片山修のずだぶくろ Ⅰ

経済ジャーナリスト 片山修のオフィシャルブログ。2009年5月~2014年6月

写真家・瀬戸正人さんと語る①

2011-10-31 19:12:26 | 対談

久々の対談です。今回は、写真家の瀬戸正人さんとお話をしました。
瀬戸さんの詳しいプロフィールは、オフィシャルページに任せますが、
森山大道さんに師事し、代表的なところでは、
1996
年に写真展「Living Room, Tokyo 1989-1994」「Silent Mode」で
21回木村伊兵衛写真賞を受賞されるなど、
日本を代表する写真家の一人です。
1999年には、『トオイと正人』(朝日新聞社刊)で
第12回新潮学芸賞を受賞されました。

最近では、『東日本大震災――写真家17人の視点』
(アサヒカメラ特別編集:朝日新聞出版)に、
写真を掲載されています。

瀬戸さんと私は、かれこれ20年以上の付き合いになります。
ふだんは仕事上のお付き合いがほとんどですが、
今回は、少し仕事を離れ、写真について語っていただきました。
以下、8回にわたって連載します。

Setokatayama_2

①写真家になるキッカケ

片山 瀬戸さんはそもそも、写真家になろうと思ったキッカケはなんだったんですか。

瀬戸 キッカケはないですね。実家が写真館だったから、私は長男だし、東京で写真学校を出て、福島の実家に帰って写真館を継ごうと思っていました。

片山 でも、プロとしてやっていけると自信をもったキッカケはあったでしょう。

瀬戸 そうですね。写真学校に入ると、それまでにも家を手伝っていたので、現像とかの技術は周囲よりうまかったんですよ。器用だったんです。
それで、これは、いけるかなと思った。
卒業後には、写真家の助手をしながらコマーシャル的なことも手伝ってみて、「こういうことをやれば食べていけるかな」と、何となく思いました。


片山 何歳のときですか。

瀬戸 28歳でフリーになったころですかね。

片山 僕がフリーになったのも28歳。5年間新聞記者をやったあとね。

瀬戸 片山さんは、活字の世界に入ったキッカケはなんだったんですか。

片山 キッカケというか、小学生のときから、新聞は好きでしたよ。新聞記者になりたいと思っていた。朝、新聞が配達されるのを待っていて、父親が読むより早く、載ってる写真なんかを切り抜いて怒られていましたよ。
日本各地の新聞の題字を集めたりもしていました。何か、興味があったんでしょうね。
瀬戸さん、写真館を継ぐという前提が崩れたのはいつですか。


瀬戸 写真学校に森山大道さんがいて、その写真を見たときですね。びっくりですよ。
写真館で育ったから、写真ってポートレートしか思い浮かばない。ところが、森山さんの写真は違う。新宿のガードとか、そこらへんの写真。しかも、ざらざらした。それなのに、雑誌にも載ったりしていて、「こんなものを撮って生活できるのか」って思いましたよ。


片山 森山さんの撮った新宿は、いまになってみると、僕たちが生きてた新宿だなって思います。僕はフリーをやってた時代で、毎晩のように、フリーの記者の仲間たちと集まって、新宿で飲んでいたんですよ。朝まで飲んだりもしましたね。新宿の裏の裏までとはいかなくとも、ゴールデン街から西口の小便横丁や二丁目、三丁目とうろついていました。共同便所があってねぇ。あちこちでケンカがあって……。
あの時代を生きていた人間にとっては、森山大道の新宿は、まさに自分たちが生きた新宿だと思います。
瀬戸さんは、森山さんの作品から、写真家で食べていこうと思ったわけですね。


瀬戸 でも、何がいいのかわからなかった。写真のアート的な部分は、はじめ、全然わかりませんでした。

つづく