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再開版 消防人生(自分史) 10 平成7年(1995年) 管理職の仲間入り消防総務課長補佐! 

2012年03月31日 | 消防防災人生(自分史)

 平成7年 消防総務課課長補佐兼ねて庶務係長 4年の実績

   消防職員数115人  平成8年定数改正により3カ年計画で131人となる。

   彦根市人口103,277人(管内人口128,622人)
 
   第12代消防長 中谷忠義 氏(平成元年4月~平成11月)

 

 この年、1月17日、あの阪神淡路大震災が発生しました!

 

 私は、小隊長として勤務中で仮眠中、震度5で飛び起きました。

 

 あの揺れでも熟睡していた消防職員もいましたけれど・・・・(笑)

 その後、4月の人事異動で、「消防司令」に昇格し、消防総務課の課長補佐(庶務係長兼務)となりました。

 ここで、私は趣味を超えた少林寺拳法の支部を解散しました。

 これ以上は2頭を追えなくなったのです。

 それでも滋賀大学少林寺拳法部のコーチだけは残してしまいましたが・・・・・・
  

 注) 現在では、コーチも降りています。やはり、私にとって少林寺拳法は趣味の域を超えていますから、所詮ここまででした。

 

 私は、消防士の時代から自己申告書の提出にあたっては、「消防総務課」を第1希望として申告してきました。

 理由は、組織そのものを企画・運営していく部署だからです。

 しかし、希望が叶ったのは40も半ばにして、管理職で係長を兼務する形でした。

 

 消防総務課は人事、経理、予算、企画、総務など組織の主要な事務の中枢です。

 私は、まず消防本部と消防署の例規に手を着けました。

 そして、出向していた市役所とのパイプを活かして、職員定数の改正、つまり増員にも取り組みました。

 

 結果、市の人事課長の理解によって平成8年度に大幅な増員が認められ、3カ年の計画的採用で131人まで増員することができました。

 当然、手柄は消防長ということになりますが・・・・・・誰も認めてくれないのでブログに書いておきます。(笑)

 

 さらに、消防本部に女性職員と上級職員の採用にこぎつけました。

 何しろ、「消防の世界に女はいらん!」と上司の全てが口を揃えて言うのです。

 必要だと言うのは、課長補佐で採用選考委員会の事務局をしているだけの私です。

 あの手この手で説得しました。

 

 しかし、私の思慮も足りませんでした。

 消防の世界に女性を採用することは、組織そのものの土壌改良も並行してしなければならなかったのに・・・

 目先だけを見て採用したのですから、採用された女性職員はそれぞれ苦労されたと思います。
 

 

 そして

 平成10年には消防署南分署が市防災備蓄倉庫と併設して全面改築されました。

 
 4年が過ぎ、階級は「消防司令長」となり、今度は副署長として部下100人のまとめ役に・・・

 ますます仕事人間になってしまいますねぇー

 
 

 平成 7年 9月 8日 第1種衛生管理者 取得 


再開版 消防人生(自分史) 9 平成5年(1993年) 現場復帰 本署小隊長!

2012年03月31日 | 消防防災人生(自分史)

 平成5年 消防署本署の小隊長 上司と部下に挟まれて

  消防職員数115人  彦根市人口101,824人(管内人口127,332人)

  第12代消防長 中谷忠義 氏(平成元年4月~平成11年3月)



 この年の人事異動で、市役所勤務を解かれ、久しぶりに現場へ帰ってきました。

 これまで8年間、事務中心で1人で動いていましたが、いきなり部下が16人となり、消防隊2隊、救急隊1隊、特別救助隊1隊の責任者です。

 直属の上司が1人、その上は毎日勤務の副署長、消防署長しかいません。


 
 今度は現場の管理と職員の管理が仕事の中心となりました。

 今さらながら24時間2交代という勤務の難しさを感じました。

 

 まず、週休などで毎日、多少の入れ替えはあるものの、24時間、寝食を共にする仕事です。

 やはり仕事でありながら生活をするわけですから、なかなか言いたいことを全て言うわけにはいきません。

 

 家庭でも、最近は妻に、子どもに気を使い、おまけに仕事で気を使い・・・・・・・でしょう?



 本当は、仕事なんだから、何でもはっきり言えばいいのでしょう。

 しかし、急に家庭の事情で週休日を代わってもらうこともあります。

 すべてが仕事だから、と行かないところが、共同生活の難しさです。

 つまり、「私は魚がきらいなので・・・・」は、通りません。という世界です。

 言いたいことの6割言えればOKにしないと、全体をまとめていくのは難しい職場でした。

 

 いろいろありましたが・・・・・・(省略!)

 

 人をまとめていくことは、リーダーの仕事です。

 リーダーは率先垂範、自らが示していかなければなりません。

 その当時の私の直属の上司は、「お山の大将」、「ガキ大将」がそのまま大人になったような人でした。

 俗にいう親分肌で現場人間です。

 その人は管理職ですから直接的な仕事はしません。

 

 その方も、私にだけは気を使っていたようで(笑)

 結構、自由にやらせていただきました。ありがとうございました・・・

 

 その上司は、私が公休日の時は「お山の大将」でイキイキしていたと当時の部下が言っています。

 その上司にとっては、私の存在を認め、まあ、我慢されていたのでしょうね・・・ご苦労様でした。

 

 このようにして、小隊長として2年間の現場経験をすることができました。

 

 私の24時間2交代勤務はこれ以後ありません・・・今となっては貴重な経験でした。


 

 この頃に、ドラッカーのマネジメントが身についていたら、もう少し組織を改革できたのかも知れません。

 

 この年、消防署北分署が竣工しました。 そして、いよいよ管理職(課長補佐級)へ・・・・・・
 

 

 


再開版 消防人生(自分史) 8 平成3年(1991年) 市役所総務部総務課主査!防災業務?

2012年03月31日 | 消防防災人生(自分史)

 平成3年 消防職員 市役所に出向する!

  消防職員数115人  彦根市人口100,258人(管内人口125,908人)

  第12代消防長 中谷忠義 氏(平成元年4月~平成11年3月)

 

 やっとブログが平成まできました。


 平成3年の人事異動で消防本部警防課の「救助救急係長」から隣席の「警防係長」に任命されました。

 机が隣に変わっただけか・・・(笑)

 

 その時、もう一枚辞令書が出ているとのこと?

 市長名の辞令でした。

 

 なんと、私は、「警防係長」に任命されながら、同時に「市役所総務部総務課主査」にも任命されていたのでした・・・


 どのような勤務をすればよいのか?

 よくわからず確認したところ、消防本部には席があるだけで、全面的に市役所で勤務しなさいとのことでした。

 

 市の地域防災計画の全面見直しのため、アセスメント委託事業の2年目から消防職員が初めて参画することになったそうです。


 市役所4階のディスク・・・

 新採職員かな?

 いや多少歳を食ってるから違うのかな?

 市の職員からジロジロ見られながら、仕事をしました・・・

 

 市役所は、消防のトップダウン方式の仕事とは違い、職員の合意形成を図りながらの仕事で、勉強になりました。

 

 事業の完了によって2年間で消防に戻ることになりましたが、まさか16年後に2回目の出向になるとは・・・・・・・・

 注)平成19年4月から2年間、副参事(防災担当)として2回目の経験をさせていただきました。

 

 話を元にもどします…戻してばかりでゴメンなさい。

 

 この2年間、私は仕事をし過ぎ、時間外勤務最多のトップ3に入ってしまいました。

 毎月、残業だけで30万円くらい貰っていたと思います。
 

 残業代でキャンプ用品一式を揃え、クラウンステーションワゴン2500でオートキャンプを始めました。

 これで家族サービスをしている気持ちになっている…という、単純な私でした。

 

 家族の気持ちも知らないで・・・

 

 係長になってから、予防業務、救助救急業務、市役所で防災業務と渡ってきましたが、2年後、今度は毎日勤務から一転!

 24時間2交代の現場に戻ることになりました!
 
 

 この頃、趣味を超えた少林寺拳法でも、私の支部(スポーツ少年団)が滋賀県大会で優勝し、この時期、毎年のように子ども達を全国大会に連れていきました。

 本人は、時間のない中、家族をキャンプにも連れて行き、家庭サービスも十分頑張っているつもりでしたが・・・

 

 周りから見ると、まさに「外だけ人間」でした。(回想すると一杯出てきます。)

 

 その頃は、いったい、いつ寝てるの?と言う話・・・・・でしたね。

 

 今から、やれと言われても、もうできません…

 

 


再開版 消防人生(自分史) 7 昭和63年(1988年) 消防大学校救助科第20期!

2012年03月31日 | 消防防災人生(自分史)

 昭和63年 消防本部警防課 救助救急係長 消防大学校へ行く

 消防職員数99人  彦根市人口96,825人(管内人口1221,616人) 

 第11代消防長 西山重次 氏(昭和61年~平成元年3月)

 


 係長になって2回目の異動先は警防課、異動時期は10月でした。

 警防課の仕事は、消防車両等の消防関係資機材の整備や、救急・救助に関する事務的な業務を行うところで、基本的に現場(消防署)を管理監督する立場にあります。

 その中で、私は「救助救急係長」ですから、救助活動、救急活動が円滑に実施できるように進めていく仕事に携わりました。

 しばらくして、胃がんの摘出手術から1年半・・・

 突然、総務課長から呼び出され、「実は、平成元年4月から2か月ほど、消防大学校の救助科へ入校してもらうことになった」と言われました。

 救助科ですか・・・病気あがりの私でも大丈夫ですか?と思わず聞き返しました。



 そして、平成元年4月4日から5月26日までの約2か月、東京都三鷹市にある国の消防の最高教育機関、消防大学校救助科20期生として入校することになりました。

 消防大学校は、県から年間1名~2名しか入校枠がなく、当時は、将来の幹部候補として見る目も違っていました。

 今、振り返ると、私は体育会系の単純人間で、俺は選ばれた特別な人なんだ!

 なんて、鼻が長ーく伸びて、随分生意気な嫌なタイプの人間だったと思います・・・

 

 ここからは、消防関係者の方は読まなかったことにしていただきたいと思います。

 20年以上経過していますので、時効としておいてください。

 当時、消防大学に行くなら100万円はいるぞ!

 職員から選別金と壮行会!「オラが町を背負っていくベー」というほど、まるで祭りです。

 

 とても勉強に行くという雰囲気ではありませんでした。

 「しっかり遊んでこい!」と激励するバカな上司もいました・・・(苦笑)

 2か月で150万円使ったバカもいます。

 

 私で80万円は使っていますが、金額の大小で競うこと自体バカです。

 

 妻は、子どもの定期まで解約して私に渡しました。

 なんてひどい父親でしょう・・・今更反省しても遅すぎますけど…



 結局、53日間、ロクに家にも戻らず、これが見聞を広げ、人脈づくりだ!と言って、毎日、新宿、吉祥寺と飲み歩いていました。

 ブログに書けないことも一杯してしまい・・・(汗!)

 

 今思うと、俺は何してたのだろう?

 なぜ、こんな人が消防長なのか?

 ただただ・・・改心しているところです(南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏・・・)

 

 ここで訂正しておきます!

 

 では、現在の消防大学校はどうでしょう?

 勉強する環境も整っています。

 お金もそれほどかかりません。

 当時は「異常の中の正常」で、正常に勉強だけしている人が異常だ、と思っていました。

 今はその逆になっていますから皆さん安心してください。

 
 そして・・・消防大学校を無事に修了し帰ってきました。

 

 ちょうど、特別救助隊が設置された時代で、私が学んだ(一応、勉強は居眠りしないで頑張りました)ことを持ち帰り、救助活動マニュアル、安全管理規程などを策定しました。

 

 「天狗になる」という言葉があります。

 しかし、天狗になったらダメですね・・・自分が見えなくなります・・・

 その時はいいかも知れませんが....人間としての成長も止まります。

 

 平成2年 二女が誕生しました


 

 翌平成3年には、係長として3回目の異動が待っていました・・・

 

 ・・・・・ところが、辞令書が2枚もある。なぜ?

 

 平成 2年10月23日 第4級アマチュア無線技士 取得

 


再開版 消防人生(自分史) 6 昭和61年(1986年) 新消防庁舎完成・・・昇格早々入院!

2012年03月31日 | 消防防災人生(自分史)

 昭和61年 消防署本署予防係長 胃がんになる!

  消防職員数93人  彦根市人口94,625人(管内人口120.674人)

  第11代消防長 西山重次 氏(平成61年4月~平成元年3月)

 

 この年、消防新庁舎が完成しました。

 これは、現在の庁舎なので、当時は右側の指令施設棟はありませんでした。          

  
 

 私は消防所本署に新設された部署の予防係長に昇格しました。



 ところが・・・・ 

 

 この年の12月に職場の定期健康診断、これまで胃部検診は40歳からでしたが、この年、はじめて5歳引き下げられ、35歳から受診するようになりました。


 私は35歳になって初めて胃部検診を受けました。

 

 ところが・・・・

 

 受診後、3日目に直接人事課から電話があり、すぐに市立病院に行くこと!

 

 なんで?

 

 なんと、胃がんです。

 すぐに手術をしないと命が危ない!

 年末でしたので、確かクリスマスの日に入院、翌年の正月早々に手術です。

 手術は通常4時間のところ6時間半かかりました。手術時間は長い方が良いらしいです…

 

 ・・・・・・・・・そして復活!・・・・・元の予防係長に


 この体験を市内部広報誌に「定期健診のすすめ」という題名で投稿したとろ、反響が大きく、県の広報誌にも掲載していただきました。

 その落ちは、「これで私はタバコをやめました」です・・・

 

 しかし、しかし、しかし、その後すでに23年が経過し、今、タバコを吸っています。(嘘の人生)

 注) たばこは、その後も禁煙に挑戦しましたが2度失敗、しかし、平成22年9月に、iPhoneの禁煙アプリを使って禁煙継続中です。現在、禁煙生活も1年半を超えました。

 

 話を元にもどします…

 主治医からは「あと半年遅かったらあなたはこの世にいないでしょう、よかったですね」と言われました。

 

 あれから25年、まだ生きています。

 

 こんな私が第19代の消防長になってしまいました。人生はわからないことばかり・・・

 

 その頃を振り返りますと、仕事もしましたが、飲み会も主導し、おまけに少林寺拳法も独立して支部長をしていましたから、家族はたまったものではなかったでしょうね。

 

 今頃、反省しても遅いですが…

 

 そういえば、健康診断を受ける前の1年間で体重が5kgほど減りましたが、太田胃酸のお世話になっていたものの、自覚症状はありませんでした。



 人間は生かされているのでしょうね…

 

 その時、手遅れで死んでいたら、上は5歳と下は1歳の子どもを抱え、私は一人っ子ですから、妻はどうしたでしょうか・・・ねぇ?


 神様から、お前はどうしょうもない人間だから、もう少し生きて、人生で償えと、言われていたのでしょう・・・

 その時は少しも悟っていません・・・が。

 

 昭和62年には特別救助隊が設置され、30m級はしご車も配備されました。


 入院、手術などで、3か月のプランクはありましたが、復帰後、予防係長として新設された組織の充実に努めました。

 

 結果として、現在の消防署の指導係の原型を確立することができました。

 

 2年後、今度は消防本部警防課救助救急係長に任命されることになります・・・・

 
 


再開版 消防人生(自分史) 5 昭和60年(1985年) 24時間拘束16時間勤務から毎日勤務へ! 

2012年03月31日 | 消防防災人生(自分史)

 昭和60年 消防本部予防課勤務

  消防職員数93人   彦根市人口94,204人(管内人口120,185人)

  第10代消防長 青木辰男 氏(昭和59年4月~昭和61年3月)

 


 この時代は、全国の消防組織が大きく変化し始めた時期です。

 消防の組織は「消防組織法」に、消防業務は「消防法」にそれぞれ定められています。

 社会経済が活発になるにつれ、消防法に基づく「火災の予防」、「危険物規制」、消防用設備等の届出、設置に関する業務」、「防火指導」、「立ち入り検査」など、本来の「火消し」以外の業務が推進されるようになりました。
 


 私は、24時間2交代の勤務から、毎日勤務(朝起きて夜寝る)の消防本部予防課に配属されました。

 これまでの生活とは180度違います。夕食の煮込みハンバーグを10個以上作ることもなくなりました。


 毎日、書類の山です・・・

 

 この時、改めて法律に基づく仕事をしていることを認識しました。そういえば私は法学部卒業?

 日本は法治国家です。

 何千、何万という法律、省令、規則をはじめ告示や公告、さらに市町村条例、その規則、そのまた訓令などなど。私は文書作りに没頭しました。

 振り返れば、この頃の事務処理で、ささやかながら「行政」とは何ぞや?を学んだように思います。


 この時期、指令室に地図検索装置も導入され、また、これまで手狭だった消防庁舎の移転、建て替えに向けて動いていました。

 

 あらゆる面で組織が前進していたことを、今更ながら実感しています。

 いわゆる「箱物」、「箱物」と国の補助金も裕福でしたから・・・

 
 この仕事は、わずか1年。

 誰が決めたのか、翌年、「消防司令補」に昇格することになります・・・・



 この年、長男が生まれました・・・・

 

 


再開版 消防人生(自分史) 4 昭和57年(1982年)  本署第2分隊長!

2012年03月31日 | 消防防災人生(自分史)

 昭和57年 消防署本署 第2分隊長

 消防職員数89人  彦根市人口90,611人(管内人口116,392人)

 第9代消防長 松本 弘 氏(昭和57年4月~昭和59年3月)




 消防人生をスタートし8年目を迎え、「どうでもいいや!」という気持ちで社会に入った私ですが、やはり職場は甘くはありませんでした。

 この年の10月異動で、「分署」から「本署」に配属されました。

 

  しかも、「分隊長」です・・・


 ここで、少し消防署のことを説明しておきます。

 わかりにくいのですが、一般的に「消防署」と呼ばれているところは、火災や救急のいわゆる現場活動をするところを言います。

 その消防署を管理監督する組織が「消防本部」です。規模の大きいものを「消防局」と呼ぶ場合もあります。
 

 ですから、「消防本部」がいくつもの「消防署」を管理している場合があります…

 彦根市消防本部は一つの消防署だけを管理していますので、「1本部1署」と略して言うこともあります。

 中核となる消防署を「本署」と呼び、その傘下に「分署」を設けています。

 あくまで彦根市の場合は、ということで受け取ってください・・・

 

 さて、話を戻します。

 私は、この8年間、「志」だけは高く持っていましたが、ろくに仕事をしていません。

 

 その私が「分隊長」・・・誰が選んだの?

 

 しかも私一人だけが異動し、本署の第2分隊長となりました。

 「分隊長」とは、平たく言えば、1台の消防自動車の責任者(指揮者)です。

 すでに同期の職員は本署の仕事にも慣れ、バリバリやっています・・・・

 私と同格の第1分隊長や救急隊長は私より3年以上先輩でした。

 消防の世界は年功序列が強く、まして階級世界です。

 「イジメ」と「指導」は紙一重、今でいう「パワハラ」の世界です。

 基本的には「当たり前の男の世界」ですけれど・・・

 

 この時、この世界の中でものを言ったのが、高校時代からやっていた「少林寺拳法」でした。

 私は少林寺拳法をやっていなかったら、間違いなく、ここで挫折していましたね。

 俗に言う「一目置く」という感じ・・・かな?

 

 先輩もその場で怒らず、わざわざ別の場所で気を使って注意していました。(笑)

 勿論、拳法を使って私から危害を加えることなどしませんでしたが・・・・・・

 

 この世界で、何も知らない者が職員(隊員)をまとめ、率先垂範、指導する立場になることは並大抵ではありません。

 ここで私は・・・・・見事に打ちのめされました。(汗!)



 この時、私は仕事に対する考え方を大きく変えることになりました。

 いやいや変えなければならないようになってしまいました。


 人の3倍、いや5倍、仕事に打ち込むことで、「あいつはできない」というレッテルを剥がしていきました・・・・時間はかかりましたが…

 

 人間、こういう試練がなければ意識も変わりません。

 ただし、人間、それぞれの特質や環境も違います。

 全ての人間を指して言っているのではありませんので、お間違いのないようにお願いします。

 

 そして、本署の3年間も終わりに近づいて、第2分隊長として何とか認められるところまできました。

 これも自分が勝手に「認められた」と思っているだけですけれど…

 

 この頃から、全国的に火災予防の仕事が消防機関の仕事として明確になってきました。

 

 この後、24時間拘束16時間勤務から毎日勤務を経験することになります。

 現場からはじめての本部へ…

 

 

 


再開版 消防人生(自分史) 3 昭和56年(1981年) 犬上分署配属!

2012年03月31日 | 消防防災人生(自分史)

 昭和56年4月 消防士長 分署へ配属

  消防職員数89人 彦根市人口90,088人(管轄人口115,845人)

  第8代消防長 川嶋眞次 氏(昭和55年4月~昭和57年3月)

 

 私は、38年の消防人生で、唯一、この時期1年半を消防署の分署である犬上分署で過ごしました。

 当時、犬上分署の周りには、何にもありません。

 ただただ田んぼばかり・・・

 

 今でこそ、分署の前にスーパー、銀行などが進出しましたが、当時は、周り全てが田んぼです。

 分署の横には小川が流れ、サワガニやドジョウ、実にのどかな環境で、夜はカエルの合唱でした・・・・

 
 私は救急車に乗って救急業務に従事したのは、新人として本署に配属していた当初の半年と、今回、分署に配属されたこの1年半の合計2年程度しかありません。

 失敗談はいっぱいあります。一例として

 ヘルメットを被らず救急隊員として出動したこと・・・・はずかしい、はずかしい、やはり、ヘルメットは個人を隠す道具なのです。

 靴を履かず、スリッパで行ったこともありました。おはずかしい・・・

 救急で搬送先病院を行き過ぎ隣の市まで走ったこと・・・救急隊長が怒られましたが・・・私の責任です。

 熟睡して出動に遅れて消防車のステップに乗って現場へ・・・

 それでも不思議と怪我だけはなかったですね・・・・・また、処分もされませんでした。

 今と違って平和そのものでした・・・

 この環境ですから、夕食も自然素材がおかずです。

 サワガニの天ぷら

 ドジョウの柳川なべ

 すっぽんのすき焼き

 山菜の天ぷら

 すずめの焼き物 

 etc・・・・・・

 

 この年、長女が誕生しました…


 この時は、1年半後に待っている試練など、まったく考えなかった自分がありました。

 現在の仕事の中で、この時代の「ゆとり」はありません。(これを「ゆとり」と言うのか?)

 

 わずか30年余りで大きく社会環境が変化したと言えるでしょう・・・これが高度化なのか…

 

 この時代、消防の世界は、男だけの社会なので「セクシャルハラスメント」もありませんでした。

 「いじめ」、「パワーハラスメント」なども認識されていませんでした。

 本当は存在したのでしょうね・・・それだけ頭が回っていないということか…

 

 今から考えると、こんな環境や時代があったのですね、本当にわずか30年前なのに・・・・・

 

 

 では、次にいきます!

 

 


再開版 消防人生(自分史) 2 昭和53年(1978年) 消防士長昇任! 

2012年03月31日 | 消防防災人生(自分史)

 昭和53年 消防士長に昇任  指令室勤務

  消防職員数88人  彦根市人口87,690人(管轄人口113,361人)
 
  第6代消防長 馬場貞造   氏(昭和50年4月~昭和52年3月)
  第7代消防長 尾田雄治郎 氏(昭和52年5月~昭和55年3月) 
 



 ここで、消防の階級と組織について、簡単に説明します。

 最初は「消防士」、次に「消防副士長」(当時この階級は使用していませんでした。)、そして「消防士長」となります。さらにその上位は、「消防司令補」、「消防司令」、「消防司令長」、「消防監」となります。

 消防は法律(消防組織法)で市町村の責任とされており、自治体消防という位置付けです。

 したがって、消防本部の規模によって階級もさらに上位の「消防正監」、「消防司監」、「消防総監」を使用することになります。

 全国には798の消防本部があります。(以前は930ほどありましたが、消防の広域化の推進や市町村合併で減り続けています。)

  最も規模が大きい消防本部が東京消防庁で、職員数は約1万8千人、最も小さな消防本部では30人規模のものまで様々です。

 と、こんな話では、これ以上読みたくないですよね・・・次の話題へ

 

 私は、昭和53年に消防士長になるための試験を受けました。

 前回ブログに書いたとおり、仕事に来ているだけで、本来的に仕事をしていない私ですが、さすがに試験を前にして、昔を思い出したように必死で勉強しました。

 何しろ、就職当時は、消防職員の仕事を馬鹿(仕事そのものを馬鹿にしていたのではありません)にしていた私ですから。

 本当のところ、こんな人が消防長になってはいけないのだと思います・・・・申し訳ありません。



 そして、無事、昇任試験に合格。

 しかもトップで…次の人事異動で指令室に異動し、「消防士長」に昇任して配属されました。

 つまり、階級が上がったわけです。

 そして初めて異動した先が「指令室」でした。指令室は、119番通報を受けるところです。

 今の通信指令課の仕事と基本的に同じですが、今日では、空調管理された室内にコンピュータが並び、各種情報処理機器に囲まれています。
 
 当時も、指令台にヘッドマイクを付けて座っていました。

 

 暇で、暇で・・・、一日タバコは60本!しかも指令台の上に灰皿です。(もくもく…もくもく)

 考えられない常識ですね。

 

 ここでも私は、新米ですから、夕食当番。相変わらず煮込みハンバーグも作ります・・・

 

 しかし驚かないでください!

 夕食は指令室内で焼き肉、ホルモンです。

 ガスコンロで煙モクモク、タバコもくもく、機器に対する空調管理などあったものではありません。(苦笑)

 今では考えられない事実!?

 この時点でも、私は、まだ仕事らしいことをしていませんでした。(ここで言う仕事とは、自分が信念を持った仕事という意味です。)
 

 

 そして指令室勤務の3年目に結婚しました・・・

 

 その後、指令室から分署へ異動、今度は、カエルとドジョウの田舎の世界、びっくりしますね・・・

 

 乞うご期待!

 

 
 昭和50年 3月20日 少林寺拳法大拳士五段 允可


 

 


再開版 消防人生(自分史) 1  昭和49年(1974年) プロローグ 消防士拝命!

2012年03月31日 | 消防防災人生(自分史)

 平成24年3月、38年間の消防人生を彦根市消防長で無事に定年退職することができました。

 

プロローグ

 この消防人生(自分史)は、実のところ、約1年半前の平成22年8月に投稿を開始したものです。

 しかしながら、1回から17回まで、その時点の最終のブログ投稿をした段階でクレームがありました。

 きついクレームではなかったのですが、現職の消防長が個人的ブログであると言っても、それは通らないと感じて、一旦、ブログ記事を削除することにしました。

 とは言っても、記事を「投稿」から「草稿」に設定しただけですが…これでブログ上からは消えました。

 

 結果、それから今日まで、この記事は消えていました。

 

 そして、この度、無事、38年間の消防組織から離れましたので、社会的ルールを逸脱しない限り、言論の自由もあるだろうと、ここに改めて再開版を投稿することにしました。

 内容については、公に発表されている情報は記載し、個人に対しては名誉棄損とならないよう配慮することなどに注意して、再度、内容を見直したうえ投稿することにしたものです。

 その結果、以前とは違い、面白さは少し失われたかも知れません。

 

 なにはともあれ、ここからが改めて「自分史」のはじまりです。再開版 消防人生(自分史)にお付き合いください…  

 

 

 昭和49年 消防士     

  消防職員数69人   彦根市人口83,641人(管轄人口109,280人)  

  第5代消防長 本 一雄 氏(昭和49年4月~昭和50年3月)

 

 

 昭和49年3月、中京大学法学部法律学科を卒業し、地元、彦根に帰って消防士になりました

 ・・・・と言えば、聞こえはいいのですが?

 

 大学4年の早い時期に、名古屋で就職は内定(東証一部上場企業でした。)していましたが、長男だからと母親の泣き落しで地元に帰ってくることになったのです。

 (今思えば東証一部上場の企業ですから、惜しかったかな?)

 半分、ヤケクソでどこでもいいから就職しなければ、と、親の勧めるまま、急きょ公務員を目指すことに・・・

 (今から思うと、親の判断は正しかったのかも知れません。)

 当然のことながら、大学時代、少林寺拳法しかやっていない私の脳みそでは、彦根市の上級職試験に合格などするわけがなく、消防職員なら空きがありますから、と言う話で、そのままこの世界に飛び込みました。

 今の時代と比較するような話ではありません・・・

 

 そのような訳で、昭和49年(1974年)4月1日、彦根市消防本部に就職し、消防士笠原恒夫が誕生しました。

 

 まさか、この時、こんな動機(まったく立派な志ではなく…)で就職した私が消防長になるとは、思ってもいませんでした・・・・・

 

 当時の消防本部は、消防隊員が市民から直接119番の火災通報を電話で受け、そのまま消防車に飛び乗り火事を消すことが仕事の中心でした。俗に言う「火消し」!

 私が就職したこの年に、「指令室」という119番を専門的に受ける部門ができました。

 電話が普及していない、その前の時代では、望楼(ぼうろう)という消防庁舎の櫓(やぐら)から職員が交代で「火の見」をしていたようです。


  
 こんな私が消防に入って、最初に感じたことは、「なんと楽な職業だ、まあいいか」でした・・・トンデモナイ奴ですね…

 採用された15人のうち、大学卒業者は私だけ、職業経験のある人や高校卒業見込みの人など…今、同期は11人残っています。いや、私ともう一人が希望退職で抜けたので、9人になりました。


 

 当時は、毎日が訓練です。訓練は10分、休憩は1時間でした。(それでいいのか?)

 24時間勤務ですから、交代で仮眠です。

 フトンは今のようにリースではありません。

 自らがフトン干し、シーツ付け、もちろん新米は夕食当番です。

 煮込みハンバーグも作りました・・・・


 
 今思うと、この年から少なくとも10年以上、まじめ(様々な解釈はあります)に仕事をしたとは言えません。

 思えば「行雲流水」のごとく、始まった私の消防人生でした…

 

 朝9時に次の24時間を担当する班と交代です。(現在では朝8時半交代こ変更されています。)

 

 基本的に9時から次の日の9時までが非番です。

 公休日は月2回割り当てでした。

 当時は、週休2日制などトンデモナイ話です。適当に週休日を交代して一カ月近く休みなしで勤務したこともあります。


 

 様々な考え方はありますが、ある意味、こんな生活は、若い人間には毒になりますね。

 前日の仮眠は職場でしっかりとり、非番は朝から喫茶店、10時の開店と同時にパチンコ屋さん。

 夜は袋町という歓楽街orマージャンです。

 よく遊びました……今、考えると、この「遊び心」が良い方向に作用し、仕事の改善につながったのではないかと思います(笑)。

 

 当時は、総理大臣田中角栄の独壇場、「日本列島改造論」で景気は右肩上がり、当然、公務員と民間の給与格差を是正する、いわゆる「差額」が年末に出でいました。

 その額、なんと、ボーナスより多いのです・・・
 
 いい先輩ばかり?

 差額は1週間で先輩に連れていってもらった袋町の飲み屋さんにお支払いしてしまいました。(笑)

 

 振り返れば、私は、この時期、これと言って仕事をしたという感覚はありません…その反動は、その後にありましたけれど。

 

 2年ほどの訓練で、私は、消防自動車を運転し消防ポンプを操作して自然水利や消火栓から吸水作業をする「機関員」をさせていただきました。

 さすがに初めての火事は、回転灯を点灯し、ウーウーカンカンとサイレンを吹鳴して出動する時、アクセルを踏む足がガタガタ震えたことを思い出します。

 この時期、私は、仕事はほどほどにして、少林寺拳法に打ち込みました。

 その結果、社会人の関西大会に組演武三段以上の部に出場し、並み居る京都勢を抑えて決勝に進み、第3位に入賞しました。 

 

 今の時代では考えられないことばかり…

 

 次は、3年後、消防士長昇任、指令室勤務の話にしましょうか・・・・

 

 昭和49年 7月 9日 赤十字救急法普通科講習 修了 

 昭和49年 8月 7日 特殊無線技士(無線電話乙) 取得

 昭和50年 3月20日 危険物取扱者乙種第4類 取得

 

 


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