2015年7月13日(月)
2012年8月28日のブログに、卑弥呼さんの生まれ故郷に行って教えられたことを書いていました。
庵月へ行って分かったことは、神崎郡神河町にある八幡山を取り囲む集落に猪篠(いざさ)という地名がありますが、字こそ違いますが伊笹(いざさ)という地名や長谷という地名も共通してあります。
そしてイザサには古い古い歴史があるようです。
偶然でしょうか・・。偶然ではないようです。
そして庵月さんにいただいた香住観光協会発行の「御崎 平家村のおはなし」を読むなり、??
んん??!
・・・公家の門脇宰相平教盛(たいらののりもり)という人は、老中と共に船に乗っていくことにしました。
「この壇ノ浦よりも遥か南に壱岐・対馬という国がある。そこは食べ物も豊富だから、何とかして暮していけるだろう」 という記載箇所がありますが、壱岐・対馬は壇ノ浦から北に位置します。
南北がまるっきり逆に言われています。
・・・
ふと思ったのは、魏志倭人伝の南(行)して投馬国(とまこく)にいたる。水行二十日である。
・・・
遥か南に・・を 遥か難に・・ と書き変えたら 間違いでもありません。
難して投馬国(とまこく)にいたる。水行二十日である。・・と書けばこちらも問題ありません。
魏志倭人伝の書き手も平家の伝記を書いた人も、難と南の文字を別に気にすることなく記載したのでしょう。
南・・・灘は、平家の人達の海上国家圏を表しているということでしょう。
灘の謎
周防に残る九州年号のことをぼんやりと調べていたとき、周防灘という地名(海名)に気がついた。
灘は海流の激しい難所だと思い込んでいたのだが、周防灘が海の難所だとはとても思えなかった。そこで地図を開いて灘を探してみた。瀬戸内海は灘だらけである。伊予灘、安芸灘、燧灘、水島灘、備後灘、播磨灘、斎灘。陸地には灘崎があり、神戸の灘区もある。陸に遠く波の荒い海路という辞書の解釈はとても通用しない。
九州の周囲には玄海灘、五島灘、天草灘、日向灘。東海にいくと熊野灘、遠州灘、天竜灘、相模灘、鹿島灘。日本海側は少ないが、響灘、五木寛之の小説で有名な内灘がある。縮尺の大きな地図で探しただけなので漏れはあるだろうが、こうしてみると、灘のないところは出雲、東北、北海道といったところである。
灘はたんに海を意味しているように思われる。海とは別系統の言葉であろう。
小泉保の『縄文語の発見』からの推測で、灘のないところは縄文人の領域ではないかと考えた。逆にいえば、「灘」の地名の残るところは、弥生人の進入地。とすれば、灘の語源は朝鮮語であろうか。朴炳植の『日本語のルーツは古代朝鮮語だった』に、高句麗語では海はもとバタラ、後にバタになったと書かれていた。清音になるとハタで、海の響きがある。もうすこし変化するとワタ。ワタツミはワタツウミの縮約形か。
灘は中国語ではナン、タンで荒い海の意味。ナダは和訓で海の意味。灘の文字のナの音でかろうじて両者が合体した。万葉集3893に「比治奇の奈太」とあるので、遅くとも730年頃にはナダという語が定着していたことがわかる。高句麗語のバタが子音の変移で日本語のナダになったというのは、時間的に「難」があるだろうか。
その後の灘
大分県 国東半島北は「祝灘」(古名・伊波比) 岩波版『風土記』p.425
国東半島の杵築市には「奈多八幡」「灘手」があり、沖合は「黄硫灘」(「豊後灘」とも) 四国側は「三崎灘」
福岡県 志摩半島には「灘山」、その反対側、海の中道の付け根には「奈多」
長崎沖は「角力灘」
徳島県太平洋岸は「海部灘」 徳島市沖は「薩摩灘」
徳島県海部郡牟岐町「灘」(古名・奈汰浦) 小学館版『風土記』
愛媛県 双海町には 「上灘」「下灘」
瀬戸内海 倉敷沖は「阿智灘」
兵庫 高砂市沖は「響灘」----(これは源氏物語を近畿に置き換えたために捏造された地名か?)
出雲 斐伊川河口には「灘分」「灘橋」
石川県、内灘砂丘の沖は「能登灘」 石川県 富山湾七尾市沖は「灘浦」 富山県氷見市沖は「越中灘」
外国の灘
中国の大連には「老虎灘」があり、浜辺には「虎灘楽園」という遊園地?がある。
上海には「外灘」(わいたん)
敦煌の西の砂漠の中には「古董灘」(ことうたん)
北朝鮮で2004年に爆発があった山の中は「月灘里」
放馬灘 (紙の起源については,西暦105年に中国で蔡倫が麻のぼろや樹の皮,漁網などを原料にして紙を作り当時の皇帝に献上したというのが定説になっている。1986年か7年に,中国の放馬灘で出土した紙(地図)が紀元前のものであるとされ,これが今のところ最古の紙といわれている。当時すでに紙が記録材料として使われていたことが分かり,大きな発見であった。)
・・・
魏志倭人伝の航海航路は灘とついた海域を通ってくることがわかります。
灘を通ってくることを「南し」と表記し、その灘・南は平家、
すなわち、モーセ、イエス・キリストの制海圏だったと言えるでしょう。
このことを中国の千山から、女王卑弥呼が住む都、埴岡の里、
現在の神河町へと七福神様達は宝船に乗りながらやって来られたと言うことです。