かれた時代を思い出させてくれる場所なのだ。時間と空間を共有することの意味がここにある。多くの鏡がお互いを照らし合う場である。教師はその場を提供する使命を帯びている。

教室では席に腰掛ける。走ることをやめて、座ることも大事だ。人類は直立歩行によって両手が自由になった。最初はその空いた手を使い、やがては手以上の役割を果たす代替品を発明し、いつの間にか世界を支配するようになった。空を見上げていた視点も、気が付けば天を見下ろす高みにのぼった。だが、足元で静かに時間の流れる小世界は見失なわれた。座るという行為は、そんな原初的な体験も思い出させてくれる。

「座って話そうじゃないか」。そんなひと言が、人を救うこともある。9月に入った。新学期がもうすぐ始まる。また、自分を探す若者たちとの新しい出会いが始まる。