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かごめかごめの真実とは

空海様が私に教えてくれた秘密の暗号

鶴島、亀島は山として今も残っています。 魏志倭人伝に記載された20日で着く投馬国の港は大門です

2015-09-16 14:19:21 | 邪馬壹国

2015年9月16日(水)

2015年9月15日にスタップサロン鍼灸院に広島からKさんご夫妻が来られました。

「大門から来ました」と言われます。

私は大変うれしく思いました。

魏志倭人伝に記載された20日で着く投馬国の港は大門なんですね。 

そこには江戸時代まで 鶴島、亀島があって、それはそれは風光明媚な港だったでしょうね。

今は、海が埋め立てられてしまっていますが、鶴、亀の山は今でも残っていますよ。

邪馬台国の謎を解こうと思ったら、カバラ(生命の樹)を理解し、その隠されたカバラの図形と磐座や神社や寺を照合しないと解けません。

机の上では解けません。 答えは山と磐座が知っています。 そしてその場所へと行けば教えてくれます。

 2013年1月6日未だ正月休みも開けないときに急に思いたって電車に飛び乗って一人で大門に行った日のことを思い出しました。

大門町誌「大津野のあゆみ」の上古大津野沿岸図の中に鶴島 亀島 が記されていたので、それを確かめに行ったんですね。

その時の写真は、「邪馬壹国 保存その3」に残していました。

その日、大門についてから空に浮かぶ怪しい雲の気配をづっと感じていた私でしたが、最後の最後に大門のホームに立って、鶴島 亀島を再度眺めていたとき、

ハッキリと鶴と亀の雲を私に見せてくれたのが、今でも忘れられません。 電車が入ってくる寸前でした。

   

 2013年1月6日 12:57 の撮影記録です。 鶴と亀、 分かりますかぁ!

・・・

ご主人様が施術されている間に、奥様に大門のことなどいろいろ教えていただきましたが、目に見えない誰かをお連れになられたのか、

またまた何かが始まるのか・・・。

施術を終わられたご主人様の表情は、最初の顔の表情とは全く違って見えました。 

スッキリ、シャキーン!と 健康そのもののお顔に変身して見えました。

テラファイトもお買い上げいただきましてありがとうございました。

テラファイトを大いに活用していただきまして、健康体で暮らされることを祈念いたします。

遠方より本当にありがとうございました。 感謝します。

  

 

大門はイエスの生命の樹の十字架で言えば、丁度その交点になります。 いかに重要な場所かということです。

生命の樹で言えば、セフィラの11番目のダートにあたる部分が現在の総社です。

間違いなくそこを中心に宮造り、都造りが進められ、そこへの入り口が大きな門、 大門という地名が現在まで残されています。

初代大王、大国主命=イエス・キリストが設計したカバラを見る限り、現在の首都東京に例えるならイエスはそれを岡山の総社に決めています。

神社で言えば、本殿が岡山の総社で、その入り口が大門。 奥宮が埴岡の里(現在の兵庫県生野、神河町)でした。

卑弥呼がいた邪馬台国の時代は、纏向(奈良)が首都的な栄え方をしたでしょうが、イエス様が活躍した99年までは一番栄えた都市は、現在の岡山だったであろうと私は考えています。

 


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神河町へ行かれることがありましたら

2015-08-14 17:26:37 | 邪馬壹国

2015年8月14日(金)

この我が国の礎を築かれた大国主命=イエス・キリストの墓が、神河町の山頂にあります。

国土地理院の位置情報です。

住所:兵庫県神崎郡神河町南小田(付近の住所。正確な所属を示すとは限らない。)

35度6分43.43秒 134度42分44.46秒

35.112063,134.712349  ズーム:17

UTMポイント:53SMU73798551

標高:833m(10m)

地理院の3Dで見ても、山頂の険しい場所に陵墓が造営されていることが分かります。

  

http://cyberjapandata.gsi.go.jp/3d/site/index.html?did=std&lat=35.11119388441044&lon=134.7131109237671&z=14&cpx=10.334&cpy=-15.385&cpz=34.702&cux=-0.370&cuy=0.037&cuz=0.928&ctx=0.000&cty=0.000&ctz=0.000&a=1

 

 中央の山の左がイエス・キリストの墓です

 

 

 

イエス様同様、その方の直系である卑弥呼さまにも手を合わせていただきましたら嬉しく思います。

女王卑弥呼の陵墓です

卑弥呼さまの位置情報は、

 

卑弥呼の墓

 

住所:兵庫県神崎郡神河町大山(付近の住所。正確な所属を示すとは限らない。)

35度6分33.69秒 134度46分1.25秒

35.109360,134.767013  ズーム:17

UTMポイント:53SMU78778520

標高:777m(10m)

 

 

 


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銅鐸は測量器械で、紐は下げ振り(舌)用の紐です。

2015-08-13 15:12:20 | 邪馬壹国

銅鐸は測量器械で、巴型銅器と有鉤銅釧 は銅鐸の吊り金具でした 

銅鐸にひも初確認

 2015年8月12日の神戸新聞NEXTに銅鐸のひもの記事がありますねぇ
 
  • 舌の上端。茶色く残っているのがひも(奈良文化財研究所提供)
    舌の上端。茶色く残っているのがひも(奈良文化財研究所提供)
  • 小さい銅鐸の舌。上端の穴にひもが残っていた。下端に付着しているのは植物(兵庫県南あわじ市教委提供)
    小さい銅鐸の舌。上端の穴にひもが残っていた。下端に付着しているのは植物(兵庫県南あわじ市教委提供)

 木に銅鐸つるして鳴らす

 兵庫県南あわじ市(淡路島)で見つかった弥生時代中期(紀元前3~同2世紀)の「松帆銅鐸(まつほどうたく)」について、県教育委員会などは12日、音を鳴らすため内側につるした青銅製の棒「舌(ぜつ)」と、銅鐸のつり手部分の「鈕(ちゅう)」にひもの一部が残っていたと発表した。銅鐸でひもが確認されるのは初めて。専門家は「銅鐸を木などにつるして鳴らしたことが裏付けられた」としている。

 県教委などによると、発見された銅鐸7個のうち、大きい銅鐸に小さい銅鐸を納めた入れ子状態の1組2個を分離して調べたところ、大小それぞれの銅鐸で、ひもが舌の穴に通された状態で確認された。

 ひもは、植物繊維をねじったり、組み合わせたりしており、太さ4~5ミリ。銅鐸内面の下方の隆起した「突帯(とったい)」に、ひもでつり下げた舌をあてて鳴らしたとみられる。

 大小いずれの銅鐸の鈕にも太さ2ミリ程度のひもや痕跡があり、つり手にひもを巻いてつり下げたらしい。

 ひもの原料は麻か、イラクサ科の多年草「からむし」の可能性があり、銅鐸から溶け出した銅イオンの防腐効果で残ったとみられる。舌の下端や銅鐸内部にはイネ科などと推定される草の葉らしい植物も付着。県教委などは放射性炭素年代測定などで分析し、銅鐸の使用や埋納の時期を調べる。

 調査した奈良文化財研究所(奈良市)の難波洋三・埋蔵文化財センター長は「ひもが残っていたのは奇跡的。銅鐸の具体的な使い方を示す発見だ。銅鐸が埋められた時期を知る手がかりになるだろう」と話した。

 13~16日に南あわじ市滝川記念美術館でひもの写真などが展示される。問い合わせは同館(0799・36・2314)。

・・・

 2000年前に埋められたとして、紐が完全に微生物に分解されずに残っていたことは、舌を鳴らすわずかの長さよりもっと長い紐ということが言えます。

ますます銅鐸は測量器械だったことを証明する発見ですね。

 

銅鐸は測量の道具だった

 

巴型銅器も水平微調整の器具でした!

上森が教えられ、解明してきたことの多くは、今の時点では、日本の常識とは異なる異説で、首を傾げる人も多いかもしれない。しかし、銅鐸は測量の道具だった、とする上森の意見は、一級建築士として自分の事務所を構えていた上森ならではの観察眼と知識に基づくものだけに、万人に受け入れられる説得力がある。

 

 銅鐸は、紀元前2世紀から、紀元2世紀に至る弥生時代の約400年間、日本列島で使われていたが、その後姿を消した、謎の青銅器である。

その用途も不明で、研究者の多くは祭祀に使われたのだろうとみてきた。内部に木や青銅でできた「舌(ぜつ)」と呼ばれる部品を垂らし、銅鐸そのものを揺らすか、舌のみを揺らして内面にあてて音を出したというのだ。

つまり、風鈴の元祖で、その後、巨大化して、鳴らすものではなく、飾り物になった、というのだ。

 

これまでに発掘された銅鐸の形は、いずれも似たような形をしている。上の図は、代表的な形である。

では、ほとんどの銅鐸に共通する要素は何だろうか?

 銅鐸は構造上は本体の「鐸身(たくしん)」と上部の「鈕(ちゅう)」に分けられ、鈕の真ん中には穴があいており、鐸身は末広がりになっているのだ。

 デザイン的には、直線で末広がりになっているものと、流線で下の方ほど広がりが大きいものがある。

そして、鈕と鐸身をぐるっと囲むように鰭(ひれ)がついている。最も初期のものには鰭がないものもある。

後期のものほどサイズは大きく、鰭に「飾り耳」と呼ばれる突起が付いているものもある。

 鐸身に文様のないものもあれば、「流水文」、「袈裟襷(けさだすき)文」や、人物や動物などの線画の描かれたものなど、装飾デザインは、様々だ。

 銅鐸の構造で、上森が気に留めたのは、鐸身に穴があけられていることだった。研究者には、「型持穴(かたもちあな)」と呼ばれている。「舞(まい)」と呼ばれる鐸身上面の平らな部分、鈕の穴を挟むようにふたつ、鐸身の上部の鰭に近い部分に表裏に各ふたつ、鐸身下部には、「穴」というより「刻み」のような形で、表裏各ふたつと、合計10コの穴があいている。

 「型持穴」という名称がつけられたのは、それらの穴が製造過程の副産物だと考えられたからだ。鋳造するときに、内型と外型の間に青銅を流し込むための隙間が必要となり、隙間の厚さ(=鐸身の厚さ)に相当する高さの「出っ張り」を内型に作っておいたものが、穴として残った、と推測されたのだ。

ちなみに銅鐸の鐸身の厚みは2~3ミリで、現代の鋳造技術でもこの薄さできれいに鋳造するのは困難だそうだ。だとすると、銅鐸そのものが「オーパーツ」(作られた当時の技術がその後失われてしまった工芸品)と言ってもよいかもしれない。

 もしこれらの穴が「型持穴」なら、穴の数や位置が決まっている必要はあっただろうか?そもそも、優れた鋳造技術とデザイン感覚を持った古代の銅鐸の製作者たちが、不要な穴を残したとは、考えにくいのではないか?

この穴に着目した上森は、銅鐸は実は古代の測量機器だったのではないか、と考えるに至った。鐸身の上部に開けられた穴には目的があり、双眼鏡のように、両目で「覗くための穴だ」というのだ。

2013年8月28日に、上森は出雲の歴史博物館に展示されていた銅鐸を使って、それを確認している。

「銅鐸の細いほうから両眼で穴を見て、反対側の穴を見通すとどうでしょう・・・! 暗い中に焦点が1点に綺麗に映し出されたのです」

 

 

 つまり、遠くの観測点に向かって、正確に銅鐸の向きを決められる、というのだ。遠くの観測点には、銅剣を立てておいたのであろう。この説ならば、穴の位置も合理的に説明がつく。

 さて、これまでの定説では、銅鐸の上面の「舞」にある2つの穴も、「型持穴」だが、それらは内側から鐸身をたたく「舌(ぜつ)」という部品を吊り下げるための鎖かひもを通す穴も兼ねていた、とされている。

 

 

しかし、銅鐸を測量機器として見直すと、異なる説明も可能になる。

現在の測量でも、基準となる地点の地面には、石や金属で目印を設置する。三脚を立てて、三脚の上の「レベル」という測量器具がその基準点の真上になるように、「下げぶり」という分銅を垂らして、位置決めをする。

上森によれば、銅鐸はその「レベル」にあたる器具であり、やはり、その中心から分銅を垂らして、基準点の真上に設置する。舞にある穴はそのために使われたのだ。

 

 さらに、上森は、鐸身下部の「刻み」や「飾り耳」の用途も解明した。

   

上図のように、細いひもを鈕の最上部の「飾り耳」に架け、次に鐸身横の「飾り耳」、さらに、下部の「刻み」に架けてから交差させる。同じ幅でそのひもを固定する装置を地面近くに作っておけば、交差したひもが触れ合うことで銅鐸はしっかりと固定されて安定し、きちっと観測点の方向を示す。

また、地面に置いた器具も同じ方向を示すことになる。

 

おそらく、「飾り耳」を考えつく前には、鈕の穴と下部の「刻み」だけで、同じことをしていたのではないだろうか。やがて、ひもが固定しやすく、ひもの長さも調整しやすいようにと、現場の声を生かして、デザインが改良されて、「飾り耳」がついたのだろう。飾り耳は「飾り」ではなく、フックだったのだ。

 

上森は、銅鐸と一緒にしばしば出土する銅鏡も、測量現場で分度器や水平器として利用されていた、と考えている。また、銅鏡は光通信の道具でもあったのかもしれない。

 

上の写真は、銅鐸と同時代に作られていた青銅製品で、一般には有鉤銅釧(ゆうこうどうくしろ)と呼ばれている。

釧(くしろ)というのは、腕輪のことだ。

沖縄など南の海で採れるゴホウラという貝で作った腕輪を青銅で模倣するうちに、このような鉤(かぎ)のついた輪の形になってしまったと言われている。

誰がどう考えても、腕輪としては形状が異常なだけでなく、危険でさえあるこの有鉤銅釧は、上森によれば

銅鐸を使った測量現場では大活躍の道具になる。

上森はこの有鉤銅釧を「銅鐸吊り金具」だったと見ているのだ。

 前述のように、「舞」にあいている穴は、舌(=下げぶり)を吊り下げるための鎖かひもを通すために使えるが、神戸市渦ヶ森で発掘された銅鐸などのように、舞の裏側の中央に環がつけられているものでは、この穴を使う必要がない。

 そこでこの「吊り金具」の出番となる。

 適当な長さの1本のひもを、2つの「吊り金具」の輪の部分に通してつなげて、ひもを結んで輪にしておく。それを組んだ木に架けて、「吊り金具」が下にぶら下がるようにする。そこに銅鐸を持ってきて、鉤の部分を舞にあいた2つの穴に両側から引っ掛けるのだ。

 この組み合わせで、銅鐸の取り外しが楽になり、ひもを架けて調節する際にも、ひもが絡まったりせず、より使いやすくなる。

        

 

上森は言う。銅鐸は「倭国大乱」以前に使われていた測量機器で、最も進化した形で使われたのは、イエス・キリスト=大国主命が大王として国造りをしていた時代であり、キリストの死後、戦乱の中では測量さえもできなくなったので、地中に埋められるなどして廃棄されたのだと。

 

銅鐸は測量器械である。銅鐸には穴があって、風鐸には穴がない。

 


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邪馬台国新論

2015-08-11 12:34:48 | 邪馬壹国

2015年8月11日(火)

       秘密NIPPONの《超建国》裏返史  11月発売予定!!

プロローグ       

 朝、電車の窓から何の気なしに空を見上げる。うわ~~~、きれい!! なんだろう、あの色・・!! 白いモコッとした雲のわずかな切れ目に、うすい紫がかったブルーの、神秘的な色。その一層の雲は、まるでこの世とあの世を繋ぐトンネルの入り口のように見えた。あまりにも美しい、その色をとおして、神様が「それでいいんだよ」と応援してくれているようだ。

 私が不思議な世界へと誘われて丁度5年が来ようとしている。

 一切の宗教にも関わりのなかった私だったので、神社にもお寺にも教会にも行くことが無い人生を送っていた。でも、物心ついた頃からというのか、自我がハッキリと芽生え出した頃からというのか、なぜか、「神様も安心して姿を現す世界を造らなければ・・」と、いつも思っている私がいた。

 私は、少年時代から、ひとりで寝転がって空を見るのが、とても好きだった。

 宗教が説く神様ではなく、生まれた時から、いや、生まれる前からかも知れない、私を誰よりもよく知ってくれている、ある絶対的な存在がいて、それを私は「神様」とよんでいる。

 56歳7ヶ月のあの時まで、私は、ただただ一方的に神様に話しかけるだけで、神様が言葉を発してくれるとは想像もしていなかった。黙って空をながめては雲の形や流れを楽しんだり、野山を吹き抜ける風に身をさらして心地よい思いをしたりして、神様を感じていた。私にとっての神様は、そんな寡黙な存在だった。

 ところが、2010年8月11日、56歳7ヶ月のその日、私は、初めて、はっきりと、神様の声を宗像大社で聞いた。

よぉ来たのぉ

これが神様からの初めての言葉だった。そして、その時から、私は、神様が私に語りかけてきてくれる声が、だんだん分かるようになった。それは、しばしば直接的だったり、「そう言われている“気”がする」という状態だったり、また多くの場合には、人々の口を通して伝えられてきたりする。

 その声の主は、時に左耳から聞こえるのは空海様のようであったり、右耳から聞こえるのは天皇家の誰かのようであったりもする。そうやって聞こえてくると、ほとんどの場合、言われるとおりに動かないと、居ても立ってもいられない心境に追いやられる。

 まだ初期の頃のある時、私に契約を迫った神様との交渉の中で、白紙委任状にサインさせられる、という事態まで起きて、それまでの、ごく普通の生活を一変しないとならなくなった。建築家としての仕事はもちろん、偶然に偶然が重なってできあがった超自然的な器具ネオガイア・テラファイトを製造するにも販売するにも十分な時間を与えられることなく、神様の指示に、ただひたすら従う、という生活に完全に変えられてしまった。

 神社仏閣にもほぼ無縁の生活を長い間送ってきた私が、数え切れないほど次々と寺社めぐりさせられたり、穴掘りさせられたり、山登りさせられたり、事務所にいればいたで、テーブル上に大きな地図を広げて、真剣に、行ってきた場所や脳に響いてきた場所にポイントを打って、無数の線やら図形やらを描き続けて、一見、仕事らしい仕事もしなくなってしまった。かつての私を知る人達が皆、異口同音に「上森は頭がおかしくなった。気がふれた」と言って、去って行ってしまわれたのも無理からぬことと判っている。

 こんなにまで私を使って、神様は、いったい何をしたがっているのか? 契約を迫ってきた時、神様は必死の様子で「時間がない! 時間がない!」と怒るように言われた。

 はじめは神様の指示が何の脈絡もないものと感じていたのだが、地図にひかれた線が十字架を示すものであったり、そのうち、きれいな正三角形や二等辺三角形が描けて、図形の点と点の場所にそれぞれ大きな意味が見いだせてきたりして、これは、ただならぬことだとわかるようになった。

 神様からの声もやり方も相変わらず続いている。しかし、神様の方では本当に時間が限られているようで、今年、2015年に入ってから、特に5月の連休あたりから事態は急速に進み出した。

 5年間、神様と文字通り会話することで、神様の全知全能ぶりもわかるようになった。私たち、3次元に肉体をもって生きている人間は、実は、無限の力をもっているのだが、真実を覆い隠されているために、自身を限定してしまっている。3次元の眼で見える事物しか見えていない。見える世界と見えない世界、この世とあの世、この両方の領域で私たちは生きているのだが、この事実を知らないでいる。また、もっと言えば、私たちは、過去、現在、未来に同時に生きている。それは、神様と一致した時、つまり、自我をなくした時、たいへんよく感じられるようになる。

 もし、教えられ、思い込まされていた過去が、全く違ったものであるとしたら、当然、現在の状況も、未来の予測も、違ったものになる。ほとんど教科書的な歴史の知識のない私が、それこそ神様から直接教えられた“歴史の真実”を語ることで、その内容を誰かが信じてくれるなら、そして、たったひとりでも勇気をもって行動を起こしてくれる人がいるなら、明らかに現在も未来も、想像外の世界を創りだせる。

 最近、自分自身でも驚くくらい、神様はいろんな事を一気に、おそらく誰も知らないであろう事柄を、私に直接教えてくれている。とても信じがたいような、奇想天外な話である。

 

 丁度 5年前の今日8月15日でした。  今も神様はこの国の秘密を私に教え続けています。 

その教えられたことを「邪馬台国新論」として纏めてみました。

 

『魏志倭人伝』に合わない日本の史書

「邪馬台国」は、西晋の陳寿(ちんじゅ・233~297)の編纂した『三国志』(成立は280年以降と言われる)という中国の正史の中の「魏書(ぎしょ)」第30巻烏丸鮮卑東夷伝倭人条(うがんせんぴとういでんわじんのじょう)、通称『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』に登場する国の名前だ。

つまり、中国の歴史書に記された日本の歴史なのである。紀元239年、倭国の女王卑弥呼(ひみこ)が魏に使節を送り、240年には魏からの使節が倭国に来た。『魏志倭人伝』は、主にこの時の魏の使節の見聞を元に書かれたと思われる。

その後、243年に倭国の使節が再び魏を訪れ、247年には再び魏の使節が倭国を訪れている。このとき、魏の使節は卑弥呼の死に遭遇し、『魏志倭人伝』には、その前後の様子も記述されている。

 問題は、この「中国の史書に書かれた日本」と「日本の史書に書かれた日本」がぴったりと合わないことである。日本で古代の正史とされているのは、『古事記』(712年)と『日本書紀』(720年)だ。

『日本書紀』には、神功皇后の条に唐突に『魏志倭人伝』からの引用があって、神功皇后を卑弥呼にあてようという『書記』の編纂者の意図が見られるが、前後に引用されている百済史との年代の矛盾が指摘されている。『書記』の編纂者は『三国志』を参照できる立場にあって、これをなんとか当てはめようという苦肉の策をとったのだろうが、引用のみで済ませて、日本側からの記述がまったくないのも不自然だ。

 要するに、合わないのだ。『古事記』、『日本書紀』には、編纂当時の政治状況が大きく反映しており、その当時の天皇家が日本を治めることの正当性と正統性を主張する意図で編まれているため、それに合わない国内のものは抹殺(焚書)し、国外のものは先の引用のようにごまかすか無視しているのだ。

 つまり「邪馬壹国」も「卑弥呼」も、日本の正史には登場しないと言っていい。

果たして、どこにあったのか? 大和朝廷との関係はどうなっているのか?

この謎は解けるのだろうか?

 

魏志倭人伝が語る邪馬壹国への行程

 

さて、畿内・九州の邪馬台国論争が始まったのは江戸時代後期というから、すでに150年は論争を続けていることになる。

なかなか決着がつかない理由のひとつは、『魏志倭人伝』に記載されている「里程」にある。

これがなかなか曖昧で数々の解釈が可能なのだ。

 

見てみよう。(「・・・」は中略箇所)

郡より倭に至るには、海岸に循ひて水行し、韓國を歴るに乍ち南し乍ち東し、その北岸狗邪韓國に至る七千余里。始めて一海を度る、千余里、対馬國に至る。・・・又、南、一海を度る、千余里、名づけて瀚海と日う。一大國に至る。・・・ 又、一海を度る、千余里、末盧國に至る。・・・ 東南陸行、五百里、伊都國に到る。・・・東南奴國に至ること百里。・・・ 東行、不彌國に至ること百里。・・・南、投馬國に至ること、水行二十日。・・・ 南、邪馬壹國に至る、女王の都する所、水行十日・陸行一月。

これは、なかなか解けそうもない。別のヒントはないのだろうか?

このような記述がある。

女王國自り以北、其の戸数・道里、得て略載すべし。其の余の旁國は遠絶にして得て詳らかにすべからず。

次に斯馬國有り。次に已百支國有り。次に伊邪國有り。次に郡支國有り。次に彌奴國有り。次に好古都國有り。次に不呼國有り。次に姐奴國有り。次に對蘇國あり。次に蘇奴國有り。次に呼邑國有り。次に華奴蘇奴國有り。次に鬼國有り。次に為吾國有り。次に鬼奴國有り。次に邪馬國有り。次に躬臣國有り。次に巴利國有り。次に支惟國有り。次に烏奴國有り。次に奴國有り。此れ女王の境界の尽くる所なり。

「女王国より以北」については、いろいろ議論はあるだろうが、要するに、今まで記述してきた国については、邪馬壹国への行程にあたり実際に使節が通った国なので、その概要(本論考では省略した。「・・・」の部分にあたる)を述べることができたが、以下の国については、名前だけを挙げるということだ。

 

魏志倭人伝に出てくる、耶馬台国の周辺国

 

さて、ここに挙げられた国名だが、神奈備こと瀬藤禎祥氏のホームページの解釈が非常に優れているので、引用させていただくことにする。瀬藤氏は「女王国周辺とその余遠絶国と神々」と題して、細かく神社名とその住所等を記載されているが、ここでは、国名に関する記述だけ抜き出す。

 

斯馬國 しま 三重県南部 志摩

已百支國 いほき 三重県 五百木

伊邪國 いせ 三重県の伊勢から鈴鹿山脈東部から北は養老山脈にあたる平地

郡支國 とき 奈良県添上郡都祁

彌奴國 みの 美濃、尾張である。

好古都國 こうち 大阪府河内

不呼國 ふこ 京都府綴喜郡、久世郡。木津川、宇治川等の合流点。ここに封戸と呼ばれる渡りがあった。

姐奴國 たな 滋賀県栗太郡、草津市と信楽町。

對蘇國 やす 滋賀県野洲郡、琵琶湖西側から越前までを考える。

蘇奴國 そう 層富。奈良市から北部、京都府相楽郡。

呼邑國 こう 滋賀県甲賀郡 信楽、水口、甲賀。

華奴蘇奴國 かんそう 奈良県添上郡。

鬼國 き 山城の紀伊郡、木津川北部から京都市の市街地付近。

為吾國 あが 三重県伊賀郡、伊賀上野、名張。

鬼奴國 きの 和歌山県、三重県南牟婁郡

邪馬國 やま 京都府 京都市北部、亀岡、園部、丹波高地

躬臣國 こし 北陸方面、越前、越中、越後、近江伊香保

巴利國 はり 兵庫県播磨

支惟國 きみ 岡山県広島県。吉備。備前、備中、備後

烏奴國 えぬ 上野、北関東

奴國 な 信濃、長野県

 

ちなみに、瀬藤氏の説は「邪馬台国畿内説」で、魏の使節の経路は日本海から来たとしている。

 上森は、この「周辺国」を邪馬壹国の「境界線」としてなぞって、その版図を比定した。その結果、邪馬壹国は、但馬、丹後、丹波、摂津、大和にまたがる国土であることがわかった。

 そして、行財政を司る首都は大和の纏向(まきむく)で、女王卑弥呼がいた都は、『播磨国風土記』に「埴岡の里(はにおかのさと)」と記された、現在の兵庫県神崎郡神河町と朝来市生野町にまたがるエリアだったと推定したのだ。

 

魏の使節は生命の樹を辿って倭国に来ていた

 

さて、版図が比定できたら、次は、魏の使節のルートだ。

 畿内への航路としては、日本海の外海を通るより、やはり瀬戸内海の方が良いのではないかと思われる。理由は3つある。

図をご覧いただきたい。

前出の「イエス・キリストの生命の樹」である。

 

 

この図形は、生野の八幡山から長崎の伊王島へのラインを中心として重要拠点の位置を決めるべく作られたまさに「古代日本の設計図」だ。

11番目のセフィラ、「ダート」は、福山・大門を入り口とする総社だ。

 この「日本の設計図」を霊的・精神的な意味で非常に重要なものと考えていた倭国の人々であれば、当然航路はこの「中心線(センター・ライン)」を意識して決められ、日本海ではなく、瀬戸内ルートになると思われる。そして、出雲大社と馬路を結ぶ「パス」とセンターラインの交点に重要な寄港地である大門がある。

 もうひとつは「航海の安全」である。瀬戸内海も流れのきつい難所が数か所あるが、台風や嵐の影響は外海よりは安全である。

最後に、監視ができることも重要だ。瀬戸内海沿いには海がよく見える山が両岸にあり、船の状況が手にとるようにわかるのだ。

 

順序が逆のようだが、先に結論の地図を示しておく。

『魏志倭人伝』の「郡」は「帯方郡」で、現在のソウル付近と言われる。港としては仁川(インチョン)である。現在は空港があって、ソウルの玄関口になっている。

さて、船の到着地の西宮にも、「仁川」という川、そして地名がある。六甲山を源流とする武庫川の支流の川であり、流域の地名にもなっている。出発地と到着地に同じ地名をつけたのである。すなわち「仁川」から「仁川」へのルートだ。

仁川(インチョン)から朝鮮半島を海岸沿いに「狗邪韓国」まで行く。狗邪韓国の港、馬山(マサン)は古代からの良港であり、元寇のときも基地として使われた。

馬山から対馬に渡る。ここで注意しなければならないのは、対馬で船を乗り換えるということだ。対馬は、北の島と南の島でできていて、「対(つい)の島」という意味なのだろうが、実は陸続きなのだ。小さな舟ならば、陸を運ぶことができるが、大きな船は無理である。そして、なぜか「対の島」ではなく、「対の馬」と書くのだ。

馬山→対馬と、対馬→壱岐→呼子は別の航路で、それぞれに習熟した船乗りがいたのではないだろうか。

 

 

使節のルートはレイラインにも一致する

さて、この図から分かるように、中国の道教の聖地・千山と、使節の出発地である帯方郡(仁川)、その使節が立ち寄る狗邪韓国(馬山)、対馬、壱岐、そして九州本土への上陸地点の呼子は一直線になるのだ。

 上森はかつて千山を訪問した際に、ピラミッド型の形のよい山が、千山を起点に一直線に並んでいるのを見て、コンパスグラスで方角を測っておいた。その角度が真北から145度、つまりこの直線の方向を指していたのだ。

 

2010年以来、上森が教えられているのは、古代からの重要な拠点は、一直線に並んだり、正三角形、直角三角形、二等辺三角形などのきれいな図形を描くことだ。また、そのために、ピラミッド状の美しい山が作られていることもある。

ここにもまさしくそれがあるのだ。

 

「福」の地と円錐形の山を通る七福神の道だった

 

呼子に上陸した使節の一行は、福吉、福岡、福津と、わざわざ陸路を歩かされる。船で行った方が早いのだが、陸路を行くことによって、国防の為に、島か半島を横断したように見せかけて、地理的な関係が分かりにくいようにしているのだ。

そして、航海の安全を守護しくれる宗像大社(弁財天の総本宮でもある)に参拝し、再び船に乗って、関門海峡を通り、八幡(ヤハウェ)信仰の拠点・宇佐八幡宮を船上から拝し、「イエス・キリストの生命の樹」の「ダート」でり、物部王国の総本部・総社(大名持=大国主=大黒様を祀る)への入り口、福山の大門までやってくる。これが水行二十日で、ここが『魏志倭人伝』の「投馬国」にあたる。大門には、鶴島・亀島があり、瀬戸内海の潮の変わり目になっている。

大門を出た一行は、瀬戸内海をさらに進み、西宮に上陸する。上陸地点の目印はきれいな円錐形の甲山(かぶとやま)である。ここには戎(えびす)神社(戎神社の総本宮)があり、甲山の東には仁川がある。

西宮から、宝塚、三田、篠山、春日、福知山、粟鹿を通って、卑弥呼の住む埴岡の里・栗まで1ヶ月の行程だが、陸路といっても、岸から馬や人力で船を曳いて川を遡れるところは、船で行った可能性が高い。西宮から武庫川を遡れば、宝塚までは十分に行ける。

西宮から栗までの間にも、要所要所の目印に、円錐形の山が配してある。三田の有馬富士、春日の小富士山、粟鹿の小倉(おぐら)富士・・・実際に踏査すればもっとたくさんあるに違いない。

「福」のつく土地と、弁財天、戎神の総本宮を通り、大黒天の総本部を意識したこのルートは、「七福神の道」ということもできるのだ。

 

 

国は国境線の警護が重要懸案事項である

 

九州の方から瀬戸内海を船で来て、生野・神河の「埴岡の里」に行くのなら、姫路から市川という川沿いを今のJR播但線のルートを遡れば、ずっと早く着ける。しかし、卑弥呼の時代、ここは邪馬壹国の領土ではなかった。安全のためには、領土が海に接している西宮から、ずっと領地を通って来てもらう方が、日数はかかるが、安全である。

卑弥呼の時代より以前、「大乱」が起こる前は、姫路から北上するルートも同じ国の領地であったのだが・・・。

 

 

 「南」について

 

今まで、「邪馬台国畿内説」を悩ませてきたのが、方角の問題である。里程の書いてある部分をもう一度引用してみよう。

 

郡より倭に至るには、海岸に循ひて水行し、韓國を歴るに乍ち南し乍ち東し、その北岸狗邪韓國に至る七千余里。始めて一海を度る、千余里、対馬國に至る。・・・又、南、一海を度る、千余里、名づけて瀚海と日う。一大國に至る。・・・ 又、一海を度る、千余里、末盧國に至る。・・・ 東南陸行、五百里、伊都國に到る。・・・東南奴國に至ること百里。・・・ 東行、不彌國に至ること百里。・・・南、投馬國に至ること、水行二十日。・・・ 南、邪馬壹國に至る、女王の都する所、水行十日・陸行一月。

 「東行」「東南陸行」はそれぞれ1回出てくるが、「南行」は出てこない。原文では「南至投馬国」「南至邪馬壹国」となっている。

 さて、1冊の小冊子がある。兵庫県美方郡香住町の香住観光協会が発行した『御崎(みさき)平家村のおはなし』だ。

そのなかに、こんなくだりがある。

 壇ノ浦の合戦に敗れた平家の一門の内、清盛の異母弟にあたる平教盛(たいらののりもり)は、そのとき入水したことになっているが、実は落ちのびて、香住に来たという。

その教盛が落ちるときに言った言葉が、

「この壇ノ浦よりも遥か南に壱岐・対馬という国がある。そこは食べ物も豊富だから、何とかして暮らしていけるだろう」

というだ。結局、日本海を東に流されて香住に着くのだが、壱岐・対馬は、壇ノ浦からは、北西方向だ。「この壇ノ浦よりも遥か南」とはどういうことだろう。「南」は方角を指していないのだろうか。

 この小冊子は観光協会が地元に伝わる伝承を元に作成したもので、「史料的価値なし」あるいは「勘違いか書き間違えだろう」と言って片付けてしまえばそれまでである。しかし、上森の探究には、こういったことがつきものなのだ。ヒントは思わぬ形でやってくるのだ。

 では、「南」の字そのものを検討してみよう。まず上の「十」は「草の芽」だ。そして「冂」は「囲い」、「 」は「ナン」の音符であるとともに「入れ込む」意味を含んでいる。全体として「草木を囲いで囲って、暖かい小屋の中に入れ込み、促成栽培をするさまを示し、囲まれて暖かい意。転じて、暖気を取りこむ南がわを意味する。」(『学研漢和大字典』藤堂明保編より)

 

 

灘のつく海域

 

 さて、「囲む」といえば、この航路を見ていると、入江・内海に「灘」のつく地名がたくさんある。現在の地図で分布を調べてみた。

 

 黒丸が「灘」、白丸が「湾」である。地図以北も「湾」はあるが、現在では「灘」は「鹿島灘」が北限である。以前には「常盤灘」と呼ばれた海域があり、福島県沖までがその範囲だ。

今の地図にはないが、神戸沖は「摂津灘」だった。

他にも近世に呼び名が変わってしまっているケースもあるが、この図は、ある勢力の「制海権」をあらわしているように思える。

 

 ちなみに「灘」を漢和辞典で調べると、「水がながれなやむあさせ。」が元の意味である。「難」は水にとっての「難」なのだ。それが、日本に入ってきて「船にとっての難」すなわち「陸からやや離れて、波が荒い、航海の難所。」の意味に転じることになる。

 図を見ると、元の意味と日本での意味の過渡期に名づけられたのか、瀬戸内海の穏やかな海域にも、「灘」と名づけられている箇所がたくさんある。地形では、両側を岬に囲まれ、やや内側に湾曲した海岸線の場所につけられていることが多いようである。ちなみに、瀬戸内海での最大の難所は「音戸の瀬戸」と名付けられている。

 さらに、海域だけでなく、地名としても使われているので、国土地理院のウォッちずで「灘」と入れて検索をかけた結果がこの図である。海域ならずとも、西日本の海岸沿いにほぼ限定されていることがよく分かる。

石川県の河北潟、島根県の宍道湖と中海の畔に集中しているのは、それらの中海を「灘」と認識しているということだろう。また、淡路島の南の海岸沿いに並ぶのは「海に面した」という意味合いで、小豆島の灘山も同様だろう。

高知県は、湾の名前こそ現在は「土佐湾」だが、かつて「土佐灘」と呼んだ名残か、「灘」のつく地名はかなりある。それも「灘」1字を地名にしていることが多い。内陸部に1ヶ所あるのは、湿地帯だったのかもしれない。岡山県の内陸部には「灘池」がある。

岐阜県にある2ヶ所は、川の合流地点を「灘」と意識しているようだ。あるいは、水軍が川を遡って地名を運んだのかもしれない。

 海外の「灘」のついた地名が紹介されているウエブサイトもあり、大連の「老虎灘(ろうこたん・ラオフータン)」は入江というよりも河口、上海の「外灘(ワイタン)」は川の合流地点、古菫灘(ことうたん)は砂漠の中の小さな川の畔と、いずれも川で、日本の「灘」とはつけ方が違うようだ。日本の「灘」の地名の分布には、やはりある部族(水軍?)が関係しているように思える。

 それは、邪馬壹国への航路を守護していた水軍なのではないか。その勢力範囲を後に平家が引き継いだのではないか。平清盛が宮島の厳島神社に深く帰依し、瀬戸内海を航路とした日宋貿易に力を尽くしたことはよく知られている。

 

 

南無

 

「南無」を辞書で調べると、「サンスクリット(古代インド語)のナマスおよびナモーの音写。敬意、尊敬、崇敬をあらわす感嘆詞。」とある。

仏教用語としては、その通りだが、「なむ」と発音する言葉は、日本語には係助詞、終助詞、助動詞、連語、さらに「並ぶ」「並べる」という意味の動詞もあって、非常に身近な言葉だ。

もともと、漢訳の経典に登場したものとはいえ、「南無阿弥陀仏」「南無妙法蓮華経」「南無大師遍照金剛」「南無釈迦牟尼如来」と庶民の間に流布したのは、おそらく日本だけだろう。

「南無」の意味は、日本語では「帰依します」だが、「南」(単独の発音「ナン」は「なむ」とほぼ同じ)の元の意味「囲まれて暖かい」を加味すると、さらに実感がわくのではないであろうか。「阿弥陀さま」「法華経」「お大師さま」「お釈迦さま」に守られて心から安心できる境地になるということなのだ。

 さて、再び「南」の字だが、「囲んで保護する」という意味合いと、「灘」と同じ「ナン」という音から、「内海」あるいは「領土内の海」「勢力範囲内の海」「安心できる場所」を意味する言葉であったと考えてみると『魏志倭人伝』も「平教盛の話」も合点がゆく。

 ここからはやや空想だが、魏の使節は太陽とか星を見て、方角を確認したのだろうか?あるいは、案内役の倭人に聞いたことをそのまま受け取ったのだろうか?

案内役の倭人が、魏の使者に「向かっている方向はどちらか?」と聞かれて「ナンだ」と答えたとしたらどうだろうか? 彼は、魏の使者をだますつもりなど毛頭ない。「内海で勢力範囲内で我々が安心できる航路だ」と答えたのだ。

 

 

女王国の東

 

畿内説を悩ませてきたもうひとつの記述が「女王国の東」である。引用してみよう。

 

女王國の東、海を渡る、千余里、復た國有り、皆倭種。

 

畿内説では、東に海がないからである。

上森説の邪馬壹国の版図は、日本海岸まで達しているので、東へ海を渡ることができる。千余里は1里=77mの短里で計算すると、77km余なので、80kmくらいか。

この距離は、丹後半島の伊根、あるいは宮津、舞鶴から出発して、敦賀湾の奥の敦賀までの距離に相当する。ここには気比(けひ)神宮という神社があって、主祭神は伊奢沙別命(いざさわけのみこと)というこの神社特有の神様だ。この神様の降臨の地、「土公」と呼ばれる塚には、大きな木が生い茂っているが、卵型の岩が八角形に並べられていて、最澄さま、空海さまが7日7夜の祈祷をされたというから、ただ事ではない。

また、気比神宮の摂社に角鹿神社(つぬがじんじゃ)があり、『日本書紀』に垂仁天皇の時に渡来したと記されている意富加羅国(任那国)王子、都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)が祀られているのも注目に値する。

 

 

邪馬壹国の正しい読み方は「しゃもいっこく」

 

魏志倭人伝の原文では、卑弥呼が君臨した国はほとんど「倭国」あるいは「女王国」と表記されているが、一ヶ所だけ、邪馬壹国という国名が登場する。ところが、日本では「壹(壱の旧字)」は「臺(台の旧字)」の誤記とみなされ、一般には「邪馬台国」と呼ばれている。

どんな字が間違えたと言われているのか、大きく表示してみよう。

   

                

    

果たして、間違えるだろうか?

今に残る写本の時代はかなり新しいものではあるが、写本を作ったのはその道のプロである。内容は分からなくても、漢字の写し間違いは可能性が低いのではないか。伝わる間に草書が入ったのなら、写し間違えもありうるが、歴史書に草書は使わないのではないだろうか。

上森は原文の「壹」のまま読んで、これを「しゃもいっこく」と読む。

では、漢字をひとつずつ調べてみよう。

「邪」には、ふたつの意味がある。

ひとつは「よこしま」という意味で、この意味で使う場合、呉音では「ジャ」、漢音では「シャ」と発音する。ちなみに漢方医学では陰陽がバランスを失ってひずんでいる状態をこの字であらわす。「風邪(フウジャ・かぜ)」もそのひとつだ。

もうひとつの意味は「や・か」で、文末につけて疑問をあらわす。この意味のときの発音は、呉音・漢音ともに「ヤ」である。山東半島の付け根には「琅邪(ろうや)」という地名があり、徐福の出身地という説もある。

「馬」は「うま」だが、「向うみずに突き進む」の意味を含むという。

この字は呉音では「メ」、漢音では「バ」、唐宋音では「マ」と発音する。

「壹」  は「ひとつ」の意味で、呉音が「イチ」、漢音は「イツ」である。

 「国」は「くに」、呉音・漢音ともに「コク」と読む。

 「漢音」は、遣唐使が持ち帰ったそのころの長安の漢民族の正しい発音、それに対し「呉音」はそれまでに日本に伝えられていた発音なのだが、長安の言葉からすると「いなか言葉」のようなニュアンスで「呉音」と呼ばれたらしい。「唐宋音」は、鎌倉時代以降に禅宗の留学僧らによって伝えられた発音だ。

 

 「邪馬壹国」は、「邪」を「よこしま」の意味とすると、呉音では「ジャメイチコク」、漢音では「シャバイツコク」となる。

 「邪」が「や・か」なら、呉音では「ヤメイチコク」、漢音では「ヤバイツコク」となる。

 状況から考えて魏の使節は漢音を発音していた可能性が高い。つまり「シャバイツコク」または「ヤバイツコク」である。

 

 さて、上森は、2012年2月、丹後半島の竹野(たかの)神社の社殿の正面上部に掲げられた、つがいの鶏の彫刻を不思議に思っていた。この場所には通常なら竜や鳳凰の彫刻があるはずだからだ。一年後、これは「軍鶏(しゃも)」だと思い当たった。それは、この国の基礎をつくった「モー・シェ」の名前をさかさまに発音して「シェ・モー」そして「シャモ」。

 この神社の別の社の扉にはユダヤの「エフライム族」を象徴するブドウを背景にイエス・キリストを象徴する狐が彫られていたり、その脇障子には、仙人が息を吹くとその息の中にもう一人の仙人が現れる彫刻があって、日本で生まれたモーセの帰国をあらわしていて、神社全体としてこの国の基礎をつくった人たちへの尊崇の念が表現されていたのだ。

 そして、上森は「邪馬」も「シャモ」であり、「邪馬壹国」は「シャモイッコク」と呼び、意味は「モーセの律法を第一とする国」だと考えた。

 では、魏の使節は「シャモイッコク」の「モ」にどうして「馬」の字をあてたのだろう。

 漢和辞典によれば、「馬」の字を「マ」と読むのは後の時代なので、卑弥呼の時代なら、「馬」と書いてあれば「バ」と読んでしまうだろう。

 さて、鉱物の「雲母」は「ウンボ」ではなく「ウンモ」と発音する。天皇の生母「国母」は「コクモ」と呼ばれる。「m」も「b」もいったん唇を閉じてから、母音を発声するときに唇を開く。「m」と「b」は相互に変化しやすい音なのだ。

もし倭人が「m」を「b」のように発音する人たちだったら、正式名称「シャモイッコク」を「シャボイッコク」のように発音したであろう。この「ボ」を写すのに「馬(バ)」の字を使うという可能性も十分に考えられる。

つまり、『三国志』の読者の中国の人たちは「シャバイッコク」と読み、倭人は「シャボイッコク」と発音していたはずだが、正式名称は「シャモイッコク」なのだ。

 または、漢和辞典には「唐宋音」と書いてある「馬」の「マ」の発音が、魏の時代から行われていた可能性もある。もしそうならば、このような煩雑な考察を経ずに、「シャマイッコク」、母音を軽く読むと、「a」が「o」になって「シャモイッコク」の読みが可能だ。

 上森が千山に行ったとき、中国の知人に邪馬壹国を読んでもらったら「シャモイーグァ」と発音した。現代の中国でも「邪馬」は「シャモ」なのだ。

 さらに、魏の使節はモーセやキリストを意識していた可能性もある。モーセが日本に理想国家をつくろうとした拠点は、今の鳥取県の東郷池の畔、馬ノ山だ。「馬」はモーセの象徴として、「対馬」「馬路」「馬山」などの地名にも使われた。『魏志倭人伝』のなかにも、「対馬」以外に「斯馬国」、「邪馬国」、「投馬国」がある。

さらにキリストは、馬小屋で誕生したと伝えられている。やはり「馬」に縁があるのだ。というよりも、キリストはモーセの血をひいているので、それを示すためにこの「馬小屋」の話が作られたのだ。

そのモーセとキリストが理想国家をつくろうとした国、またそのふたりの墓を祀る国、「邪馬壹国」に「馬」の字を意識的に使ったとも考えられるのだ。

そうなると、一般には「邪」も「馬」も悪字で、中華思想から周辺国の名前に意識的に悪字をつけたと言われているが、「馬」は悪字ではなくなる。

ちなみに「卑弥呼」の読みであるが、呉音では「ヒミク」、漢音では「ヒビコ」となる。「ヒミコ」という読みは呉音と漢音を混ぜてしまっているが、よいのだろうか。われわれはあまりにも「ヒミコ」という読み方に親しみ過ぎているような気もする。

 

 

魏志倭人伝が伝えた卑弥呼の死

 

さて、248年に卑弥呼が死んだとき、ちょうど来日していた張政がその様子を見聞することになった。もっとも、国内のどこにいたのかは分からない。記事は人から聞いた話のようでもある。

 卑弥呼以て死す。大いに塚を作る。径百余歩、殉葬する者、奴卑百余人。更に男王を立てしも、国中服せず。更々(こもごも)相誅殺(ちゅうさつ)し、当時千余人を殺す。また卑弥呼の宗女壹與(いよ)年十三なるを立てて王となし、国中遂に定まる。

 

 宗女壹與については、この記述の通りではないと、上森は教えられている。これについては稿を改めることにするが、ここではこの記述にしたがって論を進めて行く。

 この墓も埴岡の里に実在する。上森が「婀月山」と名付けた779mの山の頂に、底円部直径100m、上円部の直径50m、墳丘の長さ150mの、どこから見てもきれいなドーム型の墓が作ってあるのだ。

 

(七宝寺から眺める女王卑弥呼の陵墓)

 

上森は殉葬の場所も教えられている。

 『魏志倭人伝』には倭の地の風俗や自然などの記述もある。その中に「山椒」があるが、今でも山椒は神河町の特産のひとつだ。また、『魏志倭人伝』に書かれている「橘」と同じ柑橘類の「柚子」も神河町の特産品だ。そして、猿や雉もいる。

さて、張政らは、政情が不安定な中、帰国することもできずに、命の危険を感じつつじっと身をひそめて不安な毎日を過ごしていたことだろう。帰国が決まったときには、さぞほっとしたに違いない。

 

政等、檄を以て壹與を告喩(こくゆ)す。壹與、倭の大夫率善中郎将、掖邪狗等二十人を遣し、政等を送り還す。因りて臺に詣り、男女生口(しょうく)三十人を献上し、白珠五千孔、青大句珠二枚、異文雑錦二十匹を貢す。

 

魏から来ていた張政は、壹與に「そちが倭国を治めるのを、大帝国の魏が承認するので、しっかりやるように」との文を送った。それに対し、壹與は、先に「率善中郎将」の位を魏から賜った掖邪狗ら20人を、張政に同伴させて魏に帰国させた。そして魏の都に至り、男女の生口30人を献上し、そのほか、白珠5000孔、青くて大きな勾玉を2枚、織物20匹を貢いだとのことだ。

 

ここで、「臺」(魏の都、洛陽の中央官庁のこと)の字が使われていることにも注目したい。

そして少し前の卑弥呼が存命中の243年の記事には、

 

 其の四年、倭王、復た使大夫伊声耆・掖邪狗等八人を遣わし、生口・倭錦・絳青縑・緜衣・帛布・丹・木 ・短弓矢を上献す。掖邪狗等、率善中郎将の印綬を壹拝す

 

とあり、「壹拝」(拝受すること)という熟語も使われている。筆記者はきちんと「臺」と「壹」の区別をしているのである。すなわち、国名は原文通り「邪馬壹国」、宗女の名前もやはり原文通り「壹與」とすべきだろう。

 ついでながら、この使者の名前、伊声耆と掖邪狗は同じ人物を2重に表記したものとも言われているが、旧約聖書のアブラハムの子、「イサク」を意味するのではないだろうか。もちろん本人ではないが、イサクにちなんで名づけられた、ということだ。

 

 

        邪馬台国の謎は完全解明されました


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邪馬台国はオリオン座を模して設計されたと・・

2015-08-07 15:47:58 | 邪馬壹国

2015年8月7日(金)


7月26日に、神戸から徳島の太龍寺へと皆さんと一緒に行きましたが、そこで私が空海様に教えてもらったことは・・。


大師堂正面の彫り物の意味でした。  この彫り物は何を教えているか・・・。


  


 


邪馬台国はオリオン座に似せて国土設計をしたと教えていましたね。 


 



べテルギウス ・・・ イエス・キリストの墓 836m 赤い土で覆われています。べテルギウスは赤く輝いています。


ベラトリクス  ・・・ 弥仙山(舞鶴市)664m


リゲル     ・・・ 亀山(奈良県曽爾村)849m


サイフ     ・・・ 竜王山(奈良県)618m


三ツ星は、 ミンタカ ・・・ 交野山     アルニラム ・・・ 生駒山    アルニタク ・・・ 信貴山


 



 







オリオン星人は子犬と大犬を連れていましたね。


大犬は狼だとも言っています。空海様は、鴨族でありシンボルが狼のベニヤミン族だとも言っていて、鳳凰と言いますか、


南の守護神である朱雀だとも言っていますね。


南と言えば・・、魏志倭人伝での里程で多くの人を悩ませ続けている文字ですが、この紋には大きな意味がありそうですね。


    





 


 


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心ある人達への私からの切なるお願いを!

2015-08-03 14:00:45 | 邪馬壹国

2015年8月3日(月)

国土地理院のウォッチ図の位置情報のサービスが停止するとの情報が届いています。

いろいろなことが考えられますので、多くの皆さんの手元に、等高線地図の情報と共に、

位置情報を残しておいてください。 

そしてできるだけこの情報を多くの方々にも残しておいてほしいと願います。

国土地理院の現在の等高線地図は、その地形を正確に表しています。

私は国土地理院のウォッチ図から、モーセやイエス・キリスト 女王卑弥呼などの墓の発見をしました。

いつこれらのサービスが停止し、今までの地形が変わるやもしれません。

心ある人達への私からの切なるお願いです。

現在の地形と、位置情報の記録をお願いいたします。 

これらの前方後円墳が日本の歴史、世界の隠され続けてきた本当の歴史を教えてくれます。

一部の人間の都合で、好き勝手に隠ぺいされては、この我が国の礎を築いてくれた方々に申し訳ありません。

SOS です! 世界市民の目で監視が必要です。

 

モーセの墓

住所:京都府京丹後市丹後町宮(付近の住所。正確な所属を示すとは限らない。)

35度43分46.59秒 135度7分3.43秒

35.729609,135.117620  ズーム:17

UTMポイント:53SNV10645397

標高:215.5m(5m(レーザ))

 

イエス・キリストの墓

住所:兵庫県神崎郡神河町南小田(付近の住所。正確な所属を示すとは限らない。)

35度6分43.43秒 134度42分44.46秒

35.112063,134.712349  ズーム:17

UTMポイント:53SMU73798551

標高:833m(10m)

 

卑弥呼の墓

住所:兵庫県神崎郡神河町大山(付近の住所。正確な所属を示すとは限らない。)

35度6分33.69秒 134度46分1.25秒

35.109360,134.767013  ズーム:17

UTMポイント:53SMU78778520

標高:777m(10m)

イエス・キリストのお墓と卑弥呼のお墓の位置関係

 

コヤネ爺の墓

住所:兵庫県姫路市豊富町神谷(付近の住所。正確な所属を示すとは限らない。)

34度53分23.58秒 134度46分4.30秒

34.889882,134.767860  ズーム:17

UTMポイント:53SMU78796086

標高:256.7m(5m(レーザ))

 

対馬の墓(イエス・キリストの直系子息)

住所:長崎県対馬市峰町志多賀(付近の住所。正確な所属を示すとは限らない。)

34度29分57.38秒 129度24分0.30秒

34.499271,129.400084  ズーム:17

UTMポイント:52SED36731759

標高:253m(10m)

 おお・・武部さんが報告していま~す


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南・・・灘は、平家の人達の海上国家圏を表す

2015-07-13 11:40:32 | 邪馬壹国

2015年7月13日(月)

2012年8月28日のブログに、卑弥呼さんの生まれ故郷に行って教えられたことを書いていました。

庵月へ行って分かったことは、神崎郡神河町にある八幡山を取り囲む集落に猪篠(いざさ)という地名がありますが、字こそ違いますが伊笹(いざさ)という地名や長谷という地名も共通してあります。

そしてイザサには古い古い歴史があるようです。

偶然でしょうか・・。偶然ではないようです。

そして庵月さんにいただいた香住観光協会発行の「御崎 平家村のおはなし」を読むなり、??

んん??! 

・・・公家の門脇宰相平教盛(たいらののりもり)という人は、老中と共に船に乗っていくことにしました。

「この壇ノ浦よりも遥かに壱岐・対馬という国がある。そこは食べ物も豊富だから、何とかして暮していけるだろう」 という記載箇所がありますが、壱岐・対馬は壇ノ浦からに位置します。

南北がまるっきり逆に言われています。

・・・

ふと思ったのは、魏志倭人伝の南(行)して投馬国(とまこく)にいたる。水行二十日である。

・・・

遥か南に・・を 遥か難に・・ と書き変えたら 間違いでもありません。

難して投馬国(とまこく)にいたる。水行二十日である。・・と書けばこちらも問題ありません。

魏志倭人伝の書き手も平家の伝記を書いた人も、難と南の文字を別に気にすることなく記載したのでしょう。

南・・・灘は、平家の人達の海上国家圏を表しているということでしょう。

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素晴らしい古代史研究家が居られましたねぇ

 灘の謎  


 

 周防に残る九州年号のことをぼんやりと調べていたとき、周防灘という地名(海名)に気がついた。
 灘は海流の激しい難所だと思い込んでいたのだが、周防灘が海の難所だとはとても思えなかった。そこで地図を開いて灘を探してみた。瀬戸内海は灘だらけである。伊予灘、安芸灘、燧灘、水島灘、備後灘、播磨灘、斎灘。陸地には灘崎があり、神戸の灘区もある。陸に遠く波の荒い海路という辞書の解釈はとても通用しない。
 九州の周囲には玄海灘、五島灘、天草灘、日向灘。東海にいくと熊野灘、遠州灘、天竜灘、相模灘、鹿島灘。日本海側は少ないが、響灘、五木寛之の小説で有名な内灘がある。縮尺の大きな地図で探しただけなので漏れはあるだろうが、こうしてみると、灘のないところは出雲、東北、北海道といったところである。
 灘はたんに海を意味しているように思われる。海とは別系統の言葉であろう。
 小泉保の『縄文語の発見』からの推測で、灘のないところは縄文人の領域ではないかと考えた。逆にいえば、「灘」の地名の残るところは、弥生人の進入地。とすれば、灘の語源は朝鮮語であろうか。朴炳植の『日本語のルーツは古代朝鮮語だった』に、高句麗語では海はもとバタラ、後にバタになったと書かれていた。清音になるとハタで、海の響きがある。もうすこし変化するとワタ。ワタツミはワタツウミの縮約形か。
 灘は中国語ではナン、タンで荒い海の意味。ナダは和訓で海の意味。灘の文字のナの音でかろうじて両者が合体した。万葉集3893に「比治奇の奈太」とあるので、遅くとも730年頃にはナダという語が定着していたことがわかる。高句麗語のバタが子音の変移で日本語のナダになったというのは、時間的に「難」があるだろうか。
 


その後の灘

大分県 国東半島北は「祝灘」(古名・伊波比) 岩波版『風土記』p.425
国東半島の杵築市には「奈多八幡」「灘手」があり、沖合は「黄硫灘」(「豊後灘」とも) 四国側は「三崎灘」
福岡県 志摩半島には「灘山」、その反対側、海の中道の付け根には「奈多」
長崎沖は「角力灘」
徳島県太平洋岸は「海部灘」  徳島市沖は「薩摩灘」 
徳島県海部郡牟岐町「灘」(古名・奈汰浦) 小学館版『風土記』
愛媛県 双海町には 「上灘」「下灘」
瀬戸内海 倉敷沖は「阿智灘」
兵庫 高砂市沖は「響灘」----(これは源氏物語を近畿に置き換えたために捏造された地名か?)
出雲 斐伊川河口には「灘分」「灘橋」
石川県、内灘砂丘の沖は「能登灘」 石川県 富山湾七尾市沖は「灘浦」 富山県氷見市沖は「越中灘」 


外国の灘

中国の大連には「老虎灘」があり、浜辺には「虎灘楽園」という遊園地?がある。
上海には「外灘」(わいたん)
敦煌の西の砂漠の中には「古董灘」(ことうたん)
北朝鮮で2004年に爆発があった山の中は「月灘里」
放馬灘 (紙の起源については,西暦105年に中国で蔡倫が麻のぼろや樹の皮,漁網などを原料にして紙を作り当時の皇帝に献上したというのが定説になっている。1986年か7年に,中国の放馬灘で出土した紙(地図)が紀元前のものであるとされ,これが今のところ最古の紙といわれている。当時すでに紙が記録材料として使われていたことが分かり,大きな発見であった。)

・・・

魏志倭人伝の航海航路は灘とついた海域を通ってくることがわかります。 

灘を通ってくることを「南し」と表記し、その灘・南は平家、

すなわち、モーセ、イエス・キリストの制海圏だったと言えるでしょう。

このことを中国の千山から、女王卑弥呼が住む都、埴岡の里、

現在の神河町へと七福神様達は宝船に乗りながらやって来られたと言うことです。

 



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邪馬台国の謎、完全解明

2015-06-05 15:14:35 | 邪馬壹国

2015年6月5日(金)

 魏志倭人伝に記された女王卑弥呼さまへの謁見ルートが全て解明されました

謎の邪馬台国論争に終止符です。畿内説でもなく九州説でも四国説でもありませんでした。

女王卑弥呼様が居られた場所(聖地)は、兵庫県の中央部に位置する生野、神河町でした。

聖地神河へ行くには・・、先ず帯方郡を出発します。

帯方郡の出発港は現在の仁川(インチョン)であり、最終港は仁川(現在の西宮)でした。

卑弥呼さんが生きられた時代、の神様たち旅の御一行方は、仁川から仁川を往来されていました。

帯方郡の港、仁川(インチョン)から 狗邪韓国の港、馬山(マサン)。

そこから対馬の美津島箕形の港上陸して、そこから厳原の港まで歩きます。船を乗り換えます。

あるいは、小舟の場合や急ぎの場合は、小船越の西の漕手船を陸に引き揚げてもらって反対の港へと運んでもらいます。

そうやって対馬から壱岐、それから呼子(佐賀)の港に一度寄港し、で下船します。

そこから吉 岡 香椎 津へとわざわざ陸路です。 

そして津の港から船に乗って関門海峡を南下して一度宇佐八幡の神様にご挨拶してから中国山脈を南行し、

山の大門へと到着します。 凡そ20日です。

そこから10日で、仁川です。港は現在の西宮です。西宮には恵比須様の総本宮がありますよ。

さぁ宿営した仁川から 宝塚 三田篠山 春日を通って 知山でした。

そしてそこから西へ行って粟鹿が旅人である神様達が到達する宿営地です。

凡そ1か月を要しました。

ここから面会を許された人達が、女王様の居城である生野、神河の栗へと行かれました。

栗はイエス・キリスト(大国主命)のお墓がある聖地でした。

又、生野にはイエス様をお祀りする地下聖堂もありました。

女王卑弥呼様は、イエス様の大事なお墓の守りをされていました。

その聖地にある婀月山(779m)に女王卑弥呼さまの陵墓あります。

 邪馬台国の謎は全て解明されました

 「私が何を成したかを世界中の人に知らせてください」と、伝言して消えた卑弥呼さんの後ろ姿が見えるようです。

   邪馬台国上森三郎説は空海様からご教授賜りました。  

 

邪馬壹国 保存その1

邪馬壹国 保存その2

邪馬壹国 保存その3

 

女王卑弥呼の墓 保存その1

女王卑弥呼の墓 保存その2

 

大国主=神武天皇=イエス・キリスト 保存その1

大国主=神武天皇=イエス・キリスト 保存その2

大国主=神武天皇=イエス・キリスト 保存その3

大国主=神武天皇=イエス・キリスト 保存その4

大国主=神武天皇=イエス・キリスト 保存その5

大国主=神武天皇=イエス・キリスト 保存その6

大国主=神武天皇=イエス・キリスト 保存その7

 

銅鐸は測量する器械だった 

邪馬台国の謎を解く鍵が、イエス・キリストの生命の樹(カバラ)にあります。 

  

そして、肝心要のポイントは、中国遼寧省鞍山市にある道教の聖地、千山にありました。

                                         

 イエス・キリストのお墓が十字架の交点にありますが、

聖地は簡単に行けないよう陸路一か月かかってやっとたどり着ける山中で守られ続けていました。

  モーセを祀る千山とイエス・キリストを祀る聖地「栗」とを結ぶ聖なる霊ラインが邪馬台国の女王様への謁見航路でした。

 モーセとイエスが何を成したかを理解できなければ、邪馬台国の謎、世界の歴史の謎は解き明かすことはできません。


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女王様への謁見ルートは全て解明されました

2015-05-20 19:55:53 | 邪馬壹国

2015年5月20日(水)

魏志倭人伝に記された女王卑弥呼さまへの謁見ルートが全て解明されました。

帯方郡の出発港は現在の仁川(インチョン)であり、最終港は仁川(現在の西宮)でした。

卑弥呼さんが生きられた時代、の神様たち旅の御一行方は、仁川から仁川を往来されていました。

帯方郡の港、仁川(インチョン)から 狗邪韓国の港、馬山(マサン) 

そこから対馬の美津島箕形の港上陸して、そこから厳原の港まで歩きます船を乗り換えます。

あるいは、小舟の場合や急ぎの場合は、小船越の西の漕手船を陸に引き揚げてもらって反対の港へと運んでもらいます。

そうやって対馬から壱岐、それから呼子(佐賀)の港に到着して一度上陸します

そこから吉 岡 津へとわざわざ陸路です。 

そして津の港から船に乗って関門海峡を南下して一度宇佐八幡の神様にご挨拶してから中国山脈を南行山の大門へと到着します。 凡そ20日です。

そこから10日で、仁川です。港は現在の西宮です。西宮には恵比須様の総本宮がありますよ。

さぁ宿営した仁川から 宝塚 三田篠山 春日を通って 知山でした。 そしてそこから西へ行って粟鹿が旅人である神様達が到達する宿営地です。 凡そ1か月を要しました。

ここから面会を許された人達が、女王様の居城である生野、神河の栗へと行かれました。

その神河町の779mの婀月山に女王卑弥呼さまの陵墓があります。

 

 

今、卑弥呼さまが全てを教えてくれます。

 

 

この世とあの世を繋ぐゼロ磁場発生装置テラファイト卑弥呼を作ってから、

一気に隠された真実を加速度的に教えられています。


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白嶽

2015-05-15 10:53:09 | 邪馬壹国

201月1日(金)

対馬のベンチマークポイントの山である白嶽は、歴史を旅する人々の灯台の役割をしていました。

   

 

 

 


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世界の平和を望むのであれば一刻も早く卑弥呼様のお墓の立証をすることです

2015-05-14 19:14:22 | 邪馬壹国

2015年5月14日(木)

 何やら大変なことが起きそうな胸騒ぎを感じてしまう私です。

時間がない、急げ!」と初めから言われていたことが又、気になりだしました。

一日遅れれば、どれだけの命が亡くなるかお前は分かっているのか!」と言われているような気がして、

 生野で穴掘りをしたり、神河町の山の上で調査したうえで穴掘りしたりと、そこへとたどり着くために地図上に沢山の図形を書かされては又、もうその翌日には行ったこともない山に一人で登ったりして、帰ってきては又、地図上に図形を書かされたりとしてきました。

先日から、奈良や対馬など急に行かされ、どんどんと又地図上に線引きさせられています。

何の為に・・・。

それは、この我国を近代的理想国家建設の為に、イエス・キリストがキルギスから日本、日本からインドを経由してキリギスに帰り、イスラエル行って、それから日本へとやってきて、初代大王として35歳で高御位山で即位宣言をしてから、モーセが造った霊ラインと聖地の再興とその建設に邁進しました。 その後、朝鮮半島と一部中国も含めた倭の国はリーダー争いで80年ほど大乱となり、それを収め聖地を守るためにイエス・キリストの5代直系の卑弥呼さんが大多数の部族たちに共立されて、平和国家造りに邁進されました。

そして、イエス様が造られた国土は大幅に縮小されましたが、又一から皆で理想国家建設に邁進しました。

その時代のことが、魏志倭人伝に記されている女王様への謁見ルートの比定地とその航海航路と陸路一ケ月のルートの特定と、女王様の居城とその後入定されたお墓の特定とを教えられたということです。

道教の聖地千山から、イエス様達が拠点にしておられた蓬莱仙郷、そして仁川から仁川まで行って、陸路一ケ月で、女王様に拝謁することができました。 キッチリと全ルートを教えられました。

そしてなんと、イエス様がお生まれになられたキルギスと、仏教の聖地と、これから世界の聖地になる生野、神河との位置関係も見事に教えられています。

それを教えてくれるのは、人工的に触られた山々であり、巨大なベンチマークポイントの方位石や磐座と、最大の証拠となる巨大な鶴と亀や女神ハトホルやメノラーなどの地上絵と、それらのことを知り尽くしていた賢者達が、生命の樹の設計図通りに引かれた霊ライン上に造った神社やお寺でした。そしてそこには、復興復活を願って彫られた鳳凰や龍など意味あるものをそこに残してくれていました。

 

それが、「かごめかごめ」と「とうりゃんせ」の唄に願いを込めて子供たちに唄い継がせました。

 

 さぁ~~その時がやってきました。

 

みなさんが世界の平和を望むのであれば一刻も早く卑弥呼様のお墓の立証をすることです! 

  

 

 今、卑弥呼さまが全てを教えてくれます。

 

 

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帯方郡の比定地は韓国の仁川である

2015-05-11 17:48:40 | 邪馬壹国

2015年5月11日(月)

邪馬壹国(邪馬台国)の帯方郡とは韓国の仁川(インチョン)である。

仁川から乗り込んだ人達は、現在のソウルから対馬・壱岐を経由して呼子(佐賀県)へと到着して下船します。

それから、吉 岡 津へとわざわざ陸路を行かされ、福津から船に乗せられて関門海峡を南下して宇佐八幡の神様にお参りして、中国山脈を南行して20日で着く港が山の大門です。 

そこからさらに中国山脈を東へ南行して着く最終港が西宮です。その西宮の北に甲山という目印になる綺麗な山があり、その東の裾野に仁川という町があります。

町の名前をよくぞ現在まで守っていただきました。 先人達に深々と感謝するばかりです。

仁川から仁川へと来られたんですね

そしてそれから女王卑弥呼さまが居られる聖地である栗(神崎郡神河町)までの陸路一か月のルートは、仁川を出発して、宝塚 三田 篠山 春日を通って知山。そこから西へと行って粟鹿から南下して生野、神河へと大黒様や恵比須様たち福の神御一行様がやって来られましたとさ。・・というお話です。

どうして確信もってそれが言えるかと申しますと、昨年私は、5月4日に中国の千山の山に登りましたが、遠くに人工的な三角の山を観ることができ、そこからコンパスグラスでその角度を記録していました。

そしてそれから丁度1年経った今年5日は、対馬で巨大な方位石である立亀岩を教えられまして、その亀岩が教えているのは、千山と呼子を結ぶラインでした。

・・・それで、韓国を通るそのライン上に必ず帯方郡が位置しているだろうと推測し、検討を付けた場所に関西の方ならご存知の仁川という同じ二文字が目に入りました。

そしてグーグルの3Dのストリートビューで映し出される山の風景を見ると、まさに人工的な三角の山が見えました。

対馬でも人工的な三角の山がたくさんありましたが、千山から対馬・呼子の方角に韓国でも同じように一直線に並んでいることでしょう。

私は一度も韓国に行ったことがありませんが、

ひょっとして仁川(インチョル)のあたりにも、西宮の甲山と同じような形の綺麗な目印の山があるのではと推測します。

誰か、韓国の仁川(インチョル)に詳しい方が居られましたら、情報をください。 

  よろしくお願いいたします! 間違いなく何か目印になるものが「ある!」と信じています。

もうそろそろ邪馬台国論争に終止符が打たれる時が来たようです。

神河町にある卑弥呼さんのお墓の立証を一日も早くしなければ大変なことになります。 大変なことに・・。

(奈良の箸墓古墳は卑弥呼さんと5歳違いの妹である倭姫様のお墓でしたね)

   

 

 

 

 今、卑弥呼さまが全てを教えてくれます。

 

 この世とあの世を繋ぐゼロ磁場発生装置テラファイト卑弥呼を作ってから、一気に隠された真実を教えられているようです。


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対馬を南から北まで・・

2015-05-11 10:39:08 | 邪馬壹国

2015年5月11日(月)

5日に対馬空港(福岡経由)に降り立ち、レンタカーを借りて初日は南へと行きました。

万松院・アカハラダカ観測地へと行きました。

 

        

    

宿泊地は厳原にて

翌日6日は、白嶽登山口まで行って引き返し、そこから金田城跡へ行って、山頂まで歩きました。

 

 

               

 金田城跡山頂からの眺めです。

それから・・、

西の漕手へと行って

峰町の山へと行って

西の漕手の弘法壇へと行って、上対馬町のお宿へと車をはしらせました。

翌日朝からは北の端にある韓国展望所へと行きました。

           

   

間違いなく神様に呼ばれてた二泊三日の対馬の旅でしたが、道中すばらしい古代の人達からの贈り物も見せていただきました。 

日本の歴史を語る時、間違いなく対馬の歴史を知らずして語ることができないことが行ってよ~~く理解できました。

魏志倭人伝に記された女王国へのルートの詳細を教えられた旅のようでした。

 

 


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空海様が来られた痕跡はありませんかねぇ

2015-05-10 11:34:39 | 邪馬壹国

2015年5月10日(日)

(5月6日の出来事を・・)

「空海様が来られた痕跡はありませんかね」と、島に着いてからまず真っ先に観光協会で聞いても、どこで聞いても皆さん、「さぁ~??・・??」と言う答えしか返ってきませんでした。

空海様は遣唐使船でも立ち寄ってるでしょうし、それ以外にも何度か行ってるはずなんですが、皆目ご存じないようでした。

西の漕手あたりに行けば何か痕跡があるのではと、陵墓へ行く途中にあるので注意深く見ていたつもりでしたが、そのポイントを通り過ごしてしまいUターンしてきて信号機のある交差点付近で聞いてみると、すぐ目の前まできていました。

「ほら、あそこにトイレが見えるでしょう。その前に車を止めて、向こうへと行ったところが西の漕手ですよ」と教えてもらい、車を止めて歩いて行きました。

「ここを船が引かれて行ったのかぁ・・」と遠い昔の情景を空想しながら、入り江の方へと緩い傾斜を歩いてほどなくして目の前の島を眺めていると、後をついてきたかのように白い車がやってきて、車がUターンできるように設けられた狭いスペースにバックで止まりました。

そして車から降りた作業服姿姿のお爺さんが、「どこから来たの!?」と聞かれるので、「神戸からです」と言うと、車の中からなにやら紙切れを取り出してそれを広げて一部を指さして、「ここにこう書いてある」と言われます。

その時もそうでしたが、今でもどう考えても変な話なんですね。 何も聞いていないのに、「ここにこう書いてある」と。

 「伊勢の五十鈴宮の姫神」・・と。

・・・

 私は箸墓古墳に伊勢の倭姫をお連れしに行って、対馬の山中にある陵墓へと行く訳ですから・・、それはそれは不思議でなりませんでした。

 

 

 

 

上の地図で、ブルーの三角印のところが、西の漕手の場所です。 赤丸印の場所が弘法壇です。

 

   

それからお爺さんに、「空海様が来られた痕跡はありませんかねぇ」と聞くと、「ほら、目の前のその山がそれじゃよ!弘法壇と言って、空海様が一夜にしてお堂を造ったという謂れがありましのぅ・・」と。

      

  

それからいろいろと、ここらの話を聞いてから私は思い切ってお爺さんに心の内を打ち明けてみました。

私 :「お爺さんお仕事ですか」

お爺さん :「いえ仕事ではありませんが・・」

私 :「実は、大事な人のお墓が山の中にあるので、そこに行くように言われたのでこうして初めて対馬に来たんですが、よろしければ連れて行ってもらえませんでしょうか」

お爺さん :「良いですけど、どのあたりですかねぇ・・」

私 :「ホントですかぁ! 車の中に地図がありますので見ていただけますかぁ!」

・・・と言うことで、トイレの前に停めていた車に戻って、お爺さんに説明しました。

最初は・・、「ここから遠いのぉ・・」と言って地図に見入って居られましたが、自宅が近くだとのことで運動靴に履き替えられて戻ってこられ、一緒に車に乗り込んでもらって、一緒に陵墓がある山へと向かうことになりました。

その車の中で・・・、それはそれはあまりにも不思議な話で、 「エ~~~ッ!」「エ~~ッ!それ本当ですかぁ!」「エ~~ッ!」と言う連続の話で、ワイワイ、ガヤガヤと異次元の世界へと一気に入り込んだようでした。

それから一切無駄な時間を費やすことなく、目指す陵墓へとキッチリと登ることができました

そして・・、帰りの車の中でも思い切りお爺さんにお願いしてみました。

私 :「さっきの弘法壇へ連れて行ってもらえませんかね」

お爺さん :「明日ですかいね」

私 :「いえ、今からです」

お爺さん :「じゃ~今から行きましょう。潮も完全にひいていて丁度好いでしょう」

・・・と、言うことで弘法壇へも上がることができました。

   キッチリと空海様も、一緒に動かれているようでなりませんでした。

 


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対馬の巨大な方位石が教えるものは

2015-05-09 12:57:11 | 邪馬壹国

2015年5月9日(土)

5日~7日まで行った島とは対馬でした。 

1800年ほど前にこの島を統括していた大国主命=イエス・キリストの4男であり第4代懿徳天皇(いとくてんのう)の曾孫にあたるお方の陵墓へと招かれた私でしたが、 行く先、行く先々できれいなピラミッドのような三角形の山が次から次に目に飛び込んできました。

最初はビックリして写真におさめていましたが、あまりにも次々と出現するので、そのうちにカメラにおさめるのを止めたほどいたる所で見ることができました。

      

 それらの綺麗な三角形の山は間違いなく意味を持たせた山であり、その人工的な山々を見る情景の中に、私には必ず重要な方向(拠点)を教える方位石があるであろう予感がしていました。

 初日にすぐさま見つけたのが、厳原町にある立亀岩と呼ばれる大きな岩がそうでした。 「間違いなく方位石だ!」と、すぐさまコンパスグラスを取り出しました。

 コンパスグラスの針は、153°を表示しましたから、神戸へ帰ってから偏角を補正すると、その方角は壱岐、呼子(佐賀県)へと一直線で、180°その反対の場所には中国にある道教の聖地「千山」を教えていました。このポイントの地下には大きな断層があるようで、数十メートル離れた数か所で方位を計測すると入り江の河を挟んで23°ほどの違いがありました。

  

  

 

  

・・・

 二日目は朝から白村江の海戦(663年)に敗れた中大兄皇子が、国の守りの最前線として築かせた日本最古級の城跡である金田城跡へと行きましたが、見終わって幹線道路に出て左へハンドルを切ったとたんに正面から巨大な割れた岩が山頂から私の目に飛び込んできました。

 「間違いなく方位石だ!」と嬉しくなり、車から降りてカメラとコンパスグラスを取り出し先ずはじっくり眺めました。 間違いなく重要な方角を教える方位石でした。

コンパスグラスで計測すると160°を示していました。

偏角補正してその方位石が教える先は、現在のソウルであり、なんと厳原町の立亀岩がその対極方角にピタリと存在するのは偶然ではありえません。

 

 

 

 この二つの方位石が教えることは、中国の道教の聖地「千山 」から、女王卑弥呼に謁見するためのソウルから日本への上陸地点である、対馬、壱岐、呼子までの航海ルートを教えてくれていました。

 

 

 今、卑弥呼さまが全てを教えてくれます。

 

ゼロ磁場発生装置テラファイト卑弥呼

 


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