行雲流水の如く 日本語教師の独り言

30数年前、北京で中国語を学んだのが縁なのか、今度は自分が中国の若者に日本語を教える立場に。

なすがままに任せば、道は自ずと開ける・・陶淵明『飲酒』其の十七

2016-03-17 00:57:46 | 日記
今日は日比谷公園を歩いていて、シナマンサクの黄色い花とピンクのははなももを見つけた。





しばらくかかった仕事も一段落し、仲間とガード下で飲み交わした。家に帰る途中、以前、このブログで陶淵明『飲酒』の中で其十七も好きな一句であると書いたことを思い出した。なかなか触れる機会がなく時間が過ぎてしまった。

陶淵明の『飲酒』にはどういうわけか、その題にもかかわらず、李白や白居易のような酒の香りがしない。「菊を採る 東籬の下、悠然として南山を見る」で知られる『飲酒』の其の五には、ゆったりと暮れていく自然の風景を受け入れ、「此の中に 真意あり」と歌う。真意とは真の価値だろう。社会的風評には左右されない、自分がつかみ得た境地である。『飲酒』其の七で、自然な暮らしぶりを「得此生(此の生を得たり)」と言い切ったのと通じる。酒を飲んで前後不覚になるのではなく、飲めば飲むほど頭がさえ、ものが見えてくる。そんな酒の飲み方を思った。

『飲酒』其の十七
幽蘭生前庭 幽蘭(ゆうらん) 前庭に生じ、
含薫待清風 薫(かお)りを含んで清風を待つ。
清風脱然至 清風 脱然として至らば、
見別蕭艾中 蕭艾(しょうかい)の中より別たれん。
行行失故路 行き行きて故路(ころ)を失うも、
任道或能通 道に任さば或ひは能く通ぜん。
覺悟當念還 覚悟して当(まさ)に還(かえ)るを念(おも)うべし、
鳥盡廢良弓 鳥尽くれば良弓(りょうきん))廃(す)てらる

庭先にひっそりとランの花が咲き、香りを含んで清風に吹かれるのを待っている。さらにと風が吹くと、それはヨモギの中にあっても鼻がかぎ分けるのである。歩いているうちにもと来た道を見失ってしまったが、なすがままにまかせば、道は自ずと通じるだろう。迷いから覚めて、もとの道に戻るとするか。鳥を採りつくしてしまったら、どんなに立派な弓も無用になってしまうから。

当時の読書階級にとっては、仕官こそ人生の目標であった。だが陶淵明はそれを断った。なお官途に未練はあるが、引き返すことはしない。たとえうまく取り入ったところで、用が足りればお払い箱になるかもしれない。そういった俗世間の浮沈はもうたくさんだ。庭先でランの香りに酔いしれていたほうがどれだけ心がつくろぐことか。ここには「真意」があり、「此の生を得たり」の境地がある。

酔って気分がよくなっている私のような俗物にはまだまだ先の長い道のりである。

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1 コメント

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モモの花 (中井)
2016-03-17 09:43:20
陶淵明の『飲酒』は、心に染み入ります。
ははなももは、ハナモモ(花桃)のことでしょうか。
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