行雲流水の如く 日本語教師の独り言

30数年前、北京で中国語を学んだのが縁なのか、今度は自分が中国の若者に日本語を教える立場に。

新たな門出を迎えた友に贈るもの・・・「爵」

2016-06-13 20:39:37 | 日記
私と同年代の親しい記者仲間が早期退職し、全く別の業種で働くことになった。彼の門出を祝う会場で何を送別の品にしようかと迷った末、書斎に飾ってあった青銅器の酒器「爵(jue)」を贈ることにした。もちろんレプリカで、高価なものではないが、酒の友に贈るにはふさわしいと思った。



三つの足を持ち、酒を注ぐ口には二本の突起があり、反対側はそるように尖っている。左右のバランスが取れている。腹の部分に煤が付着したものも発見されており、温めて飲む習慣があったことを示している。「爵」が酒を注ぐ「徳利」だったのか、それとも実際に口に運んでそのまま飲む「盃」だったのか、諸説あるようだが、中国の時代劇ドラマではたいていそのまま飲んでいる。「徳利」ならば「盃」も多く発見されていなくてはならないが、それがないところをみると、やはりそのまま飲んでいたように思う。古代人がお上品に小さな盃を手にしていたとは考えにくい。

「爵」は以下の図の通り、酒器を示す象形文字である。



青銅器文化は夏・殷・周の時代に栄えたが、当初は王が重臣に下賜する祭器だった。青銅器に刻まれた文字がそれを物語っている。青銅器だけでなく文字そのものも権威の象徴であっただろう。祭政が不可分に結びついてた時代、祭器は政治的にも宗教的にも重要な意味を持っていた。「爵」もまた王に認められた所有者の地位や権威を象徴していたことから、後にそれが「爵位」の意味に転用されていったのだ。

贈り物に「爵」を選んだのは、何もわざわざ上下の階級を論じるためではなく、人と人とを結びつける飲酒文化がかくも重きを置かれていたことに気をひかれるからである。今は廃れてしまったが、酒席にかかわる種々の礼法もまた、その関係が持つ重さを物語っている。反面、様々な束縛から解放され、思う存分酒を楽しみたいと思う気持ちが生まれてくるのも自然なことだ。「無礼講」である。

古来、友を語り、花や月を愛でるのに酒はなくてはならない伴侶だった。また自らを振り返るためにも欠くべからざる友だった。

陶淵明は「忘憂物(憂いを忘れるもの)」と呼んだ。つゆに濡れた菊の花を盃に浮かべれば、名利を求める俗界から離れたわが身がよりしみじみと感じられる。日が暮れて鳥が巣に帰ると、その静寂の中で一人放吟し、「わが生を得たり」の境地達した。

三国志の覇者、曹操も権謀術数にまみれた戦国の世にあって、朝露の如き人生の無常を感じ、「酒に対してまさに歌うべし」と言い放った。そして歌った。「何をもってか憂いを解かん、ただ杜康あるのみ」。杜康とは酒を発明した伝説上の人物だ。憂いを除くには酒に限る、というのだ。

より深い人の憂いを伝えためにも、酒は持ち出される。この時にこそ酒仙、李白の面目躍如である。

抽刀段水水更流 刀を抽(ぬ)きて水を断てば、水は更に流れ
挙杯消愁愁更愁 杯を挙げて愁いを消せば、愁いは更に愁う
人生在世不称意 人生世にありて、意に称(かな)わず
明朝散髪弄扁舟 明朝 髪を散じて、扁舟を弄(ろう)せん

切ろうとしても断てない水の流れは、酔ってさらに頭が冴えてくる離愁の思いに似ている。束髪は官僚のステイタスである。それを解いてざんばら髪にするのは、世俗との断絶を意味する決意だ。そう放言する李白は、別天地で酒と戯れているかのような奔放さを漂わせる。「忘憂物」をさらに我が物とした酒仙の境地が感じられるのだ。

小さな「爵」にあふれるほどの気持ちを注いだ。

ちょうど1年前の今日・・・

2016-06-08 19:19:25 | 日記
ちょうど1年前の今日、10年間の中国駐在から帰国した

一大決心をし、万感の思いを胸に上海を後にした

「また帰ってくる」と言い残した

思いは今も変わらない

遠からずその日が来るに違いない


境遇が変わったが、ぼくはぼくでしかない

変わらない友情を示してくれた

多くの仲間に「ありがとう」

人の好意のありがたさを

これほど感じた1年はなかった


人生には起伏がある

追い風も、向かい風も

順調なときも、困難なときもある

だからこそ変わらないものが尊い

本物か偽物かをしっかりと見た


勇気を持てば勇気を与えてくれる人がいる

真理を求めれば真理を愛する人に巡り合える

孤独に向き合えば人に優しくできる

理想を捨てなければ夢が追いかけてくる

前に進めば微笑みが迎えてくれる

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中国から戻ったのがつい昨日のようにも思えるし、あまりにも多くのことが起きて目の回るような1年でもあった。人生の転機を迎えた忘れがたい1年だった。支えてくれた、励ましてくれた、付き合ってくれた、忘れずにいてくれた、もっと大事にしてくれた、それぞれの人たちに感謝を申し上げたい。







中国人記者が1935年に書いた現地ルポ『中国の西北角』

2016-06-07 18:52:46 | 日記
縁があって広東省汕頭(スワトウ)にある汕頭大学新聞学院の范東昇院長と知り合い、その父親で中国メディア界の開拓者、范長江(第3代『人民日報』社長)について聞かされた。



1909年、四川生まれ。南京にあった国民党幹部の養成学校で学んだが、1931年、日本軍による「9・18事変」が勃発。不抵抗政策をとる蒋介石を見限り、北京に行きアルバイトをしながら大学哲学科に進学した。学問に飽き足らず、新聞への寄稿を始め、当時、最も影響力のあった天津の『大公報』の特約記者として西北地方を旅する。それは彼の夢であった。1935年5月から10か月間、四川省成都から陝西、青海、甘粛、内モンゴルを馬やいかだを使いながら踏破し、同紙に連載した。

范長江はその後、共産党が拠点としていた陝西省延安を訪問し、毛沢東にも会っている。1939年、周恩来の紹介で共産党に入党。国共内戦では従軍記者として活躍し、建国後は『人民日報』社長などを歴任した。文化大革命期、河南省の農村で強制労働を強いられたが、1970年10月23日、農園近くの井戸で死んでいるのが発見された。文革後の1978年、名誉回復され、胡耀邦が追悼式を主催した。現在、中国国内の報道に与えられる最も栄誉ある賞には「長江」の名が冠せられている。

彼が西北取材をまとめた『中国的西北角』が1936年8月、中国で出版され好評を博したが、38年1月は日本の改造社から邦訳が出ている。訳者は意外にも中国文学者の松枝茂夫である。改造社にいた増田渉に「面白いから訳したらどうか」と勧められたという。筑摩叢書から再刊されており、それを読んでみた。





今でこそ「シルクロード」と言えばロマンを掻き立てる名跡だが、当時、中国北西部は交通機関が発達しておらず、現地の情報も途絶していた。だからこそ范長江のルポは貴重だった。断崖絶壁を越え、黄河の激流を渡り、命がけの旅だった。漢族のほか回族、チベット、ウイグル、モンゴルと他民族が暮らす地を通るたび、彼は生活習慣の違いと同時に、民族間の偏見、不和が深まっている現実を目の当たりにする。「伏羌」(羌族を屈服させる)、「平番」(チベット族を平らげる)、「寧夏」(西夏を平定する)など、民族蔑視の地名が残っていることを危惧し、民族の危機に際しての団結を説く。

「過去の伝統的な民族差別思想を根本的に除き、新たに民族平等の精神をもって、国内各民族の経済・政治・文化の向上を扶助し、各民族の力量を充実堅固ならしめ、互いに信頼し合い、互いに団結してわれわれみんなの国家を衛るべきである。いつまでも異民族を差別視したやり方、公平無私の精神を欠いていたのでは、とうてい現代政治の潮流に追いついては行けないと思う」

曇りのない記者の目が看取した真実を重んじたい。時空を超え、あらゆる人の心を打つ愛がなければ残しえない言葉だった。情報が飛び交う現代社会において、彼が投げかけた問いは解決されていない。情報量が問題なのではない。本当に現場を知ろうとする人の意欲と努力がますます減退していることが問題なのだ。


『三国志』が描いた曹操の墓について思うこと

2016-06-05 10:24:42 | 日記
孫文は遺体を完全保存し、革命のスタート地点である南京に埋めるよう遺言を残した。ふと思い浮かんだのが、曹操の言い残した言葉だ。史書の裏付けがなく、『三国演義』の記載にとどまるが、彰徳府講武城外に似た塚を27作り、外から見て本当の墓がどれかわからないようにしろと遺言を残した。自ら魏王を名乗ったものの、天下の帰趨は定まらっていない。呉の孫権、蜀の劉備と英雄が並び立ち、お互いがにらみ合いをする中での死だった。幾多の戦乱で自ら兵を率い、家臣の身から漢の簒奪を図る野心を抱いた曹操は、死後、墓を暴かれることを恐れた。かくも激しい生存競争の時代だった。

享年66歳。劣勢の軍を率いて勝利した官渡の戦いに際し、「老驥、櫪に伏すとも、志は千里に在り(名馬は老いて小屋に伏せってはいても、その志は千里のかなたに及んでいる)」(『歩出夏門行』)と詠じたのは53歳の時だった。





河南省安陽市の郊外、西高穴村に曹操の墓がある。曹操が王都とした鄴城の西十数キロの場所だ。墓道の長さ40メートル、幅10メートルという大きな墓だが、過剰な副葬品、装飾はなく質素な作りだという。盗掘が発覚し、地元政府が調査をしたところ2009年、「曹操の墓」と認定された。異論も出ているが、私が注目したのは、曹操が「土は盛らず、木も植えず」と薄葬を命じていた点において、史料と現物が一致していた点だ。忠孝を尊ぶ時代、祖先の祭祀こそ最も重視される儀式だったはずである。前例を破ったことの意味は深い。「乱世の奸雄」とレッテルを張ってしまっては、人間が抱える深い苦悩は見えてこない。

曹操がこのとほか称賛した武将は、敵方の劉備に仕える関羽だった。一時は関羽を捕らえ配下に置くが、関羽は劉備への忠義を貫き去っていく。曹操の関羽に対する敬意は、彼を去るままにさせるほどのものだった。「奸雄」であっても仁義は重んじる人物だった。関羽は孫権との戦いに敗れ、斬首されるが、彼を葬る役回りが曹操に回ってきたのも、縁のなせる業であろう。曹操は関羽を王侯並みに手厚く葬った。自分には薄葬を命じた曹操が、関羽には破格の待遇で迎え、送り出した。



無敵の武将であり、忠義を貫いた関羽は死後、神格化され、いまでもあちこちに関公として祭られている。関公を見るたびに思い浮かべるのは、桃園の契りを結んだ劉備、張飛、そしてなぜか曹操の姿がそのあと鮮明によみがえってくる。


『時空を超える愛』②--孫文生誕150年記念に

2016-06-03 10:28:48 | 日記
孫文は亡くなる直前の1924年11月28日、北京に向かう途中に立ち寄った神戸で「大アジア主義」と題する演説を行い、「今後日本が世界の文化に対し、西洋の覇道の番犬となるか、東洋の王道の牙城となるか、それは日本国民が慎重に考慮すべきこと」(『国父全集』)と呼びかけた。同演説を報じた日本の新聞には同内容の個所はなく、後日、付け足された可能性も指摘されるが、すでに人口に膾炙した演説である。いずれにしても孫文が日本人に残した遺言であることは間違いないだろう。

孫文は翌25年3月12日、北京の協和病院で肝臓がんのために亡くなる。辛亥革命によって清朝を倒したものの、北方の軍閥勢力が跋扈し、共和制による国内の統一は実現できなかった。「革命いまだならず 同志はなお努力せよ」とは、孫文が生前、同志に呼びかけた言葉だ。日本経由で北京に向かったのも、軍閥政府と和平統一を話し合うためだった。

臨終に際し、同志にあてた言葉がある。

「生死は世の常なので、気に掛けるに足らない。ただ数十年国のために奔走し、胸に抱いた主義はまだ実現していないので、同志の各位が奮闘努力し、国民会議を早期に開き、三民主義と五権の主張を実現することを望む。そうすれば私も死んでも悔いがない」(同)

こう革命の継続を託し、葬送の詳細を指示する。

「私が死んだあとは南京の紫金山に埋葬するように。南京は臨時政府が誕生した場所であり、辛亥革命を忘れてはならないからだ。遺体は科学的方法によって永久保存するように」(同)

孫文は故郷の広東に帰らず、革命の出発点を終の棲家に選んだ。孫文の遺体はいったん北京西郊の碧雲寺に納められたが、蒋介石が北伐によって北京を占領した後、遺言通り南京に完成した中山陵に運ばれ、19296月1日、南京市内の国民党中央党部講堂で国葬が行われた。188か国の大使、特使が参加し、日本人は政府特使の犬養毅をはじめ約80人が参加した。

乱世にあって自分の遺体を残し、後の戒めにしようという発想は中国の歴史上、稀有である。孫文の楽天的な性格が感じられる。孫文は武昌蜂起の成功まで計10回、広東や広西、雲南で決起しながらいずれも失敗している。そのたびに調達した金や武器ばかりでなく、貴重な仲間を失ってきた。北洋軍閥に対抗し広東で拠点を固めた時には、仲間であるはずの陳炯明からクーデターを起こされて裏切られ、軍艦に逃れて生き延びた。死の最後まで革命の夢を抱き、自分が亡き後は目的に向かって努力するよう同志たちに求めるのは、不屈の精神の持ち主であると同時に、楽観主義者でなければやり通せないことだ。

また時代が英雄を生むという歴史観に立てば、彼が何をなしたかを問うと同時に、彼がいかに死んだか、つまり時代がどのように彼の死を受け止めたか、ということにも注意を払う必要がある。一個人の死による断絶は許されず、革命の継続のみが民族に残された道だったのだ。乱世の英雄は死後、墓を暴かれることを恐れた。だが孫文の中山陵は、日本軍による南京占領、国共の激戦を経ながら、そのまま今に伝わっている。三民主義は実現されただろうか。この意味で彼は過去の人ではない。過去から現在、未来へと続く歴史の中に生きている。(続)